第33話

文字数 1,746文字

「固定電話が鳴っていた」

 買い物から帰ってきた香穂は、アパートのドアの前でそれを聞いた。

「聖ちゃんからや!」

 香穂は、高ぶりを覚えた。聖治の声を聞くのは、あの、雪の朝以来数ヶ月ぶりだ。聖治が香穂に連絡するときは、決まってアパートの固定電話に公衆電話から掛けてきた。それは、通話の履歴を残さないためだ。いわば、この、型遅れの固定電話機は聖治の為だけに引かれた連絡手段だった。その他の連絡は香穂のスマホに掛かって来るようにしてある。室内では電話が鳴り続けている、香穂は焦って施錠を解いて玄関に入ると、家の中を走りながら台所の電話台へと急いだ。

「もしもし!聖ちゃんやの、聖ちゃんやね」

 息を切らせながら、受話器をとった。早く声が聞きたかった。

「ああっ!俺や、連絡出来んで済まんかったな」

 受話器の向こうで、聖治が申し訳なそうに詫びる。それでも、香穂は胸の奥から湧き上がる、高揚感を押さえることが出来なかった。今度話せる時は、この話しも、あの話しもしたいと何時も一人で心の奥のメモ帳に書き留めていた事柄を一生懸命に思い出そうとしても、気持ちだけが先走り内容を取り出す事が出来なかった。

「ねえ!っ、今、何処やの、大坂!ッ!大坂に居るの」

 聖治に会いたい気持ちが関を切ったように押し寄せ、香穂の期待感は否応なしに盛り上がった。

「俺、今、金沢に、おんねん」

 受話器の向こう聖治が答えた。街の喧騒や車の行き交う音が受話器を通して香穂の耳にも入って来る。金沢と言う言葉に沈んでいく自分が居ることに香穂は気付いていた。

「金沢ッ!て、遠いね。ねえ、今度、いつ帰ってくるの、それとも暫く金沢に居るの。もし、そうなら、私の方から金沢に行ってもかまへんよ。ねえ!ッ、そうさせて」すがるように香穂は聖治に訴えた。

「すまんな、此処へは、そんなに長居は出来へんねん」
 沈んだ聖治の声が聞こえた。

「せやけど、何時とは、今は、言えへんけど大坂へは帰る、その時は少しでも会えるようにするから、もう少し、我慢してや」

 聖治が大坂へ舞い戻るその目的を考えれば、もし、香穂に会えたとして、それが最後になるかもしれない。香穂の声を聞きながら、後ろ髪を引かれる自分が居ることに聖治は驚いていた。親に捨てられて施設で育ち、それ故にいわれの無い差別の中で、この世を呪い何もかも叩き壊す気で今まで生きて来た。その、自分が許されるならば、香穂とこの先も生きていきたいと、本気で思い始めている。今の自分には許される筈も無い空しい願いだとは、解っていても。

『あかんで!ッ!それは、出来へんねん』

 心の中に芽生えた弱気な自分を聖治は、必死に、打ち消していた。

「あんな、聖ちゃん!ッ!、私な!ッ!」受話器の向こう、香穂が、少し大きな声で、悲痛な叫び声を上げた。彼女がこれ程までに感情を表に出すことはこれまでに無かったことだ。

「どないした!ッ、そんな大きな声を出して」穏やかで優しい声で聖治が聞き返した。

『アッ!、聖ちゃんは!』聖治の優しい声を聞いた香穂は、聖治が、今、置かれている立場と目的に思いを寄せると、我に返り取り乱した自分を恥じた。

『今は、我が儘言われへん、聖ちゃんの邪魔になる』香穂の脳裏に言葉が浮かんだ。

「ごめんな!何でも無いねん」取り乱した自分を詫びながら香穂は前言を打ち消した。

「なんや、言いたいこと、あるのとちゃうの、ええのか?」聖治が聞き返した。

「ごめんなさい!ええのよ、それより、お金はあるの?」こみ上げる気持ちを抑え香穂が聞いた、その目からは涙が頬を伝っていた。

「大丈夫や!だいじょうぶ」受話器の向こう聖治の声が力強く帰ってきた。

「そう、ほな、私、大坂で待ってるさかいに。帰ったら連絡ちょうだいね、約束して」香穂は、下腹部を触りながら、その、言葉を発するのが精一杯だった。

「わかった、そんときは、連絡する。ほな、切るで、体には気をつけてな」言うと聖治は公衆電話の受話器を置いて電話ボックスの外へ出た。目の前には金沢港クルーズターミナルの建物が見え、その向こうに巨大な船が浮かんでいた。

「へえッ! やっぱり、まだ、徳重を殺る気なんや」聖治の後ろで声がした。

「当たり前や!」

「エッ!」

刹那!聖治の目に、夕焼けに染まった、赤い空が見えた。

 
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