プロローグ
文字数 2,094文字
あたしの名前はマリヤ。ナザレっていう小さな村の、13歳の女の子。
家族はお父さんとお母さん、それに12歳になったばかりの妹のタマル。
あたしたちのナザレ村はイスラエルの北部にある、100人くらいの小さな村。丘の上にあって、夜には遠くからでも村の灯りがよく見えるんだ。マルヘシュワンの月(10-11月)からアダルの月(2-3月)は雨季で、乾いた大地に祝福と恵みの雨が降り注ぐと、植物が一斉に芽を吹いて、一面お花畑になるんだ。すっごく、きれいなんだよ!
父さんがお仕事に出ている間、女の子のあたしたちは母さんの手伝いで水汲みや料理、裁縫などをしてるんだ。私たちの家は、ナザレにたくさんある自然の横穴の洞窟を利用した家。床は土間で、干しレンガで壁を作って、その上に屋根のためのたる木を平らに組んで、草を葺いてあるの。洞窟を利用しているから夏は涼しいし、冬はけっこうあったかいんだよ。今はちょうどタマルが水汲みに行っているところ。
タマルの声に裁縫の手を止めてあたしはおもてに出る。タマルが水がめを持ったまま固まっている。
別段、助けが必要そうには見えない。だけどタマルが真っ青だ。
よく見たら、タマルの顔先10cmくらいの所に木からぶら下がった毛虫がいた。ああ、なんだ。びっくりしたあ。タマルは毛虫が大の苦手なのだ。辛うじて水がめは落としてないけど、この様子だといつ落とすかわからない。あたしは努めて落ち着いた声でタマルに語りかけた。
涙声のタマルに良心がちょことっだけ痛むのを感じつつ、そうは言っても水がめが無くなったら毎日のお水はどうやって汲むのよ、と優先順位を再確認しながら水がめの安全を確保した。
見えなくなれば怖くない。少し力の抜けたタマルを家の中に誘導してあげると、タマルがへたっと座り込んだ。
タマルの背中をさすってあげながら思い出す。タマルは幼い頃、毛虫に刺されてひどい目にあった。その時のトラウマだろう、毛虫を見ると足がすくんで動けなくなってしまうのだ。
とがめるような目をして、うらめしそうにタマルがあたしを見上げる。
そう言いながらあたしは、自分の頰が少し赤く染まるのがわかった。そう。ヨセフ。先月決まった、あたしのいいなづけの名前!ああ、なんて素敵な男らしい名前かしら。お父さまは堅実な石工大工で、ナザレ村はもちろん近隣の村や町からも仕事の依頼が来る腕利きの職人さん。一代でここら一帯では知らない人はないくらいの名人とまで呼ばれた家の、その息子さん。ああ、来年の今頃はあたし、ヨセフの建ててくれた新しい新居で新しい暮らしを始めるのね…。ヨセフ、どんな素敵な家を用意してくれるのかしら?あたしはその家を満たす、布製品や手仕事のざる、かごなんかをたくさん作るからね。ヨセフ、待っててね。あたし、お裁縫やお料理をいっぱい練習して、すてきなお嫁さんになるからね。
どき。妹に見抜かれてしまった。
水がめ以下と言われた腹いせか、わざとらしい声をあげてタマルがひらひらと手を振って出ていく。もちろん、毛虫危険地帯は大まわりして避けている。
頰の熱がまだ引かない。…だって、もう少ししたらあたしの旦那さまになる方だよ?冷静でいられるものなの?
ああ、はずかしい。タマルったら意地悪なんだから。…あれ?水がめの方が大事って言ったあたしも意地悪だったのかな?せめて「タマルの方が大事に決まってるじゃない」って言ってあげればよかったのかな?水がめが大事なんてことはタマルもわかってるはずだから、半分は冗談で言ったのだけれど…あら、あたしも意地悪だったかな。
あたしはエルサレムの方を向いてひざまずくと、主に赦しを求めた。妹のことを十分に大切にできなかったこと、どうか赦してください。もっといい姉になれますように…。あたしは心を込めて真剣にそう祈った。主ならあたしの心を変えることもできるよね、きっと。