文字数 1,700文字

 初夏の爽やかな気候に誘われて、種村栄吾(たねむらえいご)は吾妻山に向かった。
 大平(おおひら)村の先に、いい渓流があると聞いたのだ。
 お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。栄吾の行くところ、どこにでもついてくる可愛いやつだ。ころころとした毛玉のような子犬の時分から飼っている。
 山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
 新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。
 水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれた。
 栄吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
 栄吾の種村家は、謙信公の時代から馬廻りを勤める士なのだが、この太平の世にあっては、日がな一日釣り糸を垂れていても文句を言う者はだれもいない。
 とはいうものの、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
 聞いた場所を間違えたのか。
 初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
 ハクを目で追っていると、みごとなミズの群生を見つけた。何匹釣れるか分からない魚よりも、山菜の方が下女を喜ばせそうだ。
 栄吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。
 山の恵みは豊かだった。ミズばかりではなく、ぜんまい、姫竹、こしあぶら。
 魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
 ハクが一声吠えた。見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。屋根から煙が立ち上っている。
 こんな所にも人が住んでいるのか。
 栄吾が近づくと、一人の老婆が顔をのぞかせた。七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで薄い白髪頭。小柄だったが背筋はしゃんと伸びている。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか」
「よござんすよ」
 火の礼に、栄吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
 栄吾は木陰に座って煙管をくわえた。
 小屋の裏から、大きな黒犬がのそりと現れた。
 老婆の飼い犬らしい。栄吾の側でうずくまっていたハクは尾をたて、挨拶するようにそちらへ向かった。
 黒犬は、昂然とハクを見下ろした。ハクはぴたりと立ち止まり、前屈みになって歯をむき出した。黒犬もそれに応じ、すごみのあるうなり声をたてた。
 ハクはおびえもせずに、黒犬のまわりをぐるぐる回って吠え始めた。栄吾が止めようとした時、老婆がでてきた。
「うるさいやつだねえ」
 老婆は、ちっと舌打ちした。
「おまえ、懲らしめておやり」
 黒犬はハクにとびかかった。
 栄吾は、あわてて黒犬を追い払おうとした。
 が、黒犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
 ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。黒犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますからね」
 立ちつくす栄吾に老婆は冷たく言い、力まかせに小屋の戸をしめた。
 黒犬は血のついた口のまわりをなめながら栄吾を一瞥し、林の奥に姿を消した。
 栄吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱え上げた。
 山に埋め、家に帰った。

 悔しさは、日を追うごとにつのってくる。
 あの時は怒りよりも、ハクを失った悲しみが勝っていて、老婆や黒犬に仕返しすることもできなかったのだ。仇をとってやらなければ、ハクもうかばれまい。
 あの黒犬に勝る犬を手に入れなくては。そして、もう一度山に乗り込むのだ。
 どこかにいい犬はないものか。
 知り合いに声を掛け、自分でも探してみた。だが、望みの犬はなかなか見つからなかった。
 その夕暮れ、所用を終えた栄吾は川井小路をぶらぶらと歩いていた。
 ぼっとした黄昏時に、すれ違う者もまばらだった。
 四つ辻にさしかかった時、栄吾の目の前を白い影が横切った。
 栄吾は思わず立ち止まった。
 犬だ。
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