五十の巻 大奥よ、さようなら
文字数 5,182文字
既に七つ口の門の向こう。御広敷側には私を迎えに来たらしき
今日の正輝は薄く藍染めをした
そして正輝の横には既に検査を終えたらしき私の荷物を
(おぉ、久しぶりの男性……って
私は自分の少し大奥慣れしたおかしな感覚に思わすニヤニヤとしてしまう。
「おい、早くしろ。かなり待ったんだぞ」
門の向こうから不機嫌そうな正輝が、不平のこもった指示を飛ばしてくる。
(わかってるってば)
これで大奥の大地に立つのは最後なのだ。
(ゆっくりお別れくらいさせてよね)
私はその場で足踏みをし、その感触を
そして気が済んだ所で、大奥側にいる
「お勤めお疲れ様です。
「あぁ、今日で奉公を終えた子だね。ご苦労さま」
御切手は広げた
「いいかい、外に出たら」
「ここでの事は一切
「……物わかりが良くて助かるよ」
何度も言われてきた言葉を先に告げると、御切手は苦笑いを返してきた。きっと彼女もこの言葉をうんざりするほど口にしているに違いない。
「では、失礼します」
「ご苦労様」
門をくぐり抜けようとして、最後にくるりと大奥側を振り返る。
「お世話になりました」
様々な思いを胸に抱きながら、私は
「ご苦労だったな。家まで
「え、駕籠?」
正輝の言葉に驚いて目を丸くすると、呆れたようにため息をつかれた。
「一体どうやって帰るつもりだったんだよ」
「帷様と歩いて帰る約束をしているんだけど」
最後の最後で手に入れた書簡の事もある。
(それに貴宮様の想いを
何としてでも私は帷様と歩いて帰る。
何故なら、必要に迫られているからだ。
「歩いて帰る?
正輝は七つ口から一番近い門の名を疑いもせず口にする。
「
私がサラリと答えると、今度は正輝が目を丸くした。
「馬鹿言うな。お堀の真逆じゃないか。歩ける訳ないだろ」
正輝が信じられないとばかりに首を左右に振った。
(ですよね)
実は私も「半蔵門まで見送る」と帷様に言われた時、その距離に
(それに、まだちゃんとお別れの挨拶してないし)
ここを離れたら、住む世界が違いすぎて、二度と将軍である帷様に会う機会はないだろう。よって、ここはやはり帷様と半蔵門まで歩いて帰る選択しかない。
「本当に帷様がここから歩くって言ったのか?」
「え、まさか疑ってる?」
私は
「すまぬ。またせたな」
「帷様!!」
「帷様!!」
正輝と私の声が揃う。
そして私達は慌ててその場で同時に
「俺なんぞにかしこまるな。楽にしろ」
「はっ」
「御意」
正輝と私はそれぞれ短く答えると、素早く立ち上がる。
「お前達は相変わらず、気が合っているようだな」
帷様が私たち二人を見て笑う。
私は笑顔を見せる帷様の
というのも今日の帷様はきちんと
勿論
(あれ、あの
私は帷様の肩口に入った白抜きの家紋を凝視する。
そこには翼を広げた二羽の
特徴的なその家紋は「地楡に雀」という実に珍しいものだ。
(確か
私は記憶を探り、間違いないと確信する。
「琴葉、なに見惚れてるんだよ」
ペシリと正輝に頭を叩かれる。
「だって、東雲の紋所じゃないから」
「見惚れていた事は認めるんだな」
ニヤニヤとする正輝。
実に面倒な私の片割れである。
「あぁ、これか」
帷様が肩口をつまみ、家紋に視線を落とす。
「今日は非公式だからな。こういう時は柳生家の物を
帷様の背後には大奥で何度か顔を合わせた事のある、黒無地の
(つまり御忍びってことか)
堂々と将軍たる佇まいのまま来られるよりはずっといい。
「大老柳生
正輝が珍しく為になる情報をよこした。
今の説明に特に疑うべき点もないため、私はすんなり帷様が柳生家の紋をつけている事に納得し頷いた。
「そんな事より、こいつと歩いて半蔵門まで行くって本気ですか?おやめになったほうがいいですよ。だって足が棒になりますよ?」
正輝が余計な事を帷様に進言する。
「俺の我がままで付き合ってもらう事になったからな。ほら、しっかりと履き慣れた
帷様が
「だからって……」
「正輝、お前は
帷様がからかうように待たせてある駕籠に視線をチラリと向ける。
「そういう訳にはいきませんよ。
「なるほど。お前は兄らしく妹の身を案じているのか」
「違います。帷様の身に何かあった時、こいつだけでは心配だという意味です」
大真面目な顔をして正輝が答える。
(正輝に言われたくないんだけど)
ブスッとした顔を正輝に向ける。
「そっちか。ならば問題はない、敷地内を歩くだけだ」
「いや、半蔵門は遠いです」
「ではお前は駕籠に」
「嫌ですよ」
会話が堂々巡りを始めた。
「日が暮れてしまいます。行きましょう、帷様」
私は
***
服部家の家紋が入る、立派な駕籠があるというのに、それに乗らずに、駕籠を引き連れて歩くという
私は帷様と正輝と並んで歩く。
「なるほど。大体わかった」
私が手渡した伊桜里様の書簡を歩きながら読み終えた帷様は、そんな感想を漏らした。帷様の表情を横目で確かめるも、特段いつもと変わった点もなく、何を思っているのかは謎だ。
「最後の最後で見つかって良かったです」
「そうだな」
「帷様はこれからどうするのですか?」
「どうとは?」
私は返答にどう答えるべきか迷う。
本当は大奥に出向く気になったのかどうか。ズバリそれを聞きたい気持ちがある。
何故ならそれを
けれど、流石に聞きにくい。
それにさっぱりとした顔で「大奥に行く」と告げられるのも、何だかあまりいい気分がしない。
勿論、この国の未来を思えば、帷様が大奥に行った方がいいのだが、何故か心がそれを拒絶している。
「今すぐは無理かと思いますが、そのうちでいいので、以前のように大奥に足をお運びになれそうですか?」
悩んだわりに、直球で尋ねてしまった。
「ああ、そのことか。そうだな……」
帷様は言葉に詰まった様子で、無言になってしまう。
「おい琴葉。それは配慮に欠ける質問だ。
「うん」
今回ばかりは正輝の言う通りだと思った。
「出しゃばった質問をしてしまい、申し訳ございませんでした」
帷様に即座に謝っておく。
私にはまだ貴宮様の想いを伝えるという重要な任務が残されている。よってここで険悪な空気になるのはまずい。
(というわけで、今度は貴宮様の事をどうお伝えするかだけど)
この件は出来れば隠密にお伝えしたいところ。
となると、近衛二名はともかく、お邪魔虫一名をどうするか。正輝の気を逸らす作戦は何かないかと、思考を巡らせる。
「そうだ」
正輝が声をあげた。
もしや勝手に自分から離脱してくれるのではないかと、期待のこもった視線を向ける。
「
どうやら私が期待した結果ではなかったようだ。
しかし美麗様の兄となると、気になるところ。
私は無言で正輝の言葉を待つ。
「数ヶ月前の捕物だと?」
「帷様が
「訓練って何?」
思わず正輝に問いかける。
「あー、お前も参加してたんだっけ。兄上の班との訓練だよ」
記憶を素早く探るものの、覚えていない。
「そんなの参加した記憶ないけど」
「あれ、知らなかったのか?」
正輝に驚かれたが、私は頷く。
「確か岡島様が東雲家の
「え、そうなの?」
驚きつつ帷様の顔を見上げる。すると、明らかに私から視線をそらし、何だかバツが悪そうな表情になった。
「ご存知だったのですか?」
「俺は……後で知らされた」
「……なるほど」
妙に歯切れの悪い所が気になるが、今思えば、将軍たる帷様があんな形で外出するのは明らかにおかしい。
「父上が言ってた、命をかけてお守りしろって言うのは、むしろ帷様の事だったのですね」
今更ながら、私以外の警護も付けず裏路地を
「じゃあ、美麗様の兄は亡くなったってこと?」
女性から盗んだ
「一命は取り留めたらしい。けど、どうやら美麗の兄は山田屋と裏で繋がっていたようで」
「山田屋だと?」
「はい。大奥に出入りする
「つまり、山田屋が大奥の盗難騒ぎに絡んでいるという事か?」
帷様が鋭く目を細める。
「確認したところ、山田屋は盗品とは知らず、買い取っていたとは申しておりましたが」
遠慮がちに正輝が口にする。
「……知っていただろうな。物がなくなれば新たな物を買わざるを得ない。となれば、自然に山田屋の
ピキリと額に青筋を立てた帷様は、吐き捨てるように言った。
確かに商人ならば誰しもが羨む、大奥への出入りを許され、いわば
(何なら自分で売った物を回収できるわけだし)
全く商魂
しかも、普段から山田屋が売る物の値段は、かなりの色がつけられ、外で買うより割高となっている。それは顧客となる奥女中達が大奥から出られないのを逆手に取り、足元を見た商売をしている証拠である。
「山田屋は
私も帷様の怒りに同調する。
「まさかこんな
正輝が大きくため息をつく。きっと仕事が増えた事に対する愚痴のようなため息だろうと理解する。
そして新たな事実について、それぞれが後味の悪さを感じているのか、しばし無言の時が流れる中。
(……貴宮様の件、お伝えしなくちゃ)
何だかんだと歩みを進めていたせいで、既に半蔵門まで半分という所まで来てしまった。
私はゆっくりと過ぎ去る景色を目に映しつつ焦る。
「帷様、あの、実は貴宮様からご伝言を
脳裏に貴宮様との事で、帷様を不機嫌にさせてしまった事件を思い出しつつ怯える気持ちを抱く。しかし意を決して、告げた。
「何だ、言ってみろ」
「それが、個人的な事なので」
私はこれ見よがしに、正輝に邪魔者は消えろという視線を送る。
「あー、そういう事。わかった。俺は背後で控えておく。では失礼します」
察し良く正輝が歩みをゆるめ、帷様と私が横並びする列から離れる。
(正輝もやればできるじゃない)
思いの外手こずらず、人払い出来た事に私は安堵したのであった。