第38話 生祠

文字数 1,367文字

 江戸時代の中頃だったかな、じぶんの魂を祭るってことが一部の間で行われていた。

 祭ってある建物を、生祠という。

 ああ、祭られる人は死んじゃいない。生きてる。

 もうちょっと分かりやすくいうとだな、生きているじぶんの魂を祭るわけだ。

 ああ、魂ってもんは、いくつにも分けることができるんだ。

 そうそう……分霊ってやつだな。

 そして、同時にふたつ存在することができる。肉体と違って、どれかひとつだけってことはない。

 全国に神社があって、同じ名前の神様がいっぱい祭られているってのは、そういう理由によるんだな。

 生きている人を祭るって、そんなに変か?

 確かに、今はそんな話はまず聞かないな。生前立派だった人を死んだあとに祭るってなら、あるけれども。

 だが、ずいぶん前に、野球のピッチャーを大明神とかなんとかって祭ってたことがあったぞ。

 神社とはちょっといえないようなもんだったけどなあ。その大明神がどんなふうに祭られてたかは知らんけれども、俺のいま話してる生祠ではまあ、他の神社と同じだろう。お供えをあげたり、祝詞を読んだりしてたようだ。

 それで……石河さんて代官がいた。ふだん江戸に住んでるんだが、一時期、大坂の近くに任されている土地があったという。

 石河さん、めっぽう賢かったらしい。

 そのうえ領民のためにいろいろと心をくだいたっていうんで、そこの名主がつくったんだ……生祠を。まあ、ふだんあまりその土地には顔を出さんからな。

 ある日、石河さんが登城してみると……ああ、こりゃ江戸城。江戸城に出勤。

 そうするとな、なんだかまわりがジロジロと見る。

 手で顔を撫でてみたが特に変わりないようだ。たまたま心安い茶坊主が通りかかったんで、つかまえた。

「みどもの顔になにか異変がござろうか」

「お顔が赤うございます……お酒を召したように」 

 鏡を借りてみると、確かに赤い。

 石河さんは酒を一滴も飲めない体質だったんだが、顔が赤いのを確かめると酔っ払ったようになって、倒れちまった。

 当然その日は、仕事にならんかった。

 それから数日間、似たようなことがつづいた。

 全く酒を飲んでいないのに顔に赤みがさし、酔っぱらってしまう。

 外聞が悪いというので病気と称して自宅に引きこもり、その一方で医者を呼んで薬を飲んでみたが効果がない。

 せがれはまだ幼いから、隠居するわけにもいかん。

 さて困ったといってるところへ、大坂の領地から書状が届いた。そこには、

 常日頃よりの御仁政に深く感謝いたしまして、名主初め村役人一同協議の結果、石河様の生祠を設け備えることで一致、勝手ながら普請の儀起こし申し、先日無事落成いたしました。さっそく日々酒肴を献じて、御健勝を祈願しているところでございます。

 ……とこんなことが書かれてあって、ああ、これだと。

 生祠など建ててほしくはなかったが、いまさら壊すのもどうかと思うので追認する。

 でも、じぶんは酒が全く飲めないので、どうか酒を供えることだけは止めてもらいたい。

 そんなふうに返事を送って数日後、酒を供えるのをやめたと見えて、石河さんの顔が赤くなったり、酔っぱらったりすることはなくなったそうだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み