番外編:未知道
文字数 2,021文字
「あぁ、一体どうすればいいんだ」
恰幅のいい男が頭を抱えて部屋を端から端へと歩いている。六畳程の部屋の真ん中にはしめ縄が張り巡らされ、唯一外へと通じる窓からは、泥のついた獣の足跡、小さな靴跡が転々と続いていた。
「あぁ、我が家のザシキワラシが何者かに連れさらわれてしまった」
男は青ざめた顔で欄間を飾る透かし彫りを見た。今にも飛び立ちそうな鷲の眼光はしかし、男の心を慰めてはくれない。男の目の下には黒々とくまが浮かんでいる。この部屋で大切に奉っていたザシキワラシがいなくなってから、男はまともに眠れていなかった。
「あなた、すこしはお休みになってはいかがですか?」
部屋の入口から男の妻が声をかける。豊かな黒髪をしっかりとうなじで結ってあるが、妻のめ元にもまた白粉で隠しきれないくまが浮かんでいた。
「手は尽くしているのですから」
女は隣室で何やら経をあげている者を指差した。ザシキワラシがこの家に来た時に結界を頼んだ術者が眉間にしわを寄せている。強くつぶったまぶたの奥でせわしなく眼球が動き、玉のような汗が額で光っていた。
「よもや、獣が喰らうはずもなかろうが……どうしていなくなったんだ。」
男の頭の中は答のでない問いでいっぱいだった。
「こんにちは」
玄関の方から微かに聞こえた声。ザシキワラシによく似たその声を、男は最初、幻聴だと思っていた。だが、繰り返される挨拶に妻が動く。
「あなた!!」
妻の、喜び混じりの大声を聞いた男は期待を胸に玄関へと急ぐ。
「ご無沙汰しております」
玄関にたどり着いた男が見たのは、妻が見繕った着物に身を包むザシキワラシの姿だった。
男はザシキワラシの背を押すようにして、客間へ通した。術者には一度休憩を言い渡す。事件解決の鍵になるだろうと汚れたままにしていたザシキワラシの部屋をハウスキーパーに掃除するように言い付けて男はザシキワラシに対面する。
「おかえりなさい」
感極まった様子で妻が声を詰まらせる。潤んだ目をハンカチで押さえる妻の肩を抱いて男は言った。
「すぐに部屋の準備を整える。何か必要なものがあれば言ってくれ」
「……自由をください」
ザシキワラシが静かにその口から流した言葉の意味を、男の頭は理解したくなかった。
「物質的な不自由はさせてないはずだが」
男はザシキワラシの強い眼光を見返す。交渉時に目をそらしたら利益が遠退くことは長年の商いで身に染みていた。
「……私の足はもう、あなた方の結界を踏み越えられます」
ザシキワラシは男から目をそらさないままで首を振り、一度大きく息を吸い込んだ。
「この家を出て行くのは、私の意思です」
「この家を見捨てると?」
男は思わず低い声を出す。妻の身体が緊張したのが男の手の平越しに伝わってきた。ザシキワラシの申し出は到底受け入れられるものではない。
「はい」
ザシキワラシは出された紅茶をゆったりとした動作で飲み微笑んだ。
「……私たちのもてなしに不満があったのなら改善する」
ザシキワラシの言葉に胸を打ち抜かれたような衝撃を受けつつも、冷静に男は言った。その言葉をザシキワラシは優しく微笑んで跳ね返す。
「それでは、私を追いかけさせる紙人形をもう、飛ばさないでください」
「あぁ、帰ってきてくれるならばすぐにでもやめさせよう」
「帰りません」
ザシキワラシが、冷たい声で言いきった。
「なぜだ」
男はザシキワラシに向かって身を乗り出し問う。
「この家に私の幸せがないからです」
ザシキワラシは空になったティーカップを置き、立ち上がった。
「返せというのならこの着物もすべて返します」
ザシキワラシはそういうと、帯に手をかけた。
「いや、それは、返さなくていい」
男が力無く返事する。
「では、ありがたくこの服をもらって行きます……この家が栄えたのは、私の能力のお陰ではない」
ザシキワラシはそう言うと、立ち上がり玄関へと歩いた。
「私がいることで、お前は自分も周りの能力も正しく判断できなくなっていた。この先、数年は苦労するだろうが、お前とその周りにいる人間は良い笑顔を持っている。私は今でも、その笑顔が好きだ」
ザシキワラシは玄関に向かう足を止めないままそう言い、玄関扉を開いた。一歩外にでたザシキワラシはきびすを返すと、深々と頭を下げる。その姿勢のまま、白い煙を残して消えた。
「……追いますか?」
術者が男に話しかける。
「いや、もう、いい」
男は力無く首を振る。
「では、裏のツテを探し、ザシキワラシの手配をしましょうか?」
術者の提案に男は大きな声で笑いはじめた。
「あぁ、そうか。そうだった。……幸運の象徴といえども金で買えるんだったな」
男はひとしきり笑い終えると、術者に「もう、いい」と言い渡した。
「あなた」
妻の不安げな表情を男は安心させるように抱きしめた。
「苦労させるかもしれない。それでも、ついて来てくれるか?」
「……あなたが、笑ってくださるなら」
妻は男の頬に手を添わせ、男の瞳を覗き込むように見た。美しく紅のひかれた妻の唇が弧を描く。
恰幅のいい男が頭を抱えて部屋を端から端へと歩いている。六畳程の部屋の真ん中にはしめ縄が張り巡らされ、唯一外へと通じる窓からは、泥のついた獣の足跡、小さな靴跡が転々と続いていた。
「あぁ、我が家のザシキワラシが何者かに連れさらわれてしまった」
男は青ざめた顔で欄間を飾る透かし彫りを見た。今にも飛び立ちそうな鷲の眼光はしかし、男の心を慰めてはくれない。男の目の下には黒々とくまが浮かんでいる。この部屋で大切に奉っていたザシキワラシがいなくなってから、男はまともに眠れていなかった。
「あなた、すこしはお休みになってはいかがですか?」
部屋の入口から男の妻が声をかける。豊かな黒髪をしっかりとうなじで結ってあるが、妻のめ元にもまた白粉で隠しきれないくまが浮かんでいた。
「手は尽くしているのですから」
女は隣室で何やら経をあげている者を指差した。ザシキワラシがこの家に来た時に結界を頼んだ術者が眉間にしわを寄せている。強くつぶったまぶたの奥でせわしなく眼球が動き、玉のような汗が額で光っていた。
「よもや、獣が喰らうはずもなかろうが……どうしていなくなったんだ。」
男の頭の中は答のでない問いでいっぱいだった。
「こんにちは」
玄関の方から微かに聞こえた声。ザシキワラシによく似たその声を、男は最初、幻聴だと思っていた。だが、繰り返される挨拶に妻が動く。
「あなた!!」
妻の、喜び混じりの大声を聞いた男は期待を胸に玄関へと急ぐ。
「ご無沙汰しております」
玄関にたどり着いた男が見たのは、妻が見繕った着物に身を包むザシキワラシの姿だった。
男はザシキワラシの背を押すようにして、客間へ通した。術者には一度休憩を言い渡す。事件解決の鍵になるだろうと汚れたままにしていたザシキワラシの部屋をハウスキーパーに掃除するように言い付けて男はザシキワラシに対面する。
「おかえりなさい」
感極まった様子で妻が声を詰まらせる。潤んだ目をハンカチで押さえる妻の肩を抱いて男は言った。
「すぐに部屋の準備を整える。何か必要なものがあれば言ってくれ」
「……自由をください」
ザシキワラシが静かにその口から流した言葉の意味を、男の頭は理解したくなかった。
「物質的な不自由はさせてないはずだが」
男はザシキワラシの強い眼光を見返す。交渉時に目をそらしたら利益が遠退くことは長年の商いで身に染みていた。
「……私の足はもう、あなた方の結界を踏み越えられます」
ザシキワラシは男から目をそらさないままで首を振り、一度大きく息を吸い込んだ。
「この家を出て行くのは、私の意思です」
「この家を見捨てると?」
男は思わず低い声を出す。妻の身体が緊張したのが男の手の平越しに伝わってきた。ザシキワラシの申し出は到底受け入れられるものではない。
「はい」
ザシキワラシは出された紅茶をゆったりとした動作で飲み微笑んだ。
「……私たちのもてなしに不満があったのなら改善する」
ザシキワラシの言葉に胸を打ち抜かれたような衝撃を受けつつも、冷静に男は言った。その言葉をザシキワラシは優しく微笑んで跳ね返す。
「それでは、私を追いかけさせる紙人形をもう、飛ばさないでください」
「あぁ、帰ってきてくれるならばすぐにでもやめさせよう」
「帰りません」
ザシキワラシが、冷たい声で言いきった。
「なぜだ」
男はザシキワラシに向かって身を乗り出し問う。
「この家に私の幸せがないからです」
ザシキワラシは空になったティーカップを置き、立ち上がった。
「返せというのならこの着物もすべて返します」
ザシキワラシはそういうと、帯に手をかけた。
「いや、それは、返さなくていい」
男が力無く返事する。
「では、ありがたくこの服をもらって行きます……この家が栄えたのは、私の能力のお陰ではない」
ザシキワラシはそう言うと、立ち上がり玄関へと歩いた。
「私がいることで、お前は自分も周りの能力も正しく判断できなくなっていた。この先、数年は苦労するだろうが、お前とその周りにいる人間は良い笑顔を持っている。私は今でも、その笑顔が好きだ」
ザシキワラシは玄関に向かう足を止めないままそう言い、玄関扉を開いた。一歩外にでたザシキワラシはきびすを返すと、深々と頭を下げる。その姿勢のまま、白い煙を残して消えた。
「……追いますか?」
術者が男に話しかける。
「いや、もう、いい」
男は力無く首を振る。
「では、裏のツテを探し、ザシキワラシの手配をしましょうか?」
術者の提案に男は大きな声で笑いはじめた。
「あぁ、そうか。そうだった。……幸運の象徴といえども金で買えるんだったな」
男はひとしきり笑い終えると、術者に「もう、いい」と言い渡した。
「あなた」
妻の不安げな表情を男は安心させるように抱きしめた。
「苦労させるかもしれない。それでも、ついて来てくれるか?」
「……あなたが、笑ってくださるなら」
妻は男の頬に手を添わせ、男の瞳を覗き込むように見た。美しく紅のひかれた妻の唇が弧を描く。