四、並行世界仮説と遠い夕飯の匂い

文字数 4,178文字

「遅かったわね」
 リビングから顔を覗かせた母が言う。
「うん。学校残って勉強してた」
「そう」
 そのまま二階の自室に向かう。最近は母との会話もかなり減った。お互いに何か怖がっているような変な気遣いがある。
 音を立てないように階段を上り、音を立てないように部屋の扉を閉め、電気のスイッチを押した。制服のままベッドに倒れ込む。

 三歳上の優秀な兄がいる。大学生。とにかく頭が良い。運動も音楽も美術もそつなくこなしていたと思う。人当たりも良い。そんな兄を羨ましくも誇らしく思っていたが、昨年の秋頃、その兄の留年が決まった。
 理由は単純で、受験勉強しかしてこなかった人間がそこから解放されて浮かれて遊び呆けて、三年生に進むための単位が足りなかったそうだ。細かく分けると、降年というらしい。次の春から三年生のはずが、次の春も二年生どころかその秋から一年生と同じ扱いになるとか。
 遊んでいればそうなることは予想できるだろうに、本人としては堪えたのだろう。自業自得というか当たり前の結果なのだが、順風満帆な人生で初めて転んだのだ。留年ぐらい珍しくもないし、そこから頑張れば良かっただけなのだが、兄は何も手につかないような放心状態が増えたし、些細なことでも苛立ちをぶつけていた。
 両親からの叱責、そして監視が強くなり、言い争うようになった。ずっと実家から大学に通っていたが、家に帰ってこない日が続いた。その後、自分の部屋から出てこなくなった。
 本人以上に母親もショックを受けていた。息子を最高学府に入れた教育ママとして鼻高々だったから気持ちは分かる。周囲からの目もあるだろう。留年を責めるつもりはなくとも、遅れてきた反抗期のような兄との軋轢に母も精神的に参っていた。
 不の感情は連鎖する。
 母と兄の不和は、そのまま母と父へ伝播した。教育論的観点での責任の擦り付け合いとなり、母のヒステリックな喚きを聞くのは苦しかった。当然のように父と兄も不仲となり、僕は身を屈めて息を潜めた。
 ちょうどその頃から、頻繁に似た夢を見るようになった。駅前か学校前か、場所は時々違ったが、現実の知っている風景そのままなのに動いているものが何もないという点は共通していた。夢の中では立ちっぱなしでぼーっと過ごして、何も起こらないまましばらくしたらふっと目が覚める。
 夜眠っている時だけでなく、部屋で考え事をしている時や一人で電車を待っている時などにも見ることがあった。
 夢を見ても内容は覚えていないことが多かったのに、眠りが浅くなったのかと少し気にはなったが、原因がこの環境によるストレスだとしたら僕自身ですぐにどうこう改善できそうもなく、身体に影響が出ているわけでもないので放置している。

 今日の昼間のことを思い返す。──あれも、同じ種類の夢だった。いつもと状況は違ったが、空気、匂い、肌に纏わりつく圧、ほぼ間違いなく同種だと思う。
 セツと出会えた理由は分からない。何せ今まで猫が出てきたことはないのだ。それが、今日、たまたま橋に差し掛かったタイミングで夢を見て、探していた黒猫がたまたま登場して、彼を見失った場所でたまたま現実でも見つけられたということになる。黒猫に呼ばれたとすると出来すぎているが、偶然というには不自然さが拭えない。
 それにしてもいつから夢の中だったかはまったく分からない。眠ってはいない、それは言い切れる。物思いに耽っていたかもしれない。今みたいに。……蝉まで静かになったのはいつだったっけ。


◇  ◇  ◇

「遅かったね」
 正門前にしゃがみ込んだまま、こちらを見上げて彼女は言う。
「そっちも今来たんだろ」
「えへへ、ばれたかー」
 子どものような笑顔でおどけてみせる。知り合ってからまだ日の浅い人間にこれだけ無防備に心を開けるというのは純粋に凄い。
「今日の帰り、駅で見かけたよ。弓道部の人といた」
「駅で?キョーコちゃんかな?声かけてくれたら良いのに」
「電車乗った後に見つけたから」
 乗る前でも声をかけなかったと思うけど。
「そっか。まだリアルでは絡みにくいよね。わかる」
 そう言ってまた笑った。

 誰だって相手に対して──特に知らない人間相手だと、壁をつくることがあると思うけど高槻すみれにはそれがない。ただ広大な草原を携えて、こちらの砦を落とそうという様子もない。あるいは初めから彼女の領地内に砦を建てていたかのような感覚になっていく。
 僕の夢の中だから、妄想が創り出した偶像という可能性も捨てていなかったけど、今はもう互いの夢が干渉しているんだと思い始めている。

「やっぱりこの夢、普通じゃないと思う」
「だから言ってるじゃーん。夢じゃなくて、パラレルワールドだって」
 ここで初めて会った時からそんなことを言っているが、聞き流している。おそらく言葉の響きとイメージだけで喋っている人に物理学的議論をぶつけるほど野暮じゃないし、僕も理科は生物しかやってないし。
「三組の相川さんって知ってる?」
 パラレルワールド仮説には取り合わず尋ねると、知らないと彼女は言った。
「昼間、みんなで猫探しを手伝ってたんだけど……」
 今日の出来事の顛末を手短に話す。

「へーすごいね。この夢そんな使い方できるんだ、無敵じゃん」
「無敵じゃないよ全然。自分の意思で使えるわけじゃないし」
「自動なんじゃない?宝物が近くにあったらビービーって鳴るやつみたいな」
「なるほどね」
 何に納得したかは自分でもよく分からない。もし金属探知機みたいなことができるとしても見つかるのは猫だから、トレジャーハンターにはなれないし、必要になる場面が少なすぎる。
「ネコ探しのプロになれるよ」
「別になりたくないよ」
 そうだね、もったいないと言って彼女は笑う。
「よく分かんないけど、見つけてあげれてよかったねネコ」
 彼女の性格としての楽観性もあるだろうが、まさに今も含めた一連の現象に得体の知れなさはあっても不気味さはないと感じている。

「でもネコいいなー飼いたいなー」
「飼えばいいのに」
「お母さんがアレルギーだからダメ」
「それはダメだね」
「代わりにハムスター飼ってたよ、小学生の時。キンクマっていうおっきいやつ。ごはんいっぱいあげ過ぎて、太り過ぎて二歳ぐらいで死んじゃったけど」
 猫の代わりにはなりそうにないが、ハムスターで二歳なら寿命だろう。
「寿命なの?」
「寿命も調べずに飼ってたの?」
 ハムスターの命を軽く見過ぎではないか。
「ちが、えっと、たぶん調べて、忘れただけ……」
「基本的に動物は小さいほど短命で、大きいほど長寿だよ」
「へーえ。じゃあゾウとかキリンって二百年ぐらい生きるんだ?」
 二百年は生き過ぎているな。そんなゾウ見たことある?
「……本物のゾウなんて幼稚園の頃に見たぐらいだし覚えてないよ」
「ゾウで七十年ぐらいだと思う。キリンってゾウと並べる程でかくないよ」
「そうなの?あ、カメは?小さいよね。カメは万年ってウソ?」
「爬虫類はちょっと別枠かな」
 そこでハッと気が付いて、こちらをゆっくり睨むように見る。
「……人間は?」
 顔がちょっと怖いよどうしたの。
「今の人間は例外だと思う。大昔は寿命が二十歳とかだったらしいから妥当なんじゃない」
「本当は二十歳で死ぬのに科学の力で八十歳まで生きてる、ってこと?」
 隠された真相に辿り着いたフリージャーナリストのような表情で彼女は言う。
「そんなマッドなサイエンスじゃないと思うけど」
 僕もあんまり知らないから、詳しくはインターネットとかで調べてほしい。
「そっか、調べとく。でもここ電波ないんだよね」
 さすが一組って頭良いねと言いながら、携帯電話をヒラヒラと振る。
 出会ったときから彼女は自身を馬鹿だからと卑下しがちだが、一組にも行間を読めない人間はいっぱいいて、そいつらより明らかに圧倒的に会話ができる。幼少期の多くをスポーツに費やしていて知識の幅が狭いということはあるかもしれないが、それは配分だけの話だから馬鹿ということではない。

「猫見つけたおかげで気づいたけど、この空間ってどこまででも行けるんだよな」
 いつも駅前や正門前などスタート地点に留まって、特に何もせず、二人に増えてからもこうしてダラダラしているだけで、いつもいつの間にか現実に戻っている。
「そりゃそうでしょ」
「なんで?遠くまで行ったことあるの?」
「ないけど」
 なんか行けそうじゃん、と言う彼女。
 それはそうなんだけど、どこにも行っていない現状を見て言っているわけで。実際にもう、ただ立っているだけの方が違和感あるようになってしまっている。ふと一歩、二歩と小さく前に足を出す。三歩、四歩。……よし。
 まだしゃがんだままの彼女を振り返って声をかける。

「電波でも探しに行こうよ、高槻さん」

 ◇   ◇   ◇

 ──コンコン
「夜ごはんできてるから。着替えたら降りてきて」
「ん」
 起き上がり、制服を脱いでハンガーにかけ、Tシャツとジャージに着替える。
 また夢を見ていた。僕の夢に高槻さんが登場してから、数週間が経つ。隣にいるときは本物だとその存在を確かに感じられるのに、目が醒めるとどうにもただの夢だと思える。
 電気を消して、音を立てないように部屋を出た。

 最近では父が帰らないことが多い。ここ半年ほど顔も見ていない。仕事が忙しいのか外に女性がいるのか、単に自宅が居心地悪いのかは知らない。兄は今も隣の部屋に引き籠っている。おそらくまた留年だろう。家庭環境はなお最悪だが、一時的であれ静けさは戻った。行き過ぎた感は否めない。音を立てないように階段を下りる。
 兄は大学で、サークルに入り、バイトを始め、恋人もできて、華やかにキャンパスライフを満喫しているように見えた。遊び方を、ちょうど良い加減を知らなかったんだと思う。
 今の時代、学歴がすべてじゃない。松尾が言っていた通り、受験勉強しかしていないのは長期的に見て悪手かもしれない。青春するのも十分に面倒くさいと僕は思うけど。
 勉強から解放されたいが、他に何がしたいわけでもない。何もしたくない。とはいえ何もせずに生きていけると思ってはいない。仕方なくでも、流されるままでも、勉強しているだけで許されるのが、今はいちばん楽だ。
 リビングの扉を開ける。夕飯の美味しそうな匂いすらどこか遠く感じた。
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