第6話【鯉しくて】

文字数 2,482文字

 これは、ちょっと残念な……というか、気の毒な人のお話なんだよね。まぁ、俺のことだけど。

 ある日、息子が近くの池にヤゴを獲りに行ったんだけどさ、獲ってきたのはさ、2cm程の小さな鯉だったのよ。天然の鯉の稚魚って、なかなか珍しいだろ? 息子よりも俺が気に入っちゃってね、飼うことにしたんだ。
 30cm程の水槽のセットを購入してね、底に砂利を敷いたりフェイクの水草や岩を飾ったりして、それらしい環境を作ってさ、カルキを抜いた水を入れて鯉を入れてみたんだ。するとさ、すごく嬉しそうに泳ぐわけよ。俺まで嬉しくなってね、もう鯉に夢中になっちゃって、あれだな、一種の恋とも言えるよね。鯉だけに恋。鯉に恋して……なんてね。

 餌は、ペットショップの店員がさ、稚魚のうちは金魚の餌で大丈夫っていうもんで、ちょっと心配だったけど、金魚の餌の中で一番高いヤツを買ったよ。何が違うんだ? って聞いたらさ、栄養価が高い上、添加物が少ないんだってさ。まぁ、高いってことはそうなんだろうけど、肝心の味はどうなんだよ? って聞いたら、いやぁ、食べたことはないので……とかなんとか言いやがってね、ふざけんなっ! 美味いか不味いかも知らずに売ってるのか! 味見ぐらいしとけよっ! って怒鳴ってやったよ。そしたらさ、店員のヤツ、顔が真っ青になって目に涙を浮かべてさ、震える声で言いやがったよ。食い付きの良い餌なので、しっかりとした味付けがされていると思います、ってな。要は、味が濃いのだな? 鯉だけに濃い方が良いんだ、って言ってやったらさ、引き攣った笑顔で返答に困ってよ。
 まぁ、そんなことはいいとして、早速家に帰るなり餌を与えてみたんだ。するとさ、すごく食いついてくれてね、まぁ、何はともあれ、一安心ってところかな。

 それからはさ、毎日鯉のことばかり考えるようになってしまってね。寝ても覚めても、常に鯉のことを想い、時間の許す限り鯉を眺め、過保護なぐらい世話をしたね。ちょっとでも水が濁ると水換えをしたり、ガラスに少しでも苔が付くとすぐさま掃除したり。もう、冗談じゃなく恋してたんだろな。
 でもさ、俺がどれだけ愛情を注いでも、鯉は俺に振り向いてくれないんだよね。だからかな、俺の恋はあらぬ方向に逸れ出して、暴走を始めたんだ。好きな女の子に意地悪をするかのように、俺も鯉を苛めるようになってね。割り箸で軽く突付いてみたり、追い掛け回したりしてね、鯉が逃げ惑うのを見て楽しむようになってね。
 ちょっと、ざまぁみろって気持ちも入ってたね。だってさ、俺はこんなにも鯉のことを想っているのに、鯉は俺のことに興味なさそうだもんな。完全に片思いじゃん。ちょっとぐらい、俺のことを気に掛けてくれてもいいじゃん。でも、完全無視だもんな。そりゃあ、いたたまれないよ。苛めたくもなるって。

 俺の偏執的な愛情はエスカレートしてさ、水換えもしなくなったんだ。汚れた水で泳ぐ鯉を見て、俺のこと無視するからだぞ、って言ってやったんだけど、一向に態度を改める様子もなくてね、ついには餌もあげなくなって、完全に放置プレイになったんだ。ちょっとしたネグレクトだな。
 それからしばらくはさ、鯉のいる水槽に近付くこともなかったね。しばらく反省させないと、って思ったし、謝ってくれない限りは許すわけにもいかなくてね。子どもを押入れに閉じ込めるようなものだよ。それぐらい、誰だって経験あるでしょ? やったこともやられたことも。え? ないの? でも、話には聞くだろ? そこまで異常なことじゃないよ。
 俺だって、別に俺のことを愛してくれとは言ってないよ。そこまでは求めてないさ。でもさ、毎日懸命に世話してやったのにさ、無視はないと思わないか? もっとも、そういう上下関係なんて鯉には理解出来ないのかもしれないけどな。鯉に上下の隔てなし……なんてね。
 いやいや、だとしてもそ、俺がコイツを愛してることは分かってるんだぜ? その愛に応えてくれとは言わないけどさ、せめて感謝ぐらいはして欲しいじゃん。軽く会釈するだけでもいいんだ。俺はさ、鯉に恋してるんだ。もっとも、雄か雌かも分からないけど。でも、俺の生活の全てを鯉に捧げたんだぜ。会社もクビになったし、女房は息子を連れて実家に帰ったし。まさに鯉煩い……なんてね。いやいや、そんなことはどうでもいい。全てを失っても鯉を愛したのに、それなのに……あまりにも冷た過ぎるよ……

 そのまま二ヶ月近くも経過した頃、急に不安になったんだ。本当に死んでしまったらどうしよう、って怖くなってね。やっぱり鯉が好きなんだって、自覚したね。同時に、すごく悔やんだよ。何てことしてしまったんだって。散々酷い目にあわせておいて言うのもおかしな話だけど、すごく可哀想に思えてきて……切なくて、不憫で、泣けてきてね……もうパニック寸前で後悔と懺悔の念に包まれながら水槽の前に来たんだ。水は沼のように濁っててね、ガラスには苔が全面に付着してて。水量は半分近く減ってるし、アンモニア臭がするんだ。もう、本当に辛かったよ。自分の大人気なさが情けなくて、鯉に申し訳なくて、深い自己嫌悪で一杯だったよ。それに、もし病気になんて罹ってたら、治しようもないしね。鯉の病に薬なし……なんてね。

 鯉は、そんな過酷な環境の中でも、予想に反して、立派に生きていたんだ。まさに、鯉は思案の外……なんてね。ともかく、素直に嬉しかった。同時に、尊敬もしたし、後悔もしたし、驚きもした。ますます鯉が好きになったし、これからは片思いでもいい、ずっと愛情を注ぎ込むんだって誓ったよ。

 しかし、何故鯉は生きていたんだろう? いや、生き続けることが出来たのだろう? 久しぶりの水換えをしながら、ふとあることに気付いたんだ。日当りが良かったせいかな、藻が一杯生えていたのだよ。ってことはさ、プランクトンも発生してた可能性もあるし、それが餌になったのかもしれないね。いや、そうじゃなくても、間違いなく藻は生えてるからね。鯉は藻も食う……なんてね。


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