第2話

文字数 5,813文字

 晴翔は試験期間が終わり夏休みだ。課題や勉強は家でするつもりだし、参考資料が必要なときだけ学校の図書館に向かえば良い。正直晴翔は少し心が浮き立っている、この町で朝から晩まで都と二人きりの生活なんて。実家は誰かしらの邪魔があって思う存分二人で過ごす事ができない環境でもあったから。
 一方、夏休みになったとは言えども都の朝は早い。肩書すらないものの家の手入れから食事の準備後片付けまではすべて都の仕事。しかし幼い頃から朝は早かったから、むしろ朝寝坊することのほうが慣れてはいなかった。今日も日の出前に目を覚まして、洗濯をはじめる。日差しが強く暑くなるだろう、でも良い天気の一日になりそうだ。

「都」
「あら起きましたか、晴翔さん。おはようございます」
「朝早いんだな、お前」
「早いってもう九時になりますよ、よく眠れましたか?」
「ああ、試験前で徹夜が続いていたからな。久しぶりによく眠った気がする」
「朝ご飯出来てますよ、今朝は洋食にしてみました。パン焼きましょうか」

 窓際で洗濯物を干し終わった都は食卓の準備をする。トースターでパンを焼いている間に先ほど焼き上がった目玉焼きと薄切りハムにコールスローサラダを添えて。いつも朝から晩まで和食ばかりだったからこんな朝も悪くない。

「今日はどうしますか、晴翔さん」
「午後になったら少し課題に手くらいは着けるかな、お前は?」
「午前中は商店街に行こうと思っています。午後は暑くなりそうですから」
「付き合うよ、俺も。荷物持ちくらいにはなるだろう」

 あっという間に食事を食べ終えてしまった、そんな晴翔を都は微笑ましく見守って皿を片付けて、二人は揃って商店街まで出かけることにした。
 家から出た途端に強い日差しとすっかり熱いアスファルトの道。サンダル履きにしないでよかった、これではきっとすぐに火傷するくらい日に焼けてしまうに違いない。都の髪を結い上げたうなじが白い。幼い頃から春夏秋冬家の周りの仕事をしていたが、都が日に焼けたところを見たことがなかった。日にあたっても赤くなってしまうだけで白い肌は変わらないと言う。その白さに晴翔の胸は高鳴る。若干の興奮とともに都の持っている手提げを持った。

「晴翔さん?」
「持つ」
「大丈夫ですよ。まず八百屋さんに寄りますから、良いスイカがあったら買いましょうね。よく冷やせばきっと美味しい」

 商店街は朝から賑わっていた。八百屋の人の多さと声の大きさ。店主は都を見つけて微笑む。

「やあ、都ちゃん。しっかりした良いキャベツが入ってるよ。煮ても焼いても美味しいからね。おや、そちらにいるのはお友達かい?」
「ご主人様ですよ、僕に居場所をくれました」
「へえ! 若いのにねえ、仲良しで何より。兄ちゃん、都ちゃんを大切にしてやっておくれよ」
「十分、良くしてくれていますー」

 主人、その呼び方は夫婦にもとらえられる。それ以前に晴翔は都を雇った覚えもないが……好きだから連れて来た、それだけだ。

「都、その……」
「ああ、今日はスイカありますか? 小さくても良いので甘いものをください」
「はは、きっと君が買いに来てくれると思って裏に隠していたんだ。都ちゃんだけだからね、特別だ!」
「わあい、一つください。聞きました? 晴翔さん、特別ですって!」
「えっ、ああ……そうか」

 新鮮な食材を手に入れられて都は上機嫌だった。まるでデートじゃないか。これなら荷物持ちも悪くない、いろんな表情の都を見ることが出来る。笑顔で買い物をする都の横顔に晴翔は少し心が動いた。
 活気づいた商店街は笑顔で溢れる。実家のある静かな村でいかに今まで狭い世界で育っていたか、学生と言う期間限定とは言えども新しい世界を知れたことと都が笑顔でいてくれること、それは初めて感じた晴翔にとってかけがえのない時間であった。

 ***

「あ、晴翔じゃん」
「どうも」

 昼食を終えて晴翔は学校の図書館にいた。徒歩十分とは言えこの炎天下の中ではなかなか辛いものがある。課題の資料の論文を探して、図書館は人数は少なかった。
 市川純は一浪して深東京医専に入学した。晴翔の一つ年上でテスト間際にノートをよく借りにくる。そんな彼も課題のためにやって来たのか、分厚い資料を何冊も持っていた。

「勉強、するんだな市川」
「なんだその顔! いや、するだろ。授業のノートはだるいからお前の丸写しだけど、課題はさすがに写せない。それにこれでも俺、地元の期待の星なんだぜえ」
「地元どこだっけ?」
「雪国! 本州最北端の久我雪村(くがゆきむら)、深東京都市までは夜行で二十時間かかるとこだ。冬はえげつないくらい雪が積もってさ、だからこの老緑の夏は暑くて無理。もう扇風機二台使ってるよ」

 この小さな島国は四季といっても各地でそれなりに違うらしい。晴翔は雪にはそれほどに縁はなくむしろ幼い頃から雪には喜んでいた気がする。まだ都の母が家庭教師をしていた頃、幼い都は晴翔と一緒に早朝から雪だるまを作って冷えきって、結果熱を出してしばらく寝込んでいた。

「晴翔は医者になるのか?」
「いや、まだ決めかねている。卒業して資格は取って一応数年のキャリアは積むつもりだけど……」
「櫻葉製薬だもんなあ、期待大きいだろ?」
「いや、兄の方が優秀だから」
「知ってる、この前先生から聞いた。お前の兄ちゃん深東京医専伝説の首席だろう? 入試は全教科満点で資格まで歴代最高点で合格したって。近くに優秀な奴いるとへこむよな。まぁ、お前も十分優秀だけどさ」

 晴翔とは比べられないくらい優秀な兄だった。晴翔に持っていないものをたくさん持っている蒼司は、父親はじめ会社の期待の星。だからそれほど晴翔は期待されていない、けれどそれはそれで少し気楽でもあった。

「ところで晴翔、今朝八百屋にいたろ?」
「……は?」
「髪長い女と一緒にスイカ買ってたな、ニコニコ可愛い顔した細い子」
「あ、あれは」
「いやいや、隠さなくて良いよ。大丈夫、俺は口は固い!」
「違う」
「慌てるなよぉ、大丈夫だ皆には言わねえ」
「女じゃない!」
「え?」

 そう宣言して、やはり言わなければよかったと思った。同性と一緒にいるには近い距離過ぎる、それに黙っていれば都は女に見えないこともない。

「同居人だよ……事情があるから誰にも言うな」
「え、何の事情?」
「言わない」

 墓穴を掘っている。事情はある、いつも都をそばに置いて来たかった。それに実家に残しでもしたら酷い扱いを受けるには違いなかったし……。

「ふうん、まあ良いけど! なあこっそり紹介しろよ、女じゃないなら友達になっても良いだろう?」

 ***

 空き時間に国語の問題集を読み終わり、帰って来ない晴翔を思いながら都は夕飯の準備をしている。この頃夕方になると暑さもあり疲れてしまって、一日の終わりはぐったり疲れてしまう。汗が止まらずひどく気分が悪かった。しかしそんな表情を晴翔に見せられない、今ここにいられるのも彼のおかげだから。

「知ってる? 男作って、逃げたんだって!」

 朝から使用人部屋ではそんな噂話でもちきりだった。嘘ではない、事実である。
 その年都は十三歳になり、普通の中学生になるはずだった。それは晴翔の専属家庭教師として都とともに住み込みで働いていた母が使用人の男と失踪した朝。その日から都は、優しさの失われたこの世の最下層から空を見上げている。母は最後に言葉も何も残してはいかなかった。どうでも良い、都は煩わしい存在だったのだろう、愛する男と自由を求めた彼女にとっては。
 その日から都の生活は一変した。勉強をしたくとも家から出してはもらえずに、寒い冬の朝から水仕事。皆が嫌がることは全てやった、そうでもしなければ他に縁のない都は生きては行けなかったから。
 風の強い日に凍えている都を自室からじっと晴翔が見つめている。彼は自分ばかり暖かい場所から、都を蔑んでいる。そんな風に僻んでしまったこともあった。母がいる時は一緒に遊んだ『坊ちゃん』は今年から有名中学に通っている。
 食事は非常に質素なもの、冷えた残り物を少しだけ。それでも都は自分に言い聞かせていた、ここに置いてもらえるだけで幸せだって。

「都」

 深夜、一人で都が台所の掃除をしていると晴翔がやって来た。都は寒い夜に服を濡らし凍えながらシンクを磨いている。指のあかぎれ、手指の感覚もない。

「どうしました、晴翔さま」
「さま、はいらない……寒いよな?」
「えっ……」

 晴翔はふわりと凍えた都の肩に上等なマフラーを巻いた。高級で肌触りも良くちくちくもせずに暖かい。

「申し訳ないな、俺には何も出来なくて。また昔みたいに一緒に遊びたいのに」
「そ、それは僕の母が……」
「先生とお前は別の人間だ、お前のせいで先生がいなくなったわけじゃない」
「晴翔さん」
「絶対助けてやる。お前の居場所を作ってやるから、少し辛抱して待っていてくれ」
「いけません、そんな言葉、お父様に聞かれたら……」
「関係ない、父さんと俺だって違う人間だ」

 そしてマフラー越しに晴翔は都を抱きしめた、幾度も耳元に小さな声で謝罪を繰り返す。都は彼を一度でも僻んだ自分を後悔した。味方はいる、その手は小さくとも。晴翔の声はが次第に震えて鼻声に。都は彼の優しい感情を受け止めて一筋の涙を流した。

「晴翔さん……!」

 それから五年余り経ち、約束を守った晴翔と都は深東京都市にやって来た。晴翔の父は良い顔はしなかったが、兄に続き深東京医専に合格したのだからもう文句は言わせない、と。卒業するまであと五年と少し、それから先は考えたくない。例えるのなら今がこの世の天国なのだろう。
 都がぼんやりと眺めた窓の外は夕暮れ、そろそろ晴翔も帰ってくる。しかし、都が壁に寄りかかっていた身体を起こすと酷い眩暈がして畳に倒れて動けなくなった。やけにひかない汗、突然のことに驚いてしかしもがいて身体を動かすだけで気分は悪くなり目の前は暗く意識が遠ざかる。どうしよう、もうすぐ晴翔だって帰ってくるのに……。

 ***

 何度も呼び鈴を押しても出て来ない。特に用事も聞いていなかったし都は家にいるはずだった、仕方なしにカバンの奥にしまってあった予備の鍵を探し出す。

「留守?」
「いや、そんなはずは……」

 結局、晴翔に市川がついて来てしまった。何度断ってもそのしつこさに根負けして、しかし都はきっと嫌がるだろう。

「都!」

 依然出て来ない、都。予備の硬い鍵はなかなかうまく回らなかった。晴翔は焦った手で力づくに鍵を握る。何度目かでなんとか開いて、その勢いでドアを開けた。食卓の上に国語問題集が無造作に置いてあった。すっかり日が沈んでも明かりもついていない部屋に慌ててスイッチを入れたら、畳に都が横たわっていた。眉を潜めて汗をかいて、薄明かりでもわかるほど顔色が悪い。

「おい、都? 何があった!」
「落ち着け晴翔、揺するな」

 慌ててその身体を抱き起こして都を起こそうとする晴翔を咎めたのは市川だった。いつもとは違う冷静で表情も落ち着いている彼は、静かに都の脈と呼吸をみる。そしてそっと都の頬に触れてその汗を拭った。

「晴翔、この部屋随分と暑いじゃないか。冷やそう、何か飲ませたほうがいい」

 その時ぼんやりと都はその目を開けた。晴翔と見知らぬ市川を見て困惑している。

「君、気分はどうだ?」
「……気持ち悪いです、くらくらする……あつい……」
「暑い時は水分をちゃんと摂らないとダメだぞ」
「え……? あの、どなたですか……」
「市川純、晴翔の同級生」

 晴翔の用意した氷水に浸した手拭いを頬に当てた。そうすると都は少しほっとした顔を見せて、差し出された水を飲む。その間に市川は手際良く扇風機を回して、都の身体を冷やすように忙しく動いた。一方で晴翔は動揺して動けない。

「あ、あのお水はもう良いです。少し落ち着きました、すみません、僕……その」
「都、大丈夫なのか?」
「はい、少し前に急に気分が悪くなってしまって。それからはよく覚えていないんですけど……」
「熱中症もあるし貧血もあるんじゃないか、血の気がない顔して。ほら晴翔、早く布団で寝かせて足上げてやれ」

 都はじっと市川を見つめている。この事態に晴翔は自分を見失ってしまって、ただ沈黙している。それは彼の都に対する距離が近過ぎるのもあるのかもしれないが。

 ***

「うわあ、美味いなあ! このぬか漬け、実家思い出すわ」
「すみません、他に用意出来なくて……本当は今日色々と作ろうと思っていたんですけど」
「いや、米も美味いし全然ありだよ。俺、最近ろくなもの食ってなかったからなあ……全くお前は幸せものだな、晴翔!」
「……」
「なんだよ、お前二人きりを邪魔されて拗ねてるのか?」
「黙って食え」
「はっ可愛くないやつー!」

 横になったままの都は晴翔の表情に苦笑する。あんなに動揺した彼を見たのは初めてだったかもしれない。冷蔵庫に用意してあったものと炊き上がった米。それだけでも市川は絶賛しておかわりを繰り返す。晴翔にとっての当たり前の食事は、市川にとってはごちそうだった。深東京都市のほとんどの学生は食事係までは用意出来ない。とは言っても晴翔にとって都は食事係という名目の同棲相手だったが。今日は少し動揺して、ショックが癒えない晴翔はいつも以上に口数が少なかった。
 夕飯を満腹になるまで食べて、スイカまで食べた市川は夜も更けた頃に下宿先のアパートに帰って行った。静寂の中、虫の声だけが響いている。

「晴翔さん、お風呂沸かしますね。汗もかいて暑いでしょう」
「いや、それは俺がやる」
「晴翔さん?」

 表情の固かった晴翔は都を見つめて、崩れる。乞うように差し出したたくましい腕は都をぎゅっと抱きしめた。恐ろしいことから逃れるよう、強く強く抱きしめて離さない。

「は、晴翔さん、僕汗くさいですから……」
「もう、お前は……! 俺がどれだけ心配したかわかっているのか?」
「晴翔さん……」
「俺はお前がいないと生きて行けない、大袈裟じゃない本当のことだぞ」
「すみません、大丈夫ですからもうそんなに気にしないでください」
「気にしないでどうしろって言うんだ!」

 冷たい頬を晴翔はそっと包み込む、溢れ出す感情は晴翔の赤く充血した瞳を見ればわかる。愛おしさは年を経るごとに強まって、失うことを考えるとその心が不安定になるのだ。そんな晴翔に都の心は戸惑って……。
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