黒い翼を待ちわびて
文字数 1,835文字
日が昇りだして間もない朝の港で、白い息を吐きながら漁師たちが作業している。売り物にならない魚を仕分けて、みんなで食べるらしい。
私はこれくらいのタイミングで現れる。すると若い男が余った魚を寄越してくるってわけ。なんて簡単なのかしら。
でも触らせてはあげない。「猫好き」だなんて言っても信用できないもの。
それに今は、魚のほかに気になることがある。使われていない桟橋の先端に、今日も彼は立っていた。
「よう、お前さんか」
私を一瞥して、彼はまた遠くの空を見つめる。
「あなたね、ふつう鳥っていうのは猫が近づいたら逃げるものなのよ」
「ん、そうか。だったらどうする」
振り向いた彼の平気な顔に腹が立ち、私は爪を立てて飛びかかる素振りをした。でもやっぱり駄目。私よりも小さな身体で、逃げるでもなく身構えるでもなく、ただ平然とそこに立って、私のことを見ているだけ。
そのうち私の方が耐えられなくなって、爪を引っ込めた。こういうの、気勢を削がれるっていうのかしら。この人ったらいつもこうなんだから。
「あなたって鳥失格ね」
「おいおい、何を言うんだよ。俺にはこの翼があるだろ」
だからいつでも逃げられるって、そう言いたいのかしら。でも私が気にかかるのは、彼の足のこと。右足の四叉 に分かれたうちの二本が、ちぎれてなくなっている。
以前、彼に聞いてみたことがあった。
「その足はどうしたの?」
すると彼は、
「さあな、もう忘れた。思い出したところで戻りゃしねえからな」
と言って笑っていた。本当は立っているのも難しいくせに、なんでもないように笑うのが気に入らない。
それに――。
「でもその翼で死にに行こうって言うんでしょ」
この辺りの冬はとても寒く、吹雪になれば耐えられるかわからない。だから彼と彼の仲間たちは冬の間、遠くの暖かいところへ渡るそうだ。
けれどそれは本当に遠くで、海を渡らなくちゃいけないから、ずっと休みなしで飛び続けなくちゃいけない。海鳥に攻撃されるかもしれないし、彼ら目掛けて大きい魚が跳ねるかもしれない。
うまくいく保証なんてない。
後戻りもできない。
死ぬかもしれない。
「馬鹿言え、生きるために飛ぶんだよ。俺はそういう選択をした」
「ずっとここにいたらいいじゃない。その方がまだマシかもしれないでしょ」
「ああ、そういう奴らもいる。ただ、ここで冬を過ごすという選択を奴らがしたように、俺も海を渡る選択をしたってだけのことだ」
彼は明日発つ。でも私は、彼が飛ぶ姿を見たことがない。その足でうまくバランスが取れるのだろうか。黒いつややかな翼は折り畳まれたままだ。
「お前さんだってそうだろう」
「何が」
「人に飼われる奴もいるだろうに、野良という生き方を選んだ」
選んだですって?
わかったようなこと言わないでちょうだい。そうせざるを得なかっただけのことよ。
あなたは知らないけど、私はほんの幼い子猫だった頃、人間に拾われて飼われていたの。それはもう可愛がってくれたものよ。ごはんだっておもちゃだって、不自由なく与えてくれた。
でもね、長続きはしなかった。
成長して大人になった私はもう可愛くないんですって。
あっさり捨てられて、戻ってみたら棒で叩きつけられそうになったわ。野良猫になったのは、居場所を失ったからに過ぎないの。
私はまた同じ気持ちを味わうのは嫌。だから野良のままでいるってだけ。
寝床だって横倒しになったビールケースの中だし、今の生活が良いとは思ってないわ。でも変えようとするのは簡単なことじゃない。
何よ、そんなに空が好きなら、とっとと行ってしまえばいいのよ。
そう思って見上げた時、私は気づいた。
他の鳥たちは電線の上で身を寄せ合って、寒さをしのいでいる。
彼の足では、電線につかまれない。そうしたくてもできない。
それでも彼は選択だと言った。自らの意思で、生きるために飛ぶんだと。
そこにどんな決意が込められているかなんて、私は考えもしていなかった。
「……ねえ」
「なんだ」
「いつ帰ってくるの」
「……さあな」
それが彼との最後の会話だった。
近頃は日の当たる時間が長くなってきて、港の周りでも花が咲きはじめた。
今日も桟橋の先で、私はずっと待ちわびている。
黒い翼を広げて、大空を自由に飛ぶ姿を。
私はどうやら、あなたにもう一度会いたいみたい。
私はこれくらいのタイミングで現れる。すると若い男が余った魚を寄越してくるってわけ。なんて簡単なのかしら。
でも触らせてはあげない。「猫好き」だなんて言っても信用できないもの。
それに今は、魚のほかに気になることがある。使われていない桟橋の先端に、今日も彼は立っていた。
「よう、お前さんか」
私を一瞥して、彼はまた遠くの空を見つめる。
「あなたね、ふつう鳥っていうのは猫が近づいたら逃げるものなのよ」
「ん、そうか。だったらどうする」
振り向いた彼の平気な顔に腹が立ち、私は爪を立てて飛びかかる素振りをした。でもやっぱり駄目。私よりも小さな身体で、逃げるでもなく身構えるでもなく、ただ平然とそこに立って、私のことを見ているだけ。
そのうち私の方が耐えられなくなって、爪を引っ込めた。こういうの、気勢を削がれるっていうのかしら。この人ったらいつもこうなんだから。
「あなたって鳥失格ね」
「おいおい、何を言うんだよ。俺にはこの翼があるだろ」
だからいつでも逃げられるって、そう言いたいのかしら。でも私が気にかかるのは、彼の足のこと。右足の
以前、彼に聞いてみたことがあった。
「その足はどうしたの?」
すると彼は、
「さあな、もう忘れた。思い出したところで戻りゃしねえからな」
と言って笑っていた。本当は立っているのも難しいくせに、なんでもないように笑うのが気に入らない。
それに――。
「でもその翼で死にに行こうって言うんでしょ」
この辺りの冬はとても寒く、吹雪になれば耐えられるかわからない。だから彼と彼の仲間たちは冬の間、遠くの暖かいところへ渡るそうだ。
けれどそれは本当に遠くで、海を渡らなくちゃいけないから、ずっと休みなしで飛び続けなくちゃいけない。海鳥に攻撃されるかもしれないし、彼ら目掛けて大きい魚が跳ねるかもしれない。
うまくいく保証なんてない。
後戻りもできない。
死ぬかもしれない。
「馬鹿言え、生きるために飛ぶんだよ。俺はそういう選択をした」
「ずっとここにいたらいいじゃない。その方がまだマシかもしれないでしょ」
「ああ、そういう奴らもいる。ただ、ここで冬を過ごすという選択を奴らがしたように、俺も海を渡る選択をしたってだけのことだ」
彼は明日発つ。でも私は、彼が飛ぶ姿を見たことがない。その足でうまくバランスが取れるのだろうか。黒いつややかな翼は折り畳まれたままだ。
「お前さんだってそうだろう」
「何が」
「人に飼われる奴もいるだろうに、野良という生き方を選んだ」
選んだですって?
わかったようなこと言わないでちょうだい。そうせざるを得なかっただけのことよ。
あなたは知らないけど、私はほんの幼い子猫だった頃、人間に拾われて飼われていたの。それはもう可愛がってくれたものよ。ごはんだっておもちゃだって、不自由なく与えてくれた。
でもね、長続きはしなかった。
成長して大人になった私はもう可愛くないんですって。
あっさり捨てられて、戻ってみたら棒で叩きつけられそうになったわ。野良猫になったのは、居場所を失ったからに過ぎないの。
私はまた同じ気持ちを味わうのは嫌。だから野良のままでいるってだけ。
寝床だって横倒しになったビールケースの中だし、今の生活が良いとは思ってないわ。でも変えようとするのは簡単なことじゃない。
何よ、そんなに空が好きなら、とっとと行ってしまえばいいのよ。
そう思って見上げた時、私は気づいた。
他の鳥たちは電線の上で身を寄せ合って、寒さをしのいでいる。
彼の足では、電線につかまれない。そうしたくてもできない。
それでも彼は選択だと言った。自らの意思で、生きるために飛ぶんだと。
そこにどんな決意が込められているかなんて、私は考えもしていなかった。
「……ねえ」
「なんだ」
「いつ帰ってくるの」
「……さあな」
それが彼との最後の会話だった。
近頃は日の当たる時間が長くなってきて、港の周りでも花が咲きはじめた。
今日も桟橋の先で、私はずっと待ちわびている。
黒い翼を広げて、大空を自由に飛ぶ姿を。
私はどうやら、あなたにもう一度会いたいみたい。