九~十一

文字数 21,733文字

 九
 7月26日8時33分
 東京都港区汐留
 ゆりかもめの線路を挟んで社屋の向かいに建つビルのカフェで、松木はタブレットに向かっていた。
 この時間は「モーニング・ストリーム」終了後の反省会を終えたディレクターやAD連中が社食に上がるので、松木はあえてべつの場所で熱を帯びた神経をクールダウンさせ、ついでにブログを更新することを日課にしている。ツイッターだけでは書ききれない日々の思いや天気にまつわる四方山話をつづるのだが、きょうはどうしても前日からの出来事について触れないわけにいかない。口うるさい前田CPのことなど一向に気にならなかった。
 報道局は社員もスタッフも全員が徹夜だった。かつて社会部で特ダネを連打していた報道局長の米倉が陣頭指揮を取り、ニュースチームだけでなく、情報番組の取材クルーまでもがあざみ野の現場に投入された。自ら取材の手伝いを引き受けた松木も家に帰るに帰れなくなり、結局、会社にもどって取材メモの作成や、スマホで撮影した映像の編集を手伝った。晋治にあやまろうと家に電話したときには「もうとっくに寝てるわよ」と義母にちくりと言われた。でも義母も理解してくれているようだった。昨夜は前代未聞の異常事態だったのだ。
 青葉署と周辺署で朝までに把握された殺人や殺人未遂、傷害事件だけで三十二件にのぼる。戦争でも暴動でもない。どれも個別の事件だ。犯人どうしの共謀や関連性はいまのところ警察も見いだせずにいるようだった。だからこそアザミノは日本ばかりか世界のメディアが注目するニュースとなってしまった。
 それでもどの事件も犯人はすぐに取り押さえられ、野放しになっているようなことはなかった。田園都市線の乱れも解消し、大渋滞が引き起こされた幹線道路も一夜明けていつもどおりの車の流れにもどった。悲鳴と怒号とサイレンの音に浮き足立ち、まるで校内キャンプのような異様な興奮状態のなかで、野次馬としてネット発信をつづけた住民たちもいまは落ち着きを取りもどしているようだった。
 とはいえ午前五時に始まった「モーニング・ストリーム」はこの一件で持ち切りだった。細菌兵器とかテロの可能性とか推測にもとづくその手の無責任なコメントはしないように――。上司である米倉局長によく聞こえる場所で前田CPが番組スタッフに言って聞かせたので、妙な憶測めいたトークには流れずにすんだ。それでも事件を一つ一つ客観的に伝えるだけで時間が押してしまい、松木のお天気コーナーもいつものおしゃべりタイムが三十秒も短くされてしまったほどだ。
 だが松木はあのときあの現場にいた者として、伝えるべきことを電波で冷静に伝えようと思った。「午後三時過ぎになってあざみ野周辺の上空に雨雲が発生しまして、その後、駅のあたりを中心に半径二キロほどの範囲で十分間ほど滝のような雨が降りました。いわゆるゲリラ豪雨ですね。様々な事件が起きるおよそ二時間前の出来事です」言いおえた直後、スタジオが凍りつき、コーナー終了後、前田が苦々しい顔で近づいてきた。
 「おれが言ったこと、理解してもらえたと思ったんだけどな」あとは“影響”だとか“あおる”だとかいうことをぶつくさと言われた。秋の番組改編ではきっとクビを切られる。晋治の顔が浮かび、気が重くなったが、松木は腹をくくった。気象予報士としてなすべきことをするまでだ。所詮、自分はただの契約スタッフに過ぎないのだし、出世に目ざめたサラリーマンをおもんぱかる必要なんて、これっぽっちもない。
 いつも陣取る店の奥の一人掛けのソファに浅く座り、お気に入りのボールドタイプのコーヒーをすすってから、背筋を伸ばしてブログの下書きをつづける。一睡もしていないが、ちくちくと肌を刺すような興奮がつづき眠気は感じなかった。
 例の雨雲が広がっていた地域とその後の事件が起きた場所が完全に一致するわけではない。だがどうしても引っかかる。あの雨がなにかの引き金になっていたのではないか。

 前夜、小谷に頼まれた老人ホームに到着したのは、夜の九時前だった。ふだんならほとんどの入居者が就寝しているはずだったが、その日の夕方に起きた惨劇のせいで、だれもが落ち着いていられなくなり、多くが一階の談話室でテレビに釘付けになっていた。松木はそこに足を踏みいれる前に職員によって手前の事務室に誘導された。理事長が複数社の取材を受けているところだった。
 「籾井勝彦さんはとても八十五歳とは思えないほど元気でして、頭もしっかりしていらっしゃったんですよ。ここにはもう七年ぐらいになるかな。息子さん夫婦と娘さん夫婦が定期的に訪ねてきていました。入居しているほかのみなさんからも慕われていたし、本人もムードメーカーみたいなところがありましたから、とくにストレスや不満を抱えていたとは思えないですね」
 頭にのせた老眼鏡をかけなおし、事件を目撃した職員から聞き取った話を書きつけた大学ノートに理事長はしばらく目を落としてからつづけた。
 「きょうは昼食後、庭の東屋で一人で読書をしていたようです。最近、あらためてスティーブン・キングにはまっていると仲のいい看護師に話していたそうです。だけど三時ごろでしたか、ほら、大雨が降ったでしょう。それでずぶ濡れになってこっちにもどってきた。いくら元気だといっても老人ですからね。肺炎にでもなったらいけないから職員がすぐにバスタオルを持っていった。それで体を拭きながら部屋にもどられました。また読書をつづけたのか、それともすこし午睡をされたのかはさだかではありません。ただ、五時過ぎになってゲートボールのスティックを手に四〇一号室、つまり被害者の部屋にあらわれたときには、もう人が変わっていた」
 被害者はその部屋に入居する七十八歳の女性だった。
 悲鳴を聞きつけて職員が部屋に入ったときには、女性は頭をめった打ちにされ、顔は血まみれでふた目と見られない状態だったという。
 「それから籾井さんは職員を押しのけてべつの部屋に向かった。六十八歳の男性の部屋です。そこでもおなじようにスティックを振りまわし、男性に逃げるすきをあたえなかった。十回以上殴ったのではないかとのことです。こちらも救急車が到着する前に心肺停止状態でした」
 籾井は男の職員五人がかりで取り押さえられたが、その間、ひと言も言葉は発しなかったという。
 「警察が来るまでの間もずっと押し黙ったままでした。ほかの入居者の話ですと、二人の被害者とはふだんから仲がよかったそうです。ですからこんな話をするのもなんですが、へんな色恋ざたみたいなことがあったとは思えないのです。ただ、その手の話は他人にはなかなかうかがい知れないものでもありますし……」

 雨にずぶ濡れになったのか。
 松木は、社会部の小谷が「モーニング・ストリーム」用に書いたニュース原稿を思いだした。やつが最初に取材していたガソリンスタンドでの一件だ。午後五時過ぎ、246号線沿いのガソリンスタンドで客の車が給油機に突っこんで爆発したのだが、それは店内で起きている事態を目にした客が動転し、ギアを入れ間違えてアクセルを踏みこんだ末の出来事だった。店内では、アルバイトの女子大生が店長をバールで殴りつけているところだった。燃え盛る炎のなか、女子大生はほかの従業員に現場から連れだされ、そのまま警察に引き渡された。店長は病院に搬送されたが、脳挫傷で死亡が確認された。従業員によると、その日の午後は女子大生が一人で接客をしていたという。だとしたらゲリラ豪雨が降ったとき、雨にあたった可能性がある。
 もう一つ引っかかることがあった。理事長が最後にこう付け加えたのだ。
 「あと、おかしなことをいう職員がいましてね。なんか目がすごく青かったそうです。充血の青いやつみたいな感じだと言ってました」
 青い目――。
 似たようなことを清仁学園の正門前で小谷が話していなかったか。教師を殺害した女生徒を目撃した生徒の話だ。「目が見たこともないくらい青かった」とかなんとか。もしかするとホーム仲間二人を殺した籾井老人とおなじく、問題の女生徒もあの雨にあたったのだろうか。
 松木はネットニュースをいそがしくチェックし「森野冨美香」との実名が拡散してしまった女生徒のきのうの行動を調べた。学校は夏休みが始まったばかりだったが、冨美香は数学の補習のために午前中から登校し、午後三時過ぎ、自転車で下校したらしい。帰宅したのは三時二十分ごろ。自宅は雨雲の範囲内にあった。十中八九、雨にあたったはずだ。警察発表では、その後、五時ごろに冨美香はふたたび出かけている。その足でまずはコンビニに向かい、アルバイト中のクラスメート、落合葉子の顔と首を切り刻んだらしい。
 小谷に見せてもらったこの事件のスレッドは増殖をつづけていた。冨美香がクラスで受けていたいじめが事件の背景にあると指摘する書きこみだ。いじめの中心が葉子だった。書きこんだのは共犯者の一人かもしれない。ジュースに消毒液を入れるまでの過程がきわめて詳細に明かされていたし、バッグから生理用品を抜き取ったり、真新しいスニーカーの内側に犬の糞を塗りたくったなんて話も具体的に書かれていた。さらに真偽は不明だが、輪姦するよう半グレ連中に頼んだとも書きこまれていた。どれもまるで懺悔するかのようだった。
 あの雨は、老人や女子高生がためこんでいた怒りを爆発させるきっかけになったのだろうか。だったらガソリンスタンドにいた女子大生も、店長からセクハラかなにかを受けていたのかもしれない。
 ほかはどうだろう。
 松木はニュースサイトからサイトへと飛びまわった。
 勤務先の美容院の店長を刺殺した女性美容師は、ガソリンスタンドの女子大生とおなじ境遇だったかもしれない。
 マンション建設現場の交通誘導員は日がな一日外に出ている。雨にもあたるだろう。仕事はと言えば、ぼんやりと立っているだけでは現場監督にしかられる。うそでも通行人を誘導しているふりをしなければならない。そういう決まりなのだ。万が一、事故が起きたときに建設会社が責任逃れできるようにするための、屋上屋を重ねたポジションだ。それがすけて見えるだけに、通行人のほうは彼らの仕事に敬意を払うことはまずない。逆だ。歩道で余計なお世話をしてくる、うざくて邪魔な存在だ。そんな目を向けられていることを日々、ひしひしと肌で感じていたらどうなるだろう。鬱屈して通りがかる人々にやがて敵意を抱くようにはなるまいか。
 敵意という点では、商店街で女性を次々とサバイバルナイフで襲った容疑者は、独身の四十八歳で、派遣社員としての稼ぎの大部分をアニメ声優やアイドルグループのコンサートチケット、関連グッズの購入につぎこんでいたという。反面、潜在的に大人の女性に対する恐怖心や嫌悪感といったものがあるのではないか。そして容疑者はその日の午後三時十分ごろに駅前の漫画喫茶を訪れている。豪雨の最中だ。雨宿りの可能性もある。
 タクシー運転手から最初に聞いた駅員の話はどうだろう。まじめなベテラン駅員らしく、ニュースを見るかぎり、ゆがんだ情念のようなものを抱えていたとは思えない。ただ、逆にまじめさが仇になるということもある。これはブログには書けないが、突き落とされた子どもの側に問題があったような場合には、駅員が無用なフラストレーションを以前から抱えていた可能性はある。事実、ネットの書きこみには、学校帰りの小学生が駅のホームでいつも騒いでいたとの指摘が何件かあった。
 小谷は、青葉署内で地域課の巡査が課長の頭を撃ち抜いた一件についても記事にしていた。巡査があの雨にあたったのかどうかは判然としないが、背景的にはストレートな話だった。巡査は課長からパワハラを受けていると知人に相談していたのだ。
 マンションの住人が隣宅に押し入り、包丁で隣人に切りつけたという話もあった。一命を取りとめた隣人によると、以前から騒音トラブルがあったという。歩道にいた四十代の男性のもとに車が突っこんできて、男性が死亡したという案件では、運転していたのが男性の妻だった。現場にブレーキ痕はなく、故意に突っこんだようだった。妻の知人によると、彼女は夫からDVを受けていたらしい。把握されているさまざまな事件について調べるうちに、それぞれの犯行は個別でも、背景には共通項が見いだせた。中学一年生が通りがかった車の前に同級生を突きだし、大けがを負わせた件では、森野冨美香と落合葉子のような関係がうかがえた。
 いずれも午後五時前後に起きていた。その約二時間前、犯人たちはあの雨を浴びたのだろうか。
 松木は落ち着かない気分になった。雨にあたったのは、彼ら以外にもっとたくさんいるはずだ。落ちはじめてから一分もしないうちに濁流のように降ってくる。逃げ場を探すひまもないのが、ゲリラ豪雨だ。あの雨がなにか心理的な影響をおよぼしたのだとすれば、なんらかの凶悪事件を引き起こす可能性がある人々は、潜在的にはもっといるはずだし、たんに露見していないだけかもしれない。いや、発表されていないだけということはないか。みぞおちにきりりと痛みが走る。気になったのは、清仁学園の現場で小谷が最後に発した言葉だ。
 公安の人なんだよ――。
 国家的視点から社会の治安を守ろうとするのが公安警察の仕事だとすれば、あざみ野で起きた一連の事件は、国家的な――政治的な――問題としてとらえられ、だからこそ彼らが派遣されたのではないか。そして事件捜査を彼らが統括することになれば、大所高所の視点から情報統制だって容易に行われるだろう。すべてが明らかにされ、発表されるわけではないのだ。
 いったいどれだけの惨劇が起きたのだろう。
 考えるだけでぞっとした。
 テロなのか。
 まっさきに頭に浮かんだのはそれだった。すでにネットの書きこみには「アザミノ」の原因として、ゾンビ・ウイルスの散布を指摘する声があった。そこでは冷戦時代のシベリアで、村人数十人がたがいに殺し合いをした事件について言及されていた。長らく旧ソ連によって隠ぺいされ、ロシア政府も表だっては認めていないが、歴史家の検証で事件の背後にKGBがいたことが暴露されたという。
 松木は高い天井の上まで広がる窓を見あげた。夏らしい青空とわきたつ雲のコントラストがまぶしい。ブログにはどこまで書きこむべきだろう。いまになって前田CPの心配も理解できるような気がしてきた。あまり突飛なことを主張して、せっかく自分を信頼してくれている人々を落胆させるわけにもいくまい。
 雲か。
 そうだ。気象予報士なら天気の観点から書くべきだ。そう思ったとき電話が鳴った。気象庁のホットラインの番号が表示されている。「もしもし」テーブルにタブレットを残したまま松木は席を立った。
 謎の雲についてきのう問い合わせた回答だった。「あの雲ですが、午後二時過ぎに発生しまして、約一時間後にかなり強い雨を降らせています。ただ――」担当者は当惑を隠せないようすだった。松木はカフェの外でスマホを握りしめながら、担当者の言葉を待った。「発生機序が妙なんです。上昇気流が起きてできたわけではなさそうです。かといって上層から“降りてきた”わけでもありませんでした」最後の部分を強調したのは、気象庁の担当者も内心、人為的な発生機序――人工衛星かミサイルを使ったテロの可能性――を疑ってみたことをほのめかしているようだった。
 松木は慎重に言葉を選んで訊ねた。「どこからともなく出現した。そういう感じなんでしょうか」
 担当者はひと声うなってから答えた。「あまりに局地的な雲なのでなんとも言えないのですが……まるで雷雲が異次元空間からぽんと押しだされてきたかのよう。あえて説明するなら、そんなふうでしょうか」
 「たしか雲はもう一つあったように記憶しているのですが」
 「そのとおりです。それが三時前になって消えている。風に流されたわけでもない。ただ突如消えた。表現するならそういうことになりますね」
 「つまりこんどは――」松木は担当者の言葉を借りて言った。「異次元空間にぽんともどっていった」
 「ですかね。ようするによくわからないということです。それをお伝えしたくてお電話もうしあげました。気象の世界にはまだまだわからないことが多いのです。とにかくこちらでももっとくわしく調べてみます」担当者はもうしわけなさそうに言った。
 松木は電話を切り、ふたたび空を見あげた。どうにもわけがわからない。地球のまわりの宇宙に裂け目ができて、そこからなにか得体のしれぬものが出たり入ったりしているのだろうか。松木は口をへの字に曲げ、眉をひそめた。担当者の言うとおりかもしれない。自然現象には依然としてわからないことが多い。それが真実だ。そう思ったら無性に息子の顔が見たくなった。松木にとってのもう一つの真実――こっちのほうが絶対的に重要だ――は、自分が晋治にとってのたった一人の親であるという点だった。
 あざみ野で起きた一連の事件はたんなる偶然にすぎない。そう考えたほうがいいかもしれないし、ただの気象予報士にすぎない自分が首を突っこむ話じゃないのだろう。あまり神経質に考えないほうがいい。胸にたまった息を鼻から一気に吐きだしたら、すこしだけ気持ちが軽くなった。
 「松木さん……ですよね」
 小ざっぱりとしたTシャツにジーンズ姿のショートカットの女性が隣に立っていた。松木が電話しているあいだ、ずっとそこにいたのだろうか。リュックサックを右肩にさげ、ストラップをぎゅっと握りしめている。テレビで見かける気象予報士に気づいた視聴者らしい。松木はいつもそうするように小さく会釈し、口角を引きあげて微笑んだ。相手はこちらの顔をのぞきこみ、そわそわしている。
 事情がありそうだった。

 十
 9時7分
 北太平洋カムチャッカ半島南東500キロ公海上空
 ワシントンDCから羽田に向かうユナイテッド機内は、ビジネス客が半分で、あとは夏休みを日本で過ごそうという米国人観光客、北米で過ごして帰国する日本人の家族連れ、それに羽田からの乗り継ぎ便の利用客たちだった。エコノミー席はほぼ満席で、西条が割り当てられた席も運悪く左右を恰幅のいいご婦人たちに挟まれてしまった。パソコンを取りだしたかったが、ディスプレイをのぞかれるわけにもいかない。情報収集はスマホで行わねばならなかった。
 出張あつかいならビジネスクラスが利用できるが、ボーグマン大佐もそこまでは認めてくれなかった。そもそも西条とグプタがスカイプで話せるようボーグマンが取り計らったのは、事態を鑑みての英断というわけではなかった。ペンタゴンとCIA、さらにゲルドフ副長官や国防長官、大統領との関係をしたたかに計算したうえでの姑息な忖度によるものだった。だから形のうえでは、西条は公休を使って日本に一時帰国中ということになっている。とりあえずは五日間。そのくらいなら休んだところで業務に支障はないし、そもそもアドバイザリー・スタッフなどその程度の存在だ。
 ただ、いくら狭い座席に押しこまれたとしても、西条は上司に感謝せねばならない。アザミノはそれだけの緊急事態となっていた。
 ゲルドフたちのグループが把握する情報は、依然として西条には公式には提供されない。それでも日本の防衛省内の信頼できる上司と個人的にやり取りしたところ、警察庁警備局――公安が動いているということだ――が取りまとめた現在の状況が送られてきた。メディアはいまのところ三十数件の事件しか報道していないようだったが、公安情報ではすでに百件を超す殺人や殺人未遂、傷害、暴行が周辺で起きていた。危機管理を考えるなら、これは報道管制を行うべきレベルだ。マスコミの論理はともかく、この点は西条にも理解できた。
 じっさいにあの雨を何人が浴びたかは不明だが、雨雲の中心に鉄道駅があったことで、遠隔地で起きた事件でも関連が指摘されるものがかなりあった。雨を浴びたのち、電車で移動した者がすくなからずいたということだ。事件がどこまで広がるか見当もつかないが、すくなくともルイジアナの田舎町で起きた出来事とは規模の面でくらべようもなかった。
 純然たる科学者的な発想からか、グプタは事件を起こした者たちのことをサンプルと呼んだ。まるで実験動物のようで腹立たしかった。しかしグプタは、事を秘密裏に進めて日本人をまさに実験動物のようにあつかおうとするゲルドフたちの姿勢に異を唱えていた。だからこそ危険を冒して西条と連絡を取ろうと試み、非公式ルートからボーグマンを動かしたのだ。
 グプタによると、サンプルは全員、横田基地内の病院にいったん収容されることになっている。そこである程度の検査を行ったうえで、最終的に米国に移送される段取りだという。こんな勝手を外国政府に許していいわけがない。安保があったからといって、これは認めがたい事態だ。だが所轄官庁である防衛省はもちろん、官邸だって結局はアメリカの言いなりになるのではないか。とりわけ首相のご機嫌を取ることしか頭にないいまの防衛大臣――女性一般を悪く言うつもりはないが、昨今の女性登用の流れのなかで能力を超える立場に就かされてしまった元弁護士――には対処不能な事態だった。
 西条はジャケットの内ポケットにスマホをしまい、板のような背もたれに背中をあずけて目を閉じた。
 グプタとのスカイプは衝撃だった。
 にわかには信じられない話だ。いや、信じなくてもいいのかもしれない。ただ、話を聞いてしまった以上、放っておくわけにはいかない。これまでの人生であたりまえと思っていたことが、もはや通用しない。ついにわれわれ現代人はその領域に到達したのだろうか。宗教には無縁の暮らしを送ってきた西条だが、いまはなにか超越的な存在にすがりたい気分だった。そして本音を言うなら、日本に近づくのが空恐ろしくもあった。
 ルイジアナ州最大の都市、ニューオリンズの喧騒を抜け、車で一時間ほど走ったところにあるブラックデザートは、人口四百人弱の田舎町だ。ミシシッピ川周辺の沼地から漂いだす瘴気に呪われているのか、薬物を中心とした非合法な取引以外にこれといった産業はなく、スナック菓子やエアコンの工場がかろうじて住民に働き口を提供していた。二〇〇九年七月十八日、そんな町で四十六億年におよぶ地球の歴史にくさびを打つ事態が起こった。
 最初の騒ぎは夜七時過ぎ、町外れの雑貨店で起こった。十三歳から十七歳までの三人の少年が包丁で刺し殺されたのだ。犯人は八歳になるクリス・コネリーで、すでにトレーラーハウスの自宅で父親をおなじ凶器で刺殺していた。
 雑貨店にパトカーで乗りつけたのは副保安官だった。保安官は来られなかった。収賄容疑がうわさされる町長を町役場に訪ね、四十五口径のマグナム弾を全身に浴びせるのに忙しかったからである。
 小さな町はじまって以来の凶悪事件がつぎからつぎへと起き、九時過ぎにはニューオリンズ市警のパトカーが大挙して応援にやって来た。高校で乱射事件が起きたのだ。被害者は三人。しかし地元病院に運ぼうにもそちらはそちらで混乱していた。病棟の一部から出火していたのだ。火元はナースステーションだった。そこで看護師が師長の体にガソリンをぶちまけ、火を放ったという。ほかにレンタカーチェーン店の店長が従業員を射殺するなど発砲事件が六件、斧やナイフを使ったものが七件起きていた。警察と銃撃戦になるなどして射殺された者もおり、最終的に七人の身柄が確保された。
 一連の事件はニュースになったが、個別の事件の死者がさほどでもなかったことからすぐに忘れられた。所詮は田舎町の出来事だったのである。しかしまったく別個に起きた事件だったが、容疑者のようすにふしぎな共通性が見られた。犯行から数時間だけの現象だったが、いずれも白目の部分がまるでインクでも落としたかのように真っ青になっていたのだ。事件後は、一人を除いていっさい口を開くことがなく、ふさぎこんでいるように見えた。そしてそれぞれ別の監房に収容していたのに、起床と就寝のタイミングがぴたりと一致した。まるでたがいにしめしあわせているかのようだった。
 「おなじまなざしをしていたと証言する看守もいました」
 スカイプでグプタは西条に伝えた。薬物中毒でとろんとした目つきをしていたというわけではない。目の奥に潜む意識、それがおなじだという意味だった。
 事情聴取にあたった副保安官と唯一、言葉をかわしたのがクリスだった。だがそれは八歳の少年の口ぶりではなかった。もっと大人びていたのだ。離婚してミシシッピ州に暮らす母親は息子と接見して泣きくずれた。犯行を悲しんだわけではない。母親がプレゼントした虫かごを肌身離さず持っていたものの、もはや息子のおもかげが感じられないというのだ。何年か前に父親にたばこ火を押しつけられてできた頬のやけど痕は、あいかわらず痛々しく残っていたというのに。
 ブラックデザートで起きたことをひとくくりの事件として取りあつかうべきだと判断したのは当時、CIAニューオリンズ支局に勤務していた一人の職員だった。ウィリアム・カニンガムは、かつて配属されていたグリーンベレーでともにアフガンを経験したブラックデザートの副保安官とひさしぶりに飲んだとき、クリス・コネリーの話を聞かされた。
 「大人みたいな口ぶりで『とても遠いところから来た』って言いやがって、それからこんなふうにメモ用紙に点をいくつも打って、そのうちの一つを指さしたんだ」
 副保安官は、店のロゴを印字したコースターの裏にボールペンで記した複数の点を元グリーンベレーの仲間に見せ、クリスが指さした点を人さし指でたたいた。カニンガムはしばらくそれを見つめ、はっとして副保安官のペンをつかんで点と点を線で結びはじめた。
 「わかるか」副保安官の困惑を無視してカニンガムはつづけた。「おおいぬ座だ」
 「はぁ……? なんのことだ」
 「星座だよ。星座のおおいぬ座だ」
 「驚いたな。おまえにそんな趣味があったとは。しかしどういうことなんだ」
 それにはカニンガムは答えなかった。職務上、答えるわけにいかなかったのだ。かわりに星座の上に犬の絵柄をかぶせるように書いてから訊ねた。「その子が指さしたのは本当にこの星だったのか」ちょうど上を向いた尾の先端に位置する星だった。
 「だったと思う」
 「もうすこし左にずれたこのあたりじゃなかったか」カニンガムは尾の先にある星のすこし左側にペンで丸印をつけた。
 「かもしれん。よく覚えていないな。でもいったいなにが言いたいんだ」
 七人の容疑者がノースカロライナ州フォート・ブラッグ陸軍基地に秘密裏に移送されたのは、その翌日だった。
 副保安官に打ち明けることはできなかったが、カニンガムは当時、CIA発足時から内部で脈々とつづくあるプロジェクトチームに属していた。そこでの最新の研究が、地球から数十億光年のかなたから時折放たれるエネルギー放射、高速電波バースト(ルビ、FRB)の解析だった。二〇〇七年に最初のFRBが観測されて以来、宇宙創世の謎を解くカギとして世界中の天文学者が注目しており、CIAも高い関心をはらっていたのである。そして二〇〇九年七月十八日、東部時間午前十一時二十九分、ニューメキシコ州の超大型干渉電波望遠鏡群の二十七基のパラボラアンテナがFRBをキャッチしていた。発生源は、まさにおおいぬ座の尾の先端にあたる星から左にずれた矮小銀河内にある星、FRB121203で、地球からは三十億光年という途方もない距離が離れていた。つまり三十億年前に発生したエネルギー放射がようやく地上に届いたのである。ブラックデザートで事件が相次いだのは、その約八時間後だった。
 クリスがやって来たという「とても遠いところ」が、その星だとしたら、それはいったいなにを意味しているのか。自らの知識に限界を感じたカニンガムは、NASAの専門家を招聘することをプロジェクトチームに進言した。それでヘンリー・グプタがエイムズ研究センターからフォート・ブラッグ陸軍基地に移ってきたのである。
 グプタはクリスたちの研究にのめりこんだ。まさに実験台として徹底的に調べあげた。生物学的にはまったく人間と変わらないが、クリス以外の六人の脳波の変化は、完全に一致していた。そればかりでない。クリス自身の脳波を反映していると言えそうだったのだ。
 しかしじっさいに観察され、試されていたのはグプタのほうだった。クリスが、いや“クリスなるもの”が人間の言語中枢を借りて語りはじめてからは、それがよりはっきりした。それでも彼らを収容する部屋は、厳重にガードされていたし、肉体的には七人ともふつうの人間と変わりない。攻撃してきたり、逃亡することは不可能だった。
 「つぎはもっと場所を選ばないと」
 何度目かのセッションでクリスがつぶやいた。それはおなじことがもう一度起きることをほのめかしているようだった。以来、グプタはFRB121203に焦点を絞って観測をつづけてきた。そしていまから約一か月前、二〇一七年六月二十七日、東部時間二時三十四分にそれが八年ぶりに観測された。グプタはすぐに軍事衛星画像のデータベースをもとに作成した、大気中のエネルギー密度の変化を割りだすプログラムを起動させた。すると今回のFRBとおなじ波長の高エネルギーが観測された。それは雲のようにまるで世界の空を熱気球で旅するかのようにゆっくりと移動していた。
 西条は目を開け、前の座席の裏側に埋めこまれたディスプレイに映る航路図を見つめた。あと四時間ほどで羽田に到着する。クリスの熱気球がそのあたりで動きをとめなければ――そしてゲルドフたちがそれに注目さえしなければ――西条が“休暇”を取ることもなかったのに。だが雨が降るのなら、だれかが傘を差さねばならないし、警告すべきことがあるなら適切に発しないと。その役回りがたまたま自分に回ってきただけだ。西条はそう思うようにつとめた。
 ふたたびスマホを取りだし、衛星画像をチェックした。例の雲は当初二つあったが、あざみ野にゲリラ豪雨を降らせたときには、一つだけになっていた。その後はどこにも見あたらない。しかしグプタによると、おなじ波長の高エネルギーは依然として関東地方沿岸部の上空をさまよっているという。
 スカイプ会談の最後にグプタが発した言葉が西条の頭のまんなかでとぐろを巻いていた。
 「ゲルドフたちは日本で起きていることを観察するつもりのようだが、事態が悪い方向に転がれば外交問題になるのは必至だ。あの女はたちまち手のひらを返すだろう。そうなればクリスの身がどうなるか不安だ。それについてクリスにも伝えたら『人間には失望した』と言うんだ。それがなにを意味しているのかわからないが、彼はわれわれ人類をはるかに超えた存在だ。科学者としてはとにかく対話をつづけるしかない。あのエネルギー体が残っている以上、クリスはきっとなにかたくらんでいるにちがいない」
 アザミノとおなじことがもう一度、どこかべつの場所で起きるのだろうか。西条は言い知れぬ不安に襲われ、胸が苦しくなってきた。
 スマホにメールが着信していた。西条は両隣の女性客に見られぬよう注意してメールを開いた。三十分ほど前に届いたものだ。グプタからだった。
 クリスがペットのカミキリムシをのみこんだ。しかし彼は平静をたもち、微笑みさえ浮かべている。 
 いったいこれからなにが起きるのだろう。クリスなるものの奇怪な行動に西条は眉をひそめた。そのとき新たなメールが着信した。ボーグマン大佐がプライベートで使っているスマホからだ。上司らしいじつに素っ気ないメールだった。
 日本のメディアが嗅ぎつけた。報道に注意。

 十一
 9時25分
 東京都港区汐留
 「いきなりすみません。でも番組のあとはいつも向かいのカフェでひと息ついている、と以前ブログで読んだものですから」奈央は、自分が松木の居場所をどうやって突きとめたか話した。とはいえ汐留のテレビ東邦本社ビルの向かい側にはカフェがいくつもある。めったに足を運ばぬ場所だけにうまく見つけられるか不安だったが、二件目で奇跡的に彼の姿を見かけ、奈央はほっと胸をなでおろしていた。
 「いつもありがとうございます」こっちはストーカーかもしれないというのに、松木はとりあえず微笑んでくれた。たとえいつも巣鴨のおばちゃん連中の前で鍛えている営業スマイルだとしても奈央はどきどきした。テレビで見るよりもすらりとしていて、誠実でやさしそうな顔をしている。以前、売れない俳優だったというが、ホームドラマに出ていてもおかしくない。そう思った途端、奈央はろくに化粧もしないで家を飛びだしてきた自分が急に恥ずかしくなった。「なにかまたへんなこと言っちゃいました?」
 「いえ、ぜんぜん」
 「よかった。よくしかられるんです」だが赤の他人を前にした松木由貴の形ばかりの愛想もそこまでだった。言葉とは裏腹に目がいらだっているようだった。当然だ。ひと仕事終えてプライベートに浸っているところで声をかけたのだから。
 奈央はストレートに切りだした。「きのうあざみ野で降った雨のことでお伝えしたいことがあるんです」
 気象予報士の顔つきが変わった。朝の情報番組の出演者としてだれからも愛される外向けの顔が、気象衛星から送られるさまざまな雲の画像を分析する専門家らしいきびしい表情になったのだ。「と、おっしゃいますと?」
 「けさの放送を見て居ても立っても居られなくなったんです。あの雨の二時間後に――」
 「いろいろな事件が起きて」松木はあたりにちらりと目をやってから声を低めて言った。「何人も亡くなった。あんなひどい夜はなかった。あざみ野周辺から次々事件の一報が入ってくる。なんでだろうってみんな考えましたよ。ただね、オンエアのあと、無用な不安をあおるなってプロデューサーに小言を言われましたが、ぼくは客観的事実を伝えたまでですから。雨が降って、そのあと事件が起きた。それだけです。もしご意見があるなら、できれば視聴者センターに言っていただけると――」
 「わたしも関係があると思うんです。あの雨がなにかカギを握っていると」奈央は松木に一歩近づき、こんどは自分のほうで周囲に気づかってから告げた。「義理の姉が新宿で事件を起こしました。職場でいきなりハサミで同僚たちに襲いかかり、一人を殺し、もう一人に重傷を負わせたんです。あざみ野で起きた多くの事件とはまだ結びつけられていないかもしれませんが、どうやら義姉(ルビ、あね)もあの雨を浴びたようなのです」
 松木の右手がまるで傷心の友人にするように自然と奈央の背中にのびてきた。「なかで聞かせてもらえませんか」閉ざされかけた門にできたわずかな隙間に、奈央はなんとか滑りこめたようだった。
 カフェは天井の高い、気持ちのいい空間だった。平日のこの時間だからすいている。一番奥の壁際のソファ席に松木が座り、向かいに奈央は腰かけた。
 奈央が自己紹介すると、松木はテーブルに身を乗りだし「あの雨に気づいた方がいらっしゃるとは」と目を丸くした。「ぼくなりにブログでまとめようと思っていたところです。もちろん事件との因果関係はまったくわかりません。ただ、あの雨をもたらした雲は、通常のスコールをもたらす積乱雲とはちがう。上昇気流が起きていたわけでもないし、内部温度も異常だった。四十度もあったんです。地表よりも高いなんて。それ自体が熱を発しているのでもないかぎり、絶対にありえない」
 「それ自体が熱を発しているって……」
 「自然現象では考えられません」
 「人為的だってことですか」
 「上空でなにかが炸裂すれば発熱するかもしれない」
 「なにかって」
 松木は店のカウンターのほうをいちべつした。奈央も振り返る。いつものことらしいから、人気気象予報士が来店していることはとっくに気づいているだろう。しかしきょうはあやしげな女が押しかけてきた。局の関係者かマネージャーか。それとも関係の清算を迫る不倫相手か。じろじろ見られたりはしていないが、耳はきっとダンボになっているにちがいない。松木は声をひそめた。「爆弾とか」
 テロを指摘する声があることは奈央もネットで知っている。だがじっさいにマスメディアの人間から言われるのは重みがちがった。「本当にその……テロとかなんですか」
 松木はふっと息を吐き、ソファの背もたれに背中をあずけた。「人を狂わせる雨を降らせる細菌化学兵器が使われた……こんな話だとしたらたいへんですよ。でもすくなくともぼくらレベルではまるっきりわからない。取材のしようがないんです。テレビ東邦でいうなら社会部とか政治部の記者が調べないとらちがあかないでしょう」
 「でもあざみ野であんな事件が起きたのだし、義姉がしたことを考えれば、あの雨になんらかの原因があると思うんです」
 「お義姉さんは本当に雨を浴びたんですか」松木はふたたび身を乗りだしてきた。
 奈央は昨夜の記憶をたどりながら慎重に答えた。「午後三時……十分過ぎですかね。営業で足を運んだあざみ野で大雨にあって……駅前のコンビニの軒下に駆けこんだんです。もう……ずぶ濡れでした。スマホがダメになってしまったそうです」
 「その後事件を起こしたと、警察に供述されているのですか」
 「事情聴取はまだです。二人を死傷させたあと、車にはねられてしまった」
 「はねられた?」
 「もう一人、べつの同僚を追いかけて職場のビルの外に飛びだしたんです。骨折していまは入院しています」
 「じゃあ、病院でお話を聞かれたのですか」
 「いえ、昨夜見舞ったときはまだ意識が――」そこまで口にして奈央はしまったと思った。一連の奇怪な事件に関する自分の考えを理解してもらおうと必死になるあまり、余計なことをしゃべってしまったようだ。だがもう遅い。松木はけげんな顔になっている。奈央はあわてて取りつくろった。「会社の人から聞いたんです。あざみ野でゲリラ豪雨にあったって話していたそうです」
 松木は冷ややかな目で奈央を見た。「新宿で一人がハサミで殺されたんですよね、きのうの夜」タブレットをそっと開く。検索を開始したようだ。
 奈央は唇をかみしめた。松木にはわかってほしかった。「調べていただければわかります。警察も発表しています。新宿の旅行代理店で従業員二人が死傷した事件があるはずです。容疑者はおなじ職場に勤める水城圭子、三十六歳です。でも義姉はそんなことをする人じゃない。絶対にするはずがない。だからわたしも兄もどうしたらいいかわからなくて」
 「たしかにありますね。そういう事件」松木はディスプレイを見つめながら右手であごをさすった。不精ひげがのびはじめている。昨晩から徹夜なのかもしれない。あざみ野の一件で。「ただ……」松木はじろりと目をあげた。「水城圭子さんは出先から会社にもどってくるなり、犯行におよんだようですね」
 「そうです。いきなりだったそうです」
 松木はふたたびソファの背もたれに背中をあずけ、大きくため息をついた。「あざみ野で大雨にあったなんて話しているひまもなかったぐらい?」
 奈央はテーブルの下でジーンズのひざ小僧をつかんだ。「……でしょうね」
 「ではどうして会社の人が、お義姉さんがあざみ野で雨にあったとあなたに教えることができたのでしょう。スマホも濡れてダメになってしまっていたのでしょう? 帰社する前に連絡することはできなかったはずだ。わざわざ公衆電話でも使わないかぎり」
 問い詰められ奈央はうつむいた。わきの下を汗が滴り落ちる。「いえ、それは……」正直に明かすべきか迷った。どうやって義姉の前日の行動を把握したかについて。
 「もちろんだれかほかの同僚の方といっしょに営業に出たのなら話はべつですけどね。いかがです? 知り合いの社会部の記者にたしかめてみてもいいですか。きっと取材しているはずでしょうから。それとも――」松木はがっかりしたように肩を落とした。「このまま退散されますか」まるで奈央が愉快犯かなにかだと断じたかのようだった。
 自分のうかつさに腹が立ち、事件について必死に頭をめぐらせている相手を落胆させてしまったことに激しい自己嫌悪をおぼえた。この場はなんとしても誤解を解かねばならない。ただ、もし奈央が自らの能力にまつわる真実を語るのなら、ちがう意味で松木を遠ざけることになるまいか。だが熟慮するより先に奈央は口走っていた。
 「すみません……でも本当なんです。たしかに義姉の会社の人から聞いた話ではありません。その点はうそをつきました。ごめんなさい。あやまります。ただ――」奈央は半分涙目になって松木のほうに顔を近づけた。「自分で見たのです。義姉があの雨を浴びたのを」
 松木は眉根を寄せた。「どういうことですか」
 「見えるんです」奈央はしぼりだすようにつぶやき、うつむいた。「そういうことができるんです」
 「わからないな、そういうことって」松木はテーブルに身を乗りだして腕を組んだ。
 「ちょっといいですか」奈央は有無を言わさず両手をのばし、松木の左右のこめかみをそっと手のひらではさんだ。
 松木は一瞬、ぎくりとしてのけぞりそうになったが、すぐに体がマヒしたかのようにおとなしくなった。まるで飼い主に撫でてほしがる子犬のようだった。目を閉じて奈央は意識を集中した。指先に力をくわえ、なかに入っていく。手のひらが熱を帯び、カフェに流れるラウンジミュージックがミュートされる。

 この人のなかにも雨が降っていた。
 ゲリラ豪雨とはちがう。台風の影響だろうか。何日も降りつづく集中豪雨だった。それが広い川を氾濫させ、堤を越えた濁流は町をみるみる飲みこんでいく。降りしきる雨は乳白色のカーテンとなって視界をさえぎり、真っ昼間だというのに車はヘッドライトを灯して雪道さながらにのろのろとしか進めない。
 その車列のなかの一台に奈央はいた。おなじくらいの年齢の女性がフロントグラスに額をこすりつけるようにしてハンドルにしがみついている。ワイパーが猛スピードで動いているが、どうにもならない。視界はゆがみ、まるで水槽のなかにいるようだ。後部座席ではチャイルドシートの幼子がぐずりだしている。
 下り坂に差しかかり、車速が自然と増す。奈央は思わずアームレストをつかむ。ざぶんといういやな音がして突如、タイヤが地面から浮かぶ感覚に包まれる。流されている。気づいたときには、すでに運転していた女性が悲鳴をあげていた。だが依然として前も横もうしろも見えない。強い雨が霧を伴う分厚いベールとなって車を包んでいた。

 つぎの瞬間、奈央は車外にいた。車は流されている。川の真ん中だった。一気に流されたのだろうか。運転席側の窓の外から奈央は車内に目を凝らす。まずい。窓が割れているわけでもないのに車内に浸水している。すでにハンドルの上のほうまで泥水が入ってきている。天井のルームランプのあるあたりに赤ん坊が押しつけられている。その下に二本の腕と顔が見えた。青ざめた運転手と奈央は目があう。

 ヘリコプターが到着し、二人のレスキュー隊員が降りてくる。一人がフロントグラスをたたき割る。そのまま上体をなかに入れ、すばやく赤ん坊を救出する。ホバリングするヘリの轟音が泣き声をかき消す。もう一人が小さな体を自分のハーネスにしっかり固定し、そのまま機内に引きあげられる。
 濁った水はすでに天井近くまで達していた。残った隊員は迷わずそのなかに頭から没し、きっかり十秒後に顔をあげた。片手でなにかをつかんでいる。
 衣服の襟首だった。
 もう片方の手も使って、力まかせにそれを車外に引きずりだす。女性だ。ぐったりとしている。じれったいほどの時間が過ぎ、ようやくロープがもどってくる。担架がぶら下がっている。隊員はまるで機械のようにてきぱきと女性の遺体を担架に固定していく。

 「奥さまを亡くされたのですね。水害で」
 じっとりと手のひらにかいた汗をジーンズで拭いながら奈央は目を開けた。
 「だれから聞いたんだ……」松木の額にも汗が滴っていた。わずか一分ほどの出来事だったが、カウンターの店員たちは気づいたはずだ。いよいよもってあやしい関係だ。そう思われたにちがいない。だがいつもの施術のようにじっくりと探ったり、ほぐしたりはできなかった。閉ざされた窓を開け、ちらりとのぞいてみただけだ。それでも松木は未知の体験に言葉を失っている。しかしそれは嫌悪や不愉快さにもとづくものではない。逆だ。奈央の施術を受けにくるお客さんたちとおなじく、浮き立つようなふしぎな心の軽さによるもののようだった。「なんでなんだ……どうしてわかるんだ……」
 奈央は汗を拭きとった左右の手のひらをテーブルに広げ、まるで手相を鑑定してもらうかのように松木に見せた。「なんの取り柄もない女の小さな手ですが、子どものころから一つだけできることがあるのです。この手を使って。だからいまはマッサージサロンに勤めています。多くの方に施術しているんです」奈央は恵比寿のサロンで客に渡す名刺を差しだした。
 それを呆然と見つめる松木の左目の端からつうっと涙が流れ落ちた。指の背でそれを拭い、松木は深呼吸をした。胸がどきどきしているようだった。「ぼくの頭のなかが見えたってことなのか。ありえないよ、そんなこと。だれかに聞いたんでしょう」
 「驚かせてしまってもうしわけありません」奈央は松木の顔を見つめた。自分のことを理解してもらうにはほかに方法がないのだ。
 「でも……」奈央の言ってることをばっさり否定するわけにいかない。松木自身、心の深いところではそう理解しているようだった。「なんて言うかな……うまく表現できないし、容易には信じられないけど、いまのはたしかに……施術……みたいだった。すごく温かかったし、いまはとても頭がすっきりしている。ふしぎな感覚。そうとしか言いようがない」松木は、奈央が手をあてていた部分をたしかめるように両手でこめかみのあたりに触れた。「まるで特別な薬でも飲まされたみたいだ。シャーマンに癒しの治療を受けたらこんな感じなのかな」
 よかった。完全な施術にはいたらなかったが、ある程度の効果があったらしい。それになにより奈央のことを理解してくれたようだ。「ありがとうございます」
 松木はすっかりさめてしまったコーヒーに口をつけ、ぽつりぽつりと話しはじめた。「番組ではもちろん、ブログとかでも明かしたことはありません。六年前の出来事です。ぼくがいまの仕事に就こうと思ったのもそれがきっかけでした。これまでただの一時だって忘れたことのない出来事です。あのときぼくは、芝居の稽古に夢中で、集中豪雨になりそうだってうすうすわかっていたのに、家を空けてしまっていたんです。それであの事故が起きた。ぼくが運転していればよかったんです。あれは、いつだってぼくの頭のどまんなかに巣食っている魔物であり、すべての原動力だった。えぇと――」松木は名刺に目を落とした。「水城さん、さしつかえない範囲で教えてほしいのですが、どこまで見えたのですか」
 「奥さまの運転する車は冠水した道路で立ち往生して、そのまま氾濫した川に流されてしまった。車内に水が入ってきて奥さまは必死に赤ちゃんの体を空気のあるところに持ちあげていた。ようやくヘリコプターが到着して、赤ちゃんはレスキュー隊にたすけられた。でも奥さまのほうは――」
 「そのとおりです」松木は奈央の目を見つめ返してきた。ふたたび涙がこぼれ落ちたが、もはや松木は拭うこともしなかった。「もっと教えてください。あのとき妻がどんな感じだったか、なにを口にしたかもっとわかりませんか」
 「いえ、わたしは松木さんの頭にあるイメージに触れただけです。松木さんは事故の一部始終をごらんになったわけでなく、警察や消防からあとで状況を聞かされて、頭のなかで再構築されたのだと思います。わたしに見えるのもその範囲です。客観的に起きたことのすべてがわかるわけではないのです」
 「なるほど」松木は落胆したようだったが、それでも訊ねてきた。「施術というからには、言い方が悪いですが、ただのぞき見るというだけではないのでしょう。どんなことをされるのですか。正直、こんなすがすがしい気分にひたれるのはひさしぶりだ。なんだかあの日の前にもどったみたいです。というか、ぼくのなかで滞っていたものがすっかり流れでて、事実をすなおに受けいれられたような感じがします」
 「そこまで言っていただけるとうれしいです。自分のしていることを表現するのは難しいのですが、ある意味、対話と言えるかもしれません。たとえばカウンセリングというのは言葉と言葉のやり取りですよね。それは話をする人の脳から聞く人の脳へと情報が流れていくことだと思うのです。それを声帯や耳を通さずに指先から直接聞き取る。そんな感じでしょうか」そう言って奈央は十本の指を広げて松木に見せた。
 「指先が感覚器官……いわば脳波計のようなものだと言うのですか。しかもその脳波はあなたの脳に伝わることで具体的な像を結ぶ」
 「物理的にはきっとそういうことなのでしょう。でもどうしてそんなことができるのか、説明しろと言われてもできないんです。これはもう……」
 「持って生まれたもの。そうおっしゃりたい?」
 奈央は自分の能力について語りだした。「最初に気づいたのは小学五年生のときです。なんだかすごく怖くてずっと隠していたんですが、中学一年で母が倒れたとき、うちの女系に伝わる能力であることを聞かされました」
 「女系に伝わるって、遺伝的なものなんですか」
 「みたいです。祖母も曾祖母も、みんなそれができたそうです。指先の知覚神経が遺伝するのだと思います。だいたい三百年ぐらいはさかのぼれます。大昔は占い師の一族だったらしいです」
 「占い師……つまりシャーマンってことですか」
 「シャーマンって死者の霊と交信したりする人ですよね。わたしの家系はそういうんじゃないと思います。占い師といっても、ようするに相手の頭のなかにあるものを読むだけですから」
 「ただ読むだけじゃないでしょう。このとてもすっきりした感覚はたしかにセラピーを受けた感じがする」
 「だれもが人には言えない悩みや苦しみを抱えていて、それが心のなかで凝り固まってしまっていることってあると思うんです。心の澱みたいなものと言えばいいのかな。相手の頭のなかを読むなかで、それを見つけてほぐしていくんです」
 「ほぐしていく?」
 「じっさいそういう感触がするんです」
 「感触っていうと……?」
 奈央はあらためて周囲を見回した。店員たちもまばらにいる客たちも眉唾ものの話には気づいていないようだった。「へんに思われるでしょうが、手のひらの上で脳を転がしている感じなんです」
 さすがにそれには松木も顔をしかめた。「ぼくのときもそうだった?」
 奈央は小さくうなずいた。
 「こっちは水城さんの手のひらの熱を感じただけなのに。驚くべきハンドパワーだ。こんな話をしちゃいけないけど、テレビ局の連中が飛びつきそうですね」
 「自分のために使ってはだめ。人のために使いなさい。母からはそう言われました。たしかにそのとおりだと思います。じっさいにストレスの原因が消滅するわけじゃないけど、そのせいで傷ついてしまった心を修復することができるのなら、それは神さまがわたしにあたえてくれた能力だと思うんです。そういうものはたいせつに使わないと」
 「水城さんのおかあさまもセラピストのようなことをされてきたのですか」
 「あまり大っぴらにはやらなかったようです。やっぱり変に思われますからね。わたしだって表向きはこの能力を売りにしているわけじゃないですから。ただ、結果的にお客さまが喜んでくれるのなら、つづけてもいいのかなと思います。気持ちがすっきりするのは、ようはセロトニンの放出をうながす頭のツボをうまく刺激できているだけという気もしますし」
 「でも相手の心のなかが見えるという点は説明がつかない。それこそが超能力だと思いますよ」
 奈央は肩をすくめた。「そうかもしれませんが、本当はだれもが潜在的に持っている能力のような気もします。たとえば家族のように長いこといっしょに暮らしていると、口に出さずとも相手の気持ちが読めてくることがありますよね。顔を見ただけでいまなにを考えているか自然と伝わってくる。それはまったくの他人どうしでも条件さえあえば可能なのだと思います」
 「どうかな。周囲の状況やそれまでの話の内容などから類推することはできるでしょうけど」
 「わたしはこう思うんです。つながっているんですよ、人間は。もともと。わたしたちは一人一人別々であるようでいて、本当は深いところでは一つなのではないでしょうか」
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