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文字数 3,192文字

 陳福の屋敷は宇都宮の山中にある。脱税の疑惑が浮上し、家宅捜査を終える頃までは、報道陣が陸から空から群がっていたものだが、陳氏が罪を認めてからは潮が引くように閑散としていった。もともと大きいだけで何もない山であり、今となっては館に向かう者など皆無である。とはいえ、巨額の脱税となれば、数々の美術品や貴金属などの収集物に差し押さえの手が伸びる。真の価値がわかるかに関わらず、件の巻物とて例外ではない。やはり速やかな回収が求められていた。
 翌日、土曜の早朝、山道の入り口にて花岡の姿を認めた麓丸たちは、追跡をはじめた。ただし、昨日よりはかなり距離を置いている。陽の下の明るさと、拓けた地形においては勘付かれやすいためだ。せっかくの尾行に忍装束を着れず、麓丸はやや残念に思う。
 舗装のされていない山道は、ゆるやかな傾斜だが、それなりに長い道のりとなる。むき出しの山肌は苔むした箇所があり、滑落の危険もある。記者根性の証であろうタイヤの跡は見えるが、こちらにはあいにく車がない。左右に広がる山林の枝を伝い、跳んでいけば手っ取り早いものの、鬱蒼と茂る木々の間を抜けるのは、こと尾行においては不向きなのだ。
 といって、地に足をつけているのは麓丸と灌漑だけだった。お淀は灌漑の肩の上に草履(ぞうり)ごと乗っかり、胸に化け犬を抱いている。着物をまとい、日傘を差したその姿はまるで京都の有閑(ゆうかん)マダムである。そして小夜子はふわふわと浮いており足すらない。灌漑と顔を見合わせ、自家用ヘリで悠々飛んでいく陳氏を麓丸は想像した。
 やがて、すこし広い道に出た。行程の三分の一ほどは来ただろうか。ふと確かめようとした瞬間、麓丸は飛び退いた。遅れて後ろの木に突き刺さったのは小さな矢であった。
「なにやつ!」
 矢が向かってきた方へ麓丸が手裏剣を投げつけると、木陰からおもむろに人が現れた。
「ほう。あれをかわすか」
 いかにも陰気な男だった。目の下に幾重ものクマがある。麓丸は知らない人物だったが、その正体はすぐにわかった。
「黒い鹿模様の腕章、鹿沼の者だな。ずいぶん公然としているじゃないか。忍の慎みに欠けるんじゃないかねえ」
 嫌味たらしく麓丸が言うと、男は不気味に口を歪めた。
「なあに、これは敵味方の区別をつけるためのものだ。我らには血の気の多い輩がわんさといるのでな。もっとも、身の安全を保証するわけではない。やむを得ず同胞の尊き返り血を浴びる場合もあるだろうなあ」
「なにが『やむを得ず』だ『尊き』だ。白々しい嘘ばかり並べやがって。相変わらず反吐(へど)がでる連中だ」
 鹿沼における同士討ちや仲間割れの話を、麓丸は嫌というほど耳にしていた。
「さて、なんのことか。いわれのない嫌疑ほど胸に溜まるものはないな。この百舌(もず)、激しき義憤に駆られたり」
 そう言って急に印を結んだ。
「醜い妖ともども、ここで死に絶えるがいい」
 身構えた麓丸たちを前に、百舌は大きく仰け反った。否、大口を開けて息を吸い込んだ。そして彼の口から放たれたのは大量の紫煙だった。
「いかん、離れろ」
 麓丸の声に、各々が距離を取った。直撃は免れたが、もうもうと舞う煙は容赦なく襲いかかる。とっさに手ぬぐいを口に巻いたものの、目が痛み涙が止まらない。頭がくらくらする。毒素を撒き散らす術となれば、忍法毒霧しかない。
 大体の方向へ手裏剣を投げて応戦するも、煙のために正確な位置がつかめない。それどころか「ふははは。どこを狙っている」と高笑いが響いてくる始末。目元を拭いながら、麓丸は大層いらいらした。
 ところがその時、轟音と共に風が吹いた。みるみるうちに視界が開ける。霧払いの中心にいたのはお淀だった。ぐわんぐわんと首を高速で回転させ、風を起こしたのだ。
「でかした!」
「目が回るから早よしてくれよしー」
 しかし突撃してくる麓丸を見た百舌は、すかさず竹筒を取り出した。そして連続で射出された吹き矢はろくろ首の支点、すなわち足元を目掛けている。
「うおっと!」
 とっさに麓丸と灌漑が矢をはたき落とした。刺さった地面はどろどろと濁り、ドブ色に泡立っている。当たれば(あやかし)といえどタダでは済むまい。
 攻勢が止まったと見るや、百舌は再び毒霧を散布した。そしてお淀が。麓丸が。矢が。繰り返しだ。堂々巡りで一向に進めない。
「おい、いい加減にしろ!」
 そのうち業を煮やし、麓丸が文句をつけた。
「いつまで経っても終わらんだろ。だっさい腕章つける前によく考えろ、この毒まみれ醜男(ぶおとこ)! 毒不細工! クラスで一番避けられてる系毒男子!」
 毒と相手の顔くらいしか情報源がないので、語彙に乏しい悪口だったが、何点かは逆鱗に触れたらしく、百舌のまぶたがぴくぴくと動いた。しかし、それでも立ち位置は変えず、向かってこようとはしない。
「……我の任務はここで貴様のような邪魔者を足止めすること。罵声ごときで揺さぶろうなど、じつに浅はかであるな」
「うるさい! 知るか! やってられるか!」
 投げつけるように言って、麓丸は(きびす)を返した。
「え、ちょっと坊ちゃん。あっし一人では手が足りないのですが」
「わっちもそろそろ疲れてきたわー」
「知らん! 頑張れ!」
 手を挙げて下山していく主人の姿を、使用人たちは呆然と眺めた。さすがに百舌も驚きを隠せず手を止めたが、やがて破顔した。
「哀れよのう。勝ちの目がないと見るや、尻尾を巻いて逃げだすとは。耐え忍ぶ心が足らんようだ。貴様らの主人こそ、忍としての心構えがなっていないのではないか」
「黙れ!」
 灌漑らは怒りに打ち震えた。しかし去っていく麓丸を目にしたのもまた事実。ただ屈辱に歯噛みするしかないのであった。
「辛かろう、楽にしてやる。そんな風など追いつかぬほどの霧でな」
 印を結び、かつてないほど大きく息を吸いはじめた。凌げるだろうか。よしんば凌いだとして、反撃の手はない。いずれ力尽きるのは目に見えている。それでも懸命に抗おうとした。
 ところが、いよいよ放つ準備が調うかと思われた刹那、
「ぐっ!」
 いきなり百舌が苦しみだした。激しく咳をし、むせ返った。その歪んだ視線の先、高枝の上には麓丸が立っていた。
「おれの酢の味はどうだ、染みるだろう。酸味が強いのが特徴でな」
 山を降りたと見せかけ、麓丸は山林を迂回していた。本来ならば葉音で察知されるおそれがあるが、旋回し続けるお淀が物音をかき消していたのだ。
「馬鹿みたいに口を開けやがって、浅はかな野郎だ」
 いきなり喉奥まで多量の酢を流し込まれてはたまったものではない。さらに発射寸前の毒は腹に押し戻され、さしもの毒使いとはいえ、体内で暴れられては御しがたく、二重の苦しみに苛まれた。
 そしてその苦難は三重となる。
「灌漑!」
「はいな」
 麓丸が呼ぶより早く駆けていた灌漑は、とうとう百舌の懐に入った。そこから繰り出されたのは「水かきチョップ」である。手刀のごとき水かきで全身をめった打ちする、灌漑独自の体技であった。堅い水かきによるそれは、大変痛い。
 苛烈な連撃にとうとう倒れた百舌を木に縄で縛りつけ、目と鼻に酢をおかわりしてあげた麓丸は、ふうと息を吐いた。
「坊ちゃん、お見事でした。わずかでも疑ってしまい申し訳ございません」
「構わん。味方すら欺ければ上々だ。まあ、鹿沼風情に遅れをとるおれではないってことだな」
 自画自賛しながらも、麓丸はすこし考えた。初めて鹿沼と戦ったが、やはり容易い相手ではない。となれば、もっと迅速に動けるようにしておくべきだと。
 そうして、簡単な手の合図を家臣たちに伝えた。これで声を発せずとも指示が出せる。
「では追うか。灌漑がいるとはいえ、距離を離しすぎるのもまずい」
 歩きだしてから、ふわふわと小夜子が降りてきた。
「どこ行ってた?」
「どうしようもないから上に避難してたっす」
 気の抜けた家臣に、麓丸はむごい宣告をした。
「減給な」
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