第8話
文字数 5,233文字
☆
同人誌即売会が始まる。客が大勢なだれ込んでくる。その客の多さに、理科はびっくりした。
「すっごい……」
「うふん。驚いたかのん、理科」
客は皆まっすぐ、自分の目的の同人作家の所へと向かう。あまりに迷いのないその移動に、理科は目を丸くする。作家のところによっては、開場から一分もしないで行列になる。
「そう、この行列になる作家のスペースを『壁』と言うのん。『壁サークル』ってね」
「壁サークル……」
「見てん、理科。行列の出来るサークルは会場の壁に面してるでしょ。あれは事前にどのサークルが『壁サークル』になるか主催者側がわかってるから、あらかじめ壁際にスペースをあてておくのん。壁際なら、行列が出来ても他の客の邪魔にならないでしょん」
「ああ、なるほど……」
人の海。思えばそれは異常なコトである。なぜなら、ここで同人誌を書いているのは大抵『素人』なのだから。作家、ではなく、あくまで『作家志望』の人間たちなのだ。
牛乳は指さす。指さしたスペースは、その中でも一番客の数が多いスペースだ。
「猫部犬子」
「?」
「私の、ライバルの名前よん。ライバルって言っても、私なんかと比べるコトが出来ないほどあっちは人気なんだけど」
そうこうしてるうちに、牛乳と理科のスペースにも客がちらほらと同人誌を買いにくる。
客の一人一人に、牛乳は愛想を振りまく。さすが夜の仕事で慣れているだけあって、その笑顔は鉄壁だった。客によっては牛乳の本の説明を求めてくる人もいて、それには牛乳、面倒くさがらずちゃんと説明する。そこも、仕事で慣れているからだろう。いや、同人誌の即売会に慣れているから、か。
「この本の巻頭は、保健室の男の先生と男の生徒の愛を描いた作品なんですのん。『へたれ攻め』の生徒には、渾身の力を注いだんですのん」
客はやはり女性が中心だ。基本的に牛乳の描く作品は、王道と言っても良いような、黄金パターンのようなもので構成されている。しかも、性的なシーンはあるが、清々しさもあって、さっき他の同人作家たちに演説していたような淫靡さは希薄で、あくまで清潔感で売っている。理科はそこに牛乳の立ち位置を感じる。じゃあ、さっきの演説は嘘かと言うとそうでもなく、理科が牛乳の家で見せてくれた、商業誌の新人賞応募作品には、その淫靡さが全面に押し出されていた。牛乳の話によると何回か雑誌にも牛乳の作品は掲載されたコトがあるらしく、さっきの牛乳の話を聞いていた作家たちもその雑誌掲載作は読んで知っているハズ。だから、別に嘘を吐いているわけではないと、わかるのだろう。さっきのは、商業誌に送る際の心がけ、といったところなのだろうと理科は思った。
まあ、そういう意味では牛乳はセミプロで、牛乳は聞いていた彼女らの先輩的存在なのだろうな。そりゃ、演説も聞くわな。
「真琴ちゃ~ん」
「あら、半熟王子さんじゃないですのん」
「私もいるアルよ」
「立花さんも。こんにちわん」
「ぽっくんも買いに来たのだよ」
現れたのはマントと王冠を身につけた半熟王子と、国籍不明のモンゴメリ立花だ。客は女性が多いので、その姿は目立つ。それ以前に格好からして二人は目立つのだが。
「ありがとうございますのん。お二人とも。仲がおよろしいんですのん」
「いやいや、やめてくれよ、真琴ちゃん。この同人誌を買うのに仲が良いなんて言われると、誤解を生みそうでね」
「あらいやん」
源氏名の真琴とここで呼ばれると、さすがに牛乳も恥ずかしくなるのか、顔が少し赤くなる。しかし顔が赤くなるのをたぶん王子とモンゴメリは勘違いするコトであろう。だがそこはスルーで。
半熟王子とモンゴメリが牛乳にサインを求める。了承した牛乳はマジックでオフセット印刷のその同人誌の表紙にサインを書く。
「人気者ね、牛乳」
女性の声。落ち着いた声色の方を、牛乳と理科は振り向く。そこには、フォーマルなスーツに身を包んだ女性が立っていた。
「まひる。来てくれたのねん」
「当たり前でしょ」
と、そこへ半熟王子が声をかける。
「おぬし、音無まひるではないか」
「セクハラです」
「…………」
声をかけただけでセクハラと言われ、汚いものを見るような目で見られた半熟王子は撃沈した。
「そんな言い方はないんじゃないアルか」
「でましたわね、セクハラ二号」
「…………」
モンゴメリ立花も即座に撃沈した。
「…………」
「…………」
半熟王子とモンゴメリは肩をおとし下を向き、そこだけ空間が凍てついてしまったように、理科には見えた。
まひるはもちろん、そんな男二人はガン無視。そのディスられっぷりはいじめの域に達している。
「牛乳、そこの可愛い可愛い女の子は誰?」
「ああ、この子は田山理科。画家を目指してるのよ」
「ふ~ん、画家ねぇ。ん?」
まひるは机に置かれた同人誌の一冊に目をとめる。
「この本。画集。この子が描いたのね」
「そうよん」
まひるは無言で手に取り、理科のイラスト集のページをぱらぱらとめくる。
「ふ~ん、いいじゃん。描いた本人のルックスも良いし、絵はアール・ブリュット風で、いけるかも。たぶん独学よね」
自分でそう言って自分で頷くと、フォーマルな姿には似合わない少女のような表情でまひるはくすくす笑う。
「ロウブロウアートだけど、ネオ・ポップの括りで売るのも手ね。本人のルックスもadd(アド)されて、結構いけるわ。なにより色彩の見事さ。絵画は色彩だけで成立するってね。この感覚は真似しようとして出来るものじゃないし……」
まひるはひたすら周囲を無視してぶつぶつ呟く。
言われた理科には、専門用語が全くよくわからない。牛乳は理科に耳打ちする。
「まひるは、画商なのよ」
「画商……」
理科は呟く。画商。それは絵を描こうとするなら、それで食べていくなら、避けては通れない存在で、でも理科には画商と言われてもピンと来ない。
まひるはそこで、思い出したように言う。
「千鶴子は? あんたと一緒ってコトは、ファーム絡みなのかしら」
「まだ千鶴子にはなにも言ってないわ」
「そう。ふ~ん」
まひるは顎に握った拳をあてて思案する。
さっき、この人は『ファーム』と言わなかったか?
ファーム。
あの時の黒パーカーの、ステキパンダの……。
理科の心拍数が上がる。なにか、ここからはじまるような、そんな期待と不安と。
しかし、理科の思いに反し、まひるが帰っていくのは早かった。まひるは理科の電話番号を聞くと代わりに自分の名刺を渡し、理科のイラスト集を買い、ぶつぶつ呟きながら去っていってしまったのである。理科は早い動作に挨拶するヒマもなかった。
「まぁ、まひるはああいうせかせかした性格なのよん」
牛乳は、理科に微笑んだ。
理科も牛乳を見て微笑んだ。
そして、半熟王子とモンゴメリ立花は、未だに硬直していたままなのであった。
牛乳は理科に尋ねる。
「あれん? そういえばみっしーちゃんはどこ行ったのん?」
理科はムスッと一言。
「あんのバカ、またどこかほっつき歩いてんのね!」
とそこへ、「うげらぼあっ!」というみっしーの叫び声が聞こえてきたのだった。
だめだこりゃ、と言わんばかりに理科は広げた右手で顔を覆った。
理科の目に映ったのは、ゴスロリ少女に腕を噛まれているみっしーだったのである。
さかのぼるコト腕を噛まれる三分前。みっしーは半熟王子、モンゴメリ立花と牛乳が交わす挨拶なんぞに興味はないので、そこらへんを見て歩くコトにした。
『壁サークル』。
なんか大勢の野郎どもが冬なのに暑そうに汗をかきながら並んでいるその奇妙な行列のひとつを見つける。
みっしーにはクソ暑くなりながら必死になって並んでいるその男どもの神経がわからなかった。女の子たちが並んでいるところもあるしそれがほとんどだが、行列の中でも異様なのが、その男どもの並んでいる列だった。
みっしーの知るところではないが、この同人誌即売会は女性向けボーイズラブ同人誌の即売会で、男の客なんてほとんどいない。だから、牛乳のところにいた王子やモンゴメリは、それだけで目立つ存在だったのだ。
それなのに一点集中で、むさ苦しい男どもがひたすら並んでいる列がある。
みっしーはその男の列に、だから興味を持った。なので、列の最前列のその先、サークルで本を売ってる売り子のところに近づいてみた。
売り子は、ロリぷにな顔をしたゴスロリ少女だった。同人誌を買う男どもにサインを書いているところから、その売り子がイコールで同人誌の作者であるコトがわかった。本人が売っているのだ。確かに、それがダミーの作者である可能性もあるが。
「いぬこたん、カワユス~」
列に並んだ男の一人がサインを書いてもらいながらハアハア息をしている。「こいつの息は臭そうです」と、みっしーは思った。
「なんですか、それにしても。この黒ドレスのメスは何故に人気なのですか。正直、ボクの方が美人です。……胸の膨らみでは残念ながら負けるですが」
その列の先にいるロリぷにフェイスのゴシックロリータ少女が野郎どものアイドル的存在だとは、みっしーはもちろん知らない。
みっしーは列の最前列の男の更に前に割り込み、ボールペンとメモ帳をそのゴスロリ少女に渡そうとする。
「おい、黒ドレスのメス豚。サインをボクに書くです」
割り込まれた男は当然ながら怒る。
「おい、学ラン! ふざけてんじゃねぇぞ! いぬこたんはおれにサインを書くんだよ! てめぇも書いてもらいたきゃ列に並べよ!」
みっしーはペンとメモ帳をポケットにしまい、掌を天井に向けた。
「汝と契約せし我が元へ、現前せよ、ハネムーンスライサー!!」
みっしーの手に光が収束し、それが死神の大鎌になる。
「クソ豚がっ! その関係、断ち切ってやるです!」
みっしーは光る斬撃を一閃。
男の身体を縦に斬る。
すると、傷口に光が吸い込まれ、男は虚脱状態になった。傷口はすぐに元通り、なにもなかったようになる。
「あ、おれなにやってんだろ。帰ってももいろクローバーのDVD観ないと……」
一介のももクロファンと化した男はふらふらした足取りで会場を後にした。
みっしーは満足げに大鎌を消す。
何事もなかったように、みっしーは再びボールペンとメモ帳をゴスロリに差し出す。ペンとメモ帳をなぜみっしーが持っているかというと、理科がスケッチブックと鉛筆を携帯しているのを真似てのコトでだったりする。
「サイン、ボクに書くです。そしてボクは、みんなに自慢するです」
バリ!
バリバリバリバリバリ!!
ゴスロリ少女は、みっしーが差し出したそのボールペンを囓った。囓って、そのままペンの先から後ろの部分の方までバリバリ囓り壊していく。
「ひぃっ!」
みっしーは驚き、ボールペンから手を離すのも忘れる。忘れたので、ゴスロリの歯はそのままボールペンからみっしーの手へと囓りながら移動してくる。
指が噛まれ、そして掌、手の付け根まで囓る。
「うげらぼあっ!」
その様子を、ちょうど理科と牛乳は発見したのであった。
「痛い、痛い、痛いですぅ~」
ゴスロリ少女は囓ったまま、歯をみっしーの腕から離さない。
囓られたまま、みっしーは理科の方まで寄ってくる。
ゴスロリ少女は、みっしーから離れず、引き摺られるようにくっついてきた。
「みっしー、あんたなにやってんの……」
理科はそれ以上ツッコミを入れるのをやめた。
「猫部犬子。久しぶりね」
牛乳は、ゴスロリ少女に牽制するような口調で、言う。
ロリぷにゴスロリ少女、猫部犬子はみっしーから歯を離し、牛乳と対峙する。
「お、まえ、は、う、うしち、ちね」
「そうよ。名前を覚えてくれているようね、ありがとう」
やっと解放されたみっしーは涙目になりつつ、手に息を吹きかけ、痛みを和らげようとした。
「こ、いつは、う、しち、ちのな、かまか」
「そうよ、仲間。みっしーって言うのよ」
「この黒ドレス、ボクを囓ったんですよ。大悪人です!」
「あんたが悪いんでしょうが!」
理科はみっしーの頭を叩く。
「う~。ゼッタイコトの成り行きを見てなかったくせに~」
「大体想像つくわよ。ったくもう」
あらん、理科の怒った顔もそそるわねん、と牛乳はよだれを拭う仕草をしてから、また犬子に向き合う。
「犬子、私の友人に噛み噛みしたんだから、責任取りなさいよん」
犬子はたじろぐ。
「ど、どど、ど、どうす、ればい、いのだ?」
「う~ん、そうねん」
牛乳はいたずらな笑みをしてから、「私たちの打ち上げに参加しなさいのん」
ニコニコ笑顔で、言ったのであった。
同人誌即売会が始まる。客が大勢なだれ込んでくる。その客の多さに、理科はびっくりした。
「すっごい……」
「うふん。驚いたかのん、理科」
客は皆まっすぐ、自分の目的の同人作家の所へと向かう。あまりに迷いのないその移動に、理科は目を丸くする。作家のところによっては、開場から一分もしないで行列になる。
「そう、この行列になる作家のスペースを『壁』と言うのん。『壁サークル』ってね」
「壁サークル……」
「見てん、理科。行列の出来るサークルは会場の壁に面してるでしょ。あれは事前にどのサークルが『壁サークル』になるか主催者側がわかってるから、あらかじめ壁際にスペースをあてておくのん。壁際なら、行列が出来ても他の客の邪魔にならないでしょん」
「ああ、なるほど……」
人の海。思えばそれは異常なコトである。なぜなら、ここで同人誌を書いているのは大抵『素人』なのだから。作家、ではなく、あくまで『作家志望』の人間たちなのだ。
牛乳は指さす。指さしたスペースは、その中でも一番客の数が多いスペースだ。
「猫部犬子」
「?」
「私の、ライバルの名前よん。ライバルって言っても、私なんかと比べるコトが出来ないほどあっちは人気なんだけど」
そうこうしてるうちに、牛乳と理科のスペースにも客がちらほらと同人誌を買いにくる。
客の一人一人に、牛乳は愛想を振りまく。さすが夜の仕事で慣れているだけあって、その笑顔は鉄壁だった。客によっては牛乳の本の説明を求めてくる人もいて、それには牛乳、面倒くさがらずちゃんと説明する。そこも、仕事で慣れているからだろう。いや、同人誌の即売会に慣れているから、か。
「この本の巻頭は、保健室の男の先生と男の生徒の愛を描いた作品なんですのん。『へたれ攻め』の生徒には、渾身の力を注いだんですのん」
客はやはり女性が中心だ。基本的に牛乳の描く作品は、王道と言っても良いような、黄金パターンのようなもので構成されている。しかも、性的なシーンはあるが、清々しさもあって、さっき他の同人作家たちに演説していたような淫靡さは希薄で、あくまで清潔感で売っている。理科はそこに牛乳の立ち位置を感じる。じゃあ、さっきの演説は嘘かと言うとそうでもなく、理科が牛乳の家で見せてくれた、商業誌の新人賞応募作品には、その淫靡さが全面に押し出されていた。牛乳の話によると何回か雑誌にも牛乳の作品は掲載されたコトがあるらしく、さっきの牛乳の話を聞いていた作家たちもその雑誌掲載作は読んで知っているハズ。だから、別に嘘を吐いているわけではないと、わかるのだろう。さっきのは、商業誌に送る際の心がけ、といったところなのだろうと理科は思った。
まあ、そういう意味では牛乳はセミプロで、牛乳は聞いていた彼女らの先輩的存在なのだろうな。そりゃ、演説も聞くわな。
「真琴ちゃ~ん」
「あら、半熟王子さんじゃないですのん」
「私もいるアルよ」
「立花さんも。こんにちわん」
「ぽっくんも買いに来たのだよ」
現れたのはマントと王冠を身につけた半熟王子と、国籍不明のモンゴメリ立花だ。客は女性が多いので、その姿は目立つ。それ以前に格好からして二人は目立つのだが。
「ありがとうございますのん。お二人とも。仲がおよろしいんですのん」
「いやいや、やめてくれよ、真琴ちゃん。この同人誌を買うのに仲が良いなんて言われると、誤解を生みそうでね」
「あらいやん」
源氏名の真琴とここで呼ばれると、さすがに牛乳も恥ずかしくなるのか、顔が少し赤くなる。しかし顔が赤くなるのをたぶん王子とモンゴメリは勘違いするコトであろう。だがそこはスルーで。
半熟王子とモンゴメリが牛乳にサインを求める。了承した牛乳はマジックでオフセット印刷のその同人誌の表紙にサインを書く。
「人気者ね、牛乳」
女性の声。落ち着いた声色の方を、牛乳と理科は振り向く。そこには、フォーマルなスーツに身を包んだ女性が立っていた。
「まひる。来てくれたのねん」
「当たり前でしょ」
と、そこへ半熟王子が声をかける。
「おぬし、音無まひるではないか」
「セクハラです」
「…………」
声をかけただけでセクハラと言われ、汚いものを見るような目で見られた半熟王子は撃沈した。
「そんな言い方はないんじゃないアルか」
「でましたわね、セクハラ二号」
「…………」
モンゴメリ立花も即座に撃沈した。
「…………」
「…………」
半熟王子とモンゴメリは肩をおとし下を向き、そこだけ空間が凍てついてしまったように、理科には見えた。
まひるはもちろん、そんな男二人はガン無視。そのディスられっぷりはいじめの域に達している。
「牛乳、そこの可愛い可愛い女の子は誰?」
「ああ、この子は田山理科。画家を目指してるのよ」
「ふ~ん、画家ねぇ。ん?」
まひるは机に置かれた同人誌の一冊に目をとめる。
「この本。画集。この子が描いたのね」
「そうよん」
まひるは無言で手に取り、理科のイラスト集のページをぱらぱらとめくる。
「ふ~ん、いいじゃん。描いた本人のルックスも良いし、絵はアール・ブリュット風で、いけるかも。たぶん独学よね」
自分でそう言って自分で頷くと、フォーマルな姿には似合わない少女のような表情でまひるはくすくす笑う。
「ロウブロウアートだけど、ネオ・ポップの括りで売るのも手ね。本人のルックスもadd(アド)されて、結構いけるわ。なにより色彩の見事さ。絵画は色彩だけで成立するってね。この感覚は真似しようとして出来るものじゃないし……」
まひるはひたすら周囲を無視してぶつぶつ呟く。
言われた理科には、専門用語が全くよくわからない。牛乳は理科に耳打ちする。
「まひるは、画商なのよ」
「画商……」
理科は呟く。画商。それは絵を描こうとするなら、それで食べていくなら、避けては通れない存在で、でも理科には画商と言われてもピンと来ない。
まひるはそこで、思い出したように言う。
「千鶴子は? あんたと一緒ってコトは、ファーム絡みなのかしら」
「まだ千鶴子にはなにも言ってないわ」
「そう。ふ~ん」
まひるは顎に握った拳をあてて思案する。
さっき、この人は『ファーム』と言わなかったか?
ファーム。
あの時の黒パーカーの、ステキパンダの……。
理科の心拍数が上がる。なにか、ここからはじまるような、そんな期待と不安と。
しかし、理科の思いに反し、まひるが帰っていくのは早かった。まひるは理科の電話番号を聞くと代わりに自分の名刺を渡し、理科のイラスト集を買い、ぶつぶつ呟きながら去っていってしまったのである。理科は早い動作に挨拶するヒマもなかった。
「まぁ、まひるはああいうせかせかした性格なのよん」
牛乳は、理科に微笑んだ。
理科も牛乳を見て微笑んだ。
そして、半熟王子とモンゴメリ立花は、未だに硬直していたままなのであった。
牛乳は理科に尋ねる。
「あれん? そういえばみっしーちゃんはどこ行ったのん?」
理科はムスッと一言。
「あんのバカ、またどこかほっつき歩いてんのね!」
とそこへ、「うげらぼあっ!」というみっしーの叫び声が聞こえてきたのだった。
だめだこりゃ、と言わんばかりに理科は広げた右手で顔を覆った。
理科の目に映ったのは、ゴスロリ少女に腕を噛まれているみっしーだったのである。
さかのぼるコト腕を噛まれる三分前。みっしーは半熟王子、モンゴメリ立花と牛乳が交わす挨拶なんぞに興味はないので、そこらへんを見て歩くコトにした。
『壁サークル』。
なんか大勢の野郎どもが冬なのに暑そうに汗をかきながら並んでいるその奇妙な行列のひとつを見つける。
みっしーにはクソ暑くなりながら必死になって並んでいるその男どもの神経がわからなかった。女の子たちが並んでいるところもあるしそれがほとんどだが、行列の中でも異様なのが、その男どもの並んでいる列だった。
みっしーの知るところではないが、この同人誌即売会は女性向けボーイズラブ同人誌の即売会で、男の客なんてほとんどいない。だから、牛乳のところにいた王子やモンゴメリは、それだけで目立つ存在だったのだ。
それなのに一点集中で、むさ苦しい男どもがひたすら並んでいる列がある。
みっしーはその男の列に、だから興味を持った。なので、列の最前列のその先、サークルで本を売ってる売り子のところに近づいてみた。
売り子は、ロリぷにな顔をしたゴスロリ少女だった。同人誌を買う男どもにサインを書いているところから、その売り子がイコールで同人誌の作者であるコトがわかった。本人が売っているのだ。確かに、それがダミーの作者である可能性もあるが。
「いぬこたん、カワユス~」
列に並んだ男の一人がサインを書いてもらいながらハアハア息をしている。「こいつの息は臭そうです」と、みっしーは思った。
「なんですか、それにしても。この黒ドレスのメスは何故に人気なのですか。正直、ボクの方が美人です。……胸の膨らみでは残念ながら負けるですが」
その列の先にいるロリぷにフェイスのゴシックロリータ少女が野郎どものアイドル的存在だとは、みっしーはもちろん知らない。
みっしーは列の最前列の男の更に前に割り込み、ボールペンとメモ帳をそのゴスロリ少女に渡そうとする。
「おい、黒ドレスのメス豚。サインをボクに書くです」
割り込まれた男は当然ながら怒る。
「おい、学ラン! ふざけてんじゃねぇぞ! いぬこたんはおれにサインを書くんだよ! てめぇも書いてもらいたきゃ列に並べよ!」
みっしーはペンとメモ帳をポケットにしまい、掌を天井に向けた。
「汝と契約せし我が元へ、現前せよ、ハネムーンスライサー!!」
みっしーの手に光が収束し、それが死神の大鎌になる。
「クソ豚がっ! その関係、断ち切ってやるです!」
みっしーは光る斬撃を一閃。
男の身体を縦に斬る。
すると、傷口に光が吸い込まれ、男は虚脱状態になった。傷口はすぐに元通り、なにもなかったようになる。
「あ、おれなにやってんだろ。帰ってももいろクローバーのDVD観ないと……」
一介のももクロファンと化した男はふらふらした足取りで会場を後にした。
みっしーは満足げに大鎌を消す。
何事もなかったように、みっしーは再びボールペンとメモ帳をゴスロリに差し出す。ペンとメモ帳をなぜみっしーが持っているかというと、理科がスケッチブックと鉛筆を携帯しているのを真似てのコトでだったりする。
「サイン、ボクに書くです。そしてボクは、みんなに自慢するです」
バリ!
バリバリバリバリバリ!!
ゴスロリ少女は、みっしーが差し出したそのボールペンを囓った。囓って、そのままペンの先から後ろの部分の方までバリバリ囓り壊していく。
「ひぃっ!」
みっしーは驚き、ボールペンから手を離すのも忘れる。忘れたので、ゴスロリの歯はそのままボールペンからみっしーの手へと囓りながら移動してくる。
指が噛まれ、そして掌、手の付け根まで囓る。
「うげらぼあっ!」
その様子を、ちょうど理科と牛乳は発見したのであった。
「痛い、痛い、痛いですぅ~」
ゴスロリ少女は囓ったまま、歯をみっしーの腕から離さない。
囓られたまま、みっしーは理科の方まで寄ってくる。
ゴスロリ少女は、みっしーから離れず、引き摺られるようにくっついてきた。
「みっしー、あんたなにやってんの……」
理科はそれ以上ツッコミを入れるのをやめた。
「猫部犬子。久しぶりね」
牛乳は、ゴスロリ少女に牽制するような口調で、言う。
ロリぷにゴスロリ少女、猫部犬子はみっしーから歯を離し、牛乳と対峙する。
「お、まえ、は、う、うしち、ちね」
「そうよ。名前を覚えてくれているようね、ありがとう」
やっと解放されたみっしーは涙目になりつつ、手に息を吹きかけ、痛みを和らげようとした。
「こ、いつは、う、しち、ちのな、かまか」
「そうよ、仲間。みっしーって言うのよ」
「この黒ドレス、ボクを囓ったんですよ。大悪人です!」
「あんたが悪いんでしょうが!」
理科はみっしーの頭を叩く。
「う~。ゼッタイコトの成り行きを見てなかったくせに~」
「大体想像つくわよ。ったくもう」
あらん、理科の怒った顔もそそるわねん、と牛乳はよだれを拭う仕草をしてから、また犬子に向き合う。
「犬子、私の友人に噛み噛みしたんだから、責任取りなさいよん」
犬子はたじろぐ。
「ど、どど、ど、どうす、ればい、いのだ?」
「う~ん、そうねん」
牛乳はいたずらな笑みをしてから、「私たちの打ち上げに参加しなさいのん」
ニコニコ笑顔で、言ったのであった。