文字数 21,297文字

==第6話==(閑話)
 その日風は凪いでいたが、開けた空にさんさんと太陽が照っていた。
それほど遠くないところにかもめだろうか、詳しくないためわからないが
数十羽が飛び回っていた。

 周囲360度 大海原だ。

 オスマン帝国領から出る時、母は泣きじゃくっていた。
ユダヤ人やイスラム教徒にとって、キリスト教徒はいまだに恐怖の対象だ。

 そもそも、イスラムが人間に対して、聖戦(ジハード)と言う言葉を
使うようになった原因は、キリスト教徒が悪魔のような所業、
旧約聖書トーラーで言うところの聖絶へーレムを行ったからだ。

 この記憶は永遠に近いときがながれても、人の記憶でなく
集合的記憶、文明として残っていくだろう。

 いわゆる十字軍だ。


 オスマン帝国からギリシャのアテネ沖あたりまでは、部屋の中で
船酔いに苦しんで、バケツに胃の内容物を戻す毎日だった。

 長靴 長靴 長靴 と表現されるのは イタリアだ。

 かつて、遠い祖先と英国の騎士が捕らえた船の所属が
イタリアのヴェネチアだ。


 やがて、オスマン海賊、オスマン海軍の拠点チュニスを通り過ぎると
船旅にも慣れ、元気が出てきて、甲板を散歩できるまでになった。

 遠い祖先、ドナ・グラツィア・ナスィのたどった航路を逆に行くように
アルジェ、セウタとアフリカ大陸北岸を沿っての長旅だ。


 どこかの港によって、観光でも出来ればいいのだが、
この船の使命は重いらしい、ロンドンまで無寄港の予定だ。

 つまり私の使命も重いと言うことだ。

 なぜならこの船の唯一の目的は、私を無事ロンドンまで
運ぶことだからだ。

 「お食事の用意が整いました。」

 召使の一人が呼びに来る。さすがに毎回、あの英国紳士が来るわけではないようだ。
彼も彼なりに、私の接待以外の副業があるらしい。

 船の中で食べたコーシェルでない食事はおいしかった。

 かの英国紳士はイスラム教徒とユダヤ教徒は絶対に豚肉を
食べないと思っていたらしい。

 その彼に、歴代のスルタンに大酒飲みが多かったと聞かせると。
「それは嘘でしょう。」とまったく信じていなかった。


 そもそも高濃度のアルコールは思考能力を低下させ、
人間が嘘をつくために必要な、論理的思考能力を奪ってしまい
泥酔した人は、感情を強く発露させるため便利なものなのだ。


 いわゆる、「自白剤」と呼ばれるものはアルコール度の高い
お酒のことだ。

 もっとも、私の家族で戒律を平気で破るのは私くらいだろう。

 家族は宗教熱心で、適切な処理がなされていないと理由で
肉類を一切食べなかった。
いわゆる菜食主義だ。

 私は小遣いで、ケバブなどを食べていた。

 オスマン帝国領内にいたときは、さすがに豚肉は食べたことはない。
ちなみに、ヨーロッパを訪ねたイスラム教徒に豚肉を出した
レストランがあったらしいが、客は皿をテーブルにたたきつけると
代金だけ払って、即座に店から出たらしい。憤怒の形相で。

 もっとも、お酒はある程度飲んでいた。
なぜなら、ユダヤ教徒にお酒を飲んではいけないと言う決まりは無い。

 17歳は立派な成人女性だ。オスマンはミレット制という高度な
各民族の自治を認めており、自由だ。

 そもそも、民族や国家といった概念を持ち込んだのは
ヨーロッパ列強が大航海時代以降、植民地支配をしやすくするため
分断統治や間接統治を行い、直接自分たちに矛が向かないようにするためだ。

 おかげで各地で戦争や虐殺、紛争が大発生し、世界中が不幸のどん底になった。
植民地支配は、現在進行形で、私のいるこの時代も存在している問題だ。

 船は順調に進み、リスボン沖を遠回りしながら進み、ビスケー湾で
ちょっとした嵐に見舞われた。暴れ馬に乗っているようだったが、
英国紳士は平然としていた。彼は若い頃、船乗りだったことがあるらしい。

 私は久しぶりに胃の内容物を戻していた。
プリマス沖を進み、ドーバーまでもう少しと言うところだ。

 「もう一杯いただけるかしら。」

 空になったグラスを見せると、すぐに並々と赤ワインが注がれた。
上下に見事な衣装をまとった英国紳士はヘブライ語で話しながら
食事中に楽しませてくれる。

 彼はこの船の給仕などではなく、れっきとした英国の貴族だ。
英国国教を守護するホイッグ党の盟主であるラッセル家の血縁、
ギャンブル好きな先代には相当手を焼かされたらしい。

 「ワインやブランデーではなく、イングランドでしょう。

 スコッチウイスキーとかありませんか。」

 オードブルの次に 海老のサラダ、フォアグラの乗ったレアステーキ
ヒラメのムニエル それとキャビアだ。そしてデザートと
紅茶。オスマンはひたすらコーヒーだった。

 でも、ここに水タバコが無いのはさびしい。
英国紳士は海老やキャビアには苦笑いをしながら奉仕していた。

 向こうに着いたら、本場の「ハギス」と「キドニーパイ」を食べようと思っている。
ハギスにはウイスキーらしい。

 もしかすると、戒律にうるさい他の家族だと、向こうの食事の席で
侮辱行為をするかもしれないから、私が選ばれたの?と思ってしまう。

 スルタンがお酒を飲んでいたのは栄えていた時期で、
イスラムが落ち目になり、欧州列強から脅威と見做されなくなって
久しい。落ち目になるほど、宮廷はイスラムの教えに厳格になっていった。

 シオンはオスマン帝国内では見せない無邪気な笑顔を見せながら、
心の底から可笑しそうに笑った。自由だ。とても自由だ。

 このまま、ずっと旅をしていたかった。

 オスマン帝国には息苦しさと焦りがあった。
大航海時代を大英帝国が征し、地中海はそれほど重要ではなくなった。
金銀や香辛料、奴隷が海路で直接運ばれ、衰退の一途をたどる。

 イスラムの盟主は、ヨーロッパ列強のどの国よりも弱いだろう。

 領土も失った。シオンもその空気に呑まれ、日々家と空気に
束縛された生活を送っていた。家から重要視されないとはいえ
自由などない、家の外にでられるのもまれ、出ても監視付だ。

 この時代に、遠く離れた地に一人旅できるなど、至上の喜びだ。

 ミルク入りのパンはおいしい、ポークソテーもだ。
そして、極めつけはこの特注船だ。大型のガレオン船を改装したもので
調度品もとても立派なものだ。

 オスマンの公爵家といえど
このような船を独占など贅沢にもほどがある。

 絵画等は潮風で痛むため、まったく飾られていないが
厚い高価なガラスの張られた客室から見る大海原は壮大だ。

 大英帝国ではガラスでさえ信じられない量を作るらしい。

 シオン・ナスィは公爵家の生まれとはいえ、次女、家督を継ぐ
可能性はほぼない。

 1つ上の姉がいて彼女が跡継ぎだ。

 弟もいるのだが、あとを継ぐのは姉だろう。

 変に思うかもしれないが、ユダヤ人の父親であっても母親が不倫していたら
その子供は異教徒だ。だけど、ユダヤ人の母親から生まれれば、
少なくとも半分はユダヤ人だ。

 なのでユダヤ人は母親を重視する。

 そもそも、大英帝国まで無寄港での1ヶ月の船旅だ。
ある意味、死んだとしてもそれほど困らないからこそ選ばれたのだろう。

 オスマン帝国も人材がいないわけではない。しかしオスマン帝国の
スルタンの名代として大英帝国の新国王に親書を届ける使節の
代表を任せられるような存在はそうはいない。

 大英帝国のハッペンハイム家が「ユダヤ人貴族」と指名してきたのだ。

 相手が国王となると、大公か公の血族でなくては釣り合いが取れない。

 大航海時代のテューダー朝の時代ならともかく、いまや7つの海を支配する
世界一の巨大帝国だ。

 しかも、英国国教会の聖地ウエストミンスターに入るのだ。
それならばと、かつては大公位についた事もあるナスィ家が
選ばれるのは当然だ。

 表向きは、宮廷ユダヤ人ハッペンハイム家の当主からの招聘だが、
影で実権を握っているのは、かつて英国にわたり確固たる地位と財産を築いた
ギテオン家である。

 先代のサンプソン・ギデオンはイスラム圏から大英帝国に
移住し、スティアート王家の正統を主張する、
僭王ボニープリンスチャーリーが
首都ロンドンに迫る中、逃げるために投売りされる財産を
ただ同然で買取り、南海バブルで英国有数の大富豪になった。

 ナスィ家とギテオン家は2千年以上の付き合いのある家で、
失われた約束のイスラエル王国建国以前にさかのぼる。
「ゆだやびと」 その起源はすごく古い。カビが生えるくらいだ。
シオンも子供のころから幾度となく聞かされた。そういう話だ。
==第7話==
 かつて、エルサレム近郊は、バビロニアそしてニネベという2大帝国があり、
ナイルの流域も広大でチグリスとユーフラテスのペルシア文明との間で
働く人で活気に満ちていた。

 そのころ、砂漠をさまよう遊牧民がおり、現在は2支族しか残っていないが
かつては選ばれし12支族と呼ばれ、ナスィは酋長、ギテオンは族長であった。

 シオン・ナスィのはるかなる祖先である。元々は、12支族で順番に酋長を決め
ナスィと呼んでいたが、盗賊に襲われたり、奴隷にされたり
災厄が降りかかる中、12支族を結束させ権力を集中させ、統率するために
ある一族は、ナスィと呼ばれるようになり。本来の家名を失った。

 そして、力を得た彼らは、ヘルモン山からモアブの死海へ流れ下るせせらぎを求め
荒地を開墾し、その地を、それなりに豊かな肥沃な大地とした。

 ナスィは、ヤハウェであり、ツロより至りて、サマリア、ヘブロン
エルサレムを統治する唯一神と定められていました。

 商業交易ルートの要衝を走る彼らの領土は、たびたびエジプトやバビロニアによって
侵略される事も多く、その独立は困難を極めました。

 古代の大帝国ペルシャ帝国の後ろ盾を得る事ができ、その庇護の下
その土地をナスィが与えられ、ようやく平和が訪れた。

 無論、ペルシャ帝国も、外交上地理上、バビロニアやエジプトに対する
緩衝地域、防壁の捨て駒としての効果を期待していたのかもしれません。

 しかし、ペルシャ帝国が衰退し、マケドニアの憎きアレクサンドロス大王に
滅亡させられると、ギリシャ・ローマ帝国はイスラエルの存在を消し去り
ゆだやびとはローマ帝国の属州となり、

 彼らのギリシャローマ文明に取り込まれつつありました。

サンヘドリンというローマの施政者の生み出した偽の王族の一派と
ペルシャ帝国に亡命した王族の一派に分かれていきました。

 そして、ユダヤ人を苦しめる最大の要因ともなった、イエオーシュアです。

 ローマを支配する偽の王サンヘドリンも安泰ではありませんでした。

 ローマの施政者と癒着し、腐敗し、民衆は苦しみました。

 しかし、その支配者は、一人の若者に脅かされます。

 彼は、サンヘドリンの悪政に声をあげ、12人の仲間とともに人々を救い
励まし、諦めないことを教えました。今は、神の御言葉を伝え、真の世界の
あり方を述べた、クムラン教団の盟主であり、ペルシャに逃れた真の王家
ナスィを取り戻そうとしました。しかし彼は、12使徒ではなく
ある裏切り者の手により、過酷な拷問の末、その命を散らせます。

 彼の信奉者の中核12人と信徒は、卑劣なローマ帝国と悪魔のようなサンヘドリン
と言う偽のヤハウェ、偽の王に痛めつけられ、犯され、殺され、そして逃げました。
それは屈したためではありません。

 彼らの役目は、救済者であり革命家の
イエオーシュアの言葉を残し、彼の遺志を継ぐためだからです。
ペルシャ帝国の庇護を得た彼らは、役目を終えると、自然に消えていきました。

 このことは、後に死海文書、ナグハマディ文書として残っています。

 敵であるローマ帝国を、血や暴力でなく 「愛」によって屈服させ
完全に作り変えました。それ以降、彼は、神の子と呼ばれました。

 しかし彼の死は、小さな石の投げかけか、とも思われました。しかし、その小波は
大きなうねりとなり、全ヨーロッパ、大航海時代においては全世界に広がり、
ヘブライ文明、ローマ文明、そして世界全体を飲み込んだのです。


 彼を密告し、架刑にかけた、裏切りのパウロは、彼の死後、真実を知り
信仰に目覚め、人生を慈愛に満ちたそのイエオーシュアとその隣人に
人生をその生命を賭け、その人生を逆賊として過酷に閉じました。


 しかし彼の遺志はパウロの使徒に引き継がれ、
ユダヤ人で無いものをも引き込み、ついに成就したのです。

 現在、大英国で貴族になったギテオンは、彼の信者であり、
表向きはキリスト教徒だと認識されています。

 「シオン公女、ギデオン卿からのお手紙を預かっております。
ロンドン到着の直前に渡すようにとのことです。」


 (ギテオンが手紙? なぜ、オスマン領内で渡さなかったのかしら)
シオンはペーパーナイフを取り上げるとヘブライ語の手紙を開けた。

 (はじめまして王女殿下、いえお久しぶりと言うべきでしょうか。
大英帝国では我々ユダヤ人の扱いはよろしいほうでしたが
ここ最近は暗雲が立ち込めております。
ユダヤ人区画ゲットーに、賊が入り込み手に負えないのです。
国王を動かそうにも、先代の王と違いモーセスハッペンハイムを使い
自由にできると言うわけではありません。わたくしも国王への謁見を
望んでも相手にされない始末。王女殿下は戴冠式にてオスマン帝国の
大帝の名代、直接話せる機会が必ずあるはずでございます。
出自はよろしくないのですが、モーセスの推薦する優秀な若者、
ハイヤーハムシェルバウアーと言う青年を接待役としております。
年頃は殿下の2つ下、15歳でございます。類稀なる才覚を持つもの
我々の運命を殿下に託します。ご無礼を承知でお願い申し上げます。
言い忘れましたが御寝所は、7階でございます。お楽しみください)

 「真なる王か・・・。重いわね。」

 (シオンは大英帝国のユダヤ人がヨーロッパの虐げられたものたちが
自分をどう見るかは理解していた。
私はもう、公爵家の箱入り娘ではない、自己の宿命を果たさないと。)

 コンコン、部屋のドアがノックされる。

 手紙を読むためかの英国紳士は部屋から出ていたのだ。

 「どうぞ、はいりなさい。」

 ふと外を見ると、巨大な船がたくさん並んでいる。

 鉄でできた建物からはもうもうと煙が上がっていた。

 濃い霧が辺りを包んでいた。そしてそれをしのぐように灯りがあった。

 「ここが、大英帝国、世界最大の大帝国。」

 シオンは思わず言葉を漏らしていた。

 「殿下、これくらいで驚かれては大変ですよ。まもなく到着いたします。」

 英国紳士は自身の国家がかつての大帝国オスマンから見ても、
驚愕に値するものだと知り満足げにうなづいていた。

 (さあ、気を引き締めて、臆病にならず、そして驕らず。)
「いくわよ」シオンはひとり自分に言い聞かせるようにつぶやいた。






==第8話==
 産業革命期に入り、マンチェスターの炭鉱は盛況である。

 石炭は、薪を使った暖房よりも暖かいし長持ちだ。

 マンチェスターで肉屋として店を構えている、
彼女、パトリシア・シャムロックは
ひたすら石炭の火で、肉を焼いていた。

 毎日何頭かの牛を解体している。

 これを聞けば、この店がどれだけ大きいかわかるだろう。

 だが、この店は、ある一点において特殊であった。

 故オックスフォード卿ロバート・ハリーが
フランスへの亡命。

 女王メアリーの系譜ステュアート朝の後継であり、
ケルト人の希望であった僭王ボニープリンスチャーリーの敗北。

 それらの事実に絶望してしまった彼らは、
フランス西部に本拠地を移した。

 ブリテン側の海岸沿いの各地に拠点を持つ彼らは、
自らの国家を持たず、なんら支援を受けていない。

 しかし、弱きもののために命を賭けて戦い、
しかし、持たぬものからの見返りは受けない。

 流浪の騎士団フローティングナイツ、ハイルドギースと言う。

 日本語では「暴れ鵞鳥」を意味する。

 綺麗事で飾られた彼らではあるが、その仕事は
 単純に言えば、「人殺し」だ。

 軍隊である以上当然だろう。

 戦場であれば、殺した相手の死体は放置すれば、
野犬やオオカミが食べるだろうし、腐って土に返るだろう。

 むろんこの時代、月に数人程度ならば放置しても問題ない。

 浮浪者の死体など見向きもされないからだ。

 人の死体などゴミと同じである。

 しかし、彼らは騎士団であり、仕事の相手は
貴族や大商人、スパイや騎士、傭兵などだ。

 大騒ぎになるので、到底、死体を放置など出来ない。

 ゆえに、牛の肉に混ぜてミンチにして、
肉屋で販売している。

 人間の死体は人間の胃袋が始末してくれる
と言うことだ。

 食べる側からすれば、たまった物ではないが。

 薄汚れた継ぎ接ぎだらけの服を着た、男が2人,
店にやってきた。

 朝方から煮込んだ、牛肉のミンチ肉を団子状にしたものは、
食欲をそそる匂いをしている。

 パトリシアの店は金儲けを目的としているわけではないので
香辛料もたっぷり、燃料費もケチらず、よく煮込んである。

にもかかわらず、どの店よりも安いのだ。

 当然、毎日長蛇の列が出来ている。

 昼飯時の最初の客である2人の男は朝方から仕事もせずに
並んでいたところを見ると、この店に並ぶのが彼らの役割なのだろう。

 仲間の昼飯確保の仕事だろう。

 人件費は安く、
仕事より人のほうが多いのだ当然である。

 男の一人は、パトリシアに向かって大きなバケツのようなものを
差し出すと、2人では到底食えない量を注文してきた。

 「おいブッチャー、ミンチ 20パウンド。」

 広いとはいえ、薄汚い店舗に、薄汚い客。
それでもパトリシアは笑顔で黙々と、
男のバケツに肉の団子を入れていく。

 熱々の温度だ。

 「ちょっと、オマケしておいたよ。」

 本来は笑顔などめったに見せないパトリシアだが
さすがに接客業になれてきた。

 満面の笑顔だ。

 流行っていない店の店主ほど無愛想だ。

 この店は繁盛している、仏頂面で数百人の客の
相手をするのは大変だ。

 パトリシアも半年働いたところで、
笑顔で接客するほうが、疲労を感じにくいときがついた。

 「あんがとよ。つけでたのむぜ。」

 そういうと、その客は次の客が睨みつけるので、
そそくさと去っていった。

 正直、付けといわれてもいつ払われるのかは
一向にわからない。

 むろん、店員の一人が帳簿にはつけているのだが
客の人数が多すぎて把握し切れていない。

 公的な身分証明書で会員証を作るわけでもないので、
無料で手に入れることも可能だろう。

 この時代、圧倒的に通貨が不足しており、金貨を持っている
市民などおらず、銀貨も銅貨も不足していた。

 それゆえ、付けで買うのが当たり前であった。

 レストランで暴れた挙句、その場で付けを払えと言われた客が
借金で監獄船に送られることも少なくない。

 たいていは債権者が許してくれるのだが、
そのまま奴隷として売られたり、奴隷として閉じ込められて、
強制労働。運が悪いと、いや運がとても良くないと生き残れない。

 大小便垂れ流しで、寿司詰めの監獄潜で半数は1年以内に死ぬ。

 ふと店の隅に目をやると、真っ黒な服を着た紳士が立っていた。

ハーブのマスクでも消しきれない、地面に落ちた肉の破片の腐敗臭や
風呂に入らない汗まみれの労働者の臭いゆえか、
苦しそうな顔をして立っている。

 パトリシアはこの男が嫌いなので、意図的に気が着かない振りをして
緩慢に作業をしていた。


 「よろしいですかな。」

 我慢できなくなったのか、その紳士は、
パトリシアに、慇懃丁寧に話しかけてきた。

 「すまないね。臭いだろう。もうすぐ終わるから、奥に行きな。」

 黒服の紳士は走り出さんばかりに奥の部屋に飛び込んだ。

 この黒服紳士、苗字は ハーシー れっきとした貴族である。

 ハイルドギース騎士団の団長の ハンドルフ公の片腕である。

 ハイルドギース騎士団は、ケルト人の貴族や騎士の集団であり、
国と国民を棄てたとはいえ、それなりの勢力を維持できているのは
ハーシー家がハンタギューやハワードとそれなりに繋がっているからだ。

 しかし、騎士団のメンバーの大半が名誉や誇りを重視するのに対し、
ハーシーは、「国を失ってまで、高潔に生きる必要は無い。」
と言う思想であり、同胞が殺されている。

 どのような手段を用いても
祖国奪還を!と言う考えで、パトリシアとはウマが合わない。

 パトリシアは、幼いころ貧乏ではあったが、育ての親に
 「どんなことがあっても、弱きを助け、正義を貫け。」と教えられた。

 カヴァネスをしていた彼女は教養も高かった。

 騎士団のボス ハンドルフ公もそれに近い。

 このハーシーは違う。騎士団にとって異物なのだ。

 こいつのボスは、トーリー党の清教徒のハンタギュー公爵家
なのではないかと思えるほどだ。

 この男も パトリシアに邸宅に部屋を用意するから住みませんか。

 とか、働く必要も、戦う必要もありませんと言うのだが。

 仲間に汚れ仕事を押し付けて、貴族のように暮らすのは
パトリシアは絶対にいやだった。それはクズのすることだ。

 しかも、この男はパトリシアが一喝すると、黙り込む腰抜けだ。

 それは、団長ハンドルフも同じなのだが。彼は紳士だ。臆病なのだろう。

 ハーシーはおどおどした様子で、申し訳なさそうに口を開いた。

 「あのーそのー、騎士団の一員が例のものを、持ち逃げしまして、
探してはいるのですが、あなたの元に何か情報が入っていないかと
おもいまして、あと報告のために、うかがわせていた、いただきました。」

 「ああ、裏の仕事かい。」

 パトリシアは一般市民ながら、その知性と腕力、足の速さを見込まれて
治安判事ヘンリーフィールディングの作った自治組織
ボウストリートランナーにスカウトされた。

 ハンドルフやハーシーは
肉屋も辞めるべきだが、自治組織で殺人鬼を追いかけるのは危険だと
猛反対していた。

 しかし、ストリートランナーの仲間からは、尊敬されていた。
もはや崇拝と言っていいレベルで。

 自治組織の人間は、捕まえると金がもらえると言う理由で
濡れ衣を着せたり、ちょっとした犯罪でもすぐ捕まえる。

 しかし、パトリシアは女子供はわざと見過ごし、自分のお金で立て替えていた。
しかし、どんな凶悪な犯罪者にも一番先に突っ込んで行く。

 仲間思いで性格が真面目で暗いが、その姿勢は評価され、自治組織で彼女ほど
人望のあるものはいなかった。立て替えた金はハーシーの財産から出ているが。

 そのため、あらゆる情報が彼女には集まってくる。

 その知性も認められており、信用できる情報はまず彼女に相談が来る。

 「知らん、それに知っててもお前に教えると思うか?」

 パトリシアは不愉快さを隠そうともせず、足を机にのせた。

 「それでは困るのです。そうおっしゃられるなら、私の差し上げた金銭を
かえしていただだだききた・・・。」

 ハーシーはパトリシアの鬼のような形相に黙るしかなかった。

 「せっかく、整った顔立ちをしていらっしゃるのに、
社交界にきていただだだけけれ・・・。」

 ハーシーはまたも黙った。

パトリシアとしても、マキャベリストな部分が好きにはなれないが
ハーシーも 敵には冷酷だが、仲間思いで、騎士団やケルト民族を
守ると言う覚悟と想いは本物で。その点は評価していた。

 WASPの王家ハノーヴァ朝と奸臣ハッペンハイムはともかく
一般大衆のアングロサクソンにも 優しさが少しでもあればいいのだが。

 これ以上ここにいると憂鬱なので情報を渡す事は約束してやった。

 「はぁ、疲れた。」

 肉屋と言っても自営業なので、営業時間も自由だ。

 人間を解体して、売るか捨てるのが仕事なので
働いているのはハイルドギースの騎士だ。

 しかも、パトリシアの「高貴なるものの義務」に共感しているのか
ハイルドギースの若くも無い幹部が、額に汗して、鼻が馬鹿になりながら
働いている。

 ボウストリートランナーはパトリシアには寛容で、こちらも
自由勤務、まとめ役になっていた。

 「さて、店じまいすっかな。おい、野郎ども、店じまいだ。」
パトリシアがいうと。

 「あいまむ」と言う返事が返ってきた。






==第9話==
 シオンは途方にくれていた。

 前日は薄暗く良く見えなかったが、天井が低い、しかもすごく。

 背の低いシオンでさえ天井に手が届く。

 しかも、5~6階建てはあるだろう。確認はして無いが。

 高層の建物が所狭しとひしめき合っていた。

 彼女、公女殿下もオスマンの華麗な服から、こちらの一般的な
ユダヤ人の服に着替えさせられていた。

 三角形の奇妙な帽子、よれよれの一張羅。

 変形したぼろぼろの木靴。

 これがヨーロッパのユダヤ人の処遇を表わしていた。


 もちろん彼女がそういう姿なのには理由がある。

 それが理解できたから我慢しているのだ。

 周囲のユダヤ人に、ヘロデの至玉の存在を知られるわけには行かない。
そもそも、オスマンの大貴族の正装は目立ちすぎる。

 ギデオン卿が手紙で書いてきたのはこのことか。

 後でギデオンを叱責しよう、ここの人は悪くない、何も悪くない。うん。

 部屋をノックする音が聞こえた。
自宅なら侍従がするだろうが、ここは小人の国だ。

しかも船のような硬質な響きではない。
扉の安全性が非常に不安だ。

 「よろしい。入りなさい。」

 シオンは威厳を持って、下々のものに舐められないように
粗末な服と小さな部屋で、胸を張って迎えた。

 「すみません、こちらにシオン公女殿下は
いらっしゃいますか。」

 ハイヤーハムシェルと言う接待人は、ふざけている。

 憤慨するシオンだったが、社交術には長けている。

 見た目に感情は出ない。
しかし、言葉には少し出た。

 「この部屋で、公女殿下は無いでしょう。」

 不愉快極まりない、尤もあきれ果てて、どうでも良いが。

 「ご機嫌麗しく存じ上げます。王女殿下。
私の名はハイヤーハムシェル、ハッペンハイムより遣わされた
接待人です。」

 ハイヤーハムシェルは自分の限界を超える慇懃さで
深々と頭を下げた。

 「ハイヤー ハムシェル?キリスト教圏ですよね。
名前がハイヤー 家名がハムシェル?」

 シオンは英国について学んできたが、ハムシェルという家名があるのだろうかと
不思議に思った。

 「いえ、本名を隠して申し訳ございません。陳謝いたします。
名はハイヤー 家名はバウアーです。
ドイツ語で田舎者と言う意味でございます。」

 「す、すみません。変なことを聞いてしまって。」

 しかし、疲れる。このような会話と態度がずっと続くのだろうか。

 まあ、ギデオン卿も、貴族といって無いし、民衆でしょう。

 「こちらのユダヤ人は、おかしな家名をつけられるのです。
知り合いに 船 バネ 強欲 と言う家名のものがおります。」

 シオンは、噴き出してしまった。
考えても見よう。「砂糖 花子」、「針金 次郎」などという
本名の人がいたら、可笑しいし、悲惨だろう。

 ハイヤーハムシェルは慇懃に、淡々と、自己紹介を終えた。
・・・つもりだった。

 「本日は日曜日です。外出は禁じられておりますので、
ゲットーの中を案内させていただきます。」

 シオンは名前が面白いので、なんだかこの少年がかわいいと思えた。
そこで、ある提案をする事にした。

 「そうですね、あなたは私に、虚偽の発言をしました。
オスマン帝国公爵家として、オスマンの名代として
1ヶ月以上かけて、遠路はるばる来た私に、接待の責任者が。」

 笑いながら言ったのだが、バウアーには伝わらなかったようだ。

 「しかし私は、人に処罰をしても何の益もありません。
 そうですね、水タバコを買ってきていただけますか。」

 今日中に買ってくることができれば、許しましょう。

 ハイヤーハムシェルは地面にひれ伏しそうな勢いで
走って出て行った。あらら、私の案内は誰がするのかしら。

 すると、シオンと同じような年恰好の女性が顔を出した。

 「バウアーの指示で、案内させていただく事になりました。
イライザと申します。」

 慌てふためいても、仕事はきっちりしているようだ。

 そもそも、この人が案内する予定だったのかも。

 ハイヤーハムシェルは顔を真っ赤にして、息を切らせて
ハッペンハイムの使用人を急きょ集めた。

 「水タバコを探し出せ。今日中だ。」

 使用人の一人が言った。

 「ここはイスラムではありません。通常の方法では入手できないのと思います。
モーセス様にご助力いただいたほうが良いのでは。」

 「だめだ、町中を探せ。」

 ハイヤーハムシェルはあわてていたためひとつ忘れていた。

 ゲットーの中に水タバコなどと言う、高級品が売っているはずが無いと。

 ハイヤーハムシェルはあっさりと騙された。
水タバコは見つかった。

 だが明らかにゲットーの
外に出られないと言ううそがばれてしまった。

 ヨーロッパ大陸において日曜にゲットーから出られないと言うのは常識だ。
だが、ここは大英帝国なのだ。

 「公女殿下 あまりお急ぎにならないほうがよろしいのでは。」

 ハイヤーアムシェルは路にある水溜りが、水や雨ではなく
小便であると言うことを知らせるか迷った。だが知っておくべきだ。

 「なぜですの。」
シオンは不思議そうに聞いた。

 ハイヤーハムシェルは慎重に、だが真剣に言った。

 「路の真ん中を歩けば馬車に轢かれます。しかし端のほうを歩くと
窓から、トイレの中身が降り注いできます。」

 「そのため、すさまじい悪臭が漂っており、ハーブのマスクなしで歩くのは
不可能です。」

 ハイヤーは必死に傘を差しながら早口で説明した。
オスマン帝国から来た貴族は歩くのが速かった。

 ついていくのに必死だ。殿下が頭から糞尿を被ったら。

 そう思ったら気が気でなかった。

 シオンは貴族ではあるが、イスラム教徒ではないので
身分制度そのものから外れており、ユダヤ人の代表と言う位置だった。

 しかも、その次女。どこかのユダヤ貴族の嫁に行くだけだ。

 それに先ほどの服や建物、寛容で裕福だと言う大英帝国でこれだ。

 ヨーロッパ大陸はどのようなところなのだろう。

 「こちらには、午後の紅茶と言うのがあるらしいですね。
ぜひ経験してみたいです。高級店はいやですよ。」

 シオンは紅茶よりコーヒー党だが
オスマンにはない英国のお菓子に興味があった。

 それを聞いたハッペンハイム使用人の団体が大急ぎで探しに行った。

 はあはあと息を切らせながら使用人の一人が店を見つけてきた。

 ハイヤーは使用人をにらみつけた。思いっきり庶民の店だ。

 「ぶしつけな質問ですが、ユダヤ人はハノーヴァ王朝において
開放されたのですよね。なのに大半の人々はゲットーに住んでいる。
なぜですか」

 少し迷ったが、また嘘を言って、怒らせるとまずい。

 物理的に首が飛ぶのはいやだ。ここからはすべて正直に行こう。

 ハイヤーハムシェルはそう心に決めた。

 「元々、物乞いやスリ、乞食や売春を生業としてきた我々
と言うより、一般のユダヤ民衆は資金がほとんどありません。」

 「それに住み慣れた我が家と申しましょうか、ゲットー
それ自体がユダヤ人を閉じ込めておく牢獄であると同時に
身を守るための城でもあるのです。」
==第十話==
 ハイヤーはひとつだけ聞きたい事があった。
幼少に両親が殺され、8歳でオッペンハイム家に出仕した為、
記憶はおぼろげだが、毎日のように借金を踏み倒すため
暴徒が襲い、キリスト教徒の虐殺や強姦が日常茶飯事
ゲットーの門に豚の絵が書かれており、
賄賂を持たないものは リンチされ殺されていた。

 それゆえ、キリスト教徒である大英帝国がこれほどまで
ユダヤ人に寛容なのか、それなりに権力に食い込み
地位もコネもあるハイヤーハムシェルでも知らない。

 それゆえ、尊敬と親愛を持ってこう聞くのだ。

 「なぜ、この国は我々、ユダヤ人に良くして下さるのですか。。」

 シオンは少し迷ったが隠す事でもない。

 「そうですね。かつて薔薇戦争のランカスター側の武門の出自であった
後のヘンリー7世はヨーク側に裏切りました。彼はローマ教皇の仕立てた
王女エリザベスを妻に迎え、平民出身でありながら王となり
テューダーという王朝を作りました。」

 「しかし、神聖ローマ皇帝及び教皇はこれを認めず、
王権の返還すら求めました。しかし反対勢力もおり
妨害され、国が纏まらない為、対策を講じる事ができませんでした。」

 「そこで、あなたのような優秀な若者、一介の貿易商であった
初代ジョン・ラッセルに白羽の矢が立ったのです。かれは のろま
と言う名の船に乗り、世界最強のスペイン無敵艦隊の打倒を掲げ
反旗の狼煙を上げたのです。」

 「当時オスマン帝国のペルギーネだった我が租ヨセフとグラツィアは
協力し、ユダヤ海賊スィナンや宮廷医ハモン、初代オスマン帝国海軍提督
バルバリア王ハイレディン、彼の部下モハメットシャルークらを集め
プレウェザの海戦にて、アンドレアドーリア率いるイタリアスペイン艦隊に勝利し、
地中海の制海権を握りました。」

 「ロードス島を落とし、セウタ海峡を勝ち取り、ウィーン包囲にいたりました。
背後ではグラツィアがネーデルランド独立に莫大な支援をして、独立させます。
フッガー家は多額の借財を負わせ、免罪符の乱発で兵站を破綻させ、
民衆の心は離れました。その結果、初代ラッセルは救国の英雄となり、
一代で伯爵になり、その子、フランシスはアマンダ海戦でスペイン無敵艦隊を
壊走させました。その結果、大英帝国が成立、世界の植民地を手に入たのです。」

 「まあ、ラッセル公は我が家に大恩があると言う事です。」

 そういうと、公女殿下はティーカップを置かれ
お菓子を食べ終えた。

 ハイヤーハムシェルはあまりの規模の大きさに驚いていた。
それと同時にこの方はやはり、我々の正統王家なのだとも感じた。

 感心仕切りのハイヤーハムシェルがまだ隠し事をしている。
油断したハイヤーハムシェルを見ながら、
そう感じたシオンは問いかけた。

 「何か心配事でもおありですか。」

 ハイヤーハムシェルは少し考えたが、我々では数年もの間、解決できなかった。
そもそも、ギデオン家やハッペンハイム家の主人である。

 隠していても仕方が無いし、ユダヤ人への襲撃事件を話さなければ
発覚したとき、殿下は本当に私を殺すだろう。

 ハイヤーハムシェルは今まであった事件の経過を知る限り
シオン公女殿下に伝えた。

 「なるほど、しかし、オスマンはおろかヨーロッパでも
聞かない話ですね。その事件が起こったのは大英帝国だけなのですか。」

 もう大抵のところは調べた。
「いまのところ打つ手はなし、お手上げです。」

 シオンはハイヤーハムシェルに慇懃に振舞ってもらう必要を感じなかった。

 かつて、オスマンの大貴族だったヨセフやグラツィアは
ジョンラッセルを単なる一介の騎士、平民として接したのだろうか。

 おそらく違う。対等に扱ったはずだ、だから、ラッセルは大英帝国で
必死の努力をして、ユダヤ人が安心して暮らせる世界を目指したのだろう。

 シオンは心を決めた。
 「シオンと呼んでください。ハイヤーさん。」

 ハイヤーは固まった。
「え。」「あのう、どういうことですか。」

 シオンは自然体にもどりたかった、友人でありたかった。

 同胞のことを心から心配し憂慮する、年下の接待人に。

 「かつてのジョンラッセルは平民でしたが、
我が祖グラツィアに平伏して従ったのでしょうか。
友人だったから、この国ができた、そう思います。」

 「あ、そうそう。大航海時代で思い出したのですが、経度を測るのに
正確な時計が必要で、王家の身代金と同額がかけられていたとか。」

 「今周囲の労働者も、時計を持っていますね。工場で働くので
他の国に比べて、時間に正確だとか。」

 シオンがそう発言したとき、ちょうど労働者が歩いており
スリに懐中時計をすられたところだった。

 運悪くそのスリの子供は、時計を落としてしまい
しかもさらに運の悪いことに捕まってしまった。

 この時代5シリング7ペンス以上の窃盗は死刑であり
子供であっても容赦はない。

 だがハイヤーハムシェルは、落ちた時計から零れた
あるものに目が行くと固まってしまった。

 時計から転がり出たものそれは、「ルビーだ。」
ハイヤーハムシェルは小さくつぶやいた。

 何気ない言葉だが、異邦人の視点も馬鹿にはできない。

 そもそもオスマンには懐中時計など無いのだろう。

 懐中時計には宝石が軸受けとして使われている。

 しかも質屋で高額で換金できる。

 カルテルも鑑定していないはずだ。

 シオンの幸運に感謝した。

 「シオン、そのラッセル公の片腕、ギデオン卿に会わねばなりません。
今すぐに、ご同行願いますか。」

 「それと、そのハーブのマスクを外す事をお勧めします。」
マイヤーは笑いながら言った。

 「それは遠慮しておきますわ」
==第十一話==
 ギデオン邸
「で、殿下、なぜここに。」
ギデオンが声を上げた。

 「わたくしがいてはいけないのですか。謀反相談でも。」
シオンが笑顔を向けると。

 ギデオン卿はハイヤーハムシェルを睨みつけてきた。
「王女殿下、彼の力量はいかがですか。」

 相変わらずギデオンはハイヤーを睨む。
「非常に優秀で、優れた人格を持つ、」

 シオンは周囲を見回し全員を見終えるとこう付け加えた。
「友人です」

 ギデオンはあまり気乗りしなさそうに会議を始めた。
「では、ハッペンハイム卿、本日の議題について
説明していただきたい。」

 ハッペンハイムは平常運転、宮廷ユダヤ人だけあって面の皮が厚い。
「大量の宝石を持っていたものがおり、話を聞きだそうとしましたが
その者は見つからず、妹は何も知らないようです。妹の身柄は確保しております。」

 ギデオンが発言した。
「ふむ、盗まれた宝石は近年起きているゲットー襲撃事件と関係あるのは
まず間違いない。だがそれを我々ユダヤ人を介さずどう処分されるのかが問題だ。」

 「前例が無いからな。」
一同が沈黙する。

 「発言をよろしいでしょうか。」
ギデオンはあごをしゃくって認める。

 ハイヤーは何を思いついたのか早口で切り出した。
「まず奪われた宝石に希少価値の高い大きなものはありません。
次に何かの部品に使われているのではないかと思います。」

 ギデオンは興味が少しわいたのか、
一向に解決しない事件に自信に満ちて発言する
ハイヤーは只者では無いと思った。
「なぜ、そう思う。」

 「はい。彼らは価値の高い大きな物は狙いません。
ご存知と思いますが、宝石の小さなものに価値はありません
しかし、部品に使うのならば、画一化されてなければいけない、
鑑定される大きい宝石を奪う価値が無いから奪わなかった、
そう考えます。」

 「また、我々を介さず直接換金できるとは思いません。
それならば初期にカルテルにばれているはず。
しかしながら、彼らは用意周到で、組織立っている」

 「維持コストも相当なはず。これほど頻繁に襲撃してくる以上
大掛かりなロンダリングシステムを持っていることは固いでしょう。」

 「たとえば研磨剤。ダイヤモンドは硬いぞ。」

 「ルビーは偏光に役立つ。」

 いろいろな言葉が漏れる。全員考え込んでいる。

 「ハイヤーハムシェル その線で地道に調査しては。」

 「ダメですね。捜査が遅れれば被害が増すばかり。
無論きちんとした調査はします。しかし彼らの様子を見ると
ろくに鑑定もしていない様子、その証左に傷物の宝石も
混じっていました。」

 「つまり、そうですね。贋物や傷物をわざと奪い取らせ
大量に流通させる。すべての宝石に対して。
早期に必ず騒ぎが起きるでしょう。それを待つのです。」

 「贋物だと。で、その宝石はどこから調達する。
乞食野郎、塵ダメでも漁ってくるか。」

 ホォーバーグは興奮のあまり、金切り声を上げた。

 ハイヤーをたたき出しそうな勢いだ。

 シオンが声を発する。

 「それは暴言ではありませんか。ホォーバーグ。」

 「そうではありません。殿下。宝石は我々ユダヤ人が鑑定し
その信用の元価値があるのです。ヴァチカンの金銀に対抗する
唯一の手段です。贋物や傷物が出回れば信用はがた落ちです。」

 「カルテルをつぶす気か。ハイヤーハムシェル。」

 「ふぅ~、信用は落ちません。何らかの工業製品といいましたが
彼らは、当然需要があるから来るのでしょう。そうやすやすと製造できず
価値があり換金できる。彼らの行動に周期があるのはそういうことでしょう。」

 「鑑定しなくては我々にわからない。そこをつかれましたね。
質屋にこれが、製作に時間がかかり、宝石が必要、なおかつ
大量に流通し、一般人にわからない。」

 ハイヤーは大きく息を吸い込むと今日という日が来たことに感謝しつつ
言い切った。

 「その工業製品とは懐中時計、プアマンズ・バンクです。」

 「なるほど、時計の軸受けか、盲点だ。」

 ギデオンもハッペンハイムも、もはや
ハイヤーハムシェルの能力を疑うものはいなかった。

 「時計会社がロンダリングに絡んでいるのは確実
彼らの信用が落ちるだけです。」

 「王家の人質と等価か。」

 ポツリとギデオンが言った。

 「これが、単なる犯罪ならば良いのですが、
規模からして、国家の利害をはらんだ謀略の可能性も
否めません。」

 「殿下の力を借りる必要がありそうだな。」

 一同が目を合わせる。

 「この事件に関しては、ハイヤーハムシェルに全権を与える。
異議のあるものは。」

 誰も手を上げなかった。

 「はい。」なぜかシオンが手を上げた。

 「ああ、全員一致の無効ですか。懐かしいものを見ました。
後ほど王に報告せねば、殿下にお願いしてもよろしいですかな。」

 「はい。」
シオンはあふれんばかりの笑顔で答えた。
==第十二話==
 ユダヤ人が襲撃事件を警戒し、すべての財産を
マンチェスターのゲットーに集積している。

 英国中にそんな噂が流れていた。

 幾人かのエージェント、さくらが混じる中、
ハイヤーハムシェルは混乱する民衆に語りかけた。

 「かつての中世で、働くことの報酬は唯一
食べていくことでした。それが例えキリスト教徒にとっても
唯一の財産であり権利。まさに暗黒の時代です。」

 「どんなに努力しても、いかなる犠牲を払おうとも、
百姓は王や貴族になれない、将軍になれない。
ただ生きていくことそれが対価でした。」

 「そんなことが許されていいのか、この革命で
この大英帝国での革命で、それは覆された。」

 「我々ユダヤ人は、ゴミ拾いや乞食、売春をやめ、
労働者となった。われわれは時間を売ることによって
自由を権利を得た。これを手放すことは死と同意義。」

 「我々を信用して欲しい。賊を破滅させるため、
すべての財産をカルテルが預かりましょう。」

 大衆柄悲鳴が上がる。
様々な抗議の声が上がってきた。

 ある乞食は言った。

 「ふざけるなー、お前らは傍観していたじゃないか、
貴族として暮らし、何もしなかった。
お前らなんか仲間じゃない。信用できるかー。」

 ある売春婦は言った。

 「賊から身を守るためといえ、全財産をとおっしゃるのですか。
信用できません。何か、何か、保障はあるのですか。」

 さらに怒号の飛び交う中、澄んだ声が響き渡った。

 「無論、何の担保もなしにとは言いません。
王家である私が担保となりましょう。」

 「大英帝国皇帝と交渉し、この地に再び平和を取り戻します。」

 「我が祖ドーニャグラツィアナスィの誇りに誓って。」

 一人のラビが跪いて祈る。

 「おお、こんな塵石のために、ヘロデの至玉をと。」

 シオンが下がりハイヤーハムシェルが、声を張り上げる。

 「皆さんの血と汗の結晶、労働の対価は決して 塵などではない。
ここはもはや、暗黒の中世ではない。皆さんの時間は
王の命と等価なのです。」

 「それほどまでに憂慮されている。オスマンからやってこられた。
神ヤハウェと契約したモーセの正統なる後継者、
我々の王が!」

 一面の大衆は、静まり返っていた。

 マンチェスターのゲットーの住人は宝石を預け、
一時的に郊外にテントを張って、避難することになった。
戴冠式を控え、シオンナスィがロンドンのウエストミンスター
に向かった後、2日後。

 マンチェスターのシナゴークの前にヘアリング商会のごろつきがいた。
パトリシアシャムロックは犯人がケルト人であることが分かると
ボウストリートランナーの一人として、密偵にやってきていた。
パトリシアはヘアリング商会の一人に言った。

 「却って仕事がやりやすくなってよかったんじゃない。」

 「そうだな、豚共、豚小屋に石を集めやがった。」

 内心パトリシアは憤怒の念を抱いていた。

 貴族や王を狙うならまだしも、貧民、民百姓を狙うがごとき所業
到底許せるものではなかった。

 このゴロツキを叩き潰してミンチにして煮たらどれだけ気持ちいいか。
今回は、ハイルドギースとしてではなく、
ボウストリートランナーとしての仕事だ。

 こんなゴロツキに負けるとは思わないし、逃げられるだろう。
だか、殺すのが目的ではない、背後関係を探るのだ。

 気を日締めなおしていた。

 暗黒のシナゴークの奥から声がした。
慇懃で丁寧ではあるが、そこには底知れぬ、何か粘つくようなものがあった。

 「私はハイヤーハムシェル、ドイツ出身の田舎者でございます。

 ここに住むものは皆 1日に1シリングも稼いでおりません。

 塵を拾い、物を乞い、そしてやっとこの新たなる革命期
得ることが出来た、自由や平和なのです。どうか奪わないで頂きたい。


 「この建物は石造り、お気づきでしょうが、オスマンから
燃える水を運んでまいりました。」

 「何をはったりを。」

 「おかしら本当ですぜ、石炭に似た油のにおいがします。」

 「ここに5万カラットの宝石があります。」
 「襲うのを辞めていただけるのであれば、差し上げましょう。」

 そういうと、黒い服の男が麻の袋を持ってきていた。

 「ふざっけるなぁ、くだらん、くだらん。
何が人の命は大切だ。だ。
たかが5シリング盗めば死刑だ。借金で死ぬやつもいる。
借金は昼飯代だぞ。それならば、人を殺してでも
殺して奪ってでも、我が糧を得る。家族のために
仲間のために、俺の祖先は誇り高きヴァイキングだ。
ドイツ人の偽の王などにかしずくことなどない。
お前らの言うゴイムだよ、だからゴイムらしくするさ。」

 「お前と俺が殺しあって、勝てたら、その条件を飲んでやろう。」

 「そうですか、私は戦闘は経験がありませんし、まだ死にたくないので
こうします。」

 ハイヤーハムシェルはあらかじめ用意していた
燃える水に火を放ちミグェから外の井戸へ抜けていった。

 深夜、赤々と燃えるシナゴークを包む炎は
月明かりに照らされ10マイル先からも見えたという。

 この後、この事件で焼け残った後は、ゲットー襲撃や
第二次大戦の空爆など、様々な推測や尾ひれをつけて
現在も残っている。






























==第十三話==

 屋外では、すでに戴冠式の準備が整い、聖ウエストミンスターの
広場には大勢の貴族が集い、リボンや風船の飛び交う中
大英帝国のいかなる大物貴族でも替えがたい、そのオリエンタルな
気品は周囲の注目を集めていた。

 しかし、貴族たちはその艶やかな姿形とは裏腹に有色人種ゆえか
ユダヤ人ゆえか、オスマンの威光を持ってしても消せない
特有の扱いを受けていた。

 おざなりに、スルタンシャリフからの祝辞が読まれ
ホーフユーゲンであるハッペンハイムが彼女をもてなした。

 「父と子の祝福により、汝、ジョージ3世を国家の守護者とし
偉大なる大英帝国の繁栄を 祈らん。」

 (ふぅ、ここの様子は理解しがたいわね。オスマンの名代である私を
何か別の生き物を見るように。彼らはオスマンの権勢を恩義を忘れたのかしら)
いえ、たぶん肌の色のせいね。ハッペンハイムには普通ですし。

 オスマンの名代である彼女シオンナスィは特権がある。
当然であるが、大帝の使者だ。王と会話できる。

 シオンは静かに切り出した。

 「国王陛下、昨今のゲットー襲撃と大火災、ユダヤ人に
災厄が降りかかりました。大英帝国として公的な援助を
お願いしたく思っております。」

 新国王ジョージ3世
「昨年からの大恐慌、我が国の財政は逼迫しております。
シオン姫、ご協力したいのは山々なのですが、無理なのです。」

 ホイッグの頭領ラッセル公が叫んだ。
 「我が祖 初代ジョンラッセルがかつての親友との
約束を果たすときが来ました。」

 「国王陛下、かつて罪なく処刑された我が一族に当代の王は言われました。
この償いはすると。いま償っていただきたい。」(ライハウス事件)

 トーリーの頭領ハンタギュー卿は侮蔑的に返す。
「故に、我々は肌に色のついたものに寛容すぎるのです。」

 「寛容、あのゲットーが。我々の生活をご存知ですか。」

 大英帝国に来たときはじめて着た三角形の奇妙な帽子、
よれよれの一張羅。変形したぼろぼろの木靴。

 それらが後押しして勇気をくれた。

 「どうしても信用いただけないなら、私が質となりましょう。」

 ハンタギュー卿
「よろしいので、オスマンと我が国に何かあれば、ご家族に災いが
大帝に御迷惑がかかりますよ。それに言ってはなんですが、
我が国のゲットーはフランクフルトやパリと比べれば天国です。」

 ジョージ3世
「私は見てみたい。ユダヤ人の暮らしを。姫の邸宅をお邪魔しても
よろしいですか。救国の英雄の,
親友にお会いできた事は至福の喜びです。」

 シオン
「お待ち申し上げております。迎えのものが参りました、それでは。」

 ギデオンはキリスト教徒であり、ユダヤ人である。

 それ故に、ここにユダヤの王、イエスを架刑に処したとされる存在が
下等な有色人種であり、敵であるイスラムの民である事を鑑み、
華麗なるウエストミンスターから、薄暗い監獄へと彼女の身柄を
移した。
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