第31話 芝木好子『洲崎パラダイス』

文字数 2,312文字

もう10年以上前になりますか、長いキャリアのあるプロのシンガーに、技術とソウルのどちらが大切か質問したことがあります。
氏からは「技術の伴わないソウルはあり得ないと思う」と有り難いお考えをうかがい、腑に落ちた気でいて、いま思うと、自分は技術を甘く見ていたようです。

たぶん、自分はパンクを源流にしたオルタナティブなロックが好きで、腕の確かなスタジオミュージシャンによる上品な音色よりも、技術的に目を瞠るものはなくとも渋谷陽一さんの言う初期衝動の炸裂した楽曲のほうが好きだから、技術もそこまで重視していないようです。

でも、つらつら振り返ると、名は控えますが、ほんとうに演奏のめちゃくちゃなバンドは聴いておらず、筋肉少女帯やシャーラタンズ、ポップグループ、ソウルフラワーユニオン、最近で言えばKing Gnuなどの演奏力は抜群で、技術をおろそかにしていないのでした。

花村萬月さんがビートたけしさんとの対談で、「ストーリーよりも場面で憶えている」と語っており、そちらはハッキリ腑に落ちました。
ストーリーがおもしろいと思っても、ストーリー全体を覚えていることは稀で、例えば黒川博行さんの『後妻業』はめっぽうおもしろい小説であり、短くリズミカルな文章を重ねてエピソードや展開をめまぐるしく提示し、一気読みを招きます。

でも、憶えているのは、ハメる側がハメられたり、主要人物の刑事が同棲する幸薄い女の作るメシは旨くてもそうでなくても必ず「うまい」と誉める場面だったり。
黒川さんは読み巧者でもあられて、その方向を自ら選んでおられることは大事ですけれども。

1954年、芝木好子さん『洲崎パラダイス』は、1957年に売春防止法が施行される前の遊郭を舞台にしています。

蔦枝という元娼婦は遊郭の入り口辺りの飲み屋で飛び込みで働き始めます。
恋人の義治は筋肉質な25歳の色男ですが、甲斐性なし。
この二人の愛憎を中心に、蔦枝が働く飲み屋のおかみ、蔦枝のパトロンに立候補する落合、また遊郭で働く女たちが描かれます。

自分は視点は映画におけるカメラワークと考えていて、現代では視点は固定するのが一応の作法というか最低限のルールになっています。
もちろんその限りではないのですが、書き手の意図なり効果なり実験性があって、視点の移動は許容されるようです。

でも川端康成の代表作のひとつ、1954年『山の音』の序盤で主人公の信吾からヒョイと信吾の息子に視点が移る場面があって、視点の移動はそれきりで、たぶんケアレスミスなのでしょうが、三島だったかな、やはり視点の移動があって、当時はそこまで視点の固定にうるさくなかったのかと推察します。

それで『洲崎パラダイス』ですが、蔦枝かと思えば義治、義治かと思えばおかみ、もどって蔦枝かと思ったら作者だ、神の視点だ。
もう多視点と呼べばいいのか描出話法に該当するのか、はなから「視点? それ美味しいの?」てな姿勢です。ブライアン・デ・パルマ監督だってこんな無茶なカメラワークはしないよ!

かように本作は、技術的にはさほど高くありません(←断言。何様?)。
そも幸田文のように、物書きを辞めるつもりで置屋で働き、人間模様を見たわけでもなく、大手の総合職に就いている女性が路上に立つ心理、その向こう側の女について考えるためにデリヘルに入店した中村うさぎほどの行動力もなく、でも娼婦とはこうだ、身を売る女とはそうだ、と断言の嵐。何様?(←伏線回収)

散々貶しているのですが、でも、口惜しいかなおもしろいんです。
そのおもしろさはネットニュースや週刊誌の、下世話なゴシップを読む感じ。
フィールドワークをするでもなく学術的な裏づけがあるでもなく、でも、蔦枝の愚かさは他人事と思えなくて。

鹿



金のない義治に見切りをつけて、別れるつもりで連れない態度を取ったのに、義治が未練を示さないと逆ギレする蔦枝。
きれいに別れられるんだからいいじゃん。でもやったわ。オレもやった。なんだったらこれからもやりそう。

恋人の義治は義治で、自分のせいで蔦枝に苦労を掛けているのに、蔦枝の勤める飲み屋に深夜にやって来て、




 



喧嘩に巻き込まれて、おかみさん気の毒。

蔦枝は蔦枝で、落合という気持ちも金払いもいいパトロンが見つかったのに、過ごした夜を思い出して義治とヨリをもどしちゃったり。
阿呆だ。でもわたくしも未練たらしいの。出会い方を間違えなければわたくしたち良いダチ公になってたよ……なってないかな、むしろ苦手かも。よく分からなくなりました。

たぶん、本作は発表当時からしたら技術面や題材の扱い方はさほど問題にならなくて、でも現代の評価基準に耐えられず、時代背景や当時の価値観などを踏まえて読まないといけないのでしょう。
けれど自分を投影する余地があることも含めて、ゲスな覗き見的好奇心を満たしてくれるのも事実で、技術的に優れているから記憶に必ずしも残るわけではない、その好例と思われました。

……いま疑問に思ったのですが、文学を知的で高尚な物とする気配はいつ頃から生まれたんでしょう?
ゲスでも何でも読み手を楽しませることが大事としたら、むしろ『洲崎パラダイス』が本来の小説の形に近いのかもしれません。
む。これは私的には、一考するに値する疑問です。
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