第一話 物語の価値はどこにあるのか? #4

文字数 4,843文字


 わたしの家は、店舗の二階にある。
 思ったよりカカオの成分が濃いチョコレートを口に入れてしまったときのような、そんな苦さを意識しながら帰宅した。すると、掃除する暇があまりない狭苦しいリビングに、美紀子伯母さんが来ていた。伯母は父の姉で、近くに住んでいるため、ここへ顔を見せる機会も多い。なにか重要な話をしていたのかもしれない。彼女は不動産の運用をしているやり手で、経営の苦しい父とはときおりお金や土地の話をしているようだった。彼女はわたしが帰宅するのを見て、今日のところはと帰ることにしたらしい。立ち上がった伯母はリビングの入り口で挨拶をしたわたしを見て、にっこりとした。
「あらあら、秋乃ちゃん、また背が伸びた? すっかり制服が似合うようになって。本当にもう、可愛らしくなったわね」
 こんなふうに、伯母はいつもわたしのことを可愛がってくれるけれど、わたしはそれにうまく受け答えするのがどうにも下手だった。愛想笑いを浮かべて、そんなことないです、と掠れた声でぼそぼそと答えてしまう自分が醜くて、伯母が言うような制服の似合う可愛らしい女の子だとは思えない。
 と、伯母は気づいたようだった。その視線を見て、わたしは告げられるだろう言葉を予測し、びくりと身構える。伯母は、わたしが手にしている文庫本に視線を向けたのだった。綱島さんたちと通学路を別れたあと、こっそり取り出し、歩きながら読んでいたライトノベルだった。よその書店のカバーがかかっているから、表紙を見られることを恐れたわけじゃない。わたしは、ただ──。
「ああ、秋乃ちゃんはまた読書?」
 ほら、来た。わたしは手にしていた文庫に視線を落とし、それから、さりげなくそれをスクールバッグに仕舞う。
「本当に、秋乃ちゃんはいつも読書していて偉いわねえ。流石は書店の娘ってところね」
 人の良さそうな笑顔は、あまり裏表のない表情だと感じる。だから、伯母が続ける言葉は、きっと本心からのものなのだろう。
「あたしはぜんぜん読書なんてしなかったけど、隆信ったら暇さえあれば本ばっかり読んでて、成績だけは良かったからねぇ」そう言って父のことを見る眼差しは、咎めるような目つきに見えた。「秋乃ちゃんも読書家だから、隆信みたいに成績はいいでしょう。うちの子にも、本を読むように秋乃ちゃんから言ってくれない? あの子ったら本当にバカで、読書なんてぜんぜんしなくって。毎日漫画読んでゲームしてるだけなんだから」
 伯母の言葉は大きく、まるで耳を劈くようだった。父曰く、伯母の声の大きさは、自信の大きさから来ているのだという。自分が絶対的に正しくて、何事にも動じないから、自然と声も態度も大きくなるのだ、といつだったか母を相手に苦々しく笑っていた。
 わたしは肩にかけたスクールバッグの肩紐を握る手の指先に、僅かに力を込めていた。伯母の話が耳になだれ込んでくる度に、この指に力が籠もって震えていくのを感じる。お腹の内側に渦を描いていく感情があって、わたしはそれをどう言語化すればいいのか考える。
 本を読むことと、成績の良さはまったく関係がない。読書家だからって、頭がいいわけでも、勉強ができるわけでもない。わたしは成績のために本を読んでいるわけじゃない。漫画を読む行為だって立派な読書だ。ページを捲り、物語の世界に浸ること、両者の間に大きな違いはない。どちらが優れていて、どちらが劣っているか、そんなことで優劣をつけるだなんて馬鹿げている。わたしはどんどん肩掛けを握る拳に力を込める。言いたいことはたくさんあった。でも、なにも言い返せない。いつもそうだ。わたしは、わたしの言葉を外に出すことができない。いつも、どんなときだって。
 昔から、頭の良い子だと親戚の人たちから褒められて育った。確かに、書店の娘として生まれ、父親が読書家だったことは、大きな影響を及ぼしたのだろう。小学生の頃、わたしは周囲の子どもよりずっと落ち着いていて、大人しい子だった。本を読み始めるのが早く、普通の子が絵本の読み聞かせを大人たちにねだっている頃には、自分で絵本の文字を追いかけていた。父の書斎にある児童書や図鑑に眼を付け、書店で色鮮やかに並んでいるライトノベルの世界に引き込まれるまで、そう時間はかからなかった。親戚の人々が知っている同年齢の小学生の姿からはかけ離れていたせいだろう。頭の良い子。大人しくて聞き分けのいい子。賢くて、将来が有望。そんなふうに、まるで囃し立てられるように言われてきた。
 あれは、誰からの提案だったのだろう。
 きっと伯母からだったのだと思う。父は、わたしを私立の中学へ入れることを決めた。わたしは中学受験のために五年生のときから塾に通うようになり、必死に勉強をした。わたしはみんなと違う。大人で、頭が良くて、だから読書家で。だから、こんな人間でも、みんなと違っていても、ぜんぜん良くって──。
 結果は、大敗だった。無理だった。わたしは、両親や大人たちの期待に応えられるような子どもではなかった。普通だった。ただただ読書が好きな、普通の子どもだった。でも、そのときの、残念だったわねぇと声を漏らす親戚の人々や、アルバイトの人たち、商店街のおじさんおばさんたちの声と表情が記憶にへばりついて、角を折り曲げられてしまったページが風でぱらりと捲り上がるのが普遍的なことのように、その言葉の一つ一つをいつだって容易に読み返すことができてしまう。
 いつの間にか、伯母は帰っていた。
「秋乃。ぼうっとして、どうした?」
 父に問われて、作り笑いをする。
 父は、わたしのことをどう理解しているだろう。
 不意に湧いて出た感情に、肌が粟立った。わたしは逃げるように、部屋に戻る。
 こんな、こんな家に生まれてこなければ。
 書店の娘として、生まれたりしなければ。
 ベッドに倒れ込み、枕で息を殺す。
 なにも言えないわたしが、言いたいことはただ一つ。
 わたしは、わたしのことが、だいっきらいだ。

 昼食時を告げるチャイムが鳴ると、女の子たちの煌びやかな時間が始まる。
 可愛くて、人気があって、自然と周囲のみんなを引き寄せる女の子の元に、わたしたちは醜いハエのように群がる。この構図は、小学生のときから、ずっと変わらない。
 綱島さんを囲んでいる机は、賑やかで、華やかだった。
 わたしは、まるで女王様の気まぐれに触れたかのように、そこに加わることを赦されているけれど、本当にこの場所にいていいのだろうかという不安にかられることも多い。
 念頭にあるのは、あの一冊の本だった。わたしの心を震わせ、わたし自身を見つけたと胸に抱えて安堵した物語。その主人公に浴びせられる、現実の人々の厳しい言葉の数々。あの少年がわたしだというのなら、わたしはきっと不快で見苦しい人間なのだろう。もしかしたら、綱島さんたちのことも苛立たせてしまっているのかもしれない。
「秋乃、どうしたの?」
 不審そうに、綱島さんが聞いてきた。わたしは慌てて視線を落とす。箸があまり進んでいないことを、不思議に思ったのだろう。
「あまり、食欲がなくて……」
「ダイエットとかなら、やめておきなよ。秋乃、既に超ほっそいから」
 そう言って、綱島さんは笑う。
 わたしは、そのくすくすと漏れる声の透明感が好きだった。機嫌の良いときの綱島さんは、本当に綺麗でモデルみたいで、自然と吸い寄せられてしまう不思議な魅力を持っている。髪が長くてさらさらで、同じシャンプーを使いたくて憧れる。どんな服を着ても似合っていて、休日はどこへ行こうかって、みんなを引っ張る行動力に、わたしは頼りっぱなしだった。
 本当に、物語に相応しい人で、だから溜息がでる。
 わたしは、あなたのように、生まれたかった。
「ダイエットといえばさ、駅ナカにできた、あのアイスクリーム屋、めちゃくちゃ美味しかったよね!」
 綱島さんの綺麗な横顔を見つめたままぼうっとしていたら、佐々木さんの声に意識を引き戻された。
「ああ、そうそう、めっちゃうまかった! リカち、二つも食べてたもん、ダイエットするんじゃなかったのかよーって」
 北山さんが続き、その言葉に綱島さんが唇を尖らせる。
「ダイエットは先週で終了」彼女はふてくされたように頰を膨らませた。「いいじゃん、美味しかったしさ。やっぱり冬に食べるアイスは最高だよねぇ」
 わたしは、そう盛り上がる彼女たちのやりとりを耳にして、眼を白黒させていた。いったいなんの話だろう。記憶を探っても、ここのところ、みんなと一緒にアイスクリームを食べに行ったことなんてない。駅ナカに新しくできたお店、というのは、前に聞いたことがある。それなら、休日に、みんなで遊びに行ったということなのだろうか? わたしのことを、誘わないで? そんなこと、今まで一度もなかった。
 ううん、もしかして、それは、ただわたしが無知で間抜けだっただけで、今までに何度も何度もあったことで──。
「あの」わたしは震える唇で呟く。そんなことを確かめてしまうなんて、愚かなことだと、そう思いながら。「その、アイスクリーム屋さんって……。わたし、知らなくって」
「ああ、そういえば、秋乃はいなかったっけ」
 綱島さんは、屈託なく笑った。なにか思い出し笑いをするように、女の子たちがくすくすと声を漏らす。わたしには、その笑い声がとても恐ろしいものに聞こえた。
「そっか。みんなで行ったんだ」
 声を掠れさせながら、呟く。綱島さんたちは頷いた。昨日の日曜日も、一昨日の土曜日も、わたしは家にいた。簡単な仕事の手伝いをさせられたけれど、友達に誘われたと言えば、両親はきっと時間をくれただろう。
 これは、なんの罰なのだろう。そう考えて、すぐに思い当たる。わたしだって、みんなと一緒に帰宅することを選ばず、真中さんと話をするために図書室へ向かうことがある。どちらかの友達を、蔑ろにしなくてはならない。
 だって、きっと両方を選ぶことはできないのだから。
「あきのんも誘ってあげたかったけれど」くすくすと、佐々木さんが言葉を続ける。「でも、あきのんには、似合わないじゃん?」
 どういう意味かわからなかったけれど、わたしはどうしてかつられたように笑ってしまう。わたしには似合わない。たとえば、おしゃれな服に着替えて、友達と電車に乗って、冬の寒い時期に、アイスクリームを食べて笑い合うこととかが、わたしには似合わない?
 みんなは、いつの間にかそのときのことを話題にして盛り上がっていた。わたしはお弁当箱の蓋を閉ざして、ちょっとトイレに行ってくるねと声をかけた。いつも通り、綱島さんがトイレへ行くときと違っていて、あたしも行くー、と言ってくれる人なんて誰もいない。
 顔が、くしゃくしゃになりそうだ。
 あなたのことを書きなさい。
 去年の春に、国語の授業でそんな課題を出されたことがあった。原稿用紙に何枚も自分のことを書く。自伝を書くように、今までの自分と、そしてこれからの自分の目標を書いてみなさいと先生は言っていた。その話を耳にした鈴本先生は笑っていた。そういう本、売っているのを見たことがあるよ。きちんとした文庫本なんだけれどね、まっしろで、中身はなんにもないの。ノートと変わりなくて、あれは図書室の書架に収められないねぇ。
 もし、自分のことを書いた文庫本があるのだとしたら。
 わたしはトイレの個室に籠もり、必死になって堪えようとしている、このくしゃくしゃで薄汚い顔と、それを同じようにしてやりたい。
 わたし、という名の文庫を手に取り、指先に力を込めて。
 新聞紙を丸めて捨てるようにすべてのページを歪ませ、そうして何度も何度も千切っては、汚物を受け入れるためのこの便器の中へと、流し捨ててやりたかった。
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登場人物紹介

千谷一也(ちたにいちや)……売れない高校生作家。文芸部に所属


小余綾詩凪(こゆるぎしいな)……人気作家。一也の高校へ転入


成瀬秋乃(なるせあきの)……小説を書いている高校一年生

真中葉子(まなかようこ)……秋乃の中学時代の同級生

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