第一章

文字数 11,929文字

 さて、よく晴れた土曜の昼下がりである。お茶にはもってこいの日和。もちろん犬とは全く関係ないのに、なぜこの題? とお思いの読者のあなた、それが今回の物語だ、とくとごらんあれ。
 オースチン校の司書にして十二世紀から続く魔女の家系に生まれたネクロマンサーである主人公のウィリアムは少しばかりそわそわしながら、下宿の自室で鏡をのぞき込み、髪を梳かし、襟元を整え、迎えが来るのを待っていた。
 今日はレディ・ノックビルつまりジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の妹モードリンにお茶を呼ばれているのだ。そわそわしているのはもちろんモードリンのお茶会がとても光栄なことで、とても楽しいからでもあり、おしゃまな双子のマッティ&オルウェンに会うのも楽しく、また可愛いアーサー・ロビンに会うのも嬉しく、はたまた仲良しのスコット君と会話をするのももちろん好ましいからなのだが、だがなんと言っても昨日、スコット君がモードリンの「ぜひ明日、お茶に来てちょうだい」という言付けを伝えた際に、「明日の昼過ぎに僕がお迎えに上がります」と告げ、さらに「すみません、義兄もたぶん同席するとは思うのですが」と付け加えた一言がそわそわの原因と自覚しているウィリアムだった。そのことが胸の高鳴りを喚起し、そのためさらに立ち上がって部屋の中を歩き回り、鏡の前に行っては覗き込み、またソファに座ってはどきどきし、もう一度立ち上がり、すなわちこれ悪循環に陥っているのである。
 なぜこんなに胸が高まるのか……歩きながらウィリアムは思う。
 それはこのところ、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵がなにやら忙しくしていて、ほとんど一緒の時を過ごしていないからで……。
 こないだもジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はいきなり下宿にやってきて、下宿の女将ネリー夫人が焼いたミンスミートパイをむしゃむしゃと食べ尽くし、紅茶を一気飲みし、「ではまた会おう、ウィリアム」と一言残し、嵐のように過ぎ去っていった。片づけをした執事のヘンリーはすまなそうに「ウィリアムさま、申し訳ありません、ご主人さまはこのところ、所用で忙しくしておりまして」と言い訳したので、ウィリアムは「所用ってなんですか、ヘンリーさん」と尋ねた。するとなぜかヘンリーは顔を背けて、「その、まあ、いろいろでございます、お仕事とか」と答えた。ウィリアムはその時「男爵は仕事をしているのか」と仰け反って驚いたものだった、たぶん読者の皆さまも驚かれたでしょうが。
 まあ、確かにお貴族さまと言えども、領地からの収入でのんびりとやっていける時代ではない今日この頃だ、株を動かしたり、会社を経営したりは当たり前、しかしジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の変人ぶりに、とてもじゃないけどそんなことは出来るはずもないと思っていたウィリアムで、たぶん読者の皆さまもそう思われていたでしょう。だが実は、人狼にしてヴァイキングの子孫、そしてとてつもない変人のジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の仕事とは……それは今回の物語には関係ないのでまた次の機会に。ともかくそわそわしているウィリアムの本心、それは「男爵に会いたい」。
 自分からそんなことを思うなんて、とウィリアムは戸惑っている。いつだって、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の顔を見るとどきどきし、どう振る舞ったらいいか解らず困り果ててしまう。けれどそれは、男爵のことが嫌いではないがすごく好きなわけではなく、単に苦手なのだからと思っていた、つい最近までは。ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はいつもウィリアムに会うと「会いたかったぞ、可愛いウィリアム」と言う。それがお世辞かどうかは知らないけれど、いや、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はお世辞を言うような人間ではないから、お世辞ではないと思うけれど、とにかくウィリアムは「僕もです」返したことは一度もなく、またそう思ったことも決してない、と思っていた、つい最近までは。
 なのに、なのに、僕はいったいどうなっているのだろう、とウィリアムは思う。ついこの間、もしかしたら自分はジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が好きなのでは、ともうちょっとで思うところだった、でもそれは違った……とまた思う。
 じゃあなんでこんな胸が高鳴るのだろう? そうだ、きっとそれは、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵に迷惑をかけられることを恐れているからに違いない!
 いい理由を思いついて、ウィリアムはほっと胸をなで下ろす。
「そうだ、そうに違いない!」
 読者の皆さま、以前、「ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は狼の時のほうが素直」と申しましたが、こうしてみると、ウィリアムも意外に素直ではありませんね。まあ、ですから恋はすれ違い、お話は面白くなるのですが。
 それはともかく、そうウィリアムが結論づけた瞬間、がたがたと(わだち)の響きが窓から聞こえてきた。
 そしてそのうち、とんとんとノックの音。
「ウィリアムさん、お迎えに来ました」
 約束していたスコットの声だ。
 ウィリアムは山高帽を頭に乗せると、勢いよく扉を開けた。
「スコットくん、では行こうか」
 スコットはウィリアムが輝くばかりの笑顔で自分を出迎えたのを見て、しっかり誤解してしまう。しかしそれは無理もないというもの、誰だって想い人が棲む家の扉を叩き、間髪を入れず扉が開いて、輝く笑顔に出迎えられたとしたら……そりゃ、誤解しますって。スコットも満面の笑みを浮かべて姫に謁見する騎士のごとく、ウィリアムに腕を差し出した。
「どうぞ、ウィリアムさん」
 ウィリアムはちょっと戸惑ったが、払い除けるわけにもいかず、その手を取って一緒に歩き出す。だがすぐにその歩みは止まった。目の前に停まる馬車には見慣れた紋章、そして扉を開けて待っているのは……。
「ヘンリーさん!」
 まさか、まさか中に男爵が? ウィリアムの心臓は口から飛び出しそうになる。
 するとヘンリーは深々と頭を下げる。
「スコットぼっちゃま、ウィリアムさま、どうぞ。ご主人さまはただいま所用で別の馬車をお使いでして、私はモードリンさまのご指示で、まずはオースチン校に向かい、スコットさまをお乗せしたうえ、こちらへ出迎えにあがったのでございます」
 とりあえず男爵が乗っていないと知り、ウィリアムはほっとため息を漏らす。いきなり会うことは想定していなかったので、どんな顔をしていいか解らなかったのだ。このため息でスコットの誤解はさらに深まる。ウィリアムを安心させようと、「ウィリアムさん、義兄はお茶会に出席しませんからご安心を」と耳元で囁いた。
「え? いない?」
「ええ、義姉(あね)がそう言ってました。ですから落ち着いてお茶がいただけますよ」
「そ、そうなのか……」
 ちょっとがっかり、ではなくて、うんとがっかり、ウィリアムの心臓は今度はずしんと重くなる。
 いや、でも、お茶会の途中で帰ってくるかも知れないではないか。かすかな期待にウィリアムは微笑む。すると、その笑顔を見たスコット君は……ああ、読者の皆さま、もうおわかりですね? スコット君の誤解はさらにさらに邁進して……まあ、ともかく、そうやって二人は馬車に乗り、ノックビル伯爵の別荘を目指した。
 別荘と言っても、我々の想像するような田舎にある仮の住まい、的なものではない。
 そもそもイギリスの貴族は領地にカントリーハウスなる住居を持っていて、それと別にロンドンにはタウンハウスを持っている。その中間地点の住居が別荘で、モードリン奥方は古くさいカントリーハウスやごみごみとしたロンドンのタウンハウスよりなによりハイゲイトにあるこの別荘がお気に入りで、1年のほとんどをここで過ごしている。なので別荘と言うよりは自宅というほうがいいかも知れない。なのでそりゃあ居心地よくしつらえており、たくさんの客人がここに招かれて逗留する。ウィリアムとともにスコットランドで大冒険をしたDrコナン・ドイルもしゅっちゅう招かれている。本日のゲストに名前は挙がっていないが。
 ウィリアムはモードリン奥方の大のお気に入り、いつもウィリアムが到着するとモードリン奥方は大喜びで迎え入れる。奥方は知的で礼儀正しく物静か、そして奥方の言うことにきちんと耳を傾ける男性が大好きなのだ。夫であるユーライア・ヒーラムのような、またはウィリアムのような。つまりは兄であるジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵と正反対の男性と言ってもいいかも知れない。
 そんなわけで、楽しいドライブの末に「鶯荘(フィロメルコテージ)」(奥方がつけた別荘の愛称)に到着すると、ウィリアムはモードリン奥方の歓迎を受けた。
「ウィリアム、久しぶり! もっと頻繁にいらしてよ」
 ウィリアムは恭しくモードリン奥方の手を取って「ありがとうございます」と答える。
「スコット、あなたもウィリアムをもっと誘ってちょうだいな」
「もちろんですとも、義姉上」
 スコットは密かにガッツポーズをしてしまう。これでウィリアムさんをお誘いするお墨付きを得たのだ。ところがスコットの幸福をうち砕く言葉がモードリンの口から出てきた。
「あ、それはそうと、スコット、これからマウントバッテン卿の元へ手紙を届けてくださらない? ユーリがどうしても今日中にと言うのよ」
「えっ、これからですか?」
 これから楽しいお茶の時間なのに、とスコットは青くなる。
「ええ、とても重要なので、召使いに頼むわけにはいかないし。安心して、お茶はゆっくり始めるから」
 わかりました、とスコットはウィリアムを横目で見ながら答える。
「ではすぐに!」
 そう、早くでかければ早く帰れる、お茶に間に合う! というわけで、スコットは脱兎の如く入ってきたばかりの玄関から飛び出していってしまった。
 ウィリアムはモードリン奥方の手を取ったまま残される。
「ウィリアム、こちらで待っていてちょうだい」
 モードリンが案内したのは応接間だ。ちょうどそこには外出着のマッティ&オルウェンがナニーと一緒にいるところだったので、さあ、大騒ぎがもう数分続くことになった。
「ウィル、ウィル、ずいぶんとご無沙汰じゃないの!」
「ウィル、なんで来なかったの?」
 モードリン奥方は双子にウィリアムを取られてしまう。双子は両方からウィリアムの手を引っ張り、口々に話しかけた。
「そうだ、きっと伯父ちゃまのせいよ!」
「そうだわ、伯父ちゃまのせいだわ!」
「伯父ちゃまはそりゃあウィルにしつこいのよ」
「そうよ、ウィルにべたべたして。感じ悪い!」
 ウィリアムは頬を紅潮させ、ここで双子はスコットと違う反応を見せた。なんと言っても双子は女の子だ、たとえまだ幼くても。男女の機微に関しては(もちろんこの場合、男・男なのであるが)ずっと叔父であるスコット君より進んでいるのだ。赤くなったウィルを二人はじっと見つめる。
「ウィル、なんで赤くなるの?」
「そうよ、なんで赤くなるの?」
「伯父ちゃまがしつこくするのはいやじゃないってこと?」
「そうなの、嬉しいの、ウィル?」
 幸運なことに、そこでモードリン奥方が救いの手をさしのべた。
「さあさあ、二人とも、お出かけの時間よ」
 双子は途端に口をとがらせ、ぶうぶうと文句を言い立てる。
「あたしたちもウィルとお茶をしたいわ」
「そうよ、お母さま、同席したいわ」
 だめだめ、とモードリンは二人をウィリアムから引きはがした。
「二人とも、公園でモルダヴィア侯爵夫人と待ち合わせているのでしょう? 一緒にお茶をする時間はありませんよ、早く行きなさい」
 そう、双子は公園でモルダヴィア侯爵夫人および孫娘のエリザベスと待ち合わせをしているのだった。モルダヴィア侯爵夫人は社交界のご意見番、約束の時間に遅れることはご法度。ただでさえ変人の兄を持つモードリンである、これ以上の失点は許されないとばかり、ナニーに注意を促す。
「さ、いってらっしゃい。メアリー、お願いよ」
「かしこまりました、奥様」
 ナニーのメアリー・アンドリュースはひょろりとした身体を恭しく奥方に折り曲げる。このナニーに双子は頭が上がらない。なんとなれば、寝付くまでベッドサイドでメアリーは大変興味深い本を読んでくれる、メアリーの言うことを聞かないと続きを読んでもらえないわけで、これがメアリーが双子を意のままに操れる理由なのだ。おかげで双子はかなりおませになったのだが、それはまた別の時に詳しくお話ししよう。
 それでも双子は食い下がる。
「じゃあ、ウィリアムも一緒に行けばいいわ」
「そうよ、一緒に行きましょう」
 そこでメアリーは再び細い身体を折り曲げて、双子の耳に何かを囁いた。
 とたんに双子はぴょんと跳び上がる。
「そうね、親友のエリザベスを待たせるなんて出来ないわ!」
「そうよ、早く行きましょう!」
 双子は頬を紅潮させ、メアリーの手を逆に引っ張る。そしてはしゃいだ様子で出ていった。
 あまりの変化に呆然とするモードリン奥方だったが、これにはわけがある。もちろん奥方にはとても言えないことなので、こっそりとあなた方だけにうち明けましょう。
 メアリーは双子にここから馬車で一時間ほどのところに見世物小屋がかかっていることを教えたのだ。そして、社交界のご意見番でありながら実は革命的な思想の持ち主モルダヴィア侯爵夫人が、エリザベスを見世物小屋に連れて行くと約束していることを。それってつまり、エリザベスと一緒に双子も見世物小屋に入れるかも知れないでしょう? だから約束に遅れないほうがいいと思うわよ、ね? と囁かれたらあなた、普通急いで出発するでしょう。とまあ、若干手段を選ばないのは気になるが、メアリーの操縦法は素晴らしい。モードリン奥方もそれには満足しているので、にっこりした。そして「ウィル、もう一方、とても楽しいかたをお招きいるのだけれどよろしくって?」と尋ねた。
「僕の方こそ、平民ですからご一緒させていただけるのですか?」
 ウィリアムは礼儀正しく応じる。
「もちろんよ、あなたは兄を正気に戻してくださった大事な恩人、私の友人だったら誰でも会う資格があるに決まっています。今日のお客様は特に。だって私の母方の叔母の連れ合いですもの」
 ちょっと複雑な血縁関係なので、ここで説明しておきましょう。
 ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の父はもちろんハンター家の先代当主、言わずと知れた狼の血筋だ。だがこのかたはあまり狼の血が濃くなかったらしい、生涯変身したことはなく、ごく普通に領地とロンドンとを行き来し、社交界でジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の母となる時の大臣サー・オリヴァー・スタントン氏の令嬢・エンマと恋に落ち、結婚した。ハンター家当主ショーンが狩猟が好きだったのは、たぶん、狼の血が少し流れていたせいだったのかもしれない、なんとなればその「好き」がちょっと度を超していた。エンマはそのことを知らずに恋に落ちたわけで、だってロンドンでは狩猟の機会はなかったから。
 結婚してスコットランドの領地に渡ったエンマはすぐに夫の狩猟癖に嫌気がさしてしまった。実はエンマはたいへん動物好きで、あまり狐だの鹿だの兎だのを殺戮する話は聞きたくなかったのだ。
 そしてショーンはある日、狩りの最中に銃が暴発して亡くなってしまい、エンマはすぐさまロンドンに戻った。田舎暮らしも夫の命を奪った狩猟も二度と経験したくなくて。
 というわけで、エンマは今、パリに住んでいる。フランスの百貨店経営者と結婚した妹とともに。
 そしてその妹の連れ合いであるパリの有名百貨店オーナーがお茶に招かれているというわけ。
 百貨店経営者、あんまりウィリアムの興味は惹かないが、ウィリアムはきちんとした社会人なので、にっこり笑って「とても面白そうな職業のかたですね」と答えた。
「そうなのよ、何しろモードの街パリでしょう? パリで最先端のものを扱っているので、今、パリで何が流行っているかお話を聞くのがとっても楽しみ!」
 要するにモードリン奥方にとって「楽しいかた」なのだった。それでもウィリアムは落胆することなく、「それはとっても楽しみです」と礼儀正しく答えた。そして何気なく「お一人でいらっしゃるのですか? 奥様は?」と尋ねた。
「ええ、だって叔母は兄と一緒ですもの」
 え? とウィリアムは聞き返した。
「男爵とですか? お二人はどちらに?」
 何気なく発した質問にとんでもない答えが返ってきた。こんな答えが返ってくると知っていたら、ウィリアムは決して尋ねたりしなかったろうに。
「フォクストン伯爵のところよ。兄は見合いなの。叔母がセッティングしたので、叔母も一緒に行ったってわけ」
 ウィリアムは自分の耳を疑った。そして震える声で「男爵が、なんとおっしゃいました?」ともう一度確かめた。
「お見合いなのよ。この前、フォクストン伯爵の夜会で出会ったご婦人と意気投合しちゃって。兄には珍しいことなので、すぐに叔母がお膳立てしたのよ。だってもういいかげん、結婚しなくては」
 モードリンは朗らかに言い、同意を求める。
「でしょう? いい年をして、妹のところへ入り浸って、家庭が欲しいなら自分で作らなくてはねえ」
 ウィリアムは周りの景色がゆらゆらと揺れるのを感じた。だがすぐそれは、周りが揺れているのではなくて、自分が揺れているのだと悟った。
 なんで、なんでこんなにショックを受けているのだろう……。
 もちろん答えは解っている、それはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が見合いをするせい……。
 ウィリアムの足は自然に止まり、モードリン奥方は一歩先に出て引き戻される格好になった。
「ウィリアム、なあに?」
 モードリンの笑顔は和やかで、ウィリアムはまともに自分の顔を見せられない。だってとっても歪んでいるだろうから。
 下を向いて、なんとか「その、お茶の時間まで、図書室を見せていただいてもいいでしょうか」と言葉を発した。
 もちろんウィリアムがオースチン校の司書であるから誰が見ても本が好きに決まっている、さらにスコットからも「ウィリアムさんはたくさんの本を読んでいてたいへん物知り」と聞いている、モードリン奥方である。
「もちろんですとも! 好きなだけ見てちょうだい」
 奥方の許可を得て、ウィリアムは図書室へと向かった。
 その間も考えるのはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵のことだけ。
 そういえば、ヘンリーさんは「ご主人さまは別の馬車をお使いです」と言っていた……叔母上と一緒に馬車で見合いの席へと向かったのだ。ヘンリーがなにやら言葉を濁したのはそう言うわけだったのか、と今にしてウィリアムは思い当たる。
(僕に内緒で……)
 図書室に入ると、ウィリアムは椅子に腰をかけ、両手で顔を覆った。
 内緒も何もない、ウィリアムに断る必要などないのだもの、男爵がなにも言わずに見合いに行くのは当然だ。ヘンリーだってウィリアムに報告する義務などない。
 ウィリアムは胸にきりきりと剣を差し込まれたかのように感じ、椅子の上で頭を膝に付けんばかりにぎゅっと身体を丸めた。
 目と鼻の奥がつんと痛くなり、涙が指の間から溢れ出す。胸の痛みはどんどん激しくなり、ウィリアムは唇を噛んでこらえる。
 ウィリアムは今、自分がひどく悲しんでいることを自覚した。
 悲しい? なんで?
 もちろんジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が結婚するからだ。
 ウィリアムは拳でぐいと両目を擦った。
「なんでこんなに悲しいんだろう……あの人は貴族、当たり前のことだ。爵位と領地を子供に残さなくてはならないのだし」
 いや、貴族の世襲、それとはまた別問題だ。
 ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の結婚は、ウィリアムには全然関係のないこと。ウィリアムは平民で、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が貴族、というだけじゃなく。
 どころか約束を交わした相手でもないのだから。
 だいたい両方とも男性じゃないか、とウィリアムは思った。
 もちろん男女の恋人同士がするようなことをたくさんしてはいるが……。
 だからといって、恋人同士ではないことは事実。
 あの行為は気持ちよくて、そして男爵の逞しい腕に抱かれると胸がじんと熱くなって、なんだか幸せになるけれど……終わったあとの単なる反射にすぎない。と思う。だって。決して恋人同士じゃないのだから。
「あれは人間に戻る手段。それだけなんだから。僕だってあの人のことなんか、これっぽっちも好きじゃない」
 ウィリアムはぶんぶんと首を振り、目の前の本棚を見つめた。いつもなら背表紙に何が書いてあるのか飛びついて見るのだけれど、今は涙でぼやけて何一つ読めやしない。
 どんなに理屈をつけても、悲しいことは事実なのだ。
 もちろん聡明なウィリアムは本当の理由に気づいていた。ちょっと素直でないゆえに認められなかったあの感情が、自分を悲しませているのだと。
 それは。
 この前、もうちょっとで認めそうになったあの感情。
 愛。
 そんな馬鹿な、といくら否定しても、今やウィリアムは気づいてしまった。
 いつからかは知らないが、男爵のことを愛していると。
 でなければなんでこんなに男爵が結婚すると知って悲しくなるだろう?
 あんな傲慢で、自己チューで、変人で、乱暴で、それからええと、半分狼なのに。なのに、愛している。
 いいや、「なのに」は正しくない、なぜって、愛はすべてを受け入れるから。
 この場合、文法的には「でも愛している」かな、などと理性的なウィリアムはちらりと思ったりする。
「なんで今頃……この前、あんなに冷たくしなければ良かった」
 自分を抱くのは単に性欲・獣の本能、と思って、非難してしまった。
 それ以来だ、男爵はたまにしか来なくなった。来ても慌ただしく帰り、ウィリアムをベッドに連れ込むことはなかった……。
 そりゃあそうだろう、満月でもないし、それに見合いの相手がいるのだもの。
 平民でしかも男であるウィリアムとそんなことをする必要がなくなったのだ。
 しかし、ウィリアムはそこまで考えて、一つの結論を導き出した。
「あの人は結婚するんだ、これでいい。忘れよう」
 もう男爵の奇行に翻弄されることはないのだ、かえって良かったじゃないか。
 そう思っても、拳で拭う先から涙が頬を伝う。
 ウィリアムは嗚咽を漏らした。
 するとコツコツ、という音が聞こえ、ウィリアムは顔を上げる。
 ちょうど真向かいに庭へ出るための大きなガラス扉があり、そこからアーサー・ロビンが目を丸くしてこちらを見ていた。
 ウィリアムと眼があった途端、すぐに扉を押し開け、入ってくる。
 アーサー・ロビンは襟と袖口にフリルのついたシャツにチョッキを重ね、半ズボンとすねまでの靴下を履いていて、まるで小さな騎士のようにウィリアムの足元に跪く。そしてウィリアムの手を取り、心配そうな眼で見上げた。
「アーサー・ロビン君、どうしたんだい、こんなところに」
 ウィリアムは涙を隠し、わざと明るい声で尋ねる。
「ちょうど勉強が終わったので、庭に出て休もうとしたところです。それよりウィリアムさんこそ、どうされたんですか? なにかあったのですか? 僕に出来ることはありませんか?」
 ウィリアムは弱々しく微笑んで、アーサー・ロビンの手を握り返した。
「アーサー・ロビン君、もう立派な紳士(ジェントルマン)だねえ。まだまだ小さいと思っていたら」
「そんな、もう子供ではありませんよ。だってもうじきオースチン校に入学するのですから。スコット叔父さまやウィリアムさんに恥ずかしくないようにしなくてはいけませんからね」
 張り切って答えるアーサー・ロビンにウィリアムは再び微笑んだ。初めて会ったときのことを思い出す……。あのとき、兄を心配したモードリン奥方は、アーサー・ロビンを伴ってスコットランドへ赴いた。まだまだ幼いアーサー・ロビンをロンドンに残しておけなかったのだ。そして兄の気がふれたのかと悩み、城にとどまることを決心した。そこにウィリアムがやってきて呪いを解いたわけで……。そこからウィリアムはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵を連想してしまい、またしても涙が目に浮かぶ。
 あの恐ろしい事件をきっかけになって、ウィリアムはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵と心が通ったと思った瞬間が確かにあった……「あった」、過去形だ。もう彼の心がウィリアムには解らない……いや、そもそも自己中心的な人物だ、最初から理解出来るわけもなかったのだ。つまりは単なる思いこみ、言うなれば独り相撲だったのだ。ウィリアムはうなだれる。暗い声で呟いた。
「アーサー・ロビン君、なんでもないんだ、ちょっといろいろ考えていることがあって……」
 アーサー・ロビンは眉を顰め、首を伸ばしてウィリアムに顔を近づけた。いつも優しく微笑んでいるウィリアムさん、なにか大変なことがあったに決まっている。絶対に。
「何か悲しいことがあったのですか?」
「いいや、そうじゃない……」
 ウィリアムはぎゅっと目を瞑り、首をぶんぶんと振った。
 と、その動きはアーサー・ロビンが顔を近づけるタイミングとちょうどシンクロし。
 まさにその瞬間、二人の唇が触れ合った。柔らかなアーサー・ロビンの唇と、艶やかなウィリアムの唇が。
「あっ」と声を出したのはどちらだったのか。
 だが続いて「うそっ」と叫んだのはウィリアムのほう。なんとなれば……。
 アーサー・ロビンの栗色の髪はどんどん伸びて顔を覆っていく、つぶらな瞳はそのままだけれど、鼻は顎とともに前方に突き出し、先端は石炭で汚れたように黒くなり、髪の毛に隠れていた耳は三角に尖って眼に触れるようになり、シャツの袖から出ていた手は指が短くなって丸くなり、甲からは髪の毛と同じ栗色の毛が生えてきた。そして着ていたシャツは身体に合わなくなって下に落ち……もちろんズボンも。
「アーサー・ロビンくんっ」
 ウィリアムの目の前には、栗色の小さな犬がこちらを見上げて座っていた。
 いや、犬じゃない、たぶん子供の狼、とウィリアムは真っ青になる。
「な、なぜ……」
 アーサー・ロビンだった小さな狼は、初めきょとんとしていたが、自分の身体をじっくり見る。そして背中の毛を逆立てていきなり自分の胸に向かって唸りだした。
「しっ、アーサー・ロビンくんっ」
 慌ててウィリアムはアーサー・ロビンの口を押さえた。
「な、なんとかしなくちゃっ」
 アーサー・ロビンにはモードリンを通じてハンター家の血が流れている、となれば、狼に変身することもあり得る、理性的にはそう考えられるが、それにしても今、なぜここで、そういった思いが頭をよぎった。だがそんなことを考えるよりもまず成すべきことがある、と瞬時にウィリアムは決意し、服ごとアーサー・ロビンを小脇に抱えた。
「ちょっと我慢しててくれ!」
 アーサー・ロビンが入ってきた扉を押し開け、庭へ出ると、辺りを見回しながら走り出す。目的地はもちろんあそこだ。


 ハンター家の紋章のついた馬車は門の脇に停まっていた。
 ヘンリーはチョッキのポケットから懐中時計を取り出すと、時間を確かめる。そろそろお茶が始まる時間だ。
「我々も少しばかり休憩いたしましょうか」
 御者に向かってヘンリーは声をかけた。そして鶯荘の裏口へと身体を向けたとき。
 お屋敷を囲む塀の影にウィリアムの姿を認めた。
「ウィリアムさま、どうされたのですか?」
 ウィリアムは「しっ」と指を口に当てる。すると狼の口が自由になって、うーっという唸り声が響いた。ヘンリーはウィリアムの抱えている生き物に目を留め、「かわいいわんちゃんですね、どこでお拾いになったのですか?」と屈託なく問いかけた。
「違うんですっ、ヘンリーさんっ」
 もう一度狼の口を手で塞ぐと、ウィリアムはヘンリーの元へ駆け寄る。御者に聞こえないよう小声で「これはアーサー・ロビン君なんです」と告げた。
「え……」
 さすがのヘンリーもすぐに言葉を発することが出来ず、固まった。だがすぐに「了解です」と馬車の扉を開ける。
「とりあえず中にお入りください」
「ありがとうございます!」
「なんの、ハンター家をお守りするのがわたくしの勤めでございます故」
 ウィリアムはアーサー・ロビンを抱えたまま、馬車に飛び込む。そしてほっとため息をついた。
 仔狼はぶるぶる震えていて、ウィリアムはぎゅっと抱きしめてやった。それでも震えは治まらない。
(初めての変身だもの、何がなんだか解っていないに違いない)
 そう、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵もそうだった……混乱して人間の理性を失い……。
(なんとかしなくちゃ)
 するとヘンリーが窓から顔を突っ込む。
「ウィリアムさま、どういたしましょう」
「とりあえず僕の下宿へやってください」
 それがいいでしょう、とヘンリーは頷いた。

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登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

アーサー・ロビン。

ジョン・ウルフの甥で、こちらは心優しい小さな紳士。

九条志門

日本の熊野から来た留学生。
南朝の血を引く巫女の家系で、動物の言葉が解る。

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