第10話

文字数 4,151文字

 その晩、丹野は頭痛のひどさに何も食べられず、缶ビールを1本だけ飲んで、ベッドに横になっていた。横になっていると、頭痛が多少軽減される気がするようである。彼はいろんなことを考えては独り言として呟いた。
「貯金は今、150万くらいあったかな。これから節約して貯金して、結衣との結婚資金に充てるんだ。その為には、今からでも禁煙して、タバコ代をケチらなきゃな」
 そんなことをしながら、独り言は自然と転職のことにも及んだ。
「転職は職安行って、考えていかないとな。自分には何ができるだろうか。介護畑をずっと歩んできてて、転職口なんてあるんだろうか。資格取った方がいいかな?」
 メールの着信音がなったのは、転職のことを呟いて間もなくのことだった。ベッドから起き上がり、スマホを手にする。
「久しぶり。俺とうとうクビになっちゃったよ。でも、やってしまったことがことだけに、仕方ないかなって感じがする。ところで、一度飲みにいかない?」
 そんな文面のショートメールを送ってきたのは、青嶋だった。丹野は心拍が上がるのを感じた。飲みに行く分には問題ないだろうが、何故か躊躇いを覚えた。何と送ろうか迷い、
「分かりました。時間ができたら、飲みに行きましょう」
 と短文を青嶋に送った。今日は飲みに行っていいのかを判断するだけの力が残っていないと感じたからこそ送った短文だった。時間は指定せず、いつか忘れるだろう印象のない文体を選んだ。この作業を行うと力尽きたのか、ベッドに倒れ込み、そのまま朝まで寝てしまった。

 翌朝起きると、頭痛は治まっていて、すんなりと起きることができた。スマホを見ると、11時を回っていた。何時に寝たのか忘れてしまったが、相当寝たことに変わりはない。空腹感に襲われ、冷蔵庫を覗くと、ビールなど酒の類以外はバナナしか見当たらない。有無を言わずにバナナの皮を剥き、食べ始めた。しかしながら、当然それだけでは足りない。彼はコンビニに行って、弁当を買ってきた。早速頬張ると、あっという間に平らげてしまった。それから、スマホをチェックし始めた。すると、ポータルサイトに転職サイトのバナー広告を見つけることができた。赤を基調にした派手な広告で、「これからは転職の時代だ」とフレーズが踊っている。丹野は思わず、そこに指を伸ばして、タップした。すると、転職サイトに遷移した。勢いのまま新規登録と書かれた部分をタップした。いくつか質問があり、メールアドレスや現在の職業、年収などその全てに彼は丁寧に答えていった。それはまるで何かに取り憑かれたようであった。


 それらの作業を終えてから、転職情報を一通り見終えたのは夕方になってからであった。丹野は絶望に襲われていた。というのも、ほとんどの企業が即戦力を求めて、経験者や資格取得者を狙い目にしていたからである。30歳以上で未経験可の仕事というのは、数えるほどしかなかった。丹野ほどの年の頃になると、第二新卒にも入れてもらえない。その現実は残酷で、丹野を容赦なく奈落の底へと突き落としていった。


 しばらく、机に向かって突っ伏していたが、派遣会社の社長である岡田が丹野に残した名刺があるのを思い出した。急いで鞄の中、財布の中を探した。藁にも縋る思いで、電話をかけてみた。何度も呼び出し音がなるが、本人の出ないままに、「留守番電話サービスに接続します」というアナウンスが流れた。すぐさま丹野は電話を切った。相手の電話に着信履歴が残っているから、リダイヤルしてくれることを願った。


 スマホの画面を見ると、メール通知がされていた。誰だろうと思ったが、通知の画面をスワイプして、無意識に押し出していたことに後になって気が付いた。ライン全盛の昨今、メールを送ってくる人物は限られていたが、改めて確認する。メールの主は青嶋だった。
「都合良かったら、今日飲みにいかない?」
 素っ気ない文面だったが、彼が丹野を求めていることは明白だった。昨日とは違い丹野には迷いがなかった。すぐさま、「はい、行きましょう」と返信した。

 丹野が住む町の地元の駅には小さなロータリーがある。タクシーが2台とバスが1台停まっている。そんな小さな駅前の真ん中にあるモニュメントの下に2人は待ち合わせることにしていた。待ち合わせ時間の五分前に到着したのは丹野だった。まだ青嶋は来ていない。しばらくすると来るだろうと、スマホを見ていたが、待ち合わせ時間から10分経っても彼の来る気配はなかった。その間に電車が到着し、駅から学生やサラリーマンが降りてくる。彼らは一様に疲れた顔をしている。そうかと思えば、ペチャクチャとおしゃべりしている学生の集団も見かけた。その度に丹野は
「俺は、今の暮らしで満足だろうか?」
 と考え込まずにはいられなかった。それからさらに5分経って、ようやく青嶋が現れた。青嶋は巨体を揺らしながら、走ってモニュメントの近くまでやってきた。
「青嶋さん、遅いですよ」
「ごめん、家を出てから財布を忘れたことに気が付いて」
 ごめん、という言葉とは裏腹に、にやけ顔をしていた。
「行きましょう。店はこの近くですからね」
 丹野は駅前に1軒だけある居酒屋に案内した。2人は店員に案内されるままに、奥の座敷席に案内された。靴を脱ぐと、丹野が手前、青嶋が奥に座った。メニューを開き、お互いの好きなものを注文して、最後にビールを頼んだ。
「最近、何して過ごしてます?」
 注文を終えると、すぐに丹野が切り出した。
「何って程でもないけど、仕事を探しながら、デイトレーディングの真似事をしているよ」
「デイトレーディングって何ですか?」
 その問いに青嶋は少し呆れながら答えた。
「そんなことも知らないのかよ。ちゃんとニュース見てる? 要は株だよ、それの取引で儲けようっていうわけ」
話している間に、店員がジョッキ2杯分のビールを持ってやってきた。2人は早速乾杯して、ビールを飲んだ。丹野は4分の1、青嶋は半分程度飲んで、ジョッキをテーブルに置いた。
「ああ、久々に飲むビールは美味いな」
 しみじみと青嶋が呟くと、丹野も
「そうですね、夏のビールは美味いですね」
 と唸ってみせた。そして、すかさず
「そのデイ何とかっていうのは、儲かるんですか?」
と青嶋に尋ねた。
「ハハハ、デイトレーディングだろ。上手くいけば大儲けできるけど、下手すると大損こくかも知れないな。いずれにしても、株の勉強が必要だ。どうやって、売るのか買うのかっていう基礎からだな」
 青嶋のモードは物事を教える伝道師のそれになっていた。伝える相手は丹野だ。すると、注文していた枝豆や卵焼きが店員によって運ばれ、机の上を賑わし始めた。丹野は箸で卵焼きを掴みながら話す。
「1回1回、証券会社に出向いて売り買いするわけでしょ。それって、面倒くさくないですか?」
「バカだな、証券会社なんか行かなくても、ネットで株を売り買いできるんだよ。売るのも買うのもクリック1回でできるってわけ。さらに言うと、株価の上がり下がりもネットで見られるんだぞ。だから株式市況を見て、売り買いして、その日のうちに儲けられるってことだ」
 ここまで来ると、丹野は少しずつ不愉快になってきた。上から物を言われているような気がして、反撃の糸口を探ろうとしていた。
「青嶋さんはデイトレーディングで、儲けられてるんですか?」
「いや、今のところはトントンっていうところかな。今日はたまたま、利益が出たから丹野と飲めてるけど、普段は酒を飲まなくなった。損失を出すのが怖いからな。節約しているよ」
 ここで青嶋は少しだけ弱気な表情を見せた。丹野も少しは溜飲が下がったのか、笑顔を見せるようになった。テーブルにはいつの間にか焼き鳥と刺身盛り合わせが並んでいた。丹野は焼き鳥を食べると、「いつもの店の方が美味いなあ」と思わずにはいられなかった。
「そのデイトレーディングで生計を立てようとは思いませんか?何だかそっちのほうが楽に儲けられそうな気がしますよ」
 と丹野が言った。
「まあ、上手く儲けられたら、デイトレーダーとしてやっていきたいとは思ってる。というのもな、俺みたいな40過ぎのオヤジが新しく就職先を探そうったって、ろくな働き口がない。ブラック企業か、肉体労働が関の山だ。それをするくらいなら、ずるいと言われても、デイトレーディングで稼ぎたいよ。贅沢かもしれないけどな」
 青嶋の巨体にすいすいとビールが入っていく。早くも、ジョッキ一杯分を飲み干してしまった。
「すみません、冷酒お願いします」
 店員に新たな酒を頼むと、青嶋はまだしゃべりたいという風に口を開いた。
「俺だって、好き好んで暴力を振るいたくはなかったよ。気が付いたら、殴っていたという感じだ。葛西さんには申し訳ないと思っている。でも、わざとじゃない。衝動的にしてしまったことだ。それについては、病院のカウンセリングや矯正プログラムを受けている。けど、その衝動が怖いんだ」
 丹野は、青嶋による葛西への虐待によって、大きな迷惑を被っていた。そのことを思い出すと、本来なら青嶋を憎まなければならないところだったが、そのような気には不思議となれなかった。
「衝動が怖いというのは、次の仕事でも暴力沙汰を起こしかねないということですか?」
「まあ、そんなところだ。だから、企業で定時に働くというのが想像できないんだ。できれば、フリーランスで働きたいと思っているのだが、残念ながら、何のアイデアも腕もない。それで行き着いたのがデイトレーディングというわけだ」
 そこまで聞くと、丹野もジョッキのビールを飲み干した。それから、店員を呼び
「すみません、レモンサワーください」
 と新たな飲み物を注文した。それと入れ替わるように、冷酒が青嶋のもとに届いた。冷酒をお猪口に入れると、青嶋はぐいと一気に飲んでしまった。
「それでだな、えっと、どこまで話したかな?」
青嶋が話を忘れてしまったので、丹野も思い出そうとするが、酒が回っていい気分になってしまったのか、
「僕も忘れちゃいました」
 とすっとぼけ、その後は丹野の職場の話や身の上話に花が咲いた。結局店を出る頃には、すっかり酔っ払い、飲み会は上機嫌でお開きとなった。

つづく
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