第13話 雪ねずみ
文字数 3,252文字
アーサーに起こされ、見張りを交代した。
見張り番といっても、火を絶やさぬようにしながら、起きて座っているだけだ。
近くに獣の気配はない。
枯れ枝のぱちぱちいう音と、かすかな風で枝葉がゆれる音が響く。
「……ちょっと考えていたんだけど、」
アーサーが、ためらいがちに口を開いた。
「このまま、とかげ鳥の群れを退治できなかったら、どうなるのかな」
「…そうだね、」
考えたくないことだが、アーサーの不安もわかる。
「テベーとの連絡が絶たれたら…」
「陸路では、あの街道を使わないとどこへも行けないからね。テベーどころか、その先のカボタへも、フルールへも」
「……それじゃ、」
「海路があるから、すぐ日干しになるわけじゃないけど、相当苦しいことにはなるね。それ以上は、なんとも言えないな」
微笑んで、アーサーの肩を抱いてやる。
今度は、うまくいったと思った。
「心配しないで。……カルリア侯爵が、騎士団の出動を要請してみると言っていたよ。いつまでもこのままってことはない。」
普通の声音で、そう言ったつもりだ。
いや、少し、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。
アーサーは、なぜか悲しそうな目でこちらを見返してきた。
「エル。……きみは、」
「シッ!」
黙らせる。
獣の気配だ。
「…二人を起こしてきて。いいね?」
アーサーは無言で肯く。
エルは、剣の柄に手をかけて、すこし離れた斜面の上に目を向けた。
大きな白い影。
雪ねずみだ。
*
雪ねずみが、こちらを狙っている。
本来なら、すぐに散らなければならない。雪ねずみの注意をそらして、少しでも有利な位置取りをするべきだ。
だが、フォスターは、その場を動かなかった。
「アーサー、エル、弓を用意しろ。ルナは下がれ」
短く、命じる。
アーサーはまだしも、雪ねずみ相手にたちまわるのはルナには無理だ。
フォスターは、ルナから5歩ほど離れて守るように立ち、がさごそと音がする斜面の上にむかって槍をむけた。
エルは弓に手をかけ、斜面のうえに神経を集中する。
ぞわりと、ざらついた舌のような気配が背筋を這う。
枝をかきわける音と、白い影が見えるだけだが、雪ねずみの動きははっきりとわかった。
こちらをちらちらと見ながら、木を登ろうとしている。
雪ねずみは器用に木に登る。大きな体をやわらかく伸ばして、体重を分散させるのだ。
たぶん、今、幹に前足をかけたあたりだ。
「まだだ、」フォスターの声。
狙い、即座に射る、その手順をイメージする。そのやり方も、カルナーから習った。
「構えろ、」
弓を向ける。
とたんに、視界がぶれる。
そんなに調子を崩しているのか? 私は。
「射れ!」
フォスターの声と同時に、アーサーがさっと弓をひくのが見えた。
出遅れた、と思う前に、手が勝手に動いている。雪ねずみの額を見すえ、狙い、弓を引き絞る。
そこまでは、すぐにできた。
また、的がぶれる。
ひと呼吸おく。
焦点があわない。視界がゆれる。
いや、
ゆれているのは、私の体だ。
胸の奥──心の臓。
覚悟が決まっていないだけのことだ。
舌をかむ。
ひゅん、とアーサーの矢が宙をかけてゆく。
少年らしい、迷いのない矢だ。
当たった様子はない。
狙いをつけ直そう。
そう思った瞬間、指がゆるんでいた。
矢が逃げてゆく。
尾羽根をはためかせて、闇のなか、一直線に──
かぁん、と鏃が幹につきささる音がした。
「来るぞ、」
かすかに緊張のにじむ声で、フォスターが言った。
ルナは、アーサーにかばわれて雪ねずみの射線からはずれている。
エルは、剣の柄に手をかけた。そのまま抜こうとしたが、なぜか手が動かなかった。
雪ねずみは、幹から前足をはなして、空中でくるんと丸くなった。
ずぅん、と地響きの音がして、大きな白い影が着地するのが見える。
一瞬だけ、両脚を動かして地面を蹴っている。
そのまま、勢いにまかせてゆるい坂を転がり落ちる。
フォスターは、石突を地面にかるく突き立て、斜めに槍を立てた。
脇をしめ、両手で槍を保持し、正面から魔獣を睨みつける。
衝突まで、あと、一呼吸ほど。
エルはまだ動けなかった。
まっすぐ、すさまじい勢いで、白い巨体が転がってくる。
きっかり三度。雪ねずみの赤い目がこちらを見たのを、フォスターははっきりと感じた。
激突!
槍の穂先が、雪ねずみの厚い毛皮を切り裂いて突き刺さる。同時に、すさまじい重圧がフォスターの腕にかかる。
コケラエダの柄がたわむ。
ぴしりぴしりと、柄に細かいひびが入り、かすかな振動が腕をたたく。
血管がはじけそうになる。
*
割ってはいるなら今だ。
エルは、そう自分に言い聞かせたが、足は動かなかった。
*
フォスターは腰を落とした。
ぐっと、足に力をこめて、腕を伸ばす。
地面を蹴る!
てこのように突っ張った槍をそのままにして、横っ飛びに体を逃がす。
大きな音がして、槍の柄が折れる。
地響き。
雪ねずみは、そのまま転がって、窪地の反対側にある木にぶつかった。
幹にひびがはいる。雪ねずみは動きをとめる。
間髪入れず、フォスターは小剣を抜き、雪ねずみのうなじに突き刺した。
血がしぶく。
かん高い鳴き声をあげながら、雪ねずみはゆっくりと向きをかえた。
右肩のあたりに、槍の穂先が刺さったままだ。
フォスターの手には、もう武器はない。
ちらりと、ルナとアーサーのほうを見てから、フォスターは腰を落として構えた。
組み打ちするつもりか。
全身が総毛立った。
考える前に、体が勝手に動いていた。
地面をける。
ひととびで、フォスターの前にとびこむ。
目の前に、雪ねずみの顔があった。
獣臭い息が、じかに鼻の奥に入りこんでくる。呼吸をこらえて、剣の柄に手をかける。
*
あのとき残っていれば、カルナーは生き延びていただろうか?
もちろん、そんなわけはない。
それでも、もしかしたらと思う。
*
ひどい頭痛がした。
剣が抜けない。焦っているせいか。
足がもつれる。
にぶい衝撃。
とつぜん、目の前が暗くなったような気がした。
「エル!」
誰かが叫んでいる。アーサーだろうか。それとも、兄?
気がつくと、うつぶせに倒れていた。
どろりと、血の塊が顔にかかる。雪ねずみの血かと思ったが、そうではないようだった。
必死に首を動かして、見上げる。
雪ねずみが、大きく口を開けて、こちらを見下ろしてきていた。
ふしぎと、嫌悪感はなかった。
*
魔獣という言葉は、市井ではさまざまに使われるが、退魔師が使う場合には、ただ単に「人を食い殺す獣」というほどの意味である。
*
「エル!」
アーサーは思わず叫んだ。
雪ねずみが大きく上半身をおこして、前肢を動かした。
と、見えた次の瞬間、エルの額から大きく血がしぶいて倒れ込む。
雪ねずみは、エルの体のうえに覆いかぶさるように身を沈めた。
エルを喰おうとしているのだ。
アーサーは無我夢中で飛びだした。雪ねずみの腰のあたりに、思いきり剣を突きたてる。
思いのほか硬かった。
全体重をかけて押し込むが、殺せる気がしない。
大きすぎる。
ずぶりと、生々しい音がして、雪ねずみの背中から刃が飛び出してきた。
エルの剣のようだ。
魔獣はついに息の根が止まったらしく、くずおれるように横に転がった。
エルは、その足元に倒れていた。
とどめをさしたのは、フォスターであった。エルの剣を抜き取り、雪ねずみの胸を突いたのだ。
フォスターは、息を荒くして、ルナに命じた。
「治癒の魔法を。すぐにだ」
見張り番といっても、火を絶やさぬようにしながら、起きて座っているだけだ。
近くに獣の気配はない。
枯れ枝のぱちぱちいう音と、かすかな風で枝葉がゆれる音が響く。
「……ちょっと考えていたんだけど、」
アーサーが、ためらいがちに口を開いた。
「このまま、とかげ鳥の群れを退治できなかったら、どうなるのかな」
「…そうだね、」
考えたくないことだが、アーサーの不安もわかる。
「テベーとの連絡が絶たれたら…」
「陸路では、あの街道を使わないとどこへも行けないからね。テベーどころか、その先のカボタへも、フルールへも」
「……それじゃ、」
「海路があるから、すぐ日干しになるわけじゃないけど、相当苦しいことにはなるね。それ以上は、なんとも言えないな」
微笑んで、アーサーの肩を抱いてやる。
今度は、うまくいったと思った。
「心配しないで。……カルリア侯爵が、騎士団の出動を要請してみると言っていたよ。いつまでもこのままってことはない。」
普通の声音で、そう言ったつもりだ。
いや、少し、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。
アーサーは、なぜか悲しそうな目でこちらを見返してきた。
「エル。……きみは、」
「シッ!」
黙らせる。
獣の気配だ。
「…二人を起こしてきて。いいね?」
アーサーは無言で肯く。
エルは、剣の柄に手をかけて、すこし離れた斜面の上に目を向けた。
大きな白い影。
雪ねずみだ。
*
雪ねずみが、こちらを狙っている。
本来なら、すぐに散らなければならない。雪ねずみの注意をそらして、少しでも有利な位置取りをするべきだ。
だが、フォスターは、その場を動かなかった。
「アーサー、エル、弓を用意しろ。ルナは下がれ」
短く、命じる。
アーサーはまだしも、雪ねずみ相手にたちまわるのはルナには無理だ。
フォスターは、ルナから5歩ほど離れて守るように立ち、がさごそと音がする斜面の上にむかって槍をむけた。
エルは弓に手をかけ、斜面のうえに神経を集中する。
ぞわりと、ざらついた舌のような気配が背筋を這う。
枝をかきわける音と、白い影が見えるだけだが、雪ねずみの動きははっきりとわかった。
こちらをちらちらと見ながら、木を登ろうとしている。
雪ねずみは器用に木に登る。大きな体をやわらかく伸ばして、体重を分散させるのだ。
たぶん、今、幹に前足をかけたあたりだ。
「まだだ、」フォスターの声。
狙い、即座に射る、その手順をイメージする。そのやり方も、カルナーから習った。
「構えろ、」
弓を向ける。
とたんに、視界がぶれる。
そんなに調子を崩しているのか? 私は。
「射れ!」
フォスターの声と同時に、アーサーがさっと弓をひくのが見えた。
出遅れた、と思う前に、手が勝手に動いている。雪ねずみの額を見すえ、狙い、弓を引き絞る。
そこまでは、すぐにできた。
また、的がぶれる。
ひと呼吸おく。
焦点があわない。視界がゆれる。
いや、
ゆれているのは、私の体だ。
胸の奥──心の臓。
覚悟が決まっていないだけのことだ。
舌をかむ。
ひゅん、とアーサーの矢が宙をかけてゆく。
少年らしい、迷いのない矢だ。
当たった様子はない。
狙いをつけ直そう。
そう思った瞬間、指がゆるんでいた。
矢が逃げてゆく。
尾羽根をはためかせて、闇のなか、一直線に──
かぁん、と鏃が幹につきささる音がした。
「来るぞ、」
かすかに緊張のにじむ声で、フォスターが言った。
ルナは、アーサーにかばわれて雪ねずみの射線からはずれている。
エルは、剣の柄に手をかけた。そのまま抜こうとしたが、なぜか手が動かなかった。
雪ねずみは、幹から前足をはなして、空中でくるんと丸くなった。
ずぅん、と地響きの音がして、大きな白い影が着地するのが見える。
一瞬だけ、両脚を動かして地面を蹴っている。
そのまま、勢いにまかせてゆるい坂を転がり落ちる。
フォスターは、石突を地面にかるく突き立て、斜めに槍を立てた。
脇をしめ、両手で槍を保持し、正面から魔獣を睨みつける。
衝突まで、あと、一呼吸ほど。
エルはまだ動けなかった。
まっすぐ、すさまじい勢いで、白い巨体が転がってくる。
きっかり三度。雪ねずみの赤い目がこちらを見たのを、フォスターははっきりと感じた。
激突!
槍の穂先が、雪ねずみの厚い毛皮を切り裂いて突き刺さる。同時に、すさまじい重圧がフォスターの腕にかかる。
コケラエダの柄がたわむ。
ぴしりぴしりと、柄に細かいひびが入り、かすかな振動が腕をたたく。
血管がはじけそうになる。
*
割ってはいるなら今だ。
エルは、そう自分に言い聞かせたが、足は動かなかった。
*
フォスターは腰を落とした。
ぐっと、足に力をこめて、腕を伸ばす。
地面を蹴る!
てこのように突っ張った槍をそのままにして、横っ飛びに体を逃がす。
大きな音がして、槍の柄が折れる。
地響き。
雪ねずみは、そのまま転がって、窪地の反対側にある木にぶつかった。
幹にひびがはいる。雪ねずみは動きをとめる。
間髪入れず、フォスターは小剣を抜き、雪ねずみのうなじに突き刺した。
血がしぶく。
かん高い鳴き声をあげながら、雪ねずみはゆっくりと向きをかえた。
右肩のあたりに、槍の穂先が刺さったままだ。
フォスターの手には、もう武器はない。
ちらりと、ルナとアーサーのほうを見てから、フォスターは腰を落として構えた。
組み打ちするつもりか。
全身が総毛立った。
考える前に、体が勝手に動いていた。
地面をける。
ひととびで、フォスターの前にとびこむ。
目の前に、雪ねずみの顔があった。
獣臭い息が、じかに鼻の奥に入りこんでくる。呼吸をこらえて、剣の柄に手をかける。
*
あのとき残っていれば、カルナーは生き延びていただろうか?
もちろん、そんなわけはない。
それでも、もしかしたらと思う。
*
ひどい頭痛がした。
剣が抜けない。焦っているせいか。
足がもつれる。
にぶい衝撃。
とつぜん、目の前が暗くなったような気がした。
「エル!」
誰かが叫んでいる。アーサーだろうか。それとも、兄?
気がつくと、うつぶせに倒れていた。
どろりと、血の塊が顔にかかる。雪ねずみの血かと思ったが、そうではないようだった。
必死に首を動かして、見上げる。
雪ねずみが、大きく口を開けて、こちらを見下ろしてきていた。
ふしぎと、嫌悪感はなかった。
*
魔獣という言葉は、市井ではさまざまに使われるが、退魔師が使う場合には、ただ単に「人を食い殺す獣」というほどの意味である。
*
「エル!」
アーサーは思わず叫んだ。
雪ねずみが大きく上半身をおこして、前肢を動かした。
と、見えた次の瞬間、エルの額から大きく血がしぶいて倒れ込む。
雪ねずみは、エルの体のうえに覆いかぶさるように身を沈めた。
エルを喰おうとしているのだ。
アーサーは無我夢中で飛びだした。雪ねずみの腰のあたりに、思いきり剣を突きたてる。
思いのほか硬かった。
全体重をかけて押し込むが、殺せる気がしない。
大きすぎる。
ずぶりと、生々しい音がして、雪ねずみの背中から刃が飛び出してきた。
エルの剣のようだ。
魔獣はついに息の根が止まったらしく、くずおれるように横に転がった。
エルは、その足元に倒れていた。
とどめをさしたのは、フォスターであった。エルの剣を抜き取り、雪ねずみの胸を突いたのだ。
フォスターは、息を荒くして、ルナに命じた。
「治癒の魔法を。すぐにだ」