第13話 雪ねずみ

文字数 3,252文字

 アーサーに起こされ、見張りを交代した。
 見張り番といっても、火を絶やさぬようにしながら、起きて座っているだけだ。
 近くに獣の気配はない。
 枯れ枝のぱちぱちいう音と、かすかな風で枝葉がゆれる音が響く。
「……ちょっと考えていたんだけど、」
 アーサーが、ためらいがちに口を開いた。
「このまま、とかげ鳥の群れを退治できなかったら、どうなるのかな」
「…そうだね、」
 考えたくないことだが、アーサーの不安もわかる。
「テベーとの連絡が絶たれたら…」
「陸路では、あの街道を使わないとどこへも行けないからね。テベーどころか、その先のカボタへも、フルールへも」
「……それじゃ、」
「海路があるから、すぐ日干しになるわけじゃないけど、相当苦しいことにはなるね。それ以上は、なんとも言えないな」
 微笑んで、アーサーの肩を抱いてやる。
 今度は、うまくいったと思った。
「心配しないで。……カルリア侯爵が、騎士団の出動を要請してみると言っていたよ。いつまでもこのままってことはない。」
 普通の声音で、そう言ったつもりだ。
 いや、少し、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。
 アーサーは、なぜか悲しそうな目でこちらを見返してきた。
「エル。……きみは、」
「シッ!」
 黙らせる。

 獣の気配だ。

「…二人を起こしてきて。いいね?」
 アーサーは無言で肯く。
 エルは、剣の柄に手をかけて、すこし離れた斜面の上に目を向けた。

 大きな白い影。
 雪ねずみだ。



 雪ねずみが、こちらを狙っている。
 本来なら、すぐに散らなければならない。雪ねずみの注意をそらして、少しでも有利な位置取りをするべきだ。
 だが、フォスターは、その場を動かなかった。
「アーサー、エル、弓を用意しろ。ルナは下がれ」
 短く、命じる。
 アーサーはまだしも、雪ねずみ相手にたちまわるのはルナには無理だ。
 フォスターは、ルナから5歩ほど離れて守るように立ち、がさごそと音がする斜面の上にむかって槍をむけた。
 エルは弓に手をかけ、斜面のうえに神経を集中する。

 ぞわりと、ざらついた舌のような気配が背筋を這う。

 枝をかきわける音と、白い影が見えるだけだが、雪ねずみの動きははっきりとわかった。
 こちらをちらちらと見ながら、木を登ろうとしている。
 雪ねずみは器用に木に登る。大きな体をやわらかく伸ばして、体重を分散させるのだ。
 たぶん、今、幹に前足をかけたあたりだ。

「まだだ、」フォスターの声。
 狙い、即座に射る、その手順をイメージする。そのやり方も、カルナーから習った。

「構えろ、」
 弓を向ける。
 とたんに、視界がぶれる。

 そんなに調子を崩しているのか? 私は。

「射れ!」
 フォスターの声と同時に、アーサーがさっと弓をひくのが見えた。
 出遅れた、と思う前に、手が勝手に動いている。雪ねずみの額を見すえ、狙い、弓を引き絞る。
 そこまでは、すぐにできた。
 また、的がぶれる。

 ひと呼吸おく。

 焦点があわない。視界がゆれる。
 いや、
 ゆれているのは、私の体だ。
 胸の奥──心の臓。
 覚悟が決まっていないだけのことだ。

 舌をかむ。

 ひゅん、とアーサーの矢が宙をかけてゆく。
 少年らしい、迷いのない矢だ。
 当たった様子はない。

 狙いをつけ直そう。
 そう思った瞬間、指がゆるんでいた。

 矢が逃げてゆく。
 尾羽根をはためかせて、闇のなか、一直線に──

 かぁん、と鏃が幹につきささる音がした。

「来るぞ、」
 かすかに緊張のにじむ声で、フォスターが言った。
 ルナは、アーサーにかばわれて雪ねずみの射線からはずれている。
 エルは、剣の柄に手をかけた。そのまま抜こうとしたが、なぜか手が動かなかった。
 雪ねずみは、幹から前足をはなして、空中でくるんと丸くなった。
 ずぅん、と地響きの音がして、大きな白い影が着地するのが見える。
 一瞬だけ、両脚を動かして地面を蹴っている。
 そのまま、勢いにまかせてゆるい坂を転がり落ちる。
 フォスターは、石突を地面にかるく突き立て、斜めに槍を立てた。
 脇をしめ、両手で槍を保持し、正面から魔獣を睨みつける。
 衝突まで、あと、一呼吸ほど。

 エルはまだ動けなかった。

 まっすぐ、すさまじい勢いで、白い巨体が転がってくる。
 きっかり三度。雪ねずみの赤い目がこちらを見たのを、フォスターははっきりと感じた。

 激突!

 槍の穂先が、雪ねずみの厚い毛皮を切り裂いて突き刺さる。同時に、すさまじい重圧がフォスターの腕にかかる。
 コケラエダの柄がたわむ。
 ぴしりぴしりと、柄に細かいひびが入り、かすかな振動が腕をたたく。
 血管がはじけそうになる。



 割ってはいるなら今だ。
 エルは、そう自分に言い聞かせたが、足は動かなかった。



 フォスターは腰を落とした。
 ぐっと、足に力をこめて、腕を伸ばす。
 
 地面を蹴る!

 てこのように突っ張った槍をそのままにして、横っ飛びに体を逃がす。
 大きな音がして、槍の柄が折れる。
 地響き。
 雪ねずみは、そのまま転がって、窪地の反対側にある木にぶつかった。
 幹にひびがはいる。雪ねずみは動きをとめる。
 間髪入れず、フォスターは小剣を抜き、雪ねずみのうなじに突き刺した。
 血がしぶく。
 かん高い鳴き声をあげながら、雪ねずみはゆっくりと向きをかえた。
 右肩のあたりに、槍の穂先が刺さったままだ。
 フォスターの手には、もう武器はない。
 ちらりと、ルナとアーサーのほうを見てから、フォスターは腰を落として構えた。

 組み打ちするつもりか。

 全身が総毛立った。
 考える前に、体が勝手に動いていた。
 地面をける。
 ひととびで、フォスターの前にとびこむ。
 目の前に、雪ねずみの顔があった。
 獣臭い息が、じかに鼻の奥に入りこんでくる。呼吸をこらえて、剣の柄に手をかける。



 あのとき残っていれば、カルナーは生き延びていただろうか?

 もちろん、そんなわけはない。
 それでも、もしかしたらと思う。



 ひどい頭痛がした。
 剣が抜けない。焦っているせいか。
 足がもつれる。

 にぶい衝撃。

 とつぜん、目の前が暗くなったような気がした。

「エル!」

 誰かが叫んでいる。アーサーだろうか。それとも、兄?
 気がつくと、うつぶせに倒れていた。
 どろりと、血の塊が顔にかかる。雪ねずみの血かと思ったが、そうではないようだった。
 必死に首を動かして、見上げる。
 雪ねずみが、大きく口を開けて、こちらを見下ろしてきていた。
 ふしぎと、嫌悪感はなかった。



 魔獣という言葉は、市井ではさまざまに使われるが、退魔師が使う場合には、ただ単に「人を食い殺す獣」というほどの意味である。



「エル!」
 アーサーは思わず叫んだ。
 雪ねずみが大きく上半身をおこして、前肢を動かした。
 と、見えた次の瞬間、エルの額から大きく血がしぶいて倒れ込む。
 雪ねずみは、エルの体のうえに覆いかぶさるように身を沈めた。

 エルを喰おうとしているのだ。

 アーサーは無我夢中で飛びだした。雪ねずみの腰のあたりに、思いきり剣を突きたてる。
 思いのほか硬かった。
 全体重をかけて押し込むが、殺せる気がしない。
 大きすぎる。

 ずぶりと、生々しい音がして、雪ねずみの背中から刃が飛び出してきた。
 エルの剣のようだ。
 魔獣はついに息の根が止まったらしく、くずおれるように横に転がった。
 エルは、その足元に倒れていた。
 とどめをさしたのは、フォスターであった。エルの剣を抜き取り、雪ねずみの胸を突いたのだ。
 フォスターは、息を荒くして、ルナに命じた。
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