3:未来にかえる

文字数 3,284文字



――6

 一瞬の浮遊感の後、足の裏に地面の感触。相変わらず慣れない突然のそれに平衡感覚が保てずに体がよろける。
 行き交う人波に弾き出されるように壁に手をつく。視線を上げると、さっきまでと同じ光景が目の前にあった。だけど違和感を体の感覚が訴える。さっきまでとは違うことを。

 ざわめく喧噪の波に押し潰されそうになりながらも視界を巡らせた。
 心は決まっていなくても、それでも理解した。
 ここがきちんと、僕が望んだ過去であると。

――5

 雑踏の中、その姿を探す。
 視界で溢れる人影に眩暈と吐き気がした。
 足が、震える。

 僕はどうしたい?

 必死にいま胸の内にあるものを掻き集める。
 僕は……僕は――

――4

 視界にその姿を映したとき、心臓が大きく鳴った。
 少し離れたその列に、その姿を見つけることができた。
 記憶の中にある最後の瞬間よりも、ずっと近く。
 手を伸ばせば届く距離。
 逸可と砂月は、ちゃんと僕をここへ送ってくれた。
 佳音を失う前の、この時間へ。

「……佳音(かのん)

――3

 僕の落とした呟きはあまりにも小さくて、喧噪に呑み込まれた。
 佳音は僕に気付かない。
 僕と佳音を阻む人の壁は僅かひとりかふたりだ。
 いま、手を、伸ばせば。
 救える未来が、そこに。

「――佳音!」

 その時聞こえたのは僕の声だった。
 だけど、僕じゃない。
 佳音が俯いていた顔を上げ、視線を向けたその先を僕も追う。そこには階段を駆け下りてくる僕の姿があった。佳音を救えなかった、2年前の僕の姿が。
 あの時……僕の声は、佳音に届いていたんだ。

「篤人」

 佳音が、小さく零した。
 2年ぶりに聞いた佳音の声だった。

――2

 視界が溢れる。
 涙で眩む。
 溺れる、その横顔。
 僕が知りたいと願った最期の瞬間。
 その目は僕に向けられていた。
 僕の名前を呼んでくれた。

「なんて顔してるのよ、バカね」

 笑っていた。
 それが佳音の最期だった。

 次の瞬間、ホーム内へと空気の塊が押し寄せてくる。
 甲高く鳴るブレーキ音が世界を、すべてを引き裂いて。
 僕はその先を見ることができなかった。


 カウントダウンは終わっていた。


 引き戻される感覚に身構えていた僕は、その違和感に瞼を持ち上げる。
 駅のホーム、呼吸を止めた人の群れ。
 そこは時間が止まった世界だった。

「……う、わあああああぁ……!」

 少し遠くで聞こえた声に視線を向ける。階段から転げ落ちる人影が誰なのかはすぐにわかった。おかしいなそんな記憶ないんだけど。
 忘れてしまっただけだろうか。それともこれが、別の未来への分岐点のひとつなのだろうか。
 声の方へと一歩踏み出す。
 動かない人ごみを避けて階段の方へ近づいていく。

「な……っ! ど、どうなって……!」

 階段の下に、まぬけな顔をした2年前の僕が居た。
 突如時間の止まった世界に茫然とあたりを見回している。
 今より少し幼い、14歳の〝僕〟。
 2年経っても僕は何も変わっていない気がした。
 狼狽えながらも立ち上がり、目の前まで来た僕の存在に気付いた14歳の〝僕〟が、目を丸くして今の僕を見る。
 僅かな距離を空け、僕らは向き合うように対峙した。

「……ぼ、く……?」
「……そうだよ」

 ふと急に、未来に跳んだ時の逸可を思い出した。
 過去から来た僕に対峙した逸可も、こんな気持ちだったのだろうか。

「な、にが……どうなって……そうだ、佳音……佳音は……!」

 今にも泣き出しそうな顔で僕が声を震わせる。
 こんな情けない顔をしていたのか。佳音が呆れて笑うはずだ。
 まだこの時の僕は、この後起こることを知らない。
 ただ、必死に。彼女を追いかけていただけだった。

 きみの未来を、僕は知っている。
 この後なにを失い、なにを得るのかを。

「ごめん、僕に佳音は救えなかった。でも」

 過去の自分に、贈るものがあるとすれば。

「未来を決して、諦めないでほしい」

 それはきっとあの水色の封筒の中身と、一緒なんじゃないだろうか。
 未来の逸可が僕に託した、あの手紙と。

 時間が自分を取り戻そうとしている。目の前の僕の顔は歪んだまま。
 きっと今は、すべてを理解できないだろう。受け入れることはできないだろう。
 この先何度もこの日のことを後悔して、自分を恨んで。その手に刃を握る日が来るかもしれない。いつの間にか屋上に立っている日が来るかもしれない。
 楽になりたいと、心から。それを誰かに望んで生きるかもしれない。
 失ったものばかりを必死に抱く日々に、希望は見出せないかもしれない。
 でも。
 きみの未来を、僕は知っているから。

「きっと、出会えるから」

 僕にはきみの未来を奪う権利なんてないはずだ。それが誰であっても同じこと。
 そう、それがたとえ僕自身であっても。
 だから僕は僕の選択を――悔やまない。

「そうだ、あと……」

 景色が霞む。体の感覚が抗いようのない力に引っ張られる。
 僕の声はちゃんと、届いているだろうか。
 今この時を、このチャンスをムダにしない為に。
 僕がここに居ることにもきっと、ちゃんと意味があるはずだ。

「いつか、水色の手紙を預かったら、制服の内ポケットに入れておいた方が良い。失くさないで済むように。2年後、きみは必ず託される。きっとそれは大事なものだから……だから、覚えておいて。それから…」

 夕日がすべての輪郭を溶かしていく。
 寂しいと思った僕の心。

「未来に泣いている女の子が居る。きっと必ず……救ってあげて」


 それが僕の答えだった。


「――っ!」

 落ちる、そう思った時にはもう落ちていた。
 がくんと膝から地面に崩れる。
 だけど覚悟していた痛みは僕に訪れなかった。
 寸でのところで体ごと受け止められたのだと鈍い頭が悟る。

「篤人……!」

 頭の上から降ってくる声に視線を上げると、そこには肩で息をした逸可が居た。
 珍しい顔をしている。逸可もこんな顔をするんだと、そんなことは口には出せなかったけれど。

「い、つか……」

 なんだか無性に懐かしく感じた。
 離れていたのはたったの6秒間。
 一瞬よりは長いけれど、あっという間に過ぎ行く時間だ。

「……っ、お前ホント……いー度胸してる」
「……前から、思ってたんだけど……それ、褒め言葉?」

 言った僕に逸可が笑った。
 少し、震えていた。

 立っていることもできず倒れこんだ僕を、目の前のふたりが受け止めてくれたらしい。
 でも記憶も感覚も曖昧で、少し意識も跳んでいた気がする。
 ただ確かなのは、ふたりがここに居るということ。
 逸可と砂月が居るこの場所に、戻ってこれたのだということ。
 腕の中にその温もりをきつく強く感じた。
 これが僕にとっての、現実だ。

「……さつき」

 言葉を発しようとしない砂月の顔をそっと覗き込むと、また声もなく涙を零していた。
 だけどその顔はいつもの砂月からは想像もつかないほどに感情が溢れている。
 そのクセはきっとなおした方が良い。
 いつの間にかさよならされるのも、知らない場所で泣かれるのももうイヤだから。
 ひとりで全部抱えて、隠して。どうしてもっとちゃんと、表に出さないんだろう。
 近くに居ないと気付けないそれは、だからきっとこの場所が大事なんだと思えた。
 右半身を逸可に支えられたまま、ぎゅっと力を込めて小さなその体を抱き締め返す。

「……あつ、と……」

 砂月がようやく零すように口にした。
 両手に触れているこの温もり。
 これが僕の選んだ未来(もの)

「篤人……!」

 他でもない、此処で。僕を呼んでくれるひとが居る。
 だから帰ってこれた。
 だから僕は帰ってきた。


 僕はここで、生きていく。


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