ノートの中のすみれ草
文字数 8,305文字
何回目かの寝返りを打ち、危うくベッドから転がり落ちそうになる寸前の所で目覚めると、僕は目を覚まして、サイドテーブルに置いたデジタルクロックを見た。時刻は午前六時五分。ちょっと眼覚めには早い時間だった。
僕はベッドから這い出て、バスローブを身にまとって、今日が日曜日であることをカレンダーで確認した。そのままリビングダイニングに向かい、コーヒーメーカーにフィルターとコロンビア産のコーヒー豆、それに水を入れてスイッチを入れた。食器棚から二つのマグカップを取り出すと、寝室の方から美比呂が服を着ないでやって来た。
「何してるの?」
「コーヒーを淹れているんだよ」
僕はそう答えて、服を着ていない美比呂を見た。腰まで伸びた黒髪に豊かに膨らんだ乳房と、その真ん中にあるバラ色の乳輪と乳頭。昨晩冷えたアブソルベントウォッカを開けて味わった極上の身体が目の前にあったが、不思議と劣情は湧いてこなかった。
「飲むだろ?砂糖と少な目でミルクを入れたの」
「その好みは義務教育を卒業した時に終わったわ。今はエスプレッソでも平気よ」
僕はその言葉を聞いて、ちょっと恥ずかしい思いをした。彼女を自分の部屋に招き入れるのは中学の時に、好きなアニメのCDアルバムを貸してあげた時以来なのだ。あの時は当然実家暮らしで、僕は塾通いに忙しかった。
美比呂が服を着てダイニングの席に着くと、ちょうどコーヒーが入った。僕はサーバーのコーヒーをカップに注いで、何も入れずにカップを手渡した。
「ありがとう。あなたの部屋で飲み物を貰うのは中学時代以来ね」
「そうだね」
僕はそう答えた。僕も三十手前になって、小学校時代の同級生を自分の部屋に迎え入れて一夜を過ごすなんて思っても居なかった。
「朝ごはんはどうする?」
「どこかでモーニングを頂くわ」
美比呂は素っ気なく答えた。僕は席に着かずに、窓の外の景色を見た。中国の宋磁の焼き物のような粒子感のある青空が広がり、休日のドライブには良さそうな陽気だ。
「此処から一番近い駅は何処?」
美比呂はコーヒーを口元に近づけて僕に聞く。
「東上線のときわ台駅。そこから池袋に出てJRに乗れる。駅まで送るよ」
「ありがとう。しばらく見ないうちにいい男になったわよね。白石」
「成人式の集まり時は学生だったからね」
僕は軽く笑ってそう答えた。
朝のコーヒーが終わり、僕と美比呂は身支度を整えて部屋を出て、マンションの駐車場に停めてある僕のアクセラスポーツに乗り込み、美比呂を東上線のときわ台駅まで送った。
駅のロータリーに着くと、美比呂は降りる前に僕にこう言った。
「今日の事はフェイスブックに上げない事にしましょう。また同級生同士のつながりが持ちたいから」
「ああ」
僕が答えると美比呂は車を降りて駅の雑踏に消えて行った。僕は車を出して、川越街道を少しドライブする事にした。
流れる車の中で、僕は中学時代に過ごした日々を思い返してみた。すると、記憶の日記帳の中に一枚だけ折り目が付いたページが有る事に気付いた。僕と同級生の間で交わした、ちいさな思い出の一ページが。
思い出の同級生の名前は岩本洋子と言って、名前の通りに古風で大人しい同級生だった。当時僕は今住んでいる町から離れた文京区本駒込に住んでいて、地元の中学校に通っていた。洋子とは同じクラスで、二年生の時に隣の席だったはずだ。手先が器用で、手芸部でよくポシェットや巾着袋などを作っていたのを覚えている。
二年生への進級が終わり、新しいクラスメイトの気心が知れて来たころ、同じ班だった僕と洋子は二時間目の授業で理科室に行き、ガスバーナーを使った科学の実験をしていた。確か水素か何かを取り出す授業で、とんとん拍子に実験が進んで拍子抜けしてしまった記憶がある。
実験が終わり、後片付けに取り掛かったころ。僕は足の長い暑いままの五徳に右手でうっかり触れてしまい、指に火傷をしてしまった。
「熱っ!」
僕は小さく叫んだ。すぐに備え付けの流しで指を冷やしたが、熱さが和らいで行くと同時に指先が鈍く痛み始めて、胸の奥から何かが逆流するような不快感が襲ってきた。
「大丈夫、白石?」
気付いた他の生徒達が僕の事を心配そうに伺ってくる。僕は強さを増してくる不快感に打ちのめされながら、「ちょっと気分悪い」と漏らすので精一杯だった。
「もしかしたら酷い火傷かも知れない、一応保健室に行って来なさい」
理科の担当教諭は僕にそう言った。そしてある程度指先を冷やすと、ハンカチで手を拭いて一人で保健室に向かおうとした。すると、洋子が僕にこう声を掛けた。
「大丈夫?白石。私も一緒に行こうか?」
洋子はそう声を掛けた。痛みと不快感で頭が一杯だった僕は何もしゃべらずただ頭を縦に振った。
リノリウム張りの廊下はいつもより長く感じられた。普段と同じペースで歩くのだが、いつもより足取りが重く感じられる。途中で僕が大きなため息を吐くと、洋子はさっとポケットから小さな絆創膏を二枚取り出した。
「これ、指に巻きなよ」
「ありがとう」
僕はすぐにそう答えると、洋子がくれた絆創膏を指に巻いた。絆創膏は桜の花をあしらった女の子らしい可愛らしいもので、僕はその時初めて女性的なやさしさと言う物を感じた。
学校一階の保健室にたどり着くと、僕は保健の先生に事情を話した。おもむろに右手を差し出すと、保健の先生は貼り付けたばかりの絆創膏を剥がして、軟膏を塗ったあと、傷を治すための無味乾燥な絆創膏を指に巻いた。
「気分はどう?」
「吐き気みたいのが有ります」
僕は保健の先生の問いかけにそう答えた。その結果、僕は三時間目を休むことになってしまった。
「それじゃ、私は戻ります」
「ありがとう。三時間目が終わったら教室に戻らせるわ」
保健の先生は洋子にそう言った。僕は保健室を去ろうとする洋子に向かってこう言った。
「岩本、付き添ってくれてありがとう」
その言葉を聞いた洋子は僕の方を振り向いて、そっと微笑んで保健室を後にした。その微笑みに僕は暖かさを感じ、そのままソファーベッドに寝返った。
三時間目の終了のチャイムが鳴り、指先の感覚と気分が戻ってくると、僕は保健の先生に一礼して教室に戻った。教室では四時間目の英語の授業の準備が始まっており、皆が席に着き始めていた。
「白石、あんたの教科書とか戻しておいたよ」
教室に僕が戻ったのを見つけた美比呂が声を掛けた。僕はありがとうと礼を述べて、自分の席に戻った。
「白石、もう大丈夫?」
僕が席に着いたのを見つけた洋子が僕に声を掛けた。僕は洋子の方を見て、目を合わせてこう言った。
「ああ、もう平気」
「そう、良かった」
洋子はまた微笑みながら答えた。それと同時に、僕の中で先ほどの不快感とは異なる、甘くて柔らかい気分が胸を駆け巡った。
「絆創膏、ありがとう」
それがその日洋子と交わした最後の言葉だった。
あれから僕は何か洋子に何かしただろうか、僕は車の鼻先を川越街道の池袋方面に向けて、信号が青に変わるのを待っていた。このまま池袋を抜けて不忍通り方面に行けば、地元に戻れる。
――折角だから戻ろうか?
そんな雑念が火花の様に僕の頭に光る。別に今住居を構えている常盤台のマンションに戻っても、目を通せと言われた仕事のメールと酒の残りが有るだけだ。だが、地元に戻った所でかつての同級生に会えるという保証はない。あるのは壮年の両親と古びた実家つまり弟夫婦の家位だ。だから言っても意味はないと思ったが、否定しようとするとどういう訳だか行きたいという気持ちが強くなってきた。
信号が青になる。僕は自宅マンションに戻るべき道を通らずに、地元に戻る道を選んだ。
絆創膏を貰ってから一週間たった放課後、僕は地元の洋菓子店で買ったクッキーを持って洋子の自宅を訪問し、インターホンを押した。しばらくしてから家の中との通話が繋がる音がする。
「どちら様でしょうか?」
返事に出たのは洋子だった。両親が不在と言う事は、共働きの家庭なのだろうか。
「白石です。この前の絆創膏のお礼を持ってきました」
僕はやや緊張気味に答えた。年頃の女子生徒の家にお邪魔するのは、初めての体験だった。
「ああ白石か、今扉を開けます」
洋子はそう言って扉を開き、玄関に僕を招き入れた。僕は両手でクッキーの小袋を突き出して、自分の手元を見ながらこう言った。
「この前はありがとう。これはお礼のクッキー」
僕はそう言った。すると洋子は驚いたような表情でクッキーの小袋を受け取ったあと、僕の顔を見てこう言った。
「良かったら、上がってお茶でも飲んでく?」
「いいの?」
謙遜する事をまだ知らなかった僕は反射的にそう答えた。
「いいよ、私自主勉強に飽きて来たところだから、一緒にクッキーでも食べようよ」
僕は無言で頷いて、靴を脱ぎ洋子の家に入った。
洋子の部屋に通されると、そこには淡いホワイトの世界が広がっていた。白い壁紙とレースのカーテンに、ガラスのミニテーブル。カーペットは優しいクリーム色で彼女の人柄を表しているような趣さえあった。奥にはベッドと学習机があり、小さなCDラジカセ以外に電子製品は無かった。
暫くすると、洋子が水出しアイスティーの入った二つのグラスと、小皿に出したクッキーをお盆に載せてやって来た。僕は中央にあるミニテーブルの席について、お茶を出してくれる洋子の手元を見た。彼女の指先は一筆で書いた水墨画の線の様に細くて美しかった。
「パソコンとかゲームは無いの?」
僕は部屋を見回しながら尋ねた。
「リビングにある。自分の部屋に余計な物は置かない主義なの」
洋子の言葉に僕は感心した素振りを見せた。それよりも意識し始めた異性の部屋に通されたという事実に圧倒されて、あまり思考が働かなかった。
「ここは純粋に勉強のための部屋?」
「まあね。後は自分で創作活動するのに使ったりしているよ」
「創作活動?」
僕は聞き返した。
「そう。散文詩とかを書いているの」
僕はその言葉に感心する事が出来なかった。まだ芸術に関心が薄く、ましてや自分の心境や感性を使って文字で何かを表現する事など、当時の僕にとっては異世界の事だった。
「折角だから、少し読んでみる?」
恥じ入ることなく洋子は僕に聞いてきた。
「いいの?」
僕は小さく答えた。すると洋子は立ち上がって自分の机に向かい、何処にでもある安いB5ノートを手に取ると僕の元へ手渡した。
ノートを開いてみると、そこには同じ年頃の女子生徒が書く丸文字ではなく、達筆の書道家が書くような文字で散文詩が綴られていた。
人は野に咲くすみれ草
だからはかなく美しい。
なんてことない、
命だけれども、
強くひたむきに
生きている。
その時の僕に文芸を鑑賞し、評価する能力は殆どと言っていいほど無かったが、洋子が澄んだ心の持ち主で、美しい物を美しいと素直に言える感性の持ち主だという事は理解できた。
「いい作品だね」
僕は反射的にそう口走った。そしてページをめくり、次の作品を見た。
成長すると、
美しく楽しいという事が
言えなくなる。
その代わり人間は
色々な事を学ぶのだけれど、
それは心を
濁らせてしまう。
素直なままで居る事は、
きっと人間を
壊してしまう。
その時の僕に、人間の成長が人の心を濁せることだという事に気付いていれば、この作品の真価が分かったかも知れない。だが当時の僕は花を咲かせることを覚え始めたばかりの若木だったから、この詩はただの文字として目に焼き付いただけだった。
「すごいね。俺には出来そうにないよ」
僕はそれだけ答えた。それ以外に作品を評価する語彙を持ち合わせていなかった。
「ありがとう。人に見せるのは初めてだったから」
洋子はそう微笑みながら答えた。
それから僕と洋子はアイスティーを飲みながら、他愛もない会話を続けた。それから十五分ほどで洋子の家を後にすると、僕の中に甘くて熱い、熱して柔らかくしたシロップが全身を包み込むような、心地よい感覚を味わったのを今でも今でも記憶している。
池袋から大塚に入り、不忍通りを本駒込方面に向かう。猫又坂の信号で止まると、僕はやはり引き返そうかと不安になった。だが信号が青に変わり、車を走らせるともう遅いと自分で納得させて、本駒込に入った。上富士の交差点を右折して、富士神社のある通りに入る。そこから車をしばらく走らせて、空いている百円パーキングに車を停めた。
車を降りると、空はどんよりと曇天だった。ざらついた感じの灰色の雲が空に立ち込め、梅雨入り前後の中途半端な季節を良く表現していた。
僕は懐かしさをどこか感じる街並みを眺めながら、天祖神社脇の母校へと向かった。僕の母校である中学校では授業中なのかしんと静まり帰っていて、中の様子は伺えなかった。この中に三年間よく押し込まれて文句も言わずに学校に通い続けたなと思うと、何だか複雑な気分になった。僕は正門前で立ち尽くしたあと、引き返して自動販売機でコカ・コーラを購入し、学校のすぐ近くにあった洋子の家に行ってみた。
洋子の家は僕がクッキーを届けに行った時と変わらぬ様子でそこにあった。しかしあった筈の表札は消えて、安い国産ミニバンが収まっていた筈の駐車スペースには車が無かった。
そしてその時、僕は有る事実を思い出した。彼女はもうこの街には居ないのだ。
洋子が転校したのは三年生の秋だったと記憶している。クラスの皆は高校受験を控えて、どことなく浮足立っていた。最後の学習発表会が終わり、年明け前位には合格の成否が決まるだろうと考えていた時期に、生徒たちの間で、最近顔を見せない洋子が転校するという話が出て来た。
--なんでまたこの時期に?
と僕は思った。別々の高校に進学して離れ離れになるのは分かっていたが、別れるのが早すぎる。せめてあと二か月は伸ばして欲しかった。と言うのが僕の素直な気持ちだった。
僕はあの時洋子の部屋に上げてもらった時の気持ちを醸成して、彼女の事を一人の女性として意識するようになっていたから、どんな形でもいいから何か気持ちを伝えなければと思った。僕は心の中で洋子に打ち明ける言葉を用意して、会話を聞いた次の日に気持ちを伝えようと思った。
だが、次の日から洋子は学校に来なかった、さらに次の日もそのまた次の日も、洋子は来なかった。しばらくして担任の先生から「家庭の事情」という冷たい言葉で洋子が何処かに転校した事を告げられると、僕の気持ちは大海原に浮かんだゴミクズみたいに、中学最後の寒空を漂った。
それから僕は大学付属の高校に進学し、エスカレーター方式で大学の政治経済学部に入ると、そこから大手の情報通信会社に就職した。傍目から見れば順風満帆な人生だ。だが伝えたかった気持ちを伝えられないまま成長してしまったから、僕の中に小さなが穴が開いてしまっている。
僕は車を自宅のある常盤台方面に走らせながら、なぜあの時気持ちを伝えられなかったのだろうと思った。コミュニケーション能力が欠如していたとか、奥手だったからとかいう類のものでは無い。あの時の僕の気持ちはとても清らかで美しい、それこそ野に咲くすみれ草を愛でるような類の気持ちだったのだ。だからきっと、はかない花を咲かせるすみれ草の様に、しおれてどこかに消えてしまったのだ。
自分の部屋のあるマンションにたどり着くと、僕は車を駐車場に停めて部屋に上がり、昨日飲んだアブソルベントウォッカを飲みたい衝動を抑えて、ノートパソコンのある机に向かった。そしてフェイスブックを開いて友達検索をしたり、洋子のフルネームをあちこちの検索エンジンに掛けてみたが、何も見つからなった。
僕は心苦しくなり、そのまま乱れたままのベッドに仰向けになった。なぜだろう。中学時代の時以上に心が苦しく、そして洋子に対する思いが強くなっている。まるで花を咲かそうとしている植物のつぼみのような感覚だ。どうする事も出来なくなった僕は気分を落ち着かせるためにアブソルベントウォッカをグラスに注いで一気飲みし、気持ちを落ち着かせた。
今日はもう何もしない事にしよう。僕はそう自分に言い聞かせた。
それから数日後、僕は仕事の途中で寄った秋葉原のスターバックスでソイラテを飲みながら会議の資料を準備していると、ノートパソコンの傍らに置いたスマートフォンがブルルと震えて、メッセンジャーの着信を知らせた。画面をタップして開いてみると、そこには同級生の遠藤から、二週間後の土曜に中学時代の同級生が集まって、高麗川でバーベキューをしないかと言う内容のメッセージ書かれていた。幸いにもその日は何もすることが無かったので、僕は参加すると返信を入れた。もしかしたら、洋子の事が少し分かるかも知れないという小さな希望を抱きながら。
それから二週間たった土曜日の朝八時、僕は待ち合わせ場所にしていた駒込駅のつぶれたパチンコ屋までボルボを走らせて、乗せる同級生と荷物に面会した。すでにバーベキューの道具と材料は遠藤のオデッセイに積んであるという事だったので、僕はこの前一夜を共にした美比呂を含む同級生三人と手荷物をアクセラスポーツに載せた。そして二台の車列で駒込駅を出発すると、そこから国道十七号に入り、新板橋から池袋線、外環道を通って関越に入り、川越で降りて高麗川に向かった。
高麗川のバーベキュー場では家族連れや僕らと同じような目的のグループが既にバーベキューやら川遊びをして楽しんでいた。僕達はタープを張り折り畳み椅子を広げて準備をして、バーベキューの用意をしてグリルに火を入れた。
グリルが温まるまで、僕たちは近況報告や世間話をして時間をつぶした。車を運転する必要がない無いメンツはアルコールを飲んでいたが、僕は運転係なのでノンカロリーの炭酸水だった。
食前酒が終わってグリルが温まると、そこにスーパーで買った肉やソーセージ、冷凍のエビなどを置いて焼き始めた。旨そうな匂いが立ち込めて、皆の口元が緩み始める。そうしてあらかた材料に火が通ると、僕たちは割り箸で肉やエビをつまんで、醤油や焼き肉のタレを付けて口に運んだ。
宴がしばらく続くと、僕はレモン風味の炭酸水を飲んで口をさっぱりさせて、隣で缶ビールを飲む美比呂にこう尋ねた。
「なあ、うちのクラスに岩本洋子って生徒が居たのを覚えているか?」
「誰、それ?」
美比呂の口からは残酷なセリフが出て来た。
「ほら、俺が理科の実験で指を火傷した時、介抱してくれた女の子が居たじゃないか」
「ふーん、そんな事があったんだ。遠藤は知ってる?」
話を美比呂から振られた遠藤は、肉をひっくり返しながらこう答えた。
「ああ、転校した子か。知らないな」
美比呂と遠藤はバーベキューに忙しい様子で、それ以上答えようとはしなかった。がっかりした僕はその場を離れて、目の前を流れる高麗川に向かった。
高麗川の流れは優しく、すべての人を友好的に受け入れているような趣があった。太陽の光は強く反射していたが、それは季節の移り変わりを移す鏡のようなものだった。僕はその場から移動して、人気の無い方向に向かって歩く事にした。
人気の無いところは地面が踏み固められてはおらず、様々な草が伸び放題だった。淡い緑に輝く彼らは太陽の光を受けて葉を広げて、何かを成し遂げようとしている様子だった。恐らく今年芽吹いた若い草花だろう。まるで大人の階段を上る中学生の様だった。
その光景に癒された僕は踵を返して、バーベキューの会場に戻ろうとした、すると、足元に花を咲かせる一輪の雑草に気付いた。
品種の分からないその花は可憐で美しく、小さな花を開いて一生懸命に咲いていた。茎はか細く葉も小さくて華奢な印象だったが、何物にも穢されていない純粋な美しさがあった。
人は野に咲くすみれ草
だからはかなく美しい。
なんてことない、
命だけれども、
強くひたむきに
生きている。
洋子が書いたあの散文詩の内容が、僕の中で優しく反響する。彼女はきっとどこかで明るく生きている。この地面に咲く草の花の様に。だから大丈夫。僕はこの事を思い出にしていいのだ。
胸の中で、あの頃の洋子がそっと微笑む。そしてそよ風が吹くと、彼女はなびく草木と一緒にどこかに消えて行った。
(了)
僕はベッドから這い出て、バスローブを身にまとって、今日が日曜日であることをカレンダーで確認した。そのままリビングダイニングに向かい、コーヒーメーカーにフィルターとコロンビア産のコーヒー豆、それに水を入れてスイッチを入れた。食器棚から二つのマグカップを取り出すと、寝室の方から美比呂が服を着ないでやって来た。
「何してるの?」
「コーヒーを淹れているんだよ」
僕はそう答えて、服を着ていない美比呂を見た。腰まで伸びた黒髪に豊かに膨らんだ乳房と、その真ん中にあるバラ色の乳輪と乳頭。昨晩冷えたアブソルベントウォッカを開けて味わった極上の身体が目の前にあったが、不思議と劣情は湧いてこなかった。
「飲むだろ?砂糖と少な目でミルクを入れたの」
「その好みは義務教育を卒業した時に終わったわ。今はエスプレッソでも平気よ」
僕はその言葉を聞いて、ちょっと恥ずかしい思いをした。彼女を自分の部屋に招き入れるのは中学の時に、好きなアニメのCDアルバムを貸してあげた時以来なのだ。あの時は当然実家暮らしで、僕は塾通いに忙しかった。
美比呂が服を着てダイニングの席に着くと、ちょうどコーヒーが入った。僕はサーバーのコーヒーをカップに注いで、何も入れずにカップを手渡した。
「ありがとう。あなたの部屋で飲み物を貰うのは中学時代以来ね」
「そうだね」
僕はそう答えた。僕も三十手前になって、小学校時代の同級生を自分の部屋に迎え入れて一夜を過ごすなんて思っても居なかった。
「朝ごはんはどうする?」
「どこかでモーニングを頂くわ」
美比呂は素っ気なく答えた。僕は席に着かずに、窓の外の景色を見た。中国の宋磁の焼き物のような粒子感のある青空が広がり、休日のドライブには良さそうな陽気だ。
「此処から一番近い駅は何処?」
美比呂はコーヒーを口元に近づけて僕に聞く。
「東上線のときわ台駅。そこから池袋に出てJRに乗れる。駅まで送るよ」
「ありがとう。しばらく見ないうちにいい男になったわよね。白石」
「成人式の集まり時は学生だったからね」
僕は軽く笑ってそう答えた。
朝のコーヒーが終わり、僕と美比呂は身支度を整えて部屋を出て、マンションの駐車場に停めてある僕のアクセラスポーツに乗り込み、美比呂を東上線のときわ台駅まで送った。
駅のロータリーに着くと、美比呂は降りる前に僕にこう言った。
「今日の事はフェイスブックに上げない事にしましょう。また同級生同士のつながりが持ちたいから」
「ああ」
僕が答えると美比呂は車を降りて駅の雑踏に消えて行った。僕は車を出して、川越街道を少しドライブする事にした。
流れる車の中で、僕は中学時代に過ごした日々を思い返してみた。すると、記憶の日記帳の中に一枚だけ折り目が付いたページが有る事に気付いた。僕と同級生の間で交わした、ちいさな思い出の一ページが。
思い出の同級生の名前は岩本洋子と言って、名前の通りに古風で大人しい同級生だった。当時僕は今住んでいる町から離れた文京区本駒込に住んでいて、地元の中学校に通っていた。洋子とは同じクラスで、二年生の時に隣の席だったはずだ。手先が器用で、手芸部でよくポシェットや巾着袋などを作っていたのを覚えている。
二年生への進級が終わり、新しいクラスメイトの気心が知れて来たころ、同じ班だった僕と洋子は二時間目の授業で理科室に行き、ガスバーナーを使った科学の実験をしていた。確か水素か何かを取り出す授業で、とんとん拍子に実験が進んで拍子抜けしてしまった記憶がある。
実験が終わり、後片付けに取り掛かったころ。僕は足の長い暑いままの五徳に右手でうっかり触れてしまい、指に火傷をしてしまった。
「熱っ!」
僕は小さく叫んだ。すぐに備え付けの流しで指を冷やしたが、熱さが和らいで行くと同時に指先が鈍く痛み始めて、胸の奥から何かが逆流するような不快感が襲ってきた。
「大丈夫、白石?」
気付いた他の生徒達が僕の事を心配そうに伺ってくる。僕は強さを増してくる不快感に打ちのめされながら、「ちょっと気分悪い」と漏らすので精一杯だった。
「もしかしたら酷い火傷かも知れない、一応保健室に行って来なさい」
理科の担当教諭は僕にそう言った。そしてある程度指先を冷やすと、ハンカチで手を拭いて一人で保健室に向かおうとした。すると、洋子が僕にこう声を掛けた。
「大丈夫?白石。私も一緒に行こうか?」
洋子はそう声を掛けた。痛みと不快感で頭が一杯だった僕は何もしゃべらずただ頭を縦に振った。
リノリウム張りの廊下はいつもより長く感じられた。普段と同じペースで歩くのだが、いつもより足取りが重く感じられる。途中で僕が大きなため息を吐くと、洋子はさっとポケットから小さな絆創膏を二枚取り出した。
「これ、指に巻きなよ」
「ありがとう」
僕はすぐにそう答えると、洋子がくれた絆創膏を指に巻いた。絆創膏は桜の花をあしらった女の子らしい可愛らしいもので、僕はその時初めて女性的なやさしさと言う物を感じた。
学校一階の保健室にたどり着くと、僕は保健の先生に事情を話した。おもむろに右手を差し出すと、保健の先生は貼り付けたばかりの絆創膏を剥がして、軟膏を塗ったあと、傷を治すための無味乾燥な絆創膏を指に巻いた。
「気分はどう?」
「吐き気みたいのが有ります」
僕は保健の先生の問いかけにそう答えた。その結果、僕は三時間目を休むことになってしまった。
「それじゃ、私は戻ります」
「ありがとう。三時間目が終わったら教室に戻らせるわ」
保健の先生は洋子にそう言った。僕は保健室を去ろうとする洋子に向かってこう言った。
「岩本、付き添ってくれてありがとう」
その言葉を聞いた洋子は僕の方を振り向いて、そっと微笑んで保健室を後にした。その微笑みに僕は暖かさを感じ、そのままソファーベッドに寝返った。
三時間目の終了のチャイムが鳴り、指先の感覚と気分が戻ってくると、僕は保健の先生に一礼して教室に戻った。教室では四時間目の英語の授業の準備が始まっており、皆が席に着き始めていた。
「白石、あんたの教科書とか戻しておいたよ」
教室に僕が戻ったのを見つけた美比呂が声を掛けた。僕はありがとうと礼を述べて、自分の席に戻った。
「白石、もう大丈夫?」
僕が席に着いたのを見つけた洋子が僕に声を掛けた。僕は洋子の方を見て、目を合わせてこう言った。
「ああ、もう平気」
「そう、良かった」
洋子はまた微笑みながら答えた。それと同時に、僕の中で先ほどの不快感とは異なる、甘くて柔らかい気分が胸を駆け巡った。
「絆創膏、ありがとう」
それがその日洋子と交わした最後の言葉だった。
あれから僕は何か洋子に何かしただろうか、僕は車の鼻先を川越街道の池袋方面に向けて、信号が青に変わるのを待っていた。このまま池袋を抜けて不忍通り方面に行けば、地元に戻れる。
――折角だから戻ろうか?
そんな雑念が火花の様に僕の頭に光る。別に今住居を構えている常盤台のマンションに戻っても、目を通せと言われた仕事のメールと酒の残りが有るだけだ。だが、地元に戻った所でかつての同級生に会えるという保証はない。あるのは壮年の両親と古びた実家つまり弟夫婦の家位だ。だから言っても意味はないと思ったが、否定しようとするとどういう訳だか行きたいという気持ちが強くなってきた。
信号が青になる。僕は自宅マンションに戻るべき道を通らずに、地元に戻る道を選んだ。
絆創膏を貰ってから一週間たった放課後、僕は地元の洋菓子店で買ったクッキーを持って洋子の自宅を訪問し、インターホンを押した。しばらくしてから家の中との通話が繋がる音がする。
「どちら様でしょうか?」
返事に出たのは洋子だった。両親が不在と言う事は、共働きの家庭なのだろうか。
「白石です。この前の絆創膏のお礼を持ってきました」
僕はやや緊張気味に答えた。年頃の女子生徒の家にお邪魔するのは、初めての体験だった。
「ああ白石か、今扉を開けます」
洋子はそう言って扉を開き、玄関に僕を招き入れた。僕は両手でクッキーの小袋を突き出して、自分の手元を見ながらこう言った。
「この前はありがとう。これはお礼のクッキー」
僕はそう言った。すると洋子は驚いたような表情でクッキーの小袋を受け取ったあと、僕の顔を見てこう言った。
「良かったら、上がってお茶でも飲んでく?」
「いいの?」
謙遜する事をまだ知らなかった僕は反射的にそう答えた。
「いいよ、私自主勉強に飽きて来たところだから、一緒にクッキーでも食べようよ」
僕は無言で頷いて、靴を脱ぎ洋子の家に入った。
洋子の部屋に通されると、そこには淡いホワイトの世界が広がっていた。白い壁紙とレースのカーテンに、ガラスのミニテーブル。カーペットは優しいクリーム色で彼女の人柄を表しているような趣さえあった。奥にはベッドと学習机があり、小さなCDラジカセ以外に電子製品は無かった。
暫くすると、洋子が水出しアイスティーの入った二つのグラスと、小皿に出したクッキーをお盆に載せてやって来た。僕は中央にあるミニテーブルの席について、お茶を出してくれる洋子の手元を見た。彼女の指先は一筆で書いた水墨画の線の様に細くて美しかった。
「パソコンとかゲームは無いの?」
僕は部屋を見回しながら尋ねた。
「リビングにある。自分の部屋に余計な物は置かない主義なの」
洋子の言葉に僕は感心した素振りを見せた。それよりも意識し始めた異性の部屋に通されたという事実に圧倒されて、あまり思考が働かなかった。
「ここは純粋に勉強のための部屋?」
「まあね。後は自分で創作活動するのに使ったりしているよ」
「創作活動?」
僕は聞き返した。
「そう。散文詩とかを書いているの」
僕はその言葉に感心する事が出来なかった。まだ芸術に関心が薄く、ましてや自分の心境や感性を使って文字で何かを表現する事など、当時の僕にとっては異世界の事だった。
「折角だから、少し読んでみる?」
恥じ入ることなく洋子は僕に聞いてきた。
「いいの?」
僕は小さく答えた。すると洋子は立ち上がって自分の机に向かい、何処にでもある安いB5ノートを手に取ると僕の元へ手渡した。
ノートを開いてみると、そこには同じ年頃の女子生徒が書く丸文字ではなく、達筆の書道家が書くような文字で散文詩が綴られていた。
人は野に咲くすみれ草
だからはかなく美しい。
なんてことない、
命だけれども、
強くひたむきに
生きている。
その時の僕に文芸を鑑賞し、評価する能力は殆どと言っていいほど無かったが、洋子が澄んだ心の持ち主で、美しい物を美しいと素直に言える感性の持ち主だという事は理解できた。
「いい作品だね」
僕は反射的にそう口走った。そしてページをめくり、次の作品を見た。
成長すると、
美しく楽しいという事が
言えなくなる。
その代わり人間は
色々な事を学ぶのだけれど、
それは心を
濁らせてしまう。
素直なままで居る事は、
きっと人間を
壊してしまう。
その時の僕に、人間の成長が人の心を濁せることだという事に気付いていれば、この作品の真価が分かったかも知れない。だが当時の僕は花を咲かせることを覚え始めたばかりの若木だったから、この詩はただの文字として目に焼き付いただけだった。
「すごいね。俺には出来そうにないよ」
僕はそれだけ答えた。それ以外に作品を評価する語彙を持ち合わせていなかった。
「ありがとう。人に見せるのは初めてだったから」
洋子はそう微笑みながら答えた。
それから僕と洋子はアイスティーを飲みながら、他愛もない会話を続けた。それから十五分ほどで洋子の家を後にすると、僕の中に甘くて熱い、熱して柔らかくしたシロップが全身を包み込むような、心地よい感覚を味わったのを今でも今でも記憶している。
池袋から大塚に入り、不忍通りを本駒込方面に向かう。猫又坂の信号で止まると、僕はやはり引き返そうかと不安になった。だが信号が青に変わり、車を走らせるともう遅いと自分で納得させて、本駒込に入った。上富士の交差点を右折して、富士神社のある通りに入る。そこから車をしばらく走らせて、空いている百円パーキングに車を停めた。
車を降りると、空はどんよりと曇天だった。ざらついた感じの灰色の雲が空に立ち込め、梅雨入り前後の中途半端な季節を良く表現していた。
僕は懐かしさをどこか感じる街並みを眺めながら、天祖神社脇の母校へと向かった。僕の母校である中学校では授業中なのかしんと静まり帰っていて、中の様子は伺えなかった。この中に三年間よく押し込まれて文句も言わずに学校に通い続けたなと思うと、何だか複雑な気分になった。僕は正門前で立ち尽くしたあと、引き返して自動販売機でコカ・コーラを購入し、学校のすぐ近くにあった洋子の家に行ってみた。
洋子の家は僕がクッキーを届けに行った時と変わらぬ様子でそこにあった。しかしあった筈の表札は消えて、安い国産ミニバンが収まっていた筈の駐車スペースには車が無かった。
そしてその時、僕は有る事実を思い出した。彼女はもうこの街には居ないのだ。
洋子が転校したのは三年生の秋だったと記憶している。クラスの皆は高校受験を控えて、どことなく浮足立っていた。最後の学習発表会が終わり、年明け前位には合格の成否が決まるだろうと考えていた時期に、生徒たちの間で、最近顔を見せない洋子が転校するという話が出て来た。
--なんでまたこの時期に?
と僕は思った。別々の高校に進学して離れ離れになるのは分かっていたが、別れるのが早すぎる。せめてあと二か月は伸ばして欲しかった。と言うのが僕の素直な気持ちだった。
僕はあの時洋子の部屋に上げてもらった時の気持ちを醸成して、彼女の事を一人の女性として意識するようになっていたから、どんな形でもいいから何か気持ちを伝えなければと思った。僕は心の中で洋子に打ち明ける言葉を用意して、会話を聞いた次の日に気持ちを伝えようと思った。
だが、次の日から洋子は学校に来なかった、さらに次の日もそのまた次の日も、洋子は来なかった。しばらくして担任の先生から「家庭の事情」という冷たい言葉で洋子が何処かに転校した事を告げられると、僕の気持ちは大海原に浮かんだゴミクズみたいに、中学最後の寒空を漂った。
それから僕は大学付属の高校に進学し、エスカレーター方式で大学の政治経済学部に入ると、そこから大手の情報通信会社に就職した。傍目から見れば順風満帆な人生だ。だが伝えたかった気持ちを伝えられないまま成長してしまったから、僕の中に小さなが穴が開いてしまっている。
僕は車を自宅のある常盤台方面に走らせながら、なぜあの時気持ちを伝えられなかったのだろうと思った。コミュニケーション能力が欠如していたとか、奥手だったからとかいう類のものでは無い。あの時の僕の気持ちはとても清らかで美しい、それこそ野に咲くすみれ草を愛でるような類の気持ちだったのだ。だからきっと、はかない花を咲かせるすみれ草の様に、しおれてどこかに消えてしまったのだ。
自分の部屋のあるマンションにたどり着くと、僕は車を駐車場に停めて部屋に上がり、昨日飲んだアブソルベントウォッカを飲みたい衝動を抑えて、ノートパソコンのある机に向かった。そしてフェイスブックを開いて友達検索をしたり、洋子のフルネームをあちこちの検索エンジンに掛けてみたが、何も見つからなった。
僕は心苦しくなり、そのまま乱れたままのベッドに仰向けになった。なぜだろう。中学時代の時以上に心が苦しく、そして洋子に対する思いが強くなっている。まるで花を咲かそうとしている植物のつぼみのような感覚だ。どうする事も出来なくなった僕は気分を落ち着かせるためにアブソルベントウォッカをグラスに注いで一気飲みし、気持ちを落ち着かせた。
今日はもう何もしない事にしよう。僕はそう自分に言い聞かせた。
それから数日後、僕は仕事の途中で寄った秋葉原のスターバックスでソイラテを飲みながら会議の資料を準備していると、ノートパソコンの傍らに置いたスマートフォンがブルルと震えて、メッセンジャーの着信を知らせた。画面をタップして開いてみると、そこには同級生の遠藤から、二週間後の土曜に中学時代の同級生が集まって、高麗川でバーベキューをしないかと言う内容のメッセージ書かれていた。幸いにもその日は何もすることが無かったので、僕は参加すると返信を入れた。もしかしたら、洋子の事が少し分かるかも知れないという小さな希望を抱きながら。
それから二週間たった土曜日の朝八時、僕は待ち合わせ場所にしていた駒込駅のつぶれたパチンコ屋までボルボを走らせて、乗せる同級生と荷物に面会した。すでにバーベキューの道具と材料は遠藤のオデッセイに積んであるという事だったので、僕はこの前一夜を共にした美比呂を含む同級生三人と手荷物をアクセラスポーツに載せた。そして二台の車列で駒込駅を出発すると、そこから国道十七号に入り、新板橋から池袋線、外環道を通って関越に入り、川越で降りて高麗川に向かった。
高麗川のバーベキュー場では家族連れや僕らと同じような目的のグループが既にバーベキューやら川遊びをして楽しんでいた。僕達はタープを張り折り畳み椅子を広げて準備をして、バーベキューの用意をしてグリルに火を入れた。
グリルが温まるまで、僕たちは近況報告や世間話をして時間をつぶした。車を運転する必要がない無いメンツはアルコールを飲んでいたが、僕は運転係なのでノンカロリーの炭酸水だった。
食前酒が終わってグリルが温まると、そこにスーパーで買った肉やソーセージ、冷凍のエビなどを置いて焼き始めた。旨そうな匂いが立ち込めて、皆の口元が緩み始める。そうしてあらかた材料に火が通ると、僕たちは割り箸で肉やエビをつまんで、醤油や焼き肉のタレを付けて口に運んだ。
宴がしばらく続くと、僕はレモン風味の炭酸水を飲んで口をさっぱりさせて、隣で缶ビールを飲む美比呂にこう尋ねた。
「なあ、うちのクラスに岩本洋子って生徒が居たのを覚えているか?」
「誰、それ?」
美比呂の口からは残酷なセリフが出て来た。
「ほら、俺が理科の実験で指を火傷した時、介抱してくれた女の子が居たじゃないか」
「ふーん、そんな事があったんだ。遠藤は知ってる?」
話を美比呂から振られた遠藤は、肉をひっくり返しながらこう答えた。
「ああ、転校した子か。知らないな」
美比呂と遠藤はバーベキューに忙しい様子で、それ以上答えようとはしなかった。がっかりした僕はその場を離れて、目の前を流れる高麗川に向かった。
高麗川の流れは優しく、すべての人を友好的に受け入れているような趣があった。太陽の光は強く反射していたが、それは季節の移り変わりを移す鏡のようなものだった。僕はその場から移動して、人気の無い方向に向かって歩く事にした。
人気の無いところは地面が踏み固められてはおらず、様々な草が伸び放題だった。淡い緑に輝く彼らは太陽の光を受けて葉を広げて、何かを成し遂げようとしている様子だった。恐らく今年芽吹いた若い草花だろう。まるで大人の階段を上る中学生の様だった。
その光景に癒された僕は踵を返して、バーベキューの会場に戻ろうとした、すると、足元に花を咲かせる一輪の雑草に気付いた。
品種の分からないその花は可憐で美しく、小さな花を開いて一生懸命に咲いていた。茎はか細く葉も小さくて華奢な印象だったが、何物にも穢されていない純粋な美しさがあった。
人は野に咲くすみれ草
だからはかなく美しい。
なんてことない、
命だけれども、
強くひたむきに
生きている。
洋子が書いたあの散文詩の内容が、僕の中で優しく反響する。彼女はきっとどこかで明るく生きている。この地面に咲く草の花の様に。だから大丈夫。僕はこの事を思い出にしていいのだ。
胸の中で、あの頃の洋子がそっと微笑む。そしてそよ風が吹くと、彼女はなびく草木と一緒にどこかに消えて行った。
(了)