硝子少女・前篇

文字数 2,513文字

 ――身を砕くなる夕まぐれ、心の色はおのづから――
 謡曲『野宮』より


 生まれた子を見て、母親はたいそう驚いた。硝子(がらす)なのである。身体が透けていた。
「病気――ですか?」
先天性玻璃状構造体児童(せんてんせいはりじょうこうぞうたいじどう)。突然変異による硝子生命体(がらすせいめいたい)です。お腹のなかで砕けなかったのは僥倖でした。そういったケースでは、母体も無事では済みません」
 産衣にくるまれた赤ん坊は、病室の光を反射して、眼を刺すようにきらめいていた。赤子らしい小さな体躯が、透明な輪郭を形づくっている。これでは目鼻立ちもよくわからない。ひどく無愛想な硝子の赤ん坊。
「これ……生きられるんでしょうか?」
 母親は無意識に、目の前のわが子を“これ”と呼んでしまった。人間というより、珍妙な器物に思えた。なにかの悪い冗談みたいだ。
 母親の言葉を咎めるでもなく、医師は答えた。
「ええ。硝子とはいえ、生きていることに変わりはありません。ただし、くれぐれも扱いには気をつけてくださいよ。見かけどおり、繊細なお子さんですから」
 にっこりと医師は笑った。
「元気な女の子です。傷ものになっては大変だ」
 医師の冗談は、まったく笑えなかった。

 彼女は鏡を眺める。自分の顔が映っている。透明な硝子の無表情。その顔に、顔の映った鏡が映りこんで、反復された、歪んだ鏡像が見える。鏡に映った硝子に映った鏡に映った歪んだわたし……。その先をたどりつづければ、わたしは硝子ではないわたしの顔を、いつかどこかで見つけられるだろうか。
 彼女は鏡から眼を離す。いつまで見つづけても、硝子の顔は、湖面のように冷たく無表情だと、わかっているからだ。
 彼女は顔を洗い(顔を磨き)、髪を梳かし(髪を削り)、制服に着替えて、身支度を整えた。
「行ってきます」
 母親に声をかけて、通りすぎる。
「朝ごはんは?」
 気遣うような問い。こわれものに触れるような。
「いらない」
「そう」
 言葉少なな母子のやり取り。硝子の娘は、いまだにこの母から生まれたと信じられない。母は母で、いまだにこの娘を生んだと信じられない。愛がないというわけでは、ないけれど。組成が違いすぎる。
 彼女は家を出た。学校に向かう。行きたくもないが。
 電車に乗った。相変わらず、周りの乗客から物珍しげにじろじろと見られる。いつも通学しているのだから、いいかげんにやめてほしい。少しは見慣れて無視してほしい。硝子のくせに、人間のふりか? いつもそんな風に、視線に問われているような気がする。
 以前、車内で痴漢にあったことがある。後ろ姿と制服だけで、よくわからなかったのだろう。ぶしつけに触られて、振り返って睨みつけたら、悲鳴をあげられた。のっぺらぼうに会ったような、甲高い悲鳴。屈辱だった。そんなに怖いなら、死ねと思った。叫びたいのはこちらの方だ。いつだって、叫びたかった。硝子が砕けるほど耳障りな叫び声で。
 学校に着く。廊下を歩く。人間、人間、人間。顔を持った、肉を持った、透けていない人間たち。すれ違う。後ろから、小声でなされる会話。聞こえてしまった。
「いつ見ても不気味ね」
 教室に着く。顔だけは見知っているクラスメイトたち。内面は知るよしもないクラスメイトたち。いまだに、名前をよく覚えられない。覚える気もない。どうせ、違う存在だ。そんなところも、反感を買うのだろう。彼女は疎まれていた。
 孤立は幼年のころからおなじみだ。特に、学校という集落に放り込まれた後は。
「この子は普通の子とは違います。傷つきやすい硝子なのです。だから、みんなでいたわって、優しくしてあげましょうね」
 おせっかいな教師はそう言った。小学生と呼ばれる人間の子どもたちは、にこにこ笑って、はい、とお行儀よく返事した。そうしてにこにこ笑ったまま、彼女を裏でいじめにいじめた。
 数人の男の子たちから無理やり服を脱がされて、囃し立てられた。
「本当だ、身体中が透明だ。おまえ、本当にニンゲンかよ?」
 おまえたちがニンゲンなら、わたしはニンゲンになんかなりたくないと、こころの中で毒づいたところで、虚しさが晴れるわけでもない。
 金槌で指を叩き割られたこともある。教師に後で叱られたその女の子は、本人の言によれば、「硝子なら、割れるのかな、と思って」、確かめてみたくなったそうだ。お望みどおり、指はしっかりとひび割れた。しかし数日経つと、新品の指のようにぴかぴかに復元した。「よかったじゃん」と加害者の女の子は笑った。その笑いが、いまも忘れられない。あんな笑顔を浮かべるくらいなら、わたしは顔なんていらなかった。
 成長すると、あからさまな悪意にさらされることは、以前より少なくなったとはいえるかもしれない。高校生ともなれば、嫌悪を隠す作法も少しは上達する。人権教育の賜物だろうか。単にませただけか。きらきら光るものに引き寄せられる、子どもっぽい好奇の習性を、恥じるようになるのかもしれない。もっとも、遠巻きにこちらを探るような視線は、絶えることはない。学校という空間は、彼女にとっては、相変わらず真っ白な無人島だ。他者は、曇りをもたらすノイズでしかない。学校を出たところで、同じようなものではあったが。
 授業が始まる。学校で唯一、気が休まる時間だ。勉強が好きなわけではないが、野放しの時間よりはマシだった。授業が始まりさえすれば、奔放な生徒たちも、厩舎につながれた家畜に似るしかない。硝子の彼女もまた、熱心な奴隷のように、せっせとノートに書き取りをする。
 なぜ自分はここにいるのだろう、と、ペンを動かす透明な手をとめて、彼女はふと思う。答えはない。物心ついた時から、幾度となく問うてきたが、答えなどなかった。なぜ自分は透明な硝子なのだろう、と問うても、同じことだ。ただ、二つ目の疑問は、普通の人間に生まれさえすれば、抱かずに済んだ余計な疑問だ。自分の存在自体が、余計に思えた。
 チャイムが鳴った。授業は終わった。また、気詰まりな時間がやってくる。ぬるい煉獄のような。
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