九、…新種の流行病やもしれん。それも、かなり危険な……。
文字数 1,861文字
床に延べられた布団の中で、お嬢さんは荒い息を吐き続けていました。顔の半ばは包帯で覆われています。彼女の枕元に座った医者は酷く難しそうな顔をして黙りこくるばかりでした。
お嬢さんの怪我は左目付近の裂傷でした。フラフラと歩いてきた男が突然にお嬢さんに噛み付いたのです。幸いにも眼球は傷ついておらず、出血は派手でしたが、傷自体は深くありませんでした。だから、お嬢さんは傷のせいではなく、突然男に襲われたショックにより参ってしまったのだと、私たちは考えていました。
――ですが……あなたにもお分かりでしょう。事はそれほど簡単ではなかったことが。
ですが、引き止める奥さんの手を振り切って、医者は青い顔をしたまま逃げるように家から出て行ってしまいます。不安に押し潰された奥さんがよよと泣き崩れる中、Kは私の耳元でぼそりと言いました。
荒い息で身悶えるお嬢さんの姿を見つめながら、Kは辛そうな声で私に告げました。
Kの不吉な推測に私は眉をひそめました。そして、この事件の翌日から、私たちの日常は急速に壊れていったのです。
大学から学生が減り、休講が相次ぎ、商店が緊急休店し、官憲の見回りが増えて、社会全体の監視が厳しくなりました。にもかかわらず、暴漢騒ぎは相次ぎ、見回りの巡査までが襲われる始末。数日の後には、帝都の治安は容易に外を出歩けぬ程に悪化していたのです。一時期はあれほど忙しなく走り回っていた官憲も、逆にめっきりと姿を見せなくなりました。
そして、お嬢さんの容体も悪化の一途を辿っていくばかりでした。
病臥に伏せるお嬢さんの口に、私は丸のままの茄子を詰め込みました。台所になど立ち入ったこともない私に、料理など土台できるはずもありませんでした。
それでも、お嬢さんは口に詰め込まれた茄子を苦しそうに飲み込みます。お嬢さんはもはや茄子しか摂らなくなっていました。
そっとお嬢さんの額に掌を当てます。燃えるように熱く、私はお嬢さんの命の危機を前に、必死に女々しい涙を抑えました。
苦しみに喘ぐお嬢さんを見ていられなくなって、私はお嬢さんから目を逸らしました。
あれ以来、医者は一度も来てくれません。今はどの家も窓や雨戸を板で補強して、家へ押し入ろうとする暴漢に備えています。いえ――もはや暴漢などと生ぬるい言葉を使うべきではありません。彼らは平気で路上を徘徊し、手当たり次第に人に噛み付き、人家へ群がっては中へ閉じ籠もる人たちを無闇矢鱈に襲うのです。正気の沙汰ではありません。
彼らを取り締まるべき官憲の姿は街のどこにもありませんでした。一体何が起こっているのか? 私には何も分かりませんでした。果たして、Kの言うようにこれは新種の流行病なのでしょうか?
そのKが不穏な言葉と共に現れ、片手に握った新聞を広げて見せました。紙面はたった一つの話題で占められ、最悪の事態を想起させる文言が踊るように飛び交っていたのです。
「関東を中心に猛威を振るう感染病」
「感染者は凶暴化! 人を襲い始める!」
「珍聞! 死者が歩いた!?」
「政府は患者をゾンビと呼称!」
「列島沈黙! 首都圏大混乱!」
そして、これが私たちが受け取った最後の新聞となったのです――。