犠牲者
文字数 7,330文字
加藤あさ美は即死だった。
目撃証言と関係者の証言、階段に設置されていた防犯カメラと千美の撮影していた映像から、あさ美はめぐみの手を振りほどいたときに勢い余ってバランスを失って転倒、階段を転落したことが証明された。
「またお話をお伺いすることがあるかもしれませんが、今日はこれで。ご協力ありがとうございました」
須間男と千美に聴取を行った警官たちは、そう言って病院のロビーをあとにした。
「お疲れ様」
残された二人に声をかけたのは小埜沢だった。意外な人物の登場に、今までぼんやりとしていた須間男の意識が、一気に現実に引き戻された。
「小埜沢さんが……どうしてここに?」
「身元引受人代行、ってところかな」
「社長は?」
「かなり落ち込んでいたよ。合わせる顔がないって」
昨日の愚痴といい、今日の二日酔いといい、どうも社長の様子がらしくないことに、須間男は不安を覚えた。
「そうですか……。ところで、加藤さんのご遺族の方は」
我に返って、須間男はようやくあさ美の死という現実の重さに気づいた。もしかしたら自分たちやナンバー4の呪いとは全く関係ないのかもしれないが、間接的にだが彼女を呼び出したという責任がある。遺族と会わなければならないと、須間男は強く思った。
しかし、小埜沢は大きくかぶりを振った。
「僕が面会してきた。これ以上の刺激は与えない方がいい」
良く見ると小埜沢のワイシャツはくたくたで、ボタンもいくつかちぎれていた。それだけで、何があったのかは容易に想像できる。
「さあ、行こうか」
小埜沢に背中を押され、須間男はロビーを歩く。ふたりの後に千美が続く。外は既に暗く、蛍光灯の頼りない灯りがロビーを薄暗く照らし出す。昼間はそれなりの来客で埋められるであろう長椅子も、今はただ静かに整列しているだけだ。
いや……長椅子の隅に、ひとりだけ座っている人がいた。奏音だった。
「麻美さん」
須間男の呼びかけに、奏音はびくっと体を震わせると、素早く振り向いた。
「あ……鈴木さんでしたか……」
「ごめん、驚かせたみたいで」
「いえ……そうですよね。麻美奏音と相馬あさ美。同じ『あさみ』ですよね……」
奏音は力無く笑った。同じ名前が、今は辛い思い出を呼び戻すだけのキーワードになってしまっているようだ。
「僕らはこれから帰るところだけど、送っていこうか?」
小埜沢が奏音に声をかけるが、彼女は首を横に振った。
「めぐみさんが送ってくださるそうです」
奏音は答えると、出入り口の方を見た。視線の先には、誰かに電話をしている相馬めぐみの姿があった。
「小埜沢さん、でしたっけ?」
須間男が聴取を受けている間に、小埜沢と奏音は自己紹介を済ませていたようだ。
「……どこかで 、お会いしていませんか ?」
「そう……かな。ちょっと思い出せない。ごめんね」
「いえ、いいんです」
「お迎えが来るまで、僕らも一緒にいようか?」
「いえ……すいませんが、ひとりにさせてください」
「そう……。気を落とさないでね」
「ありがとうございます。……鈴木さん」
「あ、はい?」
「どうかお願いします。私たちを……助けてください」
奏音の言葉に対して、須間男はどう答えていいかわからなかった。口べたな彼でも、励ましの言葉くらいはいくつか思いつく。しかし、奏音が求めているのはその場しのぎの言葉ではなく、抱えている問題も精神論でどうにかなるものでもない。
逡巡の末、曖昧に会釈した須間男に、奏音は深々と頭を下げた。
小埜沢に促され、須間男は正面入り口を出て駐車場に回った。駐車場にはいつの間にか、見慣れた白ワゴンが停められていた。
「どうする? もしよければ僕が運転するけど」
「いえ……」
小埜沢の申し出を須間男は断った。助手席に座って小埜沢と話す気にはなれなかったし、後部座席で千美と並ぶのはもっと嫌だった。須間男の考えは筒抜けだったようで、小埜沢は苦笑しつつ後部座席に回った。彼に続いて須間男が運転席に乗り込むと、後部座席から白い手がすっと伸びてきた。
「テープ、預かります」
相変わらず抑揚のない声で、千美が催促する。
「明日までに確認と編集作業を終えておきますから」
「千美ちゃん、今日は休んだ方が」
「大丈夫です」
千美の手は積極的に催促するでもなく、須間男の横に突き出されたままだ。その手を見ているうちに、須間男は我慢の限界に達した。
「よく平気な顔でそういうこと言えますよね? 人ひとり死んでるんですよ? 何とも思わないんですか? きっと何とも思わないんでしょうね! 本当に何なんですか! 奏音ちゃんたちの為にがんばろうって気持ちでやってるわけじゃないですよね? ただ仕事で映像をつぎはぎして、完成品を世に送り出せればいいんですか。人が何人死のうが、嘘の物語さえ作れればそれでいいんですか! ぜんぶ嘘にする気ですか! そんな気持ちで関わっていいことじゃないでしょうが! これは現実なんですよ! あなたには嘘と現実の区別もつかないんですか! 人の不幸がそんなに楽しいですか! それなら勝手にしてください!」
須間男はありったけの不満を千美にまくし立てると、鞄からテープを取り出し、千美に向かって投げつけた。テープは思わぬ角度で跳ね上がり、ガツッと嫌な音を立てて千美の額に直撃した。
その光景は、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れていた。彼の視線は、テープをぶつけられてよろめく千美の耳たぶに揺れる、透明なティアドロップ型のイヤリングをしっかりと捉えていた。
今までぼさぼさの長髪に隠されていたイヤリングを見た瞬間、須間男は何故か猛烈な罪悪感に襲われた。しかしピークに達した怒りは簡単には収まらず、須間男は逃げるように運転席を降りて歩き出した。
「おい、鈴木君!」
後部座席から降りた小埜沢が声をかける。
須間男は振り返ることなく、駐車場を後にした。
「やっぱり、私が悪いんでしょうか」
額の切り傷に絆創膏を貼りながら、千美がぽつりとつぶやく。
「彼、かなりキレてたね。僕は彼の気持ちもわかるよ。彼は真っ直ぐだから」
ミラー越しに千美の様子をうかがいながら、小埜沢は答えた。
「で、実際、千美ちゃんは今回の案件に、どういう気持ちで取り組んでいるの?」
「……わかりません」
絆創膏を貼り終えた千美は少し俯き、黙り込んだ。これは彼女が何かを思案している時の仕草だと、共に仕事をしてきた小埜沢にはよくわかっていた。だから彼も黙って、答えが導き出されるのを待った。
「……でも、なんとなく覚えがあるんです」
「覚え?」
「久千木という人が送ってきた映像に映り込んでいた廃屋に」
「……君もか。僕もそれが引っかかっているんだ。君を社に送るついでに、そのビデオの映像を見せてもらえないだろうか」
「……はい」
千美は膝の上に載せたテープを見つめた。その仕草だけで、千美が何も感じずに仕事をしているわけではないと言うことが、小埜沢には読み取れた。しかし同様の察しを須間男に求めるのは身勝手だと言うことも、彼はわかっていた。
「小埜沢さん」
「ん? 何だい?」
「嘘と現実の境界線なんて 、必要なんでしょうか ?」
突然の問いかけに、小埜沢は言葉を失った。
結論から言えば、境界の有無以前に、嘘と現実は明らかに異なる。それは当たり前のことだ。しかし、千美の問いかけはそうした常識についてのものではなく、もっと千美の根幹に関わる問題 なのだと感じて、小埜沢は返すべき言葉を見いだせなかった。
「すいません。忘れてください」
それっきり、車内は沈黙に包まれた。千美は俯いたまま、車体の揺れに身を任せている。小埜沢はハンドルを強く握りしめ、眼前に広がる暗闇を睨んだ。
……恨むぞ 、親父 ……。
日暮里駅に降り立っても、須間男の気持ちは散らかったままだった。
空を見上げても分厚い雲が星を覆い隠し、地面を見ても猫の姿はない。目に入るのは土塀の向こう側から覗く墓石と卒塔婆ばかりだ。谷中は猫の町として有名だが、寺の町でもある。狭い地域に寺がいくつもあり、同じ数だけ墓地がある。普段は気にも止めない須間男だったが、死を目の当たりにしたばかりの彼の視線は、自然と墓地を捉えていた。
壁ひとつ向こうに死の象徴がある。言い換えれば、生と死の境界は墓地を囲う土塀程度のものでしかない。何かのきっかけがあれば、あっさりと人は塀の向こう側に行ってしまう。もし何もなかったとしても、いずれ人は死を迎える。
だが、加藤あさ美の死はあまりにも突然だった。
千美への態度が八つ当たりだと言うことを、須間男は自覚していた。あさ美を助けることが出来なかった、話を聞いてあげることが出来なかった、何かできたのではないかという思いと、自分はこれだけ彼女の死を悼んでいるという言い訳の裏返しだった。
須間男の千美に対する不満は、鶴間千美という「人間」がわからないことが根源にあった。しかし自分は千美をわかろうとしただろうか? そして、千美に対して鈴木須間男という「人間」をわかってもらおうとしただろうか?
答えは「いいえ」だ。
早々と理解を諦め、切り捨て、そして否定した。好きなジャンルを手がける会社を小埜沢に探してもらい、転職すれば縁も切れる。転職を決めてからは、むしろ彼女を理解しないように務めてきた。
なら、何故苛つくのか。
何を彼女に求めているというのか。
何故彼女に、何かを求めるのか。
アパートに帰り着いても、須間男の気持ちは落ち着かなかった。シャワーを浴びる気にもなれず、バスタオルで体中の汗を拭って煎餅布団に身を委ねても、不快感は体の内側に充満していた。扇風機はじっとりした生ぬるい風をかき混ぜ、布団も中途半端に熱を含んで不快感を呷るだけだった。
不毛な思考の合間に、揺れるイヤリングの映像がカットインのように浮かんでは消える。
そのとき、枕元のスマートホンが鳴った。
「こんな夜中に悪いね」
「いえ……」
どうせ寝付けそうになかったので、と言いそうになって、須間男は言葉を飲み込んだ。
川口は笑みを浮かべると、@LINKシアター入口の大きな扉を開いた。
二十三時過ぎのシアター内には、川口と須間男のふたりだけしかいない。川口はアリーナ最前列席に座ると、隣へ座るよう、須間男を促した。
「それで、お話というのは……?」
「マスコミには報道の自粛をお願いしておいた。加藤あさ美さんの事故死は報道されるだろうけど、君たちの名前は出てこないはずだ」
淡々と話す川口の顔は、須間男ではなく、無人のステージ上に向けられていた。
「何で……そんな根回しを?」
「君の立場を守るため、と言ったら、君は信じるかい? 鈴木須間男君」
川口の言葉に、須間男は少なからず動揺した。例えそれが到底信じられないことだとわかってはいても、名指しされて狼狽えないわけがない。
それが川口という男の人心把握術なのだろう。
「@LINKへの飛び火を防ぐためですよね」
あさ美の死を掘り下げられれば、いずれ寄藤に辿り着く。寄藤が@LINKのトップオタだったことや、出禁を喰らった経緯、そして数々の悪行があぶり出される。そして批判の矛先は、寄藤との繋がりが噂されている川口にも向けられる。
須間男たちの存在を伏せることは、そうしたリスク対策の一部でしかない。
「私は静かに事態を収束させたい。ただそれだけですよ」
川口の言葉に嘘はない。だが、必要以上のことは話さない。
それでいて、言葉の裏側を臭わせる。
どう受け取ろうが、それは受け手の勝手な解釈でしかない。
言質を取られることなく、相手に忖度させることのできる言葉選び。
川口という男は、須間男がもっとも苦手なタイプだった。
「自粛要請がいつまで守られるかもわからない。それに、すべてのメディアが配慮してくれるわけじゃない。特に一部のネットメディアはね」
ネットメディアはSNSと並び、現代のインターネットを象徴する存在だ。
個人または企業が管理するネットメディアは、一般的なニュースも扱うが、より多く取り扱う題材が「炎上案件」だ。
有名人の失言や醜態を大きく取り上げて拡散し、延焼させようとする。実際、ネットニュースで拡散されたことにより、当事者が謝罪、あるいは活動自粛といった事態に追い込まれたり、所属会社や親族にまで影響を及ぼすケースが増加している。
中には真偽不明なものや、恣意的な編集で対象者を吊し上げたり、媒体を運営する個人や会社にとって都合の悪い相手を追い込むなどの「悪質まとめサイト」も存在し、いくつかは他のネットメディアの取材によって白日の下にさらされたりもしている。
「そうですね」
「君だって他人事じゃないんだよ。先輩、いや、君のところの社長さんだって、あんな過去 を掘り返されたくはないだろうし」
「あんな過去 ?」
「何だ、聞いてないのか……まあ、それもそうか。自分から話せるようなことじゃない。ちょうどいい機会だ。君には知る権利がある」
「そういう話は結構です」
須間男は席を立とうとした。本人が話したがらないようなことを、こんな形で他人から聞くべきではないと判断したからだ。
「君も逃げるのか」
川口は立ち上がり、須間男の肩に手を置いた。
「あの男もそうやって逃げたんだよ。仕事を放り出して行方をくらませて、大勢に迷惑かけて」
須間男の肩に、川口の指が食い込む。
「あの男が映像屋をはじめる前、何をやってたかも知らないだろ? 売れない大部屋俳優だ。それも映画やテレビじゃなくオリジナルビデオのだ。チンピラAとか通行人Cとか、台詞もなくスタッフロールのその他大勢の中にちっぽけな名前が出るだけの、だ」
オリジナルビデオは、今の地上波放送ではあまり流れなくなったが、衛星放送ではよくリピート放送されている。今でも根強い人気があり、レンタルDVDなどもある。カオスエージェンシーでも何作か、ビデオテープからDVDへのリマスター作業を請け負ったことがあり、須間男もその存在を知っていた。
八十年代後半に大手会社がオリジナルビデオをリリースし、一気に火が付いた。特に人気が高くリリース本数の多かったレーベル名から、「Vシネマブーム」とも呼ばれた。予算は製作会社によってまちまちだが、作品の多くはアウトロー・バイオレンス・セクシー要素を全面的に押し出したハードコア路線だった。
「まあ、私も同じ事務所の後輩だったから、偉そうなことは言えないか。だけどね」
川口が須間男の肩を押し、無理矢理座らせた。
「これから売り出そうっていう女優と駆け落ちなんて真似は、私には到底出来ないよ。しかもその女優が、監督の女ならなおのことだ」
口調はやや穏やかになったが、川口の声には相当な怒りが籠もっていた。
「訳アリ主演女優と木っ端俳優の逃避行。昭和のドラマみたいだとは思わないか? だけどね、現場にとっては迷惑もいいところだ。企画はお流れ、事務所は干されて倒産、関係者が血眼になっているところに、あの男はしれっと戻ってきたんだぞ。考えられるか?」
川口は大げさにため息をつき、大げさに肩をすくめた。
「比喩ではなく、あの男は東京湾に沈められる寸前だった。女を奪われた監督が止めて、おまけに箝口令まで敷いた。肝心の女はとっくにあの男と別れて、何処かへ消えたっていうのにだ」
お人好しにもほどがある、と、川口は吐き捨てた。
「今回の騒動に収拾が付かなかったら、あの頃の箝口令も無効になるだろう。私以上にあの男を許せない人は大勢いる。もっと酷い話 も出てくるだろう」
もっと酷い話 。
その内容をあえて明かさず臭わせることで、不安を煽る話術。そうわかってはいても、須間男は気にせずにはいられなかった。
「それを僕に話して、どうしろと言うんですか?」
「君、うちの映像事業部に来ないか?」
「え?」
想定外の言葉に、須間男は面食らった。
「君が乗っているのは泥船だ。しかも船長は職務放棄の前科がある。君も一緒に沈むぞ」
「そんなことは」
「君は技術もノウハウもあるし、何より誠実だ。いきなり監督という訳にはいかないが、助監督ならなんとかなる」
川口の言葉に、須間男は眉をしかめた。
「……僕にこの件から手を引けと言うんですか?」
弱小下請け事務所の映像屋にはあり得ないほどの好待遇に、疑問を抱かない方がおかしい。いくら駆け引きが苦手な須間男でも、額面通りには受け取れるはずがなかった。
通常であれば、須間男ひとり抜けても制作に影響はないだろう。だが今回は死者が出ている。ただでさえ続けられるかどうかわからない状況での退社は、少なからず影響を及ぼすはずだ。
「誤解しているようだけど、最初に言ったとおり、私は君を助けたいだけだ。今の提案は、あくまでも選択肢のひとつだ。受けるのも断るのも君の自由だ」
「でしたら、この場でお断りします」
須間男はきっぱり言い切った。
「そうか……。わかっていると思うけど、あまり時間はないよ。それでも君は、あの男と共倒れする道を選ぶのかい?」
「見た目は胡散臭いし謎も多い人ですけど、僕はあの人が嫌いじゃないですよ」
「ずいぶん物好きだな」
「それに」
須間男は立ち上がり、川口を見据えた。
「あなたの口からは、加藤あさ美さんの死を悼む言葉がひとつも出てこなかった」
「それは」
「それだけで充分です」
須間男は川口に背を向けて、シアターを出て行った。
座席を蹴ったと思われる物音に、振り返ることもなく。
目撃証言と関係者の証言、階段に設置されていた防犯カメラと千美の撮影していた映像から、あさ美はめぐみの手を振りほどいたときに勢い余ってバランスを失って転倒、階段を転落したことが証明された。
「またお話をお伺いすることがあるかもしれませんが、今日はこれで。ご協力ありがとうございました」
須間男と千美に聴取を行った警官たちは、そう言って病院のロビーをあとにした。
「お疲れ様」
残された二人に声をかけたのは小埜沢だった。意外な人物の登場に、今までぼんやりとしていた須間男の意識が、一気に現実に引き戻された。
「小埜沢さんが……どうしてここに?」
「身元引受人代行、ってところかな」
「社長は?」
「かなり落ち込んでいたよ。合わせる顔がないって」
昨日の愚痴といい、今日の二日酔いといい、どうも社長の様子がらしくないことに、須間男は不安を覚えた。
「そうですか……。ところで、加藤さんのご遺族の方は」
我に返って、須間男はようやくあさ美の死という現実の重さに気づいた。もしかしたら自分たちやナンバー4の呪いとは全く関係ないのかもしれないが、間接的にだが彼女を呼び出したという責任がある。遺族と会わなければならないと、須間男は強く思った。
しかし、小埜沢は大きくかぶりを振った。
「僕が面会してきた。これ以上の刺激は与えない方がいい」
良く見ると小埜沢のワイシャツはくたくたで、ボタンもいくつかちぎれていた。それだけで、何があったのかは容易に想像できる。
「さあ、行こうか」
小埜沢に背中を押され、須間男はロビーを歩く。ふたりの後に千美が続く。外は既に暗く、蛍光灯の頼りない灯りがロビーを薄暗く照らし出す。昼間はそれなりの来客で埋められるであろう長椅子も、今はただ静かに整列しているだけだ。
いや……長椅子の隅に、ひとりだけ座っている人がいた。奏音だった。
「麻美さん」
須間男の呼びかけに、奏音はびくっと体を震わせると、素早く振り向いた。
「あ……鈴木さんでしたか……」
「ごめん、驚かせたみたいで」
「いえ……そうですよね。麻美奏音と相馬あさ美。同じ『あさみ』ですよね……」
奏音は力無く笑った。同じ名前が、今は辛い思い出を呼び戻すだけのキーワードになってしまっているようだ。
「僕らはこれから帰るところだけど、送っていこうか?」
小埜沢が奏音に声をかけるが、彼女は首を横に振った。
「めぐみさんが送ってくださるそうです」
奏音は答えると、出入り口の方を見た。視線の先には、誰かに電話をしている相馬めぐみの姿があった。
「小埜沢さん、でしたっけ?」
須間男が聴取を受けている間に、小埜沢と奏音は自己紹介を済ませていたようだ。
「……
「そう……かな。ちょっと思い出せない。ごめんね」
「いえ、いいんです」
「お迎えが来るまで、僕らも一緒にいようか?」
「いえ……すいませんが、ひとりにさせてください」
「そう……。気を落とさないでね」
「ありがとうございます。……鈴木さん」
「あ、はい?」
「どうかお願いします。私たちを……助けてください」
奏音の言葉に対して、須間男はどう答えていいかわからなかった。口べたな彼でも、励ましの言葉くらいはいくつか思いつく。しかし、奏音が求めているのはその場しのぎの言葉ではなく、抱えている問題も精神論でどうにかなるものでもない。
逡巡の末、曖昧に会釈した須間男に、奏音は深々と頭を下げた。
小埜沢に促され、須間男は正面入り口を出て駐車場に回った。駐車場にはいつの間にか、見慣れた白ワゴンが停められていた。
「どうする? もしよければ僕が運転するけど」
「いえ……」
小埜沢の申し出を須間男は断った。助手席に座って小埜沢と話す気にはなれなかったし、後部座席で千美と並ぶのはもっと嫌だった。須間男の考えは筒抜けだったようで、小埜沢は苦笑しつつ後部座席に回った。彼に続いて須間男が運転席に乗り込むと、後部座席から白い手がすっと伸びてきた。
「テープ、預かります」
相変わらず抑揚のない声で、千美が催促する。
「明日までに確認と編集作業を終えておきますから」
「千美ちゃん、今日は休んだ方が」
「大丈夫です」
千美の手は積極的に催促するでもなく、須間男の横に突き出されたままだ。その手を見ているうちに、須間男は我慢の限界に達した。
「よく平気な顔でそういうこと言えますよね? 人ひとり死んでるんですよ? 何とも思わないんですか? きっと何とも思わないんでしょうね! 本当に何なんですか! 奏音ちゃんたちの為にがんばろうって気持ちでやってるわけじゃないですよね? ただ仕事で映像をつぎはぎして、完成品を世に送り出せればいいんですか。人が何人死のうが、嘘の物語さえ作れればそれでいいんですか! ぜんぶ嘘にする気ですか! そんな気持ちで関わっていいことじゃないでしょうが! これは現実なんですよ! あなたには嘘と現実の区別もつかないんですか! 人の不幸がそんなに楽しいですか! それなら勝手にしてください!」
須間男はありったけの不満を千美にまくし立てると、鞄からテープを取り出し、千美に向かって投げつけた。テープは思わぬ角度で跳ね上がり、ガツッと嫌な音を立てて千美の額に直撃した。
その光景は、まるでスローモーションのようにゆっくりと流れていた。彼の視線は、テープをぶつけられてよろめく千美の耳たぶに揺れる、透明なティアドロップ型のイヤリングをしっかりと捉えていた。
今までぼさぼさの長髪に隠されていたイヤリングを見た瞬間、須間男は何故か猛烈な罪悪感に襲われた。しかしピークに達した怒りは簡単には収まらず、須間男は逃げるように運転席を降りて歩き出した。
「おい、鈴木君!」
後部座席から降りた小埜沢が声をかける。
須間男は振り返ることなく、駐車場を後にした。
「やっぱり、私が悪いんでしょうか」
額の切り傷に絆創膏を貼りながら、千美がぽつりとつぶやく。
「彼、かなりキレてたね。僕は彼の気持ちもわかるよ。彼は真っ直ぐだから」
ミラー越しに千美の様子をうかがいながら、小埜沢は答えた。
「で、実際、千美ちゃんは今回の案件に、どういう気持ちで取り組んでいるの?」
「……わかりません」
絆創膏を貼り終えた千美は少し俯き、黙り込んだ。これは彼女が何かを思案している時の仕草だと、共に仕事をしてきた小埜沢にはよくわかっていた。だから彼も黙って、答えが導き出されるのを待った。
「……でも、なんとなく覚えがあるんです」
「覚え?」
「久千木という人が送ってきた映像に映り込んでいた廃屋に」
「……君もか。僕もそれが引っかかっているんだ。君を社に送るついでに、そのビデオの映像を見せてもらえないだろうか」
「……はい」
千美は膝の上に載せたテープを見つめた。その仕草だけで、千美が何も感じずに仕事をしているわけではないと言うことが、小埜沢には読み取れた。しかし同様の察しを須間男に求めるのは身勝手だと言うことも、彼はわかっていた。
「小埜沢さん」
「ん? 何だい?」
「
突然の問いかけに、小埜沢は言葉を失った。
結論から言えば、境界の有無以前に、嘘と現実は明らかに異なる。それは当たり前のことだ。しかし、千美の問いかけはそうした常識についてのものではなく、もっと
「すいません。忘れてください」
それっきり、車内は沈黙に包まれた。千美は俯いたまま、車体の揺れに身を任せている。小埜沢はハンドルを強く握りしめ、眼前に広がる暗闇を睨んだ。
……
日暮里駅に降り立っても、須間男の気持ちは散らかったままだった。
空を見上げても分厚い雲が星を覆い隠し、地面を見ても猫の姿はない。目に入るのは土塀の向こう側から覗く墓石と卒塔婆ばかりだ。谷中は猫の町として有名だが、寺の町でもある。狭い地域に寺がいくつもあり、同じ数だけ墓地がある。普段は気にも止めない須間男だったが、死を目の当たりにしたばかりの彼の視線は、自然と墓地を捉えていた。
壁ひとつ向こうに死の象徴がある。言い換えれば、生と死の境界は墓地を囲う土塀程度のものでしかない。何かのきっかけがあれば、あっさりと人は塀の向こう側に行ってしまう。もし何もなかったとしても、いずれ人は死を迎える。
だが、加藤あさ美の死はあまりにも突然だった。
千美への態度が八つ当たりだと言うことを、須間男は自覚していた。あさ美を助けることが出来なかった、話を聞いてあげることが出来なかった、何かできたのではないかという思いと、自分はこれだけ彼女の死を悼んでいるという言い訳の裏返しだった。
須間男の千美に対する不満は、鶴間千美という「人間」がわからないことが根源にあった。しかし自分は千美をわかろうとしただろうか? そして、千美に対して鈴木須間男という「人間」をわかってもらおうとしただろうか?
答えは「いいえ」だ。
早々と理解を諦め、切り捨て、そして否定した。好きなジャンルを手がける会社を小埜沢に探してもらい、転職すれば縁も切れる。転職を決めてからは、むしろ彼女を理解しないように務めてきた。
なら、何故苛つくのか。
何を彼女に求めているというのか。
何故彼女に、何かを求めるのか。
アパートに帰り着いても、須間男の気持ちは落ち着かなかった。シャワーを浴びる気にもなれず、バスタオルで体中の汗を拭って煎餅布団に身を委ねても、不快感は体の内側に充満していた。扇風機はじっとりした生ぬるい風をかき混ぜ、布団も中途半端に熱を含んで不快感を呷るだけだった。
不毛な思考の合間に、揺れるイヤリングの映像がカットインのように浮かんでは消える。
そのとき、枕元のスマートホンが鳴った。
「こんな夜中に悪いね」
「いえ……」
どうせ寝付けそうになかったので、と言いそうになって、須間男は言葉を飲み込んだ。
川口は笑みを浮かべると、@LINKシアター入口の大きな扉を開いた。
二十三時過ぎのシアター内には、川口と須間男のふたりだけしかいない。川口はアリーナ最前列席に座ると、隣へ座るよう、須間男を促した。
「それで、お話というのは……?」
「マスコミには報道の自粛をお願いしておいた。加藤あさ美さんの事故死は報道されるだろうけど、君たちの名前は出てこないはずだ」
淡々と話す川口の顔は、須間男ではなく、無人のステージ上に向けられていた。
「何で……そんな根回しを?」
「君の立場を守るため、と言ったら、君は信じるかい? 鈴木須間男君」
川口の言葉に、須間男は少なからず動揺した。例えそれが到底信じられないことだとわかってはいても、名指しされて狼狽えないわけがない。
それが川口という男の人心把握術なのだろう。
「@LINKへの飛び火を防ぐためですよね」
あさ美の死を掘り下げられれば、いずれ寄藤に辿り着く。寄藤が@LINKのトップオタだったことや、出禁を喰らった経緯、そして数々の悪行があぶり出される。そして批判の矛先は、寄藤との繋がりが噂されている川口にも向けられる。
須間男たちの存在を伏せることは、そうしたリスク対策の一部でしかない。
「私は静かに事態を収束させたい。ただそれだけですよ」
川口の言葉に嘘はない。だが、必要以上のことは話さない。
それでいて、言葉の裏側を臭わせる。
どう受け取ろうが、それは受け手の勝手な解釈でしかない。
言質を取られることなく、相手に忖度させることのできる言葉選び。
川口という男は、須間男がもっとも苦手なタイプだった。
「自粛要請がいつまで守られるかもわからない。それに、すべてのメディアが配慮してくれるわけじゃない。特に一部のネットメディアはね」
ネットメディアはSNSと並び、現代のインターネットを象徴する存在だ。
個人または企業が管理するネットメディアは、一般的なニュースも扱うが、より多く取り扱う題材が「炎上案件」だ。
有名人の失言や醜態を大きく取り上げて拡散し、延焼させようとする。実際、ネットニュースで拡散されたことにより、当事者が謝罪、あるいは活動自粛といった事態に追い込まれたり、所属会社や親族にまで影響を及ぼすケースが増加している。
中には真偽不明なものや、恣意的な編集で対象者を吊し上げたり、媒体を運営する個人や会社にとって都合の悪い相手を追い込むなどの「悪質まとめサイト」も存在し、いくつかは他のネットメディアの取材によって白日の下にさらされたりもしている。
「そうですね」
「君だって他人事じゃないんだよ。先輩、いや、君のところの社長さんだって、
「
「何だ、聞いてないのか……まあ、それもそうか。自分から話せるようなことじゃない。ちょうどいい機会だ。君には知る権利がある」
「そういう話は結構です」
須間男は席を立とうとした。本人が話したがらないようなことを、こんな形で他人から聞くべきではないと判断したからだ。
「君も逃げるのか」
川口は立ち上がり、須間男の肩に手を置いた。
「あの男もそうやって逃げたんだよ。仕事を放り出して行方をくらませて、大勢に迷惑かけて」
須間男の肩に、川口の指が食い込む。
「あの男が映像屋をはじめる前、何をやってたかも知らないだろ? 売れない大部屋俳優だ。それも映画やテレビじゃなくオリジナルビデオのだ。チンピラAとか通行人Cとか、台詞もなくスタッフロールのその他大勢の中にちっぽけな名前が出るだけの、だ」
オリジナルビデオは、今の地上波放送ではあまり流れなくなったが、衛星放送ではよくリピート放送されている。今でも根強い人気があり、レンタルDVDなどもある。カオスエージェンシーでも何作か、ビデオテープからDVDへのリマスター作業を請け負ったことがあり、須間男もその存在を知っていた。
八十年代後半に大手会社がオリジナルビデオをリリースし、一気に火が付いた。特に人気が高くリリース本数の多かったレーベル名から、「Vシネマブーム」とも呼ばれた。予算は製作会社によってまちまちだが、作品の多くはアウトロー・バイオレンス・セクシー要素を全面的に押し出したハードコア路線だった。
「まあ、私も同じ事務所の後輩だったから、偉そうなことは言えないか。だけどね」
川口が須間男の肩を押し、無理矢理座らせた。
「これから売り出そうっていう女優と駆け落ちなんて真似は、私には到底出来ないよ。しかもその女優が、監督の女ならなおのことだ」
口調はやや穏やかになったが、川口の声には相当な怒りが籠もっていた。
「訳アリ主演女優と木っ端俳優の逃避行。昭和のドラマみたいだとは思わないか? だけどね、現場にとっては迷惑もいいところだ。企画はお流れ、事務所は干されて倒産、関係者が血眼になっているところに、あの男はしれっと戻ってきたんだぞ。考えられるか?」
川口は大げさにため息をつき、大げさに肩をすくめた。
「比喩ではなく、あの男は東京湾に沈められる寸前だった。女を奪われた監督が止めて、おまけに箝口令まで敷いた。肝心の女はとっくにあの男と別れて、何処かへ消えたっていうのにだ」
お人好しにもほどがある、と、川口は吐き捨てた。
「今回の騒動に収拾が付かなかったら、あの頃の箝口令も無効になるだろう。私以上にあの男を許せない人は大勢いる。
その内容をあえて明かさず臭わせることで、不安を煽る話術。そうわかってはいても、須間男は気にせずにはいられなかった。
「それを僕に話して、どうしろと言うんですか?」
「君、うちの映像事業部に来ないか?」
「え?」
想定外の言葉に、須間男は面食らった。
「君が乗っているのは泥船だ。しかも船長は職務放棄の前科がある。君も一緒に沈むぞ」
「そんなことは」
「君は技術もノウハウもあるし、何より誠実だ。いきなり監督という訳にはいかないが、助監督ならなんとかなる」
川口の言葉に、須間男は眉をしかめた。
「……僕にこの件から手を引けと言うんですか?」
弱小下請け事務所の映像屋にはあり得ないほどの好待遇に、疑問を抱かない方がおかしい。いくら駆け引きが苦手な須間男でも、額面通りには受け取れるはずがなかった。
通常であれば、須間男ひとり抜けても制作に影響はないだろう。だが今回は死者が出ている。ただでさえ続けられるかどうかわからない状況での退社は、少なからず影響を及ぼすはずだ。
「誤解しているようだけど、最初に言ったとおり、私は君を助けたいだけだ。今の提案は、あくまでも選択肢のひとつだ。受けるのも断るのも君の自由だ」
「でしたら、この場でお断りします」
須間男はきっぱり言い切った。
「そうか……。わかっていると思うけど、あまり時間はないよ。それでも君は、あの男と共倒れする道を選ぶのかい?」
「見た目は胡散臭いし謎も多い人ですけど、僕はあの人が嫌いじゃないですよ」
「ずいぶん物好きだな」
「それに」
須間男は立ち上がり、川口を見据えた。
「あなたの口からは、加藤あさ美さんの死を悼む言葉がひとつも出てこなかった」
「それは」
「それだけで充分です」
須間男は川口に背を向けて、シアターを出て行った。
座席を蹴ったと思われる物音に、振り返ることもなく。