第2話 後編
文字数 6,060文字
うううう、という低い唸りとともにまるで、肉付きの良い大きなトカゲのような恐竜が一頭、二足歩行で植物を踏み越えて現れた。
背の高さは、おおむね2〜3メートルはあるだろう。
身体の前にだらりと垂らされた短い腕には鋭い三本の鉤爪があった。
植物を食べて消化するものは、消化管が大きいため重心が腰の下に来がちだが、こいつは前にある。
と、いうことは多分肉食だ。
筋肉が発達しているところを見ると、走るのも早そうだ。
ぎょろりとした眼とわりと大きな頭は感覚器の発達を感じさせる。
ヤツはそこにじっと立ち、動きを止めた。
「待ち伏せしている、狩りだ」
約30メートルは離れている、こちらには気がついていないらしい。
ドルムの目の前にモモンガに似た不幸な小動物が飛来した。
鋭い爪を持つ手が一閃して、モモンガはドルムの口に放り込まれた。
キキーッという叫びと、ガリガリという音がしたかと思うと、ドルムの首のあたりがごくりと大きく動いた。
相当腹を空かせているようだ。
「ここら辺にドルムは多いのか?」
小声でティタに聞く。
「ああ、うじゃうじゃ居る」
「奴ら、ここら辺の小動物だけでは足りないだろう。何を餌にしてるのかな」
「親から、共食いって聞いたような気もする」
ティタは眼を瞑って懸命に記憶の糸を手繰り寄せているようだ。
「でも、集団で狩りをすることもあるって言われた気もする」
ううううう。
血の匂いに惹かれたのか、どこからか数頭のドルムが現れた。
これは、やっかいなことになりそうだ。
さすがに興奮してきたのか、脈拍が速くなり呼吸が荒くなる。
はあ、はあ、はあ、はあ。
ふと見ると、隣のティタも肩で大きく息をしている。
そのとき、ティタの足の下で小枝が折れるぽきりとした音がした。
双眼鏡を通して一斉にこちらに向かってくるドルムが見えた。
「見つかった、逃げろ」
木やツタがあるため、こちらのスピードも上がらないがドルムたちのスピードも殺されている。しかし、でかい図体の割には奴らは敏捷に動いて障害物をかわしている。
「共食いの習慣があると言ったな」
1頭を屠 れば、多分残りのドルムはそちらに群がるだろう。
俺は先頭の恐竜に狙いをつけた。息を吸い込んで、止める。
その瞬間。
視界が真っ暗になり、俺の現実が吹き飛んだ。
目の前に胸をはだけた妻がいた。誘うような視線はまっすぐ俺を見ている。
おさえられない衝動に駆られ、手を伸ばし襦袢をはぎ取る。
あらわになった白い胸に粗っぽく唇を這わせると、彼女の身体がぎゅっと緊張するのがわかる。
そして半開きの口から漏れるあえぎが徐々に大きくなり……。
銃声とともに聞こえたのは、ティタの絶叫だった。
「こんな距離ではずすなよ、旦那っ」
背後から高らかに響くドルムたちの咆哮、攻撃されたとわかり怒り狂ったドルム達が突進してくる。
「に、逃げろティタ」
「当たり前だっ、へぼハンター」
恐竜が、来る。
このままでは、食われる。
俺はなぜ、現実を見失った。
「ねえ、これから私をどうするつもりなの?」
潤んだ目の妻が俺の腕の中から逃げようと身体を動かした。
こうしながら誘ってるんだ。そしてこんな夜は特別彼女は熱く燃える……。
「旦那っ、平原だ」
ティタの声に我に返る。
もう限界だ、幻と現実が認識できない。まるで意識を寸断されているかのようだ。
興奮して呼吸数が上がってこの空気を吸い込みすぎたのが悪かったのか。
「だ、だめだティタ、また例の発作だっ」
「おっさん、どうしたらそんなに助平になれるんだよっ」
ティタがつり上がった目でこちらを睨んだ。
「エックス染色体が一本足を閉じれば誰だってそうなるんだっ」
「旦那、丸見えで隠れ場が無いっ」
ふと見ると、ジャングルが切れて潅木の草原になっている。
賢いドルム達に巧くここに追いこまれてしまったのか。
草原には大きなぼた山がいくつかできていた。
「く、臭いっ」
ティタが叫んだ。強烈な刺激臭。目も開けてもいられない。
「あ、あのぼた山はドルムの糞だまりだ、旦那」
数が増えたドルム達がうなり声を上げ、地響きをたてて迫ってくる。
このままではドルムに食われるのも時間の問題だ。
「幻のお茶で、もっと燃えましょ」
妻が俺の胸に頬をすりよせる。あんなに燃えた後なのに妻の頬はひんやりとしている。
「危険だけど、行ってくれる?」
ああ、これからも彼女と今夜のような夜をすごせるなら、幻夢茶を求め俺は行く。
火の中だろうと、水の中だろうと。
たとえ、恐竜の排泄物になっても。
妄想から覚めた瞬間、目の前にあるのは小山のようなドルムの糞の山だった。
ええい、一か八か。
「ティタ、糞に飛び込め」
「えーっ」
俺はティタの首根っこを捕まえて足から飛び込んだ。
むにょっ。妙に心地よい感触の後に猛烈な匂いが鼻に突き刺さった。
「ぐえっ窒息するっ」
「もぐれっ」
ティタを首まで排泄物の中に押し込むと、俺も糞をかき集めて身体を埋め込んだ。
「お、おっさん、私は糞だまりで窒息するよりも恐竜の胃酸で溶けた方がいい……ぐぼっ」
横でティタの吐く音が聞こえる。
俺は糞から目だけを出して奴らを見た。
ドルムもしばらく俺達を見つめていたが、やがて何事も無かったように去って行った。
「やった、奴ら遠くははっきり見えないみたいだ。で、自分の排泄物と同じ匂いが付いたため俺たちと糞の区別ができなくなったんだ」
俺たちは、糞からもぞもぞと顔を出してあたりを見回した。
「居なくなったようだな」
ふと、俺はあることに気がついた。
「頭がすっきりしている」
「え?」
「妄想がさっぱりと消えた」
ドルム達は、あの幻覚を起こす物質に抵抗する何かを長年のうちに身体の中で生産できるようになったのだろう。で、その物質は排泄物にも含まれている。
頭脳明晰になった俺はすぐさまそう結論づけた。
「上流でこの糞が川に流れ込み、流れ流れてその水が村の近くの泉にまで注いでいるんだろう。だからそこの水は弱いながらも毒消しの作用があるんだ」
「じゃあ、私達はドルムの糞入りの水を飲んでたってわけか」
「ああ、御明察だ」
糞から出たとき、俺は固まった。
さっきより数の増えたドルムが、土煙をあげて四方八方からこちらに突進してくるのが見えたのだ。
「しまった、仲間を呼んで俺たちが出てくるのをどこかの糞の山の陰で待ち伏せていたに違いないっ」
「おっさん、裏をかかれたのかっ」
糞だらけのティタと俺は全速力で逃げる。
相手は平原では車に近い速度で追いかけてくる、これはもう駄目か。
目の前には幅広の川が見えた。
後ろからドルムのどっどっ、という足音が響いてくる。
ああ、俺はこんな所でこんな色気のかけらもない小娘と最後をむかえるのか。
できることなら妻のあの声をもう一度聞きたい。ちょっと鼻にかかった、甘い声。
あの声を聞くだけで頭の中に痺れるような快感が……。
痺れる!?
そうだ、思い出したっ。
ティタが川に棒を突き立てていた姿。
どこかで見た光景だと思っていた。
あれは、昔、古代遺跡の中のお宝を探しに東ルイードに行ったとき、ジャングルで原住民が漁をしているときに使っていた方法だ。
確か、あの漁法は……。
目の前に川が迫る。
川幅は、ほぼ10メートル。
見たところ浅い。
ドルムは川を越えてこない……はずだが、彼らは全く速度を緩める気配はない。
俺の銃が奴らを興奮させてしまったのか。
こ、これは、越えて来るっ。
「しがみ付け、ティタっ」
「だって、前は川だぞっ」
迷う暇は無かった。俺は糞の塊のようになったティタを抱きかかえると、ミラクルバーを取り出した。
「暴れるなっ、俺の首から手を放すなっ」
ティタをかかえながら俺は全速力で走る。
そして、伸ばしたミラクルバーを川岸ギリギリに突き立てた。
二人の体重でバーはぐぐっ、と弧を描いてしなる。
そして、いきなりその反動が来て俺たちは空に投げ出された。
空の上から川の中にどす黒くうごめく塊が無数に見えた。
どさり。
対岸に投げ出された俺たちの目の前にドルムの大群が土煙を上げて迫って来た。
ぱっくりあけられた真っ赤な口の中の褐色の牙、そして牙から滴る唾までがはっきりと見える。
「だ、だんなっ」
ティタが俺にしがみつく。
「迫るのはゴージャスに育った3年後にしてくれ」
「このエロおやじっ」
ドルムの大群の先頭を切って走る一頭が川の中に足を踏み入れた。
そのとき。
ドルムが激しく痙攣し、ばたりと川に倒れた。
次々と川に足を踏み入れたドルム達が倒れて沈んでいく。
それを見た、後続のドルム達の足が止まった。
ざわざわと向こうの川岸で立ちすくむドルム達。
徐々に群れの興奮が治まっているようだ。
やがてドルム達は俺たちに背を向けて静かにジャングルの中に戻っていった。
「な、なにが起こったんだ」
ティタが呟く。
「電気鰻 だ」
「えっ」
「ほら、お前が川で魚を取っていたときの方法、あれを俺は昔見たことがあるんだ。未開のジャングルがある東ルイードというところでな」
「あの、川に棒っきれをいれて突くと魚が浮いてくるってやり方か?」
「ああ、あれは川底にいる電気鰻が棒にびっくりして上下に暴れて発電することで、感電した魚が浮いてくるんだ」
「親がやっていたのを見よう見真似でやっていたんだけど、魚が驚いて浮くのかと思ってた」
「かなり発電力のつよい大鰻が沢山居るところでないとできない方法だが、ここではまだ他の地域ではとっくの昔に滅びた種が残っているんだろうな」
「だから、ドルム達はあの川を越えて里に下りてこないんだな」
ここでティタがはっ、と小さな息を飲んだ。
「と、言うことは、あの川に足を踏み入れていたら……」
「そうさ、お前さんの大嫌いなエロ親父と心中さ」
ティタのまん丸な眼がにやりと笑った俺の目を真っ直ぐに見つめた。
ぱあっ、と顔が紅くなる。
ふと、俺にしがみ付いたままであったことに気づき、ティタは俺を突き飛ばすようにして手を離した。
「お嬢さん、俺は危険な男だからほれちゃ……」
べちょっ。
全てを言う前に、俺の顔にティタの手いっぱいのドルムの糞が直撃した。
さすがに山頂近くは気温がさがって植生が変化している。
赤い山肌には潅木がちらほら見えるだけだ。
「なんだか、臭くないか?」
さっきから感じている疑問を口に出すと、ティタが顔をしかめて頷いた。
「ドルムの糞の匂いとは違う、なんだか腐ったような……うっ」
ティタが鼻を押さえた。
「あそこが山頂だ」
ティタは空いているほうの手で指差した。
山頂はなんとなく煙っている。
「ここは、今活動していないよな」
「ああ、数千年前に活動を終えた死火山だ」
そのとき、俺の目の中に信じられないものが見えた
「か、隠れろっ」
一頭のドルムが現れたのだ。
ここは空気が薄くなっていて、ティタから生息域より外れていると聞いていたのだが。
ふらふらと、ドルムはおぼつかない足取りで山頂に向かっていった。
「ドルムはここまで来ないって聞いたのに」
「相当弱っているな、あれは」
潅木の陰から双眼鏡で、追っていくとそのドルムは山頂で姿を消した。
「火口へ落ちたのか?」
追ってくるドルムが居ないことを確かめて、俺とティタは山頂に向かった。
歩くこと数分。
俺たちは何かに煙り視界の悪い火口の近くにようやくたどり着いた。
「この臭いもう我慢できない。私はここでパラグライダーの組み立てをしておくから旦那は好きなだけこの悪臭の中心を探検してきてくれ」
ティタはタオルで身体を拭きながら、早く行けとばかりに俺に手を振った。
俺は、うなずいて独り火口への切り立った斜面を登り始めた。
火口に近づけば近づくほど強い異臭がする。
ようやく火口の縁にたどり着き、俺は切り立った崖から火口の底を双眼鏡でのぞき込んだ。
そこには……なんと腐乱したドルム達の屍が積み重なっていた。
「そうか、奴が向かったのは先祖代々の墓場だったんだ。共食いされないために、死期をさとった個体はここに来るのか」
そして、俺は煙る崖の下に双眼鏡の焦点を合わせた。
煙は良く見ると薄い緑色だった。
そうか、これが幻夢茶 の正体か。
俺は息をのんだ。なるほど、伝統の匂いって訳だ。
おそらく俺がさいなまれてきたあの幻覚は風に乗って広がったこれによる軽い中毒作用ってわけなんだろう。
しかし、いくら物好きといったって……。
「で、あなた、あったの? 私の幻夢茶は手に入ったの? 何とか言って」
俺の憂いをつんざく様にいきなり妻の金切り声が、通信機から響いた。
さっきから、星間通信機で妻に連絡をとっていたのだがやっと通じたようだ。
「ああ、幻夢茶を見つけたよ」
本当に、これを飲むのか?
でも、もって帰らねばきっと家には入れてもらえまい。
真実を言ってもあの暴君はきっと信じてくれないに決まってる。
妻は自分が気に入らない理屈を理解しようとしないのだ。
「ここは音声しか伝えられないが、無尽蔵にある」
俺は悪臭を吸い込まないように、鼻声で不機嫌に答えた。
眼下にはどろどろに腐敗したドルムが小山のように折り重なっている。
そしてその表面をびっしりと蛍光緑のカビが覆っていた。
「きゃあ、あなた愛してる」
妻の狂喜した声が通信機から響いた。
狂気乱舞している妻にはきっと俺の声は聞こえていないに違いない。
もう頭の中は生徒募集のコピーでいっぱいだろう。
ついでにドルムが生産したこの身体全体にべっちょり付いた毒消しも持って帰ってやる。
「お願い、持てるだけ持って帰って頂戴、ああ、入れ物という入れ物に詰めて帰って」
腐乱した肉片とカビの山、ドルムの糞。
蓋をあけてそれを見たときの妻の絶叫が聞こえるような気がした。
「あなた、沢山あるのね、本当ね」
「ああ、この風景を奥様に見せて差し上げたいよ」
俺はこみ上げる笑いをかみ殺すため、顔をゆがめながら答えた。
「あたり一面、抹茶のごとく緑さ」
背の高さは、おおむね2〜3メートルはあるだろう。
身体の前にだらりと垂らされた短い腕には鋭い三本の鉤爪があった。
植物を食べて消化するものは、消化管が大きいため重心が腰の下に来がちだが、こいつは前にある。
と、いうことは多分肉食だ。
筋肉が発達しているところを見ると、走るのも早そうだ。
ぎょろりとした眼とわりと大きな頭は感覚器の発達を感じさせる。
ヤツはそこにじっと立ち、動きを止めた。
「待ち伏せしている、狩りだ」
約30メートルは離れている、こちらには気がついていないらしい。
ドルムの目の前にモモンガに似た不幸な小動物が飛来した。
鋭い爪を持つ手が一閃して、モモンガはドルムの口に放り込まれた。
キキーッという叫びと、ガリガリという音がしたかと思うと、ドルムの首のあたりがごくりと大きく動いた。
相当腹を空かせているようだ。
「ここら辺にドルムは多いのか?」
小声でティタに聞く。
「ああ、うじゃうじゃ居る」
「奴ら、ここら辺の小動物だけでは足りないだろう。何を餌にしてるのかな」
「親から、共食いって聞いたような気もする」
ティタは眼を瞑って懸命に記憶の糸を手繰り寄せているようだ。
「でも、集団で狩りをすることもあるって言われた気もする」
ううううう。
血の匂いに惹かれたのか、どこからか数頭のドルムが現れた。
これは、やっかいなことになりそうだ。
さすがに興奮してきたのか、脈拍が速くなり呼吸が荒くなる。
はあ、はあ、はあ、はあ。
ふと見ると、隣のティタも肩で大きく息をしている。
そのとき、ティタの足の下で小枝が折れるぽきりとした音がした。
双眼鏡を通して一斉にこちらに向かってくるドルムが見えた。
「見つかった、逃げろ」
木やツタがあるため、こちらのスピードも上がらないがドルムたちのスピードも殺されている。しかし、でかい図体の割には奴らは敏捷に動いて障害物をかわしている。
「共食いの習慣があると言ったな」
1頭を
俺は先頭の恐竜に狙いをつけた。息を吸い込んで、止める。
その瞬間。
視界が真っ暗になり、俺の現実が吹き飛んだ。
目の前に胸をはだけた妻がいた。誘うような視線はまっすぐ俺を見ている。
おさえられない衝動に駆られ、手を伸ばし襦袢をはぎ取る。
あらわになった白い胸に粗っぽく唇を這わせると、彼女の身体がぎゅっと緊張するのがわかる。
そして半開きの口から漏れるあえぎが徐々に大きくなり……。
銃声とともに聞こえたのは、ティタの絶叫だった。
「こんな距離ではずすなよ、旦那っ」
背後から高らかに響くドルムたちの咆哮、攻撃されたとわかり怒り狂ったドルム達が突進してくる。
「に、逃げろティタ」
「当たり前だっ、へぼハンター」
恐竜が、来る。
このままでは、食われる。
俺はなぜ、現実を見失った。
「ねえ、これから私をどうするつもりなの?」
潤んだ目の妻が俺の腕の中から逃げようと身体を動かした。
こうしながら誘ってるんだ。そしてこんな夜は特別彼女は熱く燃える……。
「旦那っ、平原だ」
ティタの声に我に返る。
もう限界だ、幻と現実が認識できない。まるで意識を寸断されているかのようだ。
興奮して呼吸数が上がってこの空気を吸い込みすぎたのが悪かったのか。
「だ、だめだティタ、また例の発作だっ」
「おっさん、どうしたらそんなに助平になれるんだよっ」
ティタがつり上がった目でこちらを睨んだ。
「エックス染色体が一本足を閉じれば誰だってそうなるんだっ」
「旦那、丸見えで隠れ場が無いっ」
ふと見ると、ジャングルが切れて潅木の草原になっている。
賢いドルム達に巧くここに追いこまれてしまったのか。
草原には大きなぼた山がいくつかできていた。
「く、臭いっ」
ティタが叫んだ。強烈な刺激臭。目も開けてもいられない。
「あ、あのぼた山はドルムの糞だまりだ、旦那」
数が増えたドルム達がうなり声を上げ、地響きをたてて迫ってくる。
このままではドルムに食われるのも時間の問題だ。
「幻のお茶で、もっと燃えましょ」
妻が俺の胸に頬をすりよせる。あんなに燃えた後なのに妻の頬はひんやりとしている。
「危険だけど、行ってくれる?」
ああ、これからも彼女と今夜のような夜をすごせるなら、幻夢茶を求め俺は行く。
火の中だろうと、水の中だろうと。
たとえ、恐竜の排泄物になっても。
妄想から覚めた瞬間、目の前にあるのは小山のようなドルムの糞の山だった。
ええい、一か八か。
「ティタ、糞に飛び込め」
「えーっ」
俺はティタの首根っこを捕まえて足から飛び込んだ。
むにょっ。妙に心地よい感触の後に猛烈な匂いが鼻に突き刺さった。
「ぐえっ窒息するっ」
「もぐれっ」
ティタを首まで排泄物の中に押し込むと、俺も糞をかき集めて身体を埋め込んだ。
「お、おっさん、私は糞だまりで窒息するよりも恐竜の胃酸で溶けた方がいい……ぐぼっ」
横でティタの吐く音が聞こえる。
俺は糞から目だけを出して奴らを見た。
ドルムもしばらく俺達を見つめていたが、やがて何事も無かったように去って行った。
「やった、奴ら遠くははっきり見えないみたいだ。で、自分の排泄物と同じ匂いが付いたため俺たちと糞の区別ができなくなったんだ」
俺たちは、糞からもぞもぞと顔を出してあたりを見回した。
「居なくなったようだな」
ふと、俺はあることに気がついた。
「頭がすっきりしている」
「え?」
「妄想がさっぱりと消えた」
ドルム達は、あの幻覚を起こす物質に抵抗する何かを長年のうちに身体の中で生産できるようになったのだろう。で、その物質は排泄物にも含まれている。
頭脳明晰になった俺はすぐさまそう結論づけた。
「上流でこの糞が川に流れ込み、流れ流れてその水が村の近くの泉にまで注いでいるんだろう。だからそこの水は弱いながらも毒消しの作用があるんだ」
「じゃあ、私達はドルムの糞入りの水を飲んでたってわけか」
「ああ、御明察だ」
糞から出たとき、俺は固まった。
さっきより数の増えたドルムが、土煙をあげて四方八方からこちらに突進してくるのが見えたのだ。
「しまった、仲間を呼んで俺たちが出てくるのをどこかの糞の山の陰で待ち伏せていたに違いないっ」
「おっさん、裏をかかれたのかっ」
糞だらけのティタと俺は全速力で逃げる。
相手は平原では車に近い速度で追いかけてくる、これはもう駄目か。
目の前には幅広の川が見えた。
後ろからドルムのどっどっ、という足音が響いてくる。
ああ、俺はこんな所でこんな色気のかけらもない小娘と最後をむかえるのか。
できることなら妻のあの声をもう一度聞きたい。ちょっと鼻にかかった、甘い声。
あの声を聞くだけで頭の中に痺れるような快感が……。
痺れる!?
そうだ、思い出したっ。
ティタが川に棒を突き立てていた姿。
どこかで見た光景だと思っていた。
あれは、昔、古代遺跡の中のお宝を探しに東ルイードに行ったとき、ジャングルで原住民が漁をしているときに使っていた方法だ。
確か、あの漁法は……。
目の前に川が迫る。
川幅は、ほぼ10メートル。
見たところ浅い。
ドルムは川を越えてこない……はずだが、彼らは全く速度を緩める気配はない。
俺の銃が奴らを興奮させてしまったのか。
こ、これは、越えて来るっ。
「しがみ付け、ティタっ」
「だって、前は川だぞっ」
迷う暇は無かった。俺は糞の塊のようになったティタを抱きかかえると、ミラクルバーを取り出した。
「暴れるなっ、俺の首から手を放すなっ」
ティタをかかえながら俺は全速力で走る。
そして、伸ばしたミラクルバーを川岸ギリギリに突き立てた。
二人の体重でバーはぐぐっ、と弧を描いてしなる。
そして、いきなりその反動が来て俺たちは空に投げ出された。
空の上から川の中にどす黒くうごめく塊が無数に見えた。
どさり。
対岸に投げ出された俺たちの目の前にドルムの大群が土煙を上げて迫って来た。
ぱっくりあけられた真っ赤な口の中の褐色の牙、そして牙から滴る唾までがはっきりと見える。
「だ、だんなっ」
ティタが俺にしがみつく。
「迫るのはゴージャスに育った3年後にしてくれ」
「このエロおやじっ」
ドルムの大群の先頭を切って走る一頭が川の中に足を踏み入れた。
そのとき。
ドルムが激しく痙攣し、ばたりと川に倒れた。
次々と川に足を踏み入れたドルム達が倒れて沈んでいく。
それを見た、後続のドルム達の足が止まった。
ざわざわと向こうの川岸で立ちすくむドルム達。
徐々に群れの興奮が治まっているようだ。
やがてドルム達は俺たちに背を向けて静かにジャングルの中に戻っていった。
「な、なにが起こったんだ」
ティタが呟く。
「電気
「えっ」
「ほら、お前が川で魚を取っていたときの方法、あれを俺は昔見たことがあるんだ。未開のジャングルがある東ルイードというところでな」
「あの、川に棒っきれをいれて突くと魚が浮いてくるってやり方か?」
「ああ、あれは川底にいる電気鰻が棒にびっくりして上下に暴れて発電することで、感電した魚が浮いてくるんだ」
「親がやっていたのを見よう見真似でやっていたんだけど、魚が驚いて浮くのかと思ってた」
「かなり発電力のつよい大鰻が沢山居るところでないとできない方法だが、ここではまだ他の地域ではとっくの昔に滅びた種が残っているんだろうな」
「だから、ドルム達はあの川を越えて里に下りてこないんだな」
ここでティタがはっ、と小さな息を飲んだ。
「と、言うことは、あの川に足を踏み入れていたら……」
「そうさ、お前さんの大嫌いなエロ親父と心中さ」
ティタのまん丸な眼がにやりと笑った俺の目を真っ直ぐに見つめた。
ぱあっ、と顔が紅くなる。
ふと、俺にしがみ付いたままであったことに気づき、ティタは俺を突き飛ばすようにして手を離した。
「お嬢さん、俺は危険な男だからほれちゃ……」
べちょっ。
全てを言う前に、俺の顔にティタの手いっぱいのドルムの糞が直撃した。
さすがに山頂近くは気温がさがって植生が変化している。
赤い山肌には潅木がちらほら見えるだけだ。
「なんだか、臭くないか?」
さっきから感じている疑問を口に出すと、ティタが顔をしかめて頷いた。
「ドルムの糞の匂いとは違う、なんだか腐ったような……うっ」
ティタが鼻を押さえた。
「あそこが山頂だ」
ティタは空いているほうの手で指差した。
山頂はなんとなく煙っている。
「ここは、今活動していないよな」
「ああ、数千年前に活動を終えた死火山だ」
そのとき、俺の目の中に信じられないものが見えた
「か、隠れろっ」
一頭のドルムが現れたのだ。
ここは空気が薄くなっていて、ティタから生息域より外れていると聞いていたのだが。
ふらふらと、ドルムはおぼつかない足取りで山頂に向かっていった。
「ドルムはここまで来ないって聞いたのに」
「相当弱っているな、あれは」
潅木の陰から双眼鏡で、追っていくとそのドルムは山頂で姿を消した。
「火口へ落ちたのか?」
追ってくるドルムが居ないことを確かめて、俺とティタは山頂に向かった。
歩くこと数分。
俺たちは何かに煙り視界の悪い火口の近くにようやくたどり着いた。
「この臭いもう我慢できない。私はここでパラグライダーの組み立てをしておくから旦那は好きなだけこの悪臭の中心を探検してきてくれ」
ティタはタオルで身体を拭きながら、早く行けとばかりに俺に手を振った。
俺は、うなずいて独り火口への切り立った斜面を登り始めた。
火口に近づけば近づくほど強い異臭がする。
ようやく火口の縁にたどり着き、俺は切り立った崖から火口の底を双眼鏡でのぞき込んだ。
そこには……なんと腐乱したドルム達の屍が積み重なっていた。
「そうか、奴が向かったのは先祖代々の墓場だったんだ。共食いされないために、死期をさとった個体はここに来るのか」
そして、俺は煙る崖の下に双眼鏡の焦点を合わせた。
煙は良く見ると薄い緑色だった。
そうか、これが
俺は息をのんだ。なるほど、伝統の匂いって訳だ。
おそらく俺がさいなまれてきたあの幻覚は風に乗って広がったこれによる軽い中毒作用ってわけなんだろう。
しかし、いくら物好きといったって……。
「で、あなた、あったの? 私の幻夢茶は手に入ったの? 何とか言って」
俺の憂いをつんざく様にいきなり妻の金切り声が、通信機から響いた。
さっきから、星間通信機で妻に連絡をとっていたのだがやっと通じたようだ。
「ああ、幻夢茶を見つけたよ」
本当に、これを飲むのか?
でも、もって帰らねばきっと家には入れてもらえまい。
真実を言ってもあの暴君はきっと信じてくれないに決まってる。
妻は自分が気に入らない理屈を理解しようとしないのだ。
「ここは音声しか伝えられないが、無尽蔵にある」
俺は悪臭を吸い込まないように、鼻声で不機嫌に答えた。
眼下にはどろどろに腐敗したドルムが小山のように折り重なっている。
そしてその表面をびっしりと蛍光緑のカビが覆っていた。
「きゃあ、あなた愛してる」
妻の狂喜した声が通信機から響いた。
狂気乱舞している妻にはきっと俺の声は聞こえていないに違いない。
もう頭の中は生徒募集のコピーでいっぱいだろう。
ついでにドルムが生産したこの身体全体にべっちょり付いた毒消しも持って帰ってやる。
「お願い、持てるだけ持って帰って頂戴、ああ、入れ物という入れ物に詰めて帰って」
腐乱した肉片とカビの山、ドルムの糞。
蓋をあけてそれを見たときの妻の絶叫が聞こえるような気がした。
「あなた、沢山あるのね、本当ね」
「ああ、この風景を奥様に見せて差し上げたいよ」
俺はこみ上げる笑いをかみ殺すため、顔をゆがめながら答えた。
「あたり一面、抹茶のごとく緑さ」