第53話 改正不正競争防止法のインパクト

文字数 2,329文字

2015年の不正競争防止法の改正で機密漏洩と産業スパイが「非親告罪」になったことで、警察庁生活安全局は企業や研究機関からの情報収集力強化に取り組むことになりました。
「ヒシンコクザイ」って、なんだ。「非深刻」、つまり、たいした害のない犯罪ってことか?
そうじゃないっす。機密漏洩と産業スパイを、それまでより「もっと深刻な」犯罪として扱うことになったんす。
「親告罪」は、被害者から届け出があって、初めて警察が捜査に動き出す犯罪のことね。
そのとおり。機密を漏洩されたり盗まれたりした企業や研究機関が被害を警察に届けないと、警察は捜査に着手しない決まりだったんだ。
泥棒が罪に問われないなんて、おかしいじゃん。なんで、そんな話が通用してたんだ?
警察が捜査して被疑者を捕まえ、検察が起訴すると裁判になります。ところが、裁判の中では、漏れたり盗まれたりした機密が表に出ます。企業や研究機関にしてみれば、自分から機密情報を公開するようなものです。
だから、長い間、日本では機密漏洩と産業スパイは「親告罪」扱いになってたんす。
そうか。それで、世津奈さんたちの探偵稼業が成り立つんだ。企業と研究機関から見ると機密漏洩事件と産業スパイ事件を表に出さずにこっそり片づけてくれる調査会社は頼みの綱なわけだ。
それは、アメリカとは大違いね。アメリカでは、企業から被害届がなくてもFBIが産業スパイ事件を捜査する。企業や研究機関の人間を偽って産業スパイに接触する囮捜査も法で認められているわ。日本企業が囮捜査で捕らえられたこともあった。
先進国の中では、アメリカ型が標準です。各国とも、先端技術を国内に抱えこむため、警察機関が産業スパイ対策を実施しています。
日本でも、経済産業省あたりは危機意識を持っていたんじゃないのか? 機密漏洩と産業スパイが「非親告罪」のままだと日本の国益にかかわる高度技術がどんどん海外流出する――役人が気にしそうなことだ。
ええ。それで、経済産業省の強い働きかけで、2015年に不正競争防止法が改正されたんです。裁判中に機密内容が表に出ないよう裁判制度を改めた上で、機密漏洩と産業スパイを「非親告罪」にして、警察が独自に捜査を始められるようにしたんす。
それは、世津奈さんたちの商売にとっては大打撃だ。 世津奈さんは、法改正の後に警察を辞めて「京橋テクノサービス」に移ったんだろ。これから仕事が増えるところを捨てて、仕事がなくなるところに移ったようなもんだ。なんで、そんな阿呆なことをした。それとも、もう、仕事にウンザリしてたとか?
それが、そうはなっていないんです。「京橋テクノサービス」の年間受注件数は、法改正前より後の方が増えているんです。
グローバルな競争が激化して、産業スパイ事件が急増しているのではないかしら?
もちろん、それはあるんすけど……
おい、もしかして、警察が取り扱う件数の方は、法改正の前後であまり変わってないんじないか?
なんで、そんなこと思うんだ?
役人がやることに、ありがちじゃないか。掛け声をかけて法律を変えたけど、実態は変わらないってやつ。結局、法改正は、役人どもの「何もしてなかったわけじゃない」っていう言い訳つくりに終わっちまう。
どうも、実態は、池辺先生がおっしゃるとおりになっているようです。
なんでだ?
機密漏洩と産業スパイについては、民間と警察のパイプがなかったからです。法を変えても、警察の情報収集力が変わらなかったら、警察が独自に捜査できる事案は限られます。
警察が動いたら、裁判になるケースが多いすからね。企業と研究機関にとっては、「裁判になること、すなわち自分たちの信用が傷つく」ことなんす。だから、機密漏洩や産業スパイの浸透を一番隠したい相手が、警察だったりするんです。
世津奈さんたちの商売に、影響はなかったんだ。
はい、幸いなことに。
でも、法改正しても取り扱い事件数が増えないのでは、警察は黙ってられないわね。というか、経産省が黙ってないでしょう。
だから、「癒し」作戦で、警察庁が自力で企業・研究機関の中に情報網をつくろうとしているのです。
そりゃ、無理があるんじゃないか? 公安警察は、戦前の特高からの歴史があってスパイや謀略に慣れているが、宝生さんがいた生活安全部は違うだろう。情報網をつくるったって、簡単にできるとは思えない。
実は、私は、警視庁で佐伯警視正の命令で企業・研究機関内の内通者リクルートをさせられていたのです。
宝生さんは、それが嫌になって、警察を辞めたんす。
なんでだ? 今の仕事と別に変わりはないだろう。
誰にでも内通者になれと持ち掛けられるわけではない。個人的な弱みを持っている人間を探し出し、弱みをネタに脅して内通者にするのでしょ。
その通りです。私は、そういう仕事がどうしても好きになれませんでした。
それに、警察が企業や研究機関の活動に首をつっこんでくると、そのうち、国に都合の良い研究しかできない雰囲気になるだろう。それでは、産業界や学界の力をそぐことになり、かえって逆効果だ。
池辺先生のおっしゃる通りだと思います。
ふぅーん、世津奈さんは警察官だったけど、民間を縛りつけるのは好みじゃなかったんだ。

あたしは、世津奈さんのこと、ますます好きになったぞ。

国のためにする技術研究なんて、ろくなことにならない。そのうち、日本でもあたしみたいな怪物を作っちまうかもしれない。

アオイ……
ちょっと待て。あたしは慧子のことを責めてるんじゃない。慧子だって、脅されて仕方なくあたしを改造したんだ。あたしは、そういうふうに個人に圧力をかけて嫌なことを無理にやらせる国家ってものに怒ってるんだ。
あぁ、国家とか権威とか権力って、俺も大嫌いだ。
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登場人物紹介

山科 アオイ  17歳


アメリカ国防総省が日本に設置した秘密研究所で放電能力を持つ生体兵器に改造された少女。

秘密研究所を脱出した後、国家や企業から命を狙われる個人を保護するグループ「シェルター」に拾われ、「シェルター」が保護している人々のボディガードとなる。

山科アオイは、国防総省から逃れた後に名乗っている偽名。本名は、道明寺サクラ。


《放電能力》


※非接触放電  有効射程 20メートル

・単独のターゲットに致死的な電流を浴びせる設計だったが、アオイを暗殺兵器にしたくなかったレノックス慧子が故意に改造手術をミスしたため、致死量の放電はできない。

・設計にはなかった複数のターゲットを同時に攻撃する能力が発現している。


※接触放電  対象と身体を接して放電し対象を金縛りにする事ができる。


レノックス 慧子/アオイの相棒  37歳


元は、アメリカ国防総省で特殊兵器を開発する技術者だった。

日本人の両親の間に生まれたが、両親が離婚し母がアメリカ人と結婚したため、レノックス姓を名乗っている。


慧子を含む5人を「放電型生体兵器」に改造した。そのうち4名は職業軍人で改造されることを志願した者たちだったので、設計どおり致死能力を持たせた。

しかし、国防総省に拉致された民間人であるアオイに対しては、設計上求められていた致死能力を与えなかった。このため、アオイは一度も暗殺兵器として利用されていない。

アオイが秘密研究所を脱出するのを助け、後に自らも国防総省を離脱してアオイに合流して、2人で「シェルター」のボディガード役を務めている。

M 年齢不明


「シェルター」内でのアオイと慧子の「世話役」。アオイ達と「シェルター」の関係を調整する。

「シェルター」は組織に追われる個人をかくまうが反撃はしない非抵抗主義を貫いていたが、強力な戦闘力を持つアオイが加わっったため、一定限度の自衛力を持つ方向に転換した。

しかし、アオイ達の活動と「シェルター」本来の非抵抗・非暴力主義との関係は微妙で、Mは、常に難しい舵取りを求められる。

元はロボット工学の権威で、現在でも、アオイと慧子に様々な偵察・攻撃用の超小型ロボットを提供している。

宝生 世津奈(ホウショウ セツナ) 35歳


産業スパイ狩りを専門の調査会社「京橋テクノサービス」の調査員。

以前は、警視庁生活案全部生活経済課で営業秘密侵害事案を扱っていた。


ITとクルマに弱く、この方面では相棒のコータローに頼りっきり。


ホワっと穏やかだが、腹が据わっていて、必要とあれば銃を取って闘うこともためらわない。

コータロー(本名:菊村幸太郎) 27歳


調査員。宝生世津奈の相棒。

一流大学の博士課程(専攻は数理経済学)で学んでいたが、アカデミック・ハラスメントにあって退学。2年間の引きこもりを経て、親戚の手で「京橋テクノサービス」に押し込まれる。

頭脳明晰で、IT全般に強い。空手の達人で運転の腕も一流。


アカハラの後遺症で「ヘタレ」の傾向がある一方、自分が納得しさえすれば身の危険をいとわない勇敢さも持ち合わせている。

和倉 良一  35歳


日本有数の製薬会社、創生ファーマの研究員。

創成メディカルは、公には人工的に合成した臓器を新薬開発に用いているとしているが、実は、実は手術患者から摘出した臓器を用いていた事を知り、会社を内部告発する決意をする。その直後に、何者かかに命を狙われ、「シェルター」に助けを求めてくる。

アオイと慧子の警護対象者。

近江 正一 50歳


産業スパイ専門の調査会社「京橋テクノサービス」の付属救急センターで働く外科医。NGO「国境を越えた医師団」の一員として紛争地の野戦病院経験が長く、腕は確か。ただ、スピードを重んじるあまり、仕上げが荒い傾向がある。

頭に傷を負ったアオイを会社に秘密で応急処置した後、知人の外科医、川辺憲一にゆだねる。

川辺 憲一 28歳


若き天才外科医。大学病院の医局で起こったある事件が原因で病院を追われた上に医師免許も剥奪された。しかし、本人は、「運転免許のような更新制度のない医師免許は、終身免許だ」とうそぶき、闇で医師稼業を続けている。近江医師とは、長年の知り合い。

イケメンかつ女性大好き男で、彼の自宅兼マンションには女性の出入りが絶えない。一方で、公私を厳しく分ける潔癖さも示す。

佐伯 達彦 47歳


警察庁生活案全部の特命係長。階級は警視正。

総理大臣のイスを狙う野心家で、警察庁警備部に強いライバル意識を持っている。

人間を組織内の位置づけでしか評価できない男。警察を辞めた世津奈を警察時代の階級で呼び続けて、世津奈を鼻白ませる。

ただし、世津奈の粘りと度胸は評価している。

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