第2話 欲望のしびれ

文字数 23,050文字

十二
「僕のしてきた恋愛は雅美のような劇的なものはなかったなあ」
「そうなの? 激しい恋愛をしてきた感じだけどね」
「そう見えるかもしれないけど、案外平凡な恋愛しかしてきてないよ」
「ふ~ん、そうなの。じゃあ、その平凡な恋愛物語を聞かせてよ」
「わかった」
 その日生島が雅美に話して聞かせた自身の恋愛は、確かに平凡なものばかりであった。しかし、雅美が本や映画で知った恋を自分のことのように話したように、生島の話のほとんどは嘘で固めたものであろう。生島は本来雅美に話すべき、二つの濃密な恋の話は避けたのだから。
「ほんとうにそれだけ?」
「そうだよ。なんか満足していないみたいだけど」
「そんなことはないけど。もっとドロドロしたものがあるんじゃないの?」
「だから、ないって」
 珍しく苛立っているのがわかる。
「ごめん。そんなに怒るとは思わなかった」
「僕のほうこそ、ごめん。ここのところ、仕事でいろいろあって」
「大丈夫?」
「うん。でも、実は今転職を考えてるんだ」
 生島はうまい具合に話題を変えた。
「そうなんだ」
「転職って、タイミングとか年齢とかあるじゃない。今がその時期かと思って」
「そうよね。ちょうどいろいろ考える時期かもね、裕二の歳って」
「うん、そうなんだ。だからちょっとイライラしてて」
「ごめんね。そんな時に能天気な話題を振っちゃって」
「いや。雅美に罪はないよ」
「じゃあ、気分転換で買い物にでも行かない?」
「いいね」
 ということで、二人は銀座まで出かけた。ウィンドーショッピングをしながら街ブラをしていたら生島の顔も明るくなっていた。成美の靴と裕二のネクタイを買おうとデパートに向けて歩いていたら、裕二が50代の女性に声をかけられた。
「三丸商事の生島さんよね」
「ええ、そうです」
「覚えてないかしら、私、大貫妙子よ」
「ああ、その節はお世話になりました」
 仕事の関係者と見えるその女性は裕二に親し気に話を始めた。
「私、そこで待ってるから」
 そう言って成美は二人から少し離れ、店のショーウィンドーを覗いていた。裕二は小声で話していると見えて何を話しているのか聞こえないのだが、女性の声は大きいため、嫌でも聞こえてしまう。
「あの人、今お付き合いされている方」
 自分のことだろう。
「きれいな方じゃない。あなた昔からモテるものね」
「いや、そんなことないです」
 生島の過去の恋愛も知っているようだ。
「そう言えば」
 急に女性の声が小さくなった。だがそれでも微かに聞こえる。
「専務の娘さんとは…」
 後の言葉は聞こえなかった。
「もう、その話は止めてください」
 今度は裕二が大きめの声を出した。
「そんなに大きな声を出さないでもいいんじゃない」
「すみません」
「まだ引きずっているのかなと思って、心配してたのよ」
「そんなことないです」
「それならいいんだけど」
「すみません。彼女を待たせているもので…」
 生島が無理矢理会話を終わらせようとしていた。
「あら、ごめんなさい。じゃあ、お元気でね」
「どうも、恐縮です」
 生島が婦人から離れて雅美の元へ戻ってきた。
「会社の顧客企業の社長婦人」
「そうなの。なんか、裕二のプライベートなことまで話してなかった?」
「勝手な想像で話されて迷惑してるんだ」
「そう…」
 本当は、専務の娘とというくだりも聞こえたのだが、そのことは伏せた。
 せっかくの買い物も婦人の登場で裕二の機嫌が再び悪くなってしまった。結局、そそくさと買い物を済ませることになった。なんとなく白けた空気が流れ、雅美は予定より早く生島の部屋から帰った。その日の生島の落ち着きのなさは、生島という男の狭量を示しているようにも見えた。
 それでも、その翌週から生島は何事もなかったかのように雅美に接してきた。切り替えが早いのか、嫌なことは無かったことにできる能力でも備わっているかのどちらかだ。

十三
「生島さん、3番に受付から内線」
 同僚の大塚から言われ受話器を取る。
「生島です」
「受付の山田ですけど、生島さんにお客様です」
 来客があった場合、受付横にいくつかある応接室に通すのが当社の習わしである。
「どなた?」
「それが…」
 言い淀んでいるのは何なんだろう。
「ん?」
「警察の方です」
 誰かに訊かれてはまずいと思ったのか、山倉歩美は受話器に口をつけて囁くように告げた。
「わかった。すぐに降りる」
 動揺が顔に出ないように、一度トイレに入り、鏡を見ながら深い深呼吸をし、心を落ち着かせる。エレベーターで1階まで降り、受付の山倉の元へ向かう。
「あちらです」
 受付から一番遠い応接室を指す。彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。心なしか山倉の表情も硬い。生島は無言で頷き応接室へ向かう。部屋の前で息を整え、軽くノックしてから中に入る。50代の男と30代前半と見られる男が立ち上がった。
「生島裕二さんですよね」
「ええ、そうです」
 そう言って、名刺を渡した。
「お忙しいところ申し訳ありません。私、四谷署の羽村と申します」
 警察手帳を見せながら自己紹介したのは50代の男だ。目は鋭かったが、ベテラン刑事らしく物腰は柔らかい。
「同じく、前野と言います」
 こちらのほうは生島が入ってからずっときつい目を向けている。
「どうぞお座りください」
「失礼します」
 それぞれが着席したのを確認して、生島が切り出す。
「ところで、今日はどんなご用件でしょうか?」
「望月成美さんの件です」
「望月さん?」
「そうです。御社の総務課に勤務していた望月成美さんです」
 『勤務していた』と過去形にしているのが気になった。
「それで、私に何か?」
「あなたは望月さんと二年間付き合っておられたのですから、よくご存知ですよね」
 すでにいろいろと調べられていると観念する。
「そうですね。お調べになった通り、かつての恋人です。ですが、成美がどうかしたとでもいうんですか?」
「3日前に亡くなりました」
「成美が死んだ?」
 心底驚いた時の声と表情になっていただろうか。決して驚きを演じたわけではなかったし、演じる必要もなかったのだけれど、少しでも違和感を感じられてはまずいという心理が働いた。
「そうです。2日連続で何の連絡もなしに会社を休まれたため、上司の指示のもと同僚の方が望月さん宅を訪れ、警察官立ち合いのもと中に入り、望月さんが亡くなっているのを発見したのです」
 そんなことがあったらすぐに社内に広まるはずなのに、誰からもそんな話は聞いてない。しかし、同僚とは誰のことを指すのだろう。生島はそのことが気になった。成美が仲良くしていたのは畑中恵だが、成美宅を訪れたのが畑中だとするとまずいことになる。畑中はおしゃべりで知られていたから、警察に止められていても誰かに話してしまう危険性がある。
「どうしてその話が社内に流れていないのかと思っているんでしょう」
 生島の心の中を見透かしたかのように羽村が言った。
「まあそうですね。普通ならすぐに広まるはずですから」
「それは事件性があるからです。望月さんは同僚の方宛てにメモを残していました。ただし、それは内容から言って遺書ではありませんでした。そういうこともあり、現時点では自殺と他殺の両面で捜査しているので、社員の方たちにも内密にしていただいたのです。ただし、今日の夕刊には記事が出ると思いますが」
 成美が残したというメモには何が書かれているのだろうか。
「そうだったんですか。ちなみに死因は?」
「縊死です」
「いし?」
「首吊りです」
「ああ」
「それで、望月さんと関わりのあった方全員にお話を伺っているのです」
「そうですか…。そういう意味では、私が一番関係が深いですから、疑われてしまうんですね…」
「現時点であなたを疑っているということはないです。ただし、望月さんと一番接触していたのが生島さんであるということも確かなので、お訊きしなければならないことがたくさんあります」
「わかりました。私が知っていることはすべてお話いたしますので何なりとお訊ききください」
「ありがとうございます」
 羽村はそう言うと、横に座っている前野のほうを見た。
「それでは、私のほうからいくつか質問させていただきます」
「どうぞ」
「3日前の午後10時頃、あなたはどこで何をしていましたか?」
 どうせ調べはついているのであろうから、嘘などつきようがない。
「彼女の部屋にいました」
「そうですよね。マンションの防犯カメラにあなたが部屋に入る姿が映っていました。で、何しに?」
「いろんな話をするためです」
「いろんな話?」
 前野が露骨に呆れたような顔をして続けた。
「あなたと専務の娘さんとの結婚の話で望月さんから脅迫まがいのメールをもらったから、そのことについて話し合うためだったんじゃないですか?」
 警察は成美の携帯を押収していて、すでにあのメールを把握していたのだろう。
「そうですが…。だからといって、私は彼女を殺したりしていません」
「私は何もそこまで言っていませんよ。ただ、そのための話し合いに行ったことは認めるのですね」
「はい…」
「つまり、望月さん殺害の動機はあるということですね」
 前野は生島ではなく、羽村に向かって独り言のように言った。
「だから、私は絶対彼女を殺したりしていません」
「生島さん、世の中に絶対なんて存在しないんですよ」
 諭すように言う羽村の声に気圧される。
「でも心配しないでください。前野はあくまでも動機は考えられると言ったに過ぎません。実はその日、生島さん以外に何人かが望月さん宅を訪ねている人がいるんです」
「そうですか…」
「なので、その方たちも含め広く捜査をしているところです。いずれにしても、捜査は始まったばかりですので、これからも生島さんには何かとお話を伺いに来ることになろうかと思います。今日はこのへんで失礼しますが、その節はまたご協力よろしくお願いしますね」
 言葉は柔らかかったが、そこには有無を言わせぬ圧力があった。
 羽村の言っていた通り、その日の夕刊に成美の記事が掲載された。しかし、わずか数行の記事であり、詳しいことは何も書かれていなかった。それでも、翌日から数日間は社内でも成美のことが話題になっていたが、生島との関係については何の噂にもなっていなかったため、生島は安心していた。
 その後も警察は何度も生島の元を訪ねてきて根掘り葉掘りと細かいことを訊かれた。だが、次第にその回数も減り、やがてパタッと来なくなった。それが不気味ではあったが、ようやく疑いが晴れたのかと少し安心していた。
 ところが、ちょうどその頃から実は成美が生島と付き合っていたという噂が社内に流れ始めた。しかも、噂では成美との付き合いと専務の娘との付き合いが重なっていたということになっていて、生島はすっかり悪者にされていた。成美が同僚に残したメモに、生島と成美が付き合っていたことが書かれていたのだろう。経営企画室の先輩社員からその噂を聞かされ、生島は憤慨したが、成美が亡くなっている今、噂を覆す術を持っていなかった。
 当然ながら、専務の娘の知るところになり、ひどく追及されることとなった。『最低の男』と成美と同じ台詞も言われた。成美とつき合っていることすら隠していたのに、ましてや時期が重なっていたとなれば最低の男と言われても返す言葉がなかった。
 結局、その話は専務の耳にも届き、専務の娘との恋は破局を迎えた。それどころか、会社での出世の芽も絶たれることになった。専務は今副社長となり、娘は見合いで大手電機メーカーの次男と結婚したらしい。
 生島は以前と変わらず経営企画室には所属しているものの、出世レースからは外れ、資料収集担当という窓際族となっている。数か月前から転職のための活動を行っていたが、思うようにはいかずフラストレーションがたまっていた。ちょうどそんな時に青井雅美という女に出会ったのだ。

十四
 空に氷のかけらのような星が光っているのを見て、雅美は胸を締め付けられるような懐かしさを覚えた。
 生島は転職がうまくいかずに悩んでいた。T大卒でエリート意識の高い生島からすれば、転職も簡単に決まると高を括っていたに違いない。しかし、大手企業の経営企画室に勤務していたとはいえ、特別な能力や技術を有しているわけではない生島に、世間の見る目は案外シビアだった。
「何で落ちるんだろう」
 まるで自分を落とす企業が悪いとでもいうような言い方に、この男は何も自分のことがわかっていないと、雅美は思う。
「必要とされないところにばかり目を向けているからじゃない」
「どういう意味?」
「中途採用をする企業は、即戦力として使える技術や能力を持っている人を求めているのよね。なのに、裕二は名のある大手企業だけを選んで応募しているでしょう。だから噛み合っていないの。そんなことやってると、いつまでも決まんないと思うよ」
「じゃあ、どうしたらいい?」
 そのくらい考えればわかるだろうという言葉は飲み込んだ。生島や誰かさんのようにプライドだけは高く、自分を知らない人間が挫折すると物事を正しく見られなくなるものらしい。
「裕二を求めているのは、これから会社を発展させて行こうとしている二部上場か店頭公開の中堅、中小企業だと思う」
「そうかあ…」
 口ではわかったように言っているが、顔を見ると納得しているようには見えなかった。プライドというものは、そう簡単には捨てられないものらしい。しかし、いずれ現実を知ることになる。
 その後も、雅美の忠告を無視して以前と変わらぬ基準で選んだ企業に応募し続けていたが、ことごとく失敗し、ようやく気づいたようだ。考え方を変え、基準も変えて応募したとたん、複数の企業から採用通知をもらっていた。結局、その中から生島が選んだ企業は、現時点では中小企業だけど、成長著しいIT企業だった。
 転職祝いをしてほしいという生島の希望に沿って、新宿にある高層ビルの最上階のレストランを予約した。土曜日の夜に新宿駅の改札口で待ち合わせをして、高層ビルへ向かう。
「決まって良かったね」
「うん。雅美のアドバイスのお陰だよ」
 最初はそのアドバイスを無視していたくせに。
「ともかく良かった」
「ありがとう。仕事頑張るよ」
「裕二ならすぐに能力を発揮できると思う」
「ならいいけどね」
 謙遜して見せたが、自信ありありだった。
「あっ、ここだ」
 徒歩15分ほどでビルの前に着いた。最上階へ向かうエレベーターからは、夜の海に沈み込んだ街の中で光の帯や光の華が浮かび上がるのが見えた。
「きれいね」
「うん」
 なぜか生島の顔に緊張が見える。このビルに入ったあたりから口数も少なくなっている。雅美は、なんとなく嫌な予感がしている。席に案内されたが、いわゆるカップルシートで、窓に向かって横に並んで座るようになっている。しかも、照明はかなり暗いし、席と席の間隔も離れている。
「ここいいね」
 生島は嬉しそうだ。確かに自分たちはカップルなのだから、こういう席でもいいのだが、雅美が望んだのは普通の席だった。
「う~ん、もしかして裕二が席変更した?」
「バレたかあ。僕が電話して変更してもらった」
「やっぱりね」
 怒るわけにもいかず我慢することにした。まずはビールで乾杯して、生島の再就職を祝う。その後は注文してあった料理を黙々と食べた。食後はカクテルを飲みながら、静かに都会の夜景を愛でる。生島の手が雅美の手の上に乗せられる。そして、生島が雅美の耳元に口を近づけて言った。
「僕と結婚してください」
 生島の放った、あまりにもシンプルで直截的なプロポーズは雅美の心には全くといって良いほど響かなかった。ただ、予感が的中したと思っただけだった。もちろん、ここ最近の生島の態度から、近いうちにプロポーズされるだろうとは思っていたが、今日とは思わなかった。少し予定より早い。雅美には雅美の準備が必要だった。しかし、断るわけにもいかずOKすることにした。
「嬉しい。こちらこそお願いします」
「ほんと?」
「もちろん」
「幸せにするから」
「うん」
 生島は婚約指輪も用意していた。本来なら幸せの絶頂のその日、雅美が見ていたのは夜の底でうごめく自分の暗い意思であった。

十五
 あの一件以来、ここ数年いいことがなかったが、自分にもよやく春が来た。先週万全の準備をして雅美にプロポーズをしてOKをもらった。だが、いざ結婚となると、やるべきことがいっぱいあることに気づく。新居探しの担当の生島は賃貸物件の情報誌を見ている。
「雅美」
「ん?」
 金曜日の夜。風呂から上がり、ドレッサーの椅子に座ってケアをしている雅美に言う。
「新居はどの辺りがいい?」
 結婚しても当分の間は共稼ぎになるため、場所選びは難しい。
「裕二に任せるよ」
「じゃあ、雅美の勤務先に近いところにしようか」
「気持ちは嬉しいけど、いずれ私は会社辞めることになるんだから、あなたの会社に近いところにすれば」
 雅美が会社を辞めるということは、自分たちに赤ちゃんが産まれるということだ。その時のことを想像しただけで嬉しくなる。
「でも、それだとしばらくは雅美が大変にならない」
「大丈夫よ。ほんの数年のことでしょう」
 『ほんの数年』という言葉の中には雅美の中にすでにさまざまな計画ができていることを示している。妻としての堅実さも伺え、頼もしかった。
「そう言えばそうだね。でも、あまり遠くならないところで探してみるよ」
「それでお願い」
 そう言う雅美の顔を鏡越しに見る。風呂上がりの上気したすっぴんの雅美の、どちらかと言えば童顔を可愛いと改めて思う。
 初めて雅美のすっぴんを見たのは、付き合い始めて半年経った頃に雅美の部屋に泊まった時だった。
 その日少し酔い過ぎていた雅美を部屋まで送った。とりあえずベッドに寝かせ、キッチンでコップに水を注いで雅美の元へ戻る。
「水飲んだほうがいいよ」
 横になっている雅美をそっと起こして言う。そんな裕二の顔をトロンとした目で見つめ、呂律の回らぬことで可愛らしさの増した笑顔をくしゃくしゃにして雅美は言った。
「泊まっていく?」
「いいの?」
「うん」
 コクリと頷いたが、そのまま下を向き顔を上げない。そのまま眠ってしまいそうだった。
「大丈夫?」
「だ・い・じ・ょ・う・ぶ」
 裕二の顔を少し睨むようにしながら、一言一言区切って言った。
「ならいいけど。とりあえず水を飲んだら?」
 そう言って、両手にコップを持たせると、雅美は水を一気に飲んだ。よほど喉が渇いていたのだろう。
「私、シャワーを浴びる」
 そう言ったかと思ったら、雅美はその場で着ている服を脱ぎ始めてしまった。
「ちょっと、ちょっと。ここは風呂場じゃないんだから」
 制止しようとした裕二の方を、またまたあの笑顔を向け、
「私の裸、明るいところで見たい?」
 もちろん、そういう願望はあったが、相手が酔っているのに乗じるのはさすがに躊躇われた。
「わかった、わかった。さあ、風呂場に行こう」
 上着だけ脱いだままの雅美を風呂場まで連れて行く。よれよれになりながらも、雅美は素直に裕二に従った。
「じゃあ、後は大丈夫ね」
「だから、だ・い・じ・ょ・う・ぶ」
 そう言って風呂場のドアを閉めた。しばらくシャワーを使う音が聞こえていたが、それが消え、タオルを巻いただけのすっぴんの雅美が現れた。酒に酔った勢いですっぴんを晒してしまっていることに気づかぬ雅美。初めて見る雅美のすっぴんは想像をはるかに超える透明な可愛らしさだった。化粧している顔の妖艶さとのギャップがたまらない魅力となっている。
「雅美のすっぴん可愛い」
「えっ、やだー。見ないで」
 両手で顔を覆いしゃがみこもうとする雅美。だが、その拍子に巻いていたタオルが外れてしまい、明るい光の中で裸体を晒してしまう。
「きゃあー」
 慌ててタオルを取り上げ巻きなおすが、すると今度はすっぴんを晒すという事態になる。そんな雅美の一連の動作を見て、この子は絶対に手放さないと決意した。
「雅美、顔を隠さないで。素のままの雅美はさらに素敵だよ」
 そう言って顔を覆っていた両手を剥がし、すっぴんの雅美の口を自分の口で塞いだ。もちろん、それで終わるわけもなく、そのままベッドへもつれ込んだ。あれも、もう半年前のこと。
「ところで、式場巡りのほうはどうなの?」
 式場については雅美が調べることになっている。
「ああ、それ。だいたいリストアップが終わっているから」
 雅美が硬い背中を向けたまま言う。
「だいたいって」
 言い方が気に入らなかった。ここへきて雅美の様子が少しへんだ。いわゆるマリッジブルーというものなのだろうか。それに生島にはもう一つ気になっていることがある。雅美の家庭は離婚していて父親しかいないとうことで、裕二がその父親に挨拶に行きたいと言ったら、長い間海外に赴任していて自分ですら疎遠になっているから会う必要はないと言われてしまったのだ。ちなみに、裕二の両親と雅美はすでに顔を合わせていた。いくら疎遠になっているとはいえ、娘の結婚に無関心な父親なんていないと思うのだが…。形にならない疑問が裕二の心にずっと住みついている。
「何よ。細かいことにいちいち揚げ足取らないでよ」
 振り返った雅美は、いかにも憎々し気に尖った声を出した。
「そんなに怒らないで」
 やはり雅美は苛ついている。それは結婚そのものについてなのか、それとも…。
「ごめんなさい。でも…」
「すまない。雅美は悪くないよ。俺がどうでもいいことにこだわってしまったせいだ。なんだか、俺のほうがマリッジブルーになっているみたいだ」
「男の人のマリッジブルーなんてあるのかしら。おもしろいこと言うわね」
 雅美の笑顔に心が凪いでいくのを感じた。
「とにかく、私のほうで準備できてるから来週の土曜日に式場巡りすることにしない?」
「うん、そうしよう」
 
十六
 日差しはまるで毛布のように私を包み込み、眠気を誘う。
 珍しく1人で過ごす日曜日の午後、雅美はソフアーでぼおっとしながら生島のことを考えていた。最近、雅美は生島が結婚に向かってどんどん先に進んでいってるのが鬱陶しかった。もちろん、雅美に生島と結婚する意思など微塵もない。そろそろ最後の作戦を決行する時がきた。思えばずいぶんと時間をかけてきた。およそ1年に亘る長い期間の中で、途中、雅美の気持ちが揺らいだ時もあったが、今はもう固まっている。
 ローテーブルの上に置いてあった携帯がなった。思考を中断させられた雅美が画面を覗き込むと、父親の番号が表示されていた。無視しようかとも思ったが、そんなことをしてもしつこくかかってくるに違いないので出ることにする。
「はい」
「雅美か?」
「そうよ。私のところにかけてきたんでしょう」
「そりゃあそうだけど。相変わらず愛想もクソもないな」
 言葉に品がない。こういうところも嫌いだ。
「父親に愛想なんか使ってどうするのよ。それより何?」
「明日東京に行く用事があるからお前のところに顔出そうかと思って」
 父親は以前雅美が同居していた大阪に今でも住んでいる。
「突然そんなこと言われても困るのよ。私だっていろいろ都合があるんだから」
「だから、今日電話したんじゃないか」
「今日の明日は突然って言うの、わかんないの。もうー、勝手なんだから」
 そう。父親は自分勝手なのである。その遺伝子を自分は受け継いでないと思っている。受け継いでいるのは雅美ではなく、誰かさんであると。
「で、どうなんだ」
「大丈夫よ。何とかするから」
「そうか。じゃあ、用事が住んだら連絡する」
「わかった」
 封印していた無残な思い出のいくつかが浮かんでくる。
 父親と会うのはおよそ1年ぶりくらいになるだろう。一時期雅美は父親を恨んでいた。酒と女に溺れ、毎日のように酔っぱらって帰宅し、服からは女の香水の匂いがした。仕事だけはちゃんとやっているようで、経済的に辛い思いをすることはなかったけれど、雅美が一番欲していた愛情が得られなかった。もともと暗い性格だった雅美は、小学校から中学校までずっといじめの対象にされていた。そのせいもあって友達もほとんどいなかった。だから、いつも孤独だった。そんな雅美の苦しみや辛さの1ミリも理解しようとせず、父親は自分寂しさを紛らわすためだけに酒と女に溺れていたのだ。
 高校に入ってからはいじめに会うことはなくなっていたが、相変わらず友達と呼べる人はできなかった。高校時代の雅美の夢は、早く卒業して家を出て東京で就職することだった。父親らしいことなんか何もしなかったくせに、大学へ行ったほうがいいという父親の言葉を無視して、高校を卒業後、東京で就職した。
 娘に出て行かれ、ようやく自分のそれまでの行動の間違いに気づいたのか、最近では何かといえば雅美のことを気にかけてくるが、もはや鬱陶しいだけだ。今さら気づいても、雅美のあの暗黒時代は暗黒のままだ。
 翌日の夜、父親は雅美が子供の頃好きだったシュークリームを山ほど買って現れた。
「これ雅美好きだったよな」
「子供の頃ね」
「えっ、今は好きじゃない?」
「今はほとんど食べない。あなたにとっての私は子供の頃でストップしているのよね」
 敢えて『あなた』と言って父親の怒りを誘発させようとしたが、最近はそう呼ぶことが結構あるので、そこには反応しなかった。
「そんなことはない」
「そんなことあるじゃない。これがその証拠」
 シュークリームを指さす。こんなことまで言うつもりはなかったが、自分のこじれた思いが止められなかった。
「わかったよ。パパが悪かった」
 そう言って、父親は自分の買ってきたシュークリームを下げようとする。子供のような不貞腐れ方だ。
「せっかく買ってきたんだから食べるわよ」
 自分のせいとはいえ、気まずい空気が流れてしまった。
「とにかく着替えたら」
 父親がまだ背広姿であることに気づいた。
「あっ、そうだな」
「そのタンスの中にジャージが入ってるから」
 一応、いつ来てもいいように父親用のジャージは用意してあった。
 雅美は着替えから戻った父親のことを目で追いながらも、頭の中では生島のことを考えていた。
「今何を考えている?」
 父親が興味深そうに訊いてきた。
「さあ。どんなことでしょう」
「彼氏のことか?」
 まあ、当たっていなくもない。
「まあ、そう」
「ほおー、雅美にも彼氏ができたか」
 いかにも小馬鹿にしたような言い方だ。
「その言い方、なんか失礼。私だって彼氏くらいできるわよ」
「一度パパにも紹介してくれよ」 
「いやよ」
 もし、この父親に裕二を紹介したら、後々ややこしいことになる。
「何でだよ」
「何でも」
「そういう可愛げがないところは誰かさんとそっくりだ」
 一番聞きたくないことを平気で言う。雅美は自分の思いを自分の中のどこにどんなふうに収めればいいのかわからない。
「だったら何で私を選んだのよ」
 父は離婚した際、自分を引き取った。そんな父親の言葉に、雅美の中では怒りと憎しみと悲しみがいっしょくたに混ぜ合わさっていた。
「その話はするな」
 雅美が父親を未だに許せない理由がここにあることをこの人はわかっているのだろうか。
「いつもそうやって肝心なことから逃げてばかりだから、あの人に捨てられるのよ」
 ついに言ってしまった。これまで言いたかったけど言えなかった一言。だがそれは苦い味しかしなかった。
「捨てられただと。バカを言うな」
「ごめん。言い過ぎた」
 雅美も大人になっていた。これ以上傷口を広げれば二人ともさらに傷つくだけだと思ったから、自分でストップをかけた。
「パパがどんな思いだったかお前はわかっていない」
 雅美からすれば思わぬ言葉だった。雅美は気づいた。父親も雅美もともに、自分のことしか考えられない欠陥人間だということに。これまでは父親を責めることで、自身の身勝手さに気づかないふりをしていた。認めてしまったら誰かさんと同じになってしまうから。
「そうね。私にはあなたの思いを感じ取る能力がないのかもしれない。でも、もう止めよう、こんな話」
「お前が始めたんじゃないか」
「だから、ごめんなさい」
 できるだけ殊勝に見えるよう、頭を下げて言った。どうせ噛み合わないのだ。疲れるだけなので自分が折れることで終わりにした。でも、雅美の心の中では寒々とした風が吹いていた。
「まあ、パパも悪かったよ」
 珍しく父親が謝った。いかにも口先だけ言葉は目の前で霞んでいく。


十七
 転職した会社は前職場とは違って中小企業であったが、その分責任ある仕事をやらせてもらい、遣り甲斐があった。前職場での仕事も楽しかったが、自分が起こした恋愛沙汰のせいで、辞めるまでの半年間は雑務しかさせてくれなかった。転職して仕事の楽しさ、おもしろさを改めて感じているところだ。プライベートでは雅美との結婚も決まり、これからは新たな生活設計を立て、前を向いて生きて行こうと思っている。
「生島君、今日帰りに寄っていくか」
 部長の浜村が指で飲む仕草をしている。
「あっ、部長。すみません。今日はこの後新居探しの件で不動産屋を回らなくちゃいけないんです」
 入社する時に結婚が近いことは伝えてあった。
「そうか、そうか、わかった。落ち着いた時にでも声をかけてくれ」
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
「気にするな。じゃあ、頑張れよ」
 部長や残業している社員たちに挨拶をして職場を出る。電話で予約してあった不動産屋に着くと、すでにこちらの希望に近い物件を複数リストアップしておいてくれていた。とりあえず、その場で一つ一つの物件について口頭で説明を受けた後、実際に現地に見に行く物件を選んだ。
「じぁあ行きましょうか」
 担当者の運転する車で3件の物件を見た。正直なところ、どの物件も悪くはなかったが、帯に短し襷に長しという感じだった、自分一人が住むのだったらそんなにこだわらなかったと思うが、新婚生活を送る場となると安易な妥協はしたくなかった。そんな生島の様子を担当者も感じとっていたようだ。
「どこも決め手に欠くみたいですね」
「すみません。贅沢を言っているわけじゃないんですけど、もう少し他の物件も見て見たいなと」
「わかりました。もしよろしければ明日もお出でいただけませんか。新しい物件情報を用意しておきますので」
「そうですか。じゃあ、お願いしていいですか」
 新居探しをしていると、雅美との結婚生活が目に浮かんできて楽しかった。しかし、他にもやるべきことが多くあるので、新居のほうは明日中には決めたいと思っている。不動産屋の帰りに駅前のラーメン屋で夕食を済ませ自宅マンションに着いた時は午後9時近くになっていた。
エントランス脇のメールボックスを開けて郵便物を取り出す。どこで名簿が流れているのかと思うほど多くのDMが届いている。それらをわしづかみにしてエレベーターに乗る。3階で降りて302号室の前に立ち、鍵を開けて部屋に入る。リビングの電気を点けると、今朝出かける前に出しておいた雅美のブレスレットが目に入る。先週の土曜日に裕二の部屋の掃除に来てくれた雅美が忘れていったものだ。本当は今日会って渡すつもりだったが、不動産屋へ行く予定を思い出して、後日にした。
 とりあえず着替えを済ませ、風呂の準備をしてから先ほどローテーブルに置いた郵便物の整理を始める。すると、企業DMの中に違和感のある封筒があるのに気づいた。それは以前どこかで見た記憶があるものだった…。形をもたない不吉な予感が湧いてくる。封筒を取り出して裏を見るが、差出人の名前はなかった。ハサミを持ってきて封を切る。中には三つ折りにされた便箋が一枚入っている。震える手で開くと、そこにはこう印字されていた。
『あなたは間もなくこの世からいなくなる』
 成美のところに届いたものと同様の手紙に、裕二は弄ばれているような或いは試されているような気分に襲われ、それはやがて、心が半分もぎ取られたような不安に変わる。結局、成美にあの手紙を送りつけた犯人はわからなかったが、成美は手紙の通りに死んだ。奇妙で希薄な悪夢を見ているようだった。
ーいったい誰がー
 当時の裕二は、成美が必要以上に怯えているように思っていた。もちろん、恋人として心配するふりは示していたが、内心では冷めた目で見ていた。だが、いざ自分の元へ届くと恐怖は現実のものとなった。理由や原因はともかく成美が手紙の予言通りに死んだという事実が裕二の心を奈落の底に落とした。
ーしかしいったい誰がー
 成美のことも知っていて自分のことも知っている人物が差出人と思われるが、それだけの条件であれば多くの人間がいて特定できない。相手の見えない恐怖と不安におののきながらも、成美の時と同様、現時点で事件性は低くこの手紙では警察も動かない。友人が所長をしている探偵事務所に依頼しても差出人を特定できる可能性がまずないことは成美の時にわかっていた。
ーどうすべきかー
 いくら考えても答えはでない。
 あまりよく眠れないまま朝を迎えた。
 しかし、カーテン越しに射しこんできた朝陽の力が裕二に勇気を与えた。あんな子供だましの手紙に怯えてしまったことが嘘のように思えた。今の自分には結婚に向けてやるべきことがいっぱいある。そのことに集中しよう。今週末の土曜日に雅美のところに行くまでに新居を決めなければならなかったし、様々な手続きについても調べておく必要があった。それに、土曜日は雅美の誕生日でもあったので、そのプレゼントを用意する必要もあった。
あっという間に金曜日を迎えたが、明日の土曜日のためにやるべきことはすべてできた。この間おかしなことなど何も起こらなかった。あの手紙を見た瞬間感じてしまった恐怖や不安も杞憂に過ぎなかったのだ。だが、夕方突然部長に呼ばれ、裕二は急に不安になった。何か悪いことを告げられるのか。部長について会議室へ入る。
「そこに、座って」
 部長の前の席に座る。
「ここまでずっと君の仕事ぶりを見てきたけれど、さすが三丸商事の経営企画室にいただけのことはある」
 悪い話と思い込んでいた裕二はいきなり褒められて逆に戸惑った。
「そう言っていただけると嬉しいです」
「それでだ。今度立ち上げる新規事業プロジェクトのリーダーになってもらいたい」
「僕でいいんでしょうか?」
「君の実力をかってのことだ。頑張ってほしい」
「ありがとうございます。一生懸命やらせていただきます」

十八
 生島は部屋に入つてきた時から上機嫌だった。
『どうして?』
 雅美は心の中で疑問符を口にしていた。
「何かいいことでもあった?」
「ん? 何で?」
「だって、すごく嬉しそうだから」
「あっ、バレちゃった? 俺ってすぐに顔に出ちゃうんだよね」
「そうね。裕二ってわかりやすいかもね。で、何があったの?」
「いろいろ。でもそれは後で話すから」
「もったいつけるわね」
「楽しみは後にとっておきたいんだよ。それより、いい式場見つかった?」
 明日二人で式場巡りをすることになってる。
「大丈夫よ。私の方で資料を集めて準備できてるから」
「良かった。明日が楽しみだね」
「うん。で、裕二、ちょっとだけ待ってもらえる?」
「ん?」
「どうしても片付けないといけない仕事があるの」
 そう言ってパソコンを指す。
「ええー」
「ごめん。すぐに済ませるから、ビールでも飲んでいて」
「わかった」
 せっかくご機嫌だった生島の顔が少しだけ曇った。冷蔵庫から冷えたビールと、用意してあったつまみをローテーブルの上に置く。生島がテレビのスイッチを入れ、つまみに手を出したのを確認して雅美はパソコンの前に座る。電源を入れると、ぶ~んという軽い音がしてパソコンが起動する。敢えて途中で終わらせてあった仕事のファイルを呼び出して開く。しばらく仕事をしていたが、忘れていたことを思い出したように生島に向かって言う。
「ちょっと駅前の文房具屋さんに行ってくるわ」
「文房具屋?」
「うん。そこにしか置いてない用紙があるの」
「ふ~ん」
 テレビに夢中になっている感じの裕二は、興味無さげに答える。
「往復40分くらいで戻ってくるから」
「わかった」
「じゃあ行ってくるけど、パソコンいじらないでよ。後で面倒になるから」
「そんなことしないよ。それより気をつけてね」
「ありがとう」
 マンションを出ると雅美は思わずニヤリとした。仕掛けにぬかりはなかった。後は生島が食いつくかどうかだったが、生島のような単純な男は誘導に乗りやすいことがわかっている。
 実際に駅前の文房具屋まで出かけ、その店にしか置いてない特殊な用紙を買ってマンションまで戻る。速足で歩いたせいか、往復にかかった時間は23分だった。もともと40分などかからない。生島に帰宅したことを悟られないよう慎重に鍵を開ける。幸い、ほとんど音はしなかった。すり足でリビングのドアの前に立つ。ドアの上半分には透明のガラスが嵌め込まれているため中が見える。ソファーはドアに並行に置かれているので、もし生島が座っていたらその後ろ姿が見えるはずだが、見えなかった。目を横に移してみると、パソコン机の椅子に座って画面を見ている生島の姿があった。案の定、生島は雅美の仕掛けた罠にはまっていた。まだ雅美が帰ってくるとは思っていないのであろう。前のめりで食い入るように画面を見つめる生島の姿は、ただの間抜けな男にしか見えなかった。
 雅美が勢いよくドアを開けると、生島は驚きのあまり飛びあがった。無言で近づく雅美を、生島は呆然と見つめる。
 生島が開いていたのは『裕二へ』と名付けてあったファイルだ。おそらくそれを生島は雅美からのサプライズと勘違いしたに違いない。実際、最初のページには裕二の愛情に対する感謝を綴ったものにしてあったから涙でも流して読んだのではないか。だが、次のページには生島に送ったあの手紙の文面だけが書かれている。今画面に映し出されているのはまさにその画面だった。雅美はベストタイミングで部屋に戻ったのだ。
「見たわね」
「こ、これはどういうことだ」
 生島の瞳の底で水のように透明な炎が揺らぎ立った。今の生島には雅美が悪魔のように見えているのかもしれない。
「聞きたい?」
 雅美は鏡を見て研究した、自分が一番妖艶に見える笑顔を作って言った。
「お、おれには聞く権利がある」
 心なしか声が震えている。
「この期に及んでもそのへんなプライドが捨てられないようね。声は震えているのに。おかしくて反吐が出そうだわ」
 雅美の凄みに生島は声も出なくなった。
「いいわ。教えてあげる。ただ、長くなるからソファーに移って」
 生島は素直にパソコン用の椅子から立ち上がり、のそのそとソファーに移った。雅美の正面に座った生島の顔はいつもより青白く、この数分で一気に老けて見えた。
「私には二卵性双生児の姉がいるの」
「姉? まさか?」
「そう。そのまさか。私の姉は望月成美」
 目を見開いて固まる生島。
「名字が違うのは両親が離婚して、姉は母の元の名字になっているから」
「そう言われれば目許が似ている…」
「私が姉と似ているのは目許ぐらいかな。基本的には二卵性だから似てないのよね。子供の頃から姉は女王様で、妹の私ですら家来に過ぎなかった。飛びぬけた美人だった姉に比べ、私は地味で平凡な顔だった」
「そんなことはない」
 本心かどうかは別だが、こういうところはこの男のいいところではある。
「化粧を覚えてからは別人のようになれたけど、化粧映えするということはすなわち素顔が地味ということなのよ。あなたも私のすっぴんを見ているのだからわかるでしょうけど」
 生島は自分だけの闇を抱えるように呆然としている。
「姉は何でも自分の思い通りになると思っていたし、思い通りにしていた。もちろん、外に出て自分の思い通りにならないことのほうが多いと知ることになるのだけど、そんな時には思い通りにならない社会や相手のほうが悪いと思っていた。そんな外でのストレスを、家の中でのわがままで発散していた。パパもママもそれを許していたから、私だけがいつも被害者になっていた。だから、私は姉のことが大嫌いだったし恨んでもいた」
「そんなことが…」
「別にあなたに同情なんかしてほしくないわ。そして、両親の離婚が決まったあの時、最悪の事態が起きたわけ」
「最悪の事態?」
「離婚に当たって、子供は両親のどちらかと暮らすことになったの。私はママが好きだったからママと暮らしたかった。でも、姉に『あんたわパパね。私がママと暮らすから。いいわね』と言われ、両親に訊かれた時、姉から言われた通りに答えていた。ママは当時すでに有名画家として知られ、経済力もパパよりはるかに上だった。そのことも含め姉はママを選んだ。事実、ママに引き取られた姉は裕福な生活を送っていた。パパは離婚の痛手もあって、酒や女に溺れ、私は辛い日々を送らざるを得なかった。それに、もともとパパは子供というものが好きでなかったのよね。だから、私のことが邪魔でしょうがなかった」
「そんなことないんじゃない」
「あなたに何がわかるって言うのよ」
「悪かったよ」
「あの手紙に繋がるのはこれからの話。あなたは私の勤める会社名は知っていたけど、あなたの会社と私の勤務先が取引があったことを知らなかったわよね」
「取引があったのか?」
「本社のエリートさんはそんなこと知らなくもいいのよね。ある時、あなたの会社が取引先を集めた会合を開いたの。その時、私は部長のお供で参加した。そして、あなたがその会議に当日急に参加できなくなった誰かの代わりに出席した」
「そんなことがあったような気もするけど…」
「あなたにとってはどうでもいい会議だから忘れてしまったんでしょうね。あなたは自分にとって価値がないものは平気で切り捨てる。そんな人よね」
「そんなことはない」
「誰でも自分のことはわかっているようでわかっていないものよ。もっとも、それは私もだけどね。話を戻すけど、その会議で私はあなたに一目ぼれしてしまった。ただ、当時の私は自分に自信がなかった。素顔に黒縁のメガネをかけ、服装も地味なものしか着ていなかった。だから、あなたに自分の方を向いてもらえるとは思わなかった。それでも、あなたのことが忘れられなかった私はあなたのストーカーになった。あなたはまったく気づいていなかったけど。といっても、あなたに何か危害を加えるようなことをしたわけではなく、ただあなたの姿を見るために、あなたの後を追い続けた。追い続けた結果、あろうことか、あなたが私の姉と付き合っていることがわかってしまった。許せなかった。だから、あの手紙を姉に送った。姉だけ幸せなのが許せなかった。姉に悲しみや苦しみや不安というものを感じさせるためだった」
「成美は君から送られたものだとは、露ほどにも思っていなかったと思う」
「そうね。私だと思ったら怒鳴り込んできたでしょうからね。でも、私にとってはそれも許せなかった。すでに姉の中に私は存在しないということになるからだった。だから、さらにもう一通手紙を送ることで恐怖を募らせるようにした。さすがに効果はてきめんだった。私が姉のマンションの近くまで行って様子を見ていたら、窓際に立って何度も何度も外の様子を伺っている姉の姿があった。溜飲が下がる思いだった。でも、事態は思わぬ方向に動いた。おかしくなった姉をあなたが捨て、専務の娘に乗り換えたから」
「乗り換えたわけじゃない。成美が俺を忌避したんだ」
「死人に口なしだから、何とでも言えるとでも思っているわけ。まあ、いいわ。あの姉がそんな事態に黙っているはずもなく、あなたを責めたてたことは容易に想像がつく。でも、あなたにとってそんなことは痛くも痒くもなかった。何せ、専務の娘との結婚という願ってもないチャンスが訪れていたから。そうなると、姉は邪魔者でしかなかった。だから、あなたには姉を殺す大きな動機があった」
「君の話にはいろんな飛躍がある。ただ、客観的に見て俺に動機があると見られるのはしょうがない。事実、何度も警察の事情聴取も受けた。だけど、俺は逮捕されていない。俺は無実だ」
「決定的な証拠がなかったからよね」
「いずれにしろ、俺はシロだ」
「それを私が信じるとでも思うの」
「君が信じようと信じまいと関係ない」
「やっぱりね。普通だったら、少なくとも愛している人には信じてもらいたいと思うものじゃない」
「今はそういうことを話している状況にない」
「ふ~ん。あなたらしい屁理屈よね。何を言っても自分には関係ないと思っているようだから、ここでおもしろい話をしてあげましょうか」
「おもしろいこと?」
「そう。あなたにとってはおもしろいはずよ。警察もまだ知らないこと」
「警察も知らないこと?」
「食いついてきたわね」
「何だ、それは?」
 生島の態度が激変した。雅美が自分のあずかり知らぬ情報をつかんでいると思ったのだろう。
「姉は、亡くなる二日前に私に手紙を送っていたの。警察には話してないけど」
「それがどうした」
 本当は知りたいはずなのに、大声でそれを否定した。
「大きな声を出さないで。本当は何が書いてあったか知りたいんでしょう。もちろん、それはあなたには教えないけどね」
「別にいいさ」
 ついに開き直った。
「あらそう。姉はあなたのせいでひどく傷ついた。それはそうよね。自分は女王様だと思っていたのだから。初めてといってよいほど大きな挫折の中で、姉が最終的に頼ったのは、他の誰でもなく私だったの。私があの手紙を送りつけた張本人だとも知らずに。姉はこれまで私にしてきたことを泣いて謝った。自分は間違っていた。人生において一番大切なものが何であるか、今更ながらに気づいた。どうかこんな自分を赦してほしいと」
 生島はすでに感情を喪った、ただの青白い置物のようだった。
「その時私は初めて姉を姉と思うことができた。自分が長い間姉に対して持っていた歪んだ思いも吐露し、あの手紙を送りつけたのも自分だったと告げ、私こそ謝らなければならないと話した。電話の向こうとこちらで号泣していた。少し落ち着いた後で、姉はあなたとのトラブルについて私に相談し、私は姉の力になる約束をした。でも、姉はその時点でもまだあなたのことが好きだったのね。すべてを話してくはくれなかった。だから、危険な状態になっていると気づかず遅きに失してしまった」
 そう、あの時、私は姉に痛みのような思慕を感じていた。
「そんなこと俺に聞かせてどうする」
「そうよね。姉と私の関係なんて、あなたにとって何の関心もないことですものね。じゃあ、今度は直接あなたに関係ある話をしてあげようか」
「ほおー、今度は何の話だ?」
ついさいほどまで青白い顔をして不安の表情を見せていたい生島だったが、それほど追い詰められていないと思ったのか余裕を見せている。いや、虚勢をはって余裕があるように見せているのかもしれない。
「しかも、あなたにとっては極めてまずい話」
「そんなのないはずだ」
「そうかしら。あなたは姉の遺体の第一発見者は会社の同僚と警察から聞かされていると思うけど、実は違う」
「何だと」
「第一発見者は私」
「知らないと思ってでっち上げを言うな」
「でっち上げなんかじゃないわ。何なら一緒に警察に行って確認してもいいわよ」
「信じられない」
「警察も全部正確な情報を出すとは限らないのよ。特に最重要容疑者相手にはね」
「そんなバカな」
「姉から電話を受け、私は心配になったので2日後に電話を入れたの。でも出なかった。何度連絡してもつながらなかったので、何かあった可能性を考え、急いで駆けつけた。管理人さんに事情を話して鍵を開けてもらい一緒に部屋に入り、姉の無残な姿を発見してしまった。管理人さんが警察に電話するため1階の管理室に戻った時、私は部屋の中を見渡し、ローテーブルの下にマイクロレコーダーがあるのを発見した」
 生島は衝撃のあまり唇を震わせている。
「それを私はそっと自分の鞄の中にしまったというわけ。会社の同僚の人がやって来たのは、それから1時間後のこと。当然、第一発見者である私も警察に疑われたわ。でも、私には姉の死亡推定時刻に明確なアリバイがあった。で、その肝心のレコーダーに吹き込まれていた内容についてだけど、私が言わなくてもあなたが一番よくわかっているわよね」
「それはどこにある」
「そんなこと教えるわけないじゃない」
「復讐するために俺に近づいたのか?」
「復讐? おぞましい言葉ね。私はかつて私の心を惹きつけ、そして、実は大好きだった姉をも骨抜きにしてしまった生島裕二という男の本性を知りたかっただけ」
 雅美の言葉はもう生島には届いていなかった。というか、どうしたらこの窮地から逃れられるかしか考えられなかったのだろう。生島は賭けに出た。
「頼む。そのレコーダーを俺に譲ってくれ。お願いだ。君の頼みは何でも聞く」
 今にでも泣き叫びそうな懇願の表情を作っている。
「あなたにお願いすることなんか何もないわ」
 もはや万策尽きたという感じの生島が最後に考えることはわかっていた。顔には憎しみの表情が出ている。だが、少し前からその表情とは裏腹に全体が弛緩してきているのが見て取れる。
「その顔は私を殺したいと思っているわね。でも、そんなことさせない」
 生島の身体が左右に揺れ始めた。
「お前、薬を…」
「そう。さっきのビールの中にたっぷり睡眠剤を入れておいたわ。今夜死ぬことになるのは私じゃなくて、あ・な・た」

十九
 頭の奥に鈍痛が走るような感覚がする。眠りと目覚めの境目にある海を漂っていたが、徐々に覚めていくのだとわかった。身体には毛布が掛けられているが、それをどけようとしても身体の自由がまだ効かない。
 薄く目を開けると、どこかの部屋のようだが、はっきりとはわからない。自分は生きているのか? それとも?
「あっ、目が覚めた?」
 斜め上の声のする方角へ目だけ向ける。その女性が青井雅美であると認識できるまでにしばらく時間がかかった。
「ま、さ、み?」
「どうしちゃったの。そうに決まってるじゃない」
 自分で自分の状況がわからない。
「俺…」
「昨日調子に乗って飲み過ぎて、ソフアーに横になったまま寝ちゃったんじゃない」
 ようやく少しずつ記憶が蘇る。昨日、雅美の部屋に来て…。雅美がどこかけ出かけている間ビールを飲んで…。その後、ウィスキーをロックで飲んで…。新居のことや自分が新規事業のプロジェクトリーダーになったことなどを話した?。そして、雅美には誕生日プレゼントを渡すことにしていたけれど、それは渡した?
「そうだったよな」
 次第にはっきりしてくる意識の中で、裕二はまだ思い出せていないことがあるような気がするが、それが何のことなのかは思い出せない…。
「あなた、うなされてたみたいだけど、何か怖い夢でも見た?」
「怖い夢?」
 そう言われれば、自分には怖い思いをした感覚だけが残っている。果たしてそれは夢だったのか?
「違うの? でもそんなことより、もう起きてよ。今日は式場巡りで忙しいんだから」
 そうだった。今日は雅美が選んだ式場を回ることになっていた。お腹に力を入れて重くなっている上半身だけ起こす。身体に特に支障はないようだったが、まだ少しふらつく。雅美に向かって手を出すと、
「しょうがないわねえ」
 雅美が自分の手を両手で掴んで引き起こしてくれる。今日の雅美はいつになく優しい。ようやく覚醒した気がする。
「トマトジュースでも飲む?」
 キッチンに行った雅美が笑顔で言う。自分は雅美の笑顔を見るだけで幸せな気持ちになれる。
「そうだね」
 ダイニングテーブルの上にはすでに朝食の準備が整っていた。トーストにスクランブルエッグ、野菜サラダ…。そこに、雅美がトマトジュースを運んできた。
「じゃあ、いただきましょう」
「はい、いただきます」
 まるで新婚家庭のような朝食は、これからの楽しい生活の象徴のようでもあった。雅美への誕生日プレゼントは渡すことができていたことが判明して安堵する。
「なんか幸せだね」
「何が?」
「こういう何気ない時間に幸せって感じない?」
「そうなのかもしれないわね」
「ところで、今日は何か所の式場を回る予定?」
「一応3か所の予定だけど、もし時間が余ればもう2か所くらい見たいと思ってる」
「わかった。ようやく俺たちも夫婦になるんだね」
「何感慨にふけっちゃってるのよ」
「雅美に出会えたことに感謝しているのさ」
「ふふふふふふ」
「何それっ」
「さあさあ、行くわよ」
 雅美に促され、マンションを出る。秋晴れの雲一つない空から透き通った陽光が降り注いでいる。それはまるで二人の明るい未来を暗示しているようで、裕二の心は浮き立った。駅へと続くまっすぐな道を歩きながら、雅美の手を握ろうとしたその時、黒塗りの2台の車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。雅美の手を握ろうとした自分の手が、震えた。車に乗る人物の顔がはっきり見えたからだ。2台の車は二人の近くで止まり、前の車から二人の男が降りて来た。
「生島さん、お久しぶりです」
 穏やかな口調で話すのは四谷署の羽村刑事。隣で厳しい顔を向けているのは前野。後ろの車からも刑事と思われる複数の男たちが降りてきて、あっという間に裕二を取り囲んでいた。
「何ですか?」
「用件はおわかりのはずですが。実は昨夜、お隣におられる青井雅美さんからレコーダーと手紙を受け取りましてね」
 あれはやはり夢ではなかった。するすると時間が巻き戻される。今頃気づいても遅いが…。いつの間にか自分より後ろに下がっていた雅美を振り返る。
「そういうことだから」
 そう言われたが、もう自分は雅美に返す言葉がなかった。
「ということで、11月29日午前9時5分、あなたを望月成美さん殺害容疑で通常逮捕します」
 羽村が裕二の手に手錠をかけた。刑事に連れられて行く際に今一度裕二は後ろを振り返り雅美を見た。雅美は新婚の夫を見送る妻のような満面の笑顔で、
「行ってらっしゃい」
 と言った。

二十
 歩道沿いに植えられた木々の葉は様々な色のまま枯れていこうとしている。
 黒い2台の車が次第に遠ざかっていく。すべての重さが半分になった。雅美が「行ってらっしゃい」と言った時、生島は空洞のような無表情だった。
 あの日あの時あの部屋で私が見た姉の涙のしずくは、かつて好きだった男に殺された無念さと、こんなことで自分の命を失うことになった後悔と、あれほど美しさにこだわっていた自分を無様な姿にしたことへの怨嗟が混じったものだったように思う。
 私と生島との関係は、疑似恋愛に等しいものだったけれど、考えて見れば、私も姉も子供の頃から大切な何かが丸ごと失せた男に惹かれてしまう悪いクセがあった。結局、私たちは似た者同士だったのかもしれない。二卵性とはいえ、双子だからね。
 今回のことで気づいたことは、姉と私はお互いの捻じれを絡ませ合いながらも、心の深いところでは案外つながっていたのかもしれないということだ。
 成美ちゃん。これで良かったのよね。
 私にできるのはこれしかなかった。
 あなたにあの手紙を送ったのが私だって、あなたは本当に気づかなかったの?
 私は気づいてほしかった。気づいて、私を責めてくれていたら、私はそれまであなたに対して抱えていた暗い思いのすべてをぶちまけていた。そういう覚悟であの手紙を送ったの。もしあなたが気づいてくれたら、あなたを死に追いやることも、きっとなかった、よね。
 ごめん。
 私がそっちへ行ったら、今度こそ仲良くしようね。
 自分は自分にしかなれないのだから、いつか息絶える未来の一点に向けて、私は私なりに新たな一歩を踏み出す。
  
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