第十話「邂逅」
文字数 3,680文字
背後からの声に、フィリアは振り向きながら一歩下がって男から距離をとった。背中のエリスが少しだけ傾いだのを感じる。まずいな、と思った。たかが三人、通常なら簡単に撒くなり蹴散らすなり出来そうな相手だが、今は背中にエリスがいるのだ。背を向けるだけでも多大な危険が伴う。フィリアは動きを止め、男たちの顔を黙って見上げた。その沈黙をどう解釈したのか、男らが声を上げて笑った。笑い声は長持ちすることなくすぐ消えた。
「坊や、それ大事な荷物なのか? おじさんたちが手伝ってあげようか」
「いや、間に合っている」
低めた声で口早に答え、無造作に伸ばされた手を避ける。避けられても向こうは余裕の笑みを崩さない。フィリアは逃走プランを捨て、次のプランを組み立てることにした。案は既にあったからそう難しい計算ではない。いくつかの不確定要素が増えただけだ。ただ、ためらいなく取れる手段ではなかったが。
「まあまあ遠慮すんなって。子供ならオトナの好意には甘えとくもんだぞ」
こちらはお前たちが生まれる前から放浪の身だというのに。そんな思考を押しやって、フィリアは音量 を最小に絞った声で「ごめん」と呟いた。エリスに聞き取れるかどうかはわからなかったが、人を模して動く以上は言うべきだと思ったのだ。小声で「信じて」と続けてから、フィリアはさらに三秒待って顔を上げた。自分はちゃんと浮かべるべき表情を模倣できているだろうか。罪のない子供の顔を。
「……じゃあ」
「うん?」
「……お願い、します。重い……ですけど」
「いい子だ」
男はフィリアの背にある荷物に手を伸ばし、エリスにかけられた外套を掴もうとした。だが、その手がエリスに触れることはなかった。
見上げると、男はフィリアの背後に目を向けて表情を凍らせていた。
何があったのだろう、と思う間に凍りついた顔面に知らない女の拳が叩き込まれた。続いて、フィリアに足を払われた男の首筋を刈るようにして女は蹴りを入れる。あっという間に女は二人を沈め、辺りには沈黙が訪れた。三人目はとっくに逃げ出していた。
フィリアは思考を走らせる。どうにかして離脱する算段はあったが、この女のおかげでより安全に場を切りぬけた事だけは確かだ。闇雲に敵視するべきではない。そもそも敵に回したら勝てる自信がなかった。
乱入した女は呼吸を整えると、こちらに振り向いた。静止した状態で見てみれば、その衣装には見覚えがあった。典型的な修道服だ。彼女は教会の関係者なのだろう。
「……助けてくれたんですか?」
フィリアがおずおずと尋ねると、修道女は静かに微笑んだ。
「ええ、そのつもり。見かけない子だけど、迷子? それともこの街にはじめてやってきた?」
フィリアは彼女を見上げて考えた。バーソロミューの件も含め、教会関係者との間には色々とろくでもない過去がある。だが、ここで彼女を無下にする事に意味があるようには思えなかった。だが、正体を悟られるのも問題だろう。基本的に彼らの聖典は偶像に否定的だ。そして、今見た戦闘能力を考えるに、彼女と敵対するのは避けたいところであった。結局、当たり障りのない事だけをフィリアは述べた。
「はい、この街は初めてです。アーグルトンにいる父の知人を頼る途中でたどり着きました」
「ああ、じゃあ行く当てはあるのね? よかった」
彼女は心底ほっとした顔をした。裏表のありそうな人間ではないな、と直感する。敵に回したくない理由が増えた。
「はい。……あの、よかったらアーグルトンまでの道のりを教えて頂けませんか? それがわかったら、もう大丈夫なので」
「もちろん。教会に地図があるから、見せてあげる。今日は遅いからとりあえず一晩泊まっていったらいいと思うわ」
「いえ、悪いですよ」
反射的に答えたが、彼女は気に留めなかったようだった。
「あら、この街に来たときに聞かなかった? うちは孤児院やってるのよ、一晩一人くらい増えてもどうということはないわ」
彼女の表情には見覚えがあった。何かを強硬に主張するときのエリスと概ね一致するパターンで、つまりフィリアに断る選択肢はないということだ。一晩どうにか隠し通せるだろうか。これまでの学習データを信じるしかない。
「……では、よろしくお願いします」
「いい子ね。私はフロレンツィアって言うの。聖ビンセンシオ教会のシスター」
「フィリウスと申します」
「そっか、フィリウス君、よろしくね。荷物、持とうか?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか。ずいぶんおっきい荷物だけど何担いでるの?」
フィリアは沈黙して考えた。このまま孤児院の厄介になる事は避けられない。一晩隠し通せるかどうか。いっそ病人がいるのだと説明するべきだろうか。いや、それは駄目だ。「シスターの中には医術の心得がある者がいる」と門衛の青年は言っていた。彼女を診せる訳にはいかない。彼女が人間ではないことが明らかになってしまえば、どうなるかは解らない。ただ、極めて高い確率でろくなことにならないという事だけは言えるだろう。
フィリアはシスターの方を伺い見た。彼女は地面に膝をついて目線の高さをあわせ、こちらの答えを待っている。大きな空色の眼が、傾き始めた太陽の光を映してきらきらとこちらを見上げていた。その目の中に何らかの思考が読み取れないかとフィリアは走査 を試みた。解析している間に彼女は物問いたげに首を傾けた。フィリアは今一度、人間が持つ善性とやらに賭けて口を開いた。
「ごめんなさい、今は説明できないんです」
「そっか、ごめんね。また気が向いたときにでも教えてくれたらいいよ」
彼女はこともなげに言って立ち上がった。驚くほど呆気ない。
「ありがとうございます」
「うちは訳ありの子も結構いるからねえ。だから、あなたもそういう子たちにはあんまり立ち入らずにいてくれると助かるな。ま、あなたはそんな風には見えないし、何しろ一日だけならそういう心配もいらなさそうだけど」
「はい、勿論。……あの、何してるんですか?」
フィリアは彼女の背に向かって問いかけた。彼女は自分が蹴散らした男の一人の前に屈みこんでいた。服装が違えば追剥ぎか何かにしか見えなかっただろう。フィリアが見ている前でフロレンツィアは横たわる男を小突いた。どうやら気を失っているらしい男は短いうめき声を上げる。フィリアは黙って認識を改めた。服装を違えずとも追剥ぎに見える。
「ああ、様子を見ているの。怪我してたら連れて帰った後に手当てがいるでしょう?」
「連れて帰る? その人たち、教会の人なんですか」
とてもそうは思えない。フィリアの疑問に、修道女は微笑と共に答えた。
「ああ、うちは全ての迷える子羊たちの家なの」
答えとともに、フロレンツィアは気を失った男を肩に担ぎ上げた。そのままもう一人の方も同じようにして担ぎ上げる。その手つきはやけに手馴れていた。おそらくは最初からそのつもりだったのだろう。この二人を担いだ上にフィリアの”荷物”まで持つつもりだったのだろうか。疑問に思ったが黙っておく。終わった話題を蒸し返したくはない。
「えっと、それって」
「連れて帰ってお説教ね。それで更生するかどうか」
「……」
「いつかはわかってくれる、それで人攫いからも手を洗ってくれるって信じてるんだけどね」
言っている事はもっともらしいが、あなたがやっている事は人攫いではないのだろうか。フィリアは疑問を飲み込んで彼女の後ろについて歩いた。これ以上の面倒はごめんだ。
修道女の後をついて角を一つ曲がれば、夕焼けの空を衝いて伸びる塔がすぐに見えた。おそらくは教会の尖塔だろう。その足元に並ぶ赤く染まった屋根の一つを指差して、聖ビンセンシオの孤児院はあれだ、と彼女が要った。
「あれが聖ビンセンシオ孤児院ですか、今夜お世話になる……」
相槌を打つようにして、フィリアは背後のエリスに向かって言った。当然ながら背後からの返事はなく、代わりにフロレンツィアが「別に今晩だけじゃなくたっていいんだけどね」と笑った。曖昧に笑ってやり過ごすうちに、一つの建物の前までたどり着く。この目の前の古めかしい石造りの建物が目的の孤児院だということは彼女の説明を待たずともすぐに分かった。子供たちの笑い声が絶えず壁の向こう側から響いてきていたからだ。
両手が哀れな男たちで塞がっているからであろう、フロレンツィアは裏口とおぼしき木製の扉を足で蹴った。乱暴すぎるノックに続けて「シスター・フロレンツィア、ただいま戻りました。お客様が三名お見えになっています」と鈴が転がるような声を張り上げる。扉の向こうであわただしい足音が響き、やがて扉が開いた。
扉を開けたのは黒髪の神父だった。そして、その眉間にはどこまでも深い皺が刻まれている。
自分たちはここにいて大丈夫なのだろうか、とフィリアは一瞬思った。自分たちはこれからどうなるのだろうか。
「坊や、それ大事な荷物なのか? おじさんたちが手伝ってあげようか」
「いや、間に合っている」
低めた声で口早に答え、無造作に伸ばされた手を避ける。避けられても向こうは余裕の笑みを崩さない。フィリアは逃走プランを捨て、次のプランを組み立てることにした。案は既にあったからそう難しい計算ではない。いくつかの不確定要素が増えただけだ。ただ、ためらいなく取れる手段ではなかったが。
「まあまあ遠慮すんなって。子供ならオトナの好意には甘えとくもんだぞ」
こちらはお前たちが生まれる前から放浪の身だというのに。そんな思考を押しやって、フィリアは
「……じゃあ」
「うん?」
「……お願い、します。重い……ですけど」
「いい子だ」
男はフィリアの背にある荷物に手を伸ばし、エリスにかけられた外套を掴もうとした。だが、その手がエリスに触れることはなかった。
見上げると、男はフィリアの背後に目を向けて表情を凍らせていた。
何があったのだろう、と思う間に凍りついた顔面に知らない女の拳が叩き込まれた。続いて、フィリアに足を払われた男の首筋を刈るようにして女は蹴りを入れる。あっという間に女は二人を沈め、辺りには沈黙が訪れた。三人目はとっくに逃げ出していた。
フィリアは思考を走らせる。どうにかして離脱する算段はあったが、この女のおかげでより安全に場を切りぬけた事だけは確かだ。闇雲に敵視するべきではない。そもそも敵に回したら勝てる自信がなかった。
乱入した女は呼吸を整えると、こちらに振り向いた。静止した状態で見てみれば、その衣装には見覚えがあった。典型的な修道服だ。彼女は教会の関係者なのだろう。
「……助けてくれたんですか?」
フィリアがおずおずと尋ねると、修道女は静かに微笑んだ。
「ええ、そのつもり。見かけない子だけど、迷子? それともこの街にはじめてやってきた?」
フィリアは彼女を見上げて考えた。バーソロミューの件も含め、教会関係者との間には色々とろくでもない過去がある。だが、ここで彼女を無下にする事に意味があるようには思えなかった。だが、正体を悟られるのも問題だろう。基本的に彼らの聖典は偶像に否定的だ。そして、今見た戦闘能力を考えるに、彼女と敵対するのは避けたいところであった。結局、当たり障りのない事だけをフィリアは述べた。
「はい、この街は初めてです。アーグルトンにいる父の知人を頼る途中でたどり着きました」
「ああ、じゃあ行く当てはあるのね? よかった」
彼女は心底ほっとした顔をした。裏表のありそうな人間ではないな、と直感する。敵に回したくない理由が増えた。
「はい。……あの、よかったらアーグルトンまでの道のりを教えて頂けませんか? それがわかったら、もう大丈夫なので」
「もちろん。教会に地図があるから、見せてあげる。今日は遅いからとりあえず一晩泊まっていったらいいと思うわ」
「いえ、悪いですよ」
反射的に答えたが、彼女は気に留めなかったようだった。
「あら、この街に来たときに聞かなかった? うちは孤児院やってるのよ、一晩一人くらい増えてもどうということはないわ」
彼女の表情には見覚えがあった。何かを強硬に主張するときのエリスと概ね一致するパターンで、つまりフィリアに断る選択肢はないということだ。一晩どうにか隠し通せるだろうか。これまでの学習データを信じるしかない。
「……では、よろしくお願いします」
「いい子ね。私はフロレンツィアって言うの。聖ビンセンシオ教会のシスター」
「フィリウスと申します」
「そっか、フィリウス君、よろしくね。荷物、持とうか?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか。ずいぶんおっきい荷物だけど何担いでるの?」
フィリアは沈黙して考えた。このまま孤児院の厄介になる事は避けられない。一晩隠し通せるかどうか。いっそ病人がいるのだと説明するべきだろうか。いや、それは駄目だ。「シスターの中には医術の心得がある者がいる」と門衛の青年は言っていた。彼女を診せる訳にはいかない。彼女が人間ではないことが明らかになってしまえば、どうなるかは解らない。ただ、極めて高い確率でろくなことにならないという事だけは言えるだろう。
フィリアはシスターの方を伺い見た。彼女は地面に膝をついて目線の高さをあわせ、こちらの答えを待っている。大きな空色の眼が、傾き始めた太陽の光を映してきらきらとこちらを見上げていた。その目の中に何らかの思考が読み取れないかとフィリアは
「ごめんなさい、今は説明できないんです」
「そっか、ごめんね。また気が向いたときにでも教えてくれたらいいよ」
彼女はこともなげに言って立ち上がった。驚くほど呆気ない。
「ありがとうございます」
「うちは訳ありの子も結構いるからねえ。だから、あなたもそういう子たちにはあんまり立ち入らずにいてくれると助かるな。ま、あなたはそんな風には見えないし、何しろ一日だけならそういう心配もいらなさそうだけど」
「はい、勿論。……あの、何してるんですか?」
フィリアは彼女の背に向かって問いかけた。彼女は自分が蹴散らした男の一人の前に屈みこんでいた。服装が違えば追剥ぎか何かにしか見えなかっただろう。フィリアが見ている前でフロレンツィアは横たわる男を小突いた。どうやら気を失っているらしい男は短いうめき声を上げる。フィリアは黙って認識を改めた。服装を違えずとも追剥ぎに見える。
「ああ、様子を見ているの。怪我してたら連れて帰った後に手当てがいるでしょう?」
「連れて帰る? その人たち、教会の人なんですか」
とてもそうは思えない。フィリアの疑問に、修道女は微笑と共に答えた。
「ああ、うちは全ての迷える子羊たちの家なの」
答えとともに、フロレンツィアは気を失った男を肩に担ぎ上げた。そのままもう一人の方も同じようにして担ぎ上げる。その手つきはやけに手馴れていた。おそらくは最初からそのつもりだったのだろう。この二人を担いだ上にフィリアの”荷物”まで持つつもりだったのだろうか。疑問に思ったが黙っておく。終わった話題を蒸し返したくはない。
「えっと、それって」
「連れて帰ってお説教ね。それで更生するかどうか」
「……」
「いつかはわかってくれる、それで人攫いからも手を洗ってくれるって信じてるんだけどね」
言っている事はもっともらしいが、あなたがやっている事は人攫いではないのだろうか。フィリアは疑問を飲み込んで彼女の後ろについて歩いた。これ以上の面倒はごめんだ。
修道女の後をついて角を一つ曲がれば、夕焼けの空を衝いて伸びる塔がすぐに見えた。おそらくは教会の尖塔だろう。その足元に並ぶ赤く染まった屋根の一つを指差して、聖ビンセンシオの孤児院はあれだ、と彼女が要った。
「あれが聖ビンセンシオ孤児院ですか、今夜お世話になる……」
相槌を打つようにして、フィリアは背後のエリスに向かって言った。当然ながら背後からの返事はなく、代わりにフロレンツィアが「別に今晩だけじゃなくたっていいんだけどね」と笑った。曖昧に笑ってやり過ごすうちに、一つの建物の前までたどり着く。この目の前の古めかしい石造りの建物が目的の孤児院だということは彼女の説明を待たずともすぐに分かった。子供たちの笑い声が絶えず壁の向こう側から響いてきていたからだ。
両手が哀れな男たちで塞がっているからであろう、フロレンツィアは裏口とおぼしき木製の扉を足で蹴った。乱暴すぎるノックに続けて「シスター・フロレンツィア、ただいま戻りました。お客様が三名お見えになっています」と鈴が転がるような声を張り上げる。扉の向こうであわただしい足音が響き、やがて扉が開いた。
扉を開けたのは黒髪の神父だった。そして、その眉間にはどこまでも深い皺が刻まれている。
自分たちはここにいて大丈夫なのだろうか、とフィリアは一瞬思った。自分たちはこれからどうなるのだろうか。