悔しい想い
文字数 4,997文字
悔しさとは、いつから芽生えた感情なのか。
幼い頃、駆けっこの敵わない相手に芽生えたのが最初だったろうか。それとも、クラスの中でどう頑張っても成績の敵わない相手に抱いたのが本当の悔しさだっただろうか。
いずれにしても、今感じているのも確かに悔しさだ。
同期の大沢は、いつも得意げに言う。
「市原は、一生俺には敵わない」
満面の笑みで片方の口角を上げた表情と、ほんの少し見える白い歯。負けず嫌いな性格の私としては、大沢のこの笑みに毎回イラっとさせられていた。
「大沢さんて、爽やかで素敵ですよね」
これは、今年の新入社員女子の言葉だ。後輩女子には、そんな風に映っているらしい。
私にはどう見繕っても、嫌味臭い薄ら笑いにしか見えないが。
だいたい、男のくせに顔が小さ過ぎると言えば、「今時だろ?」と顎を突き出し、自分よりも背の低い私を見下ろすその態度が気に入らない。
大沢の身長が高いのは仕方のないことだけれど、百八十センチ以上もある体躯で見下ろされる身にもなってもらいたい。
因みに、私の身長は百六十センチジャストだ。高くもなく、低くもなく。大沢が傍にさえいなければ、ごく普通の身長だと思っている。
なのに、奴が隣に来ただけで、まるで上から押さえつけられているような圧迫感を覚える。息苦しいというか、重苦しいというか。とにかく、私はなるべく大沢の近くには行かないようにしているというのに、奴はいちいち傍にやって来ては自慢気な顔を向けてくる。
先日などは、デザインした案件が商品化されたと、その現品を持ってわざわざ目の前に突き出し、あの白い歯を僅かにのぞかせ笑った。
どうだ、すごいだろう。とばかりに顎を突き出し、褒めろと言うような顔つきをしてくる。なんと図々しいことか。
先日行われた新商品のプレゼンだって、同期で残ったのは私と大沢だった。
最終的な一対一の戦いに敗れた理由がなんなのか。私の発案した商品に、何かしらの魅力が足りなかったのか。いや、プレゼン能力が劣っていたからか? まさか、女だからという理由なら納得がいかない。
私はなるべくその考えを捨て、初めの二点に改善点を見出そうとした。すると、大沢は偉そうな態度をとった。
「ま、次回も頑張れよ」
満面の笑みでタンタンと肩を叩かれた私が、どれほど悔しい思いに駆られたことか。
その後、「市原は、一生俺には敵わない」といつものセリフだ。ククッという笑い声を残し、大沢はその場を離れた。
くっ、悔しい。本当に悔しいっ。あの得意気な顔、いつか歪めてやりたい。
私はけしてSではない……はず。けれど、大沢に対してだけは、どうにもそういった感情を抑え込むことができない。 奴の対抗意識全開の態度は、日々の精神衛生上、悪影響でしかない。
なんとかやり込め、この悔しい気持ちを晴れやかなものにしたい。
私はあいつに、何でなら勝てるのだろう。
身長?
視力?
資料作りの完璧さ?
商品の発案力?
最初の二点は、子供みたいだから却下だ。いや、そもそも。男の大沢に身長で勝ったところで嬉しくもなんともない。私の性格上、大沢よりも身長が高くなってしまったら、更に可愛げがなくなってしまう。いくら勝気な性格だからとはいえ、更に可愛げがないレベルが上がってしまうのはできるなら避けたい事案だ。
視力だって、良いに越したことはないけれど。コンタクトをせず、時折かけている自身のメガネ姿は嫌いじゃない。鏡に映る右斜めの角度がいい感じだと……。んんっ。まぁ、それはいいとして……。
資料は、いける気がする! この点に関して言えば、上司に提出する度に、とても解りやすいと定評があるからだ。
ふんっ。どうだ、大沢。私にだって、お前に勝るものがあるのだ。
大沢に勝てるものを見つけたことで、鼻の穴を膨らませ腕を組みイキった。
いや……、しかし、待てよ。まさか、同じことをあの大沢も言われている、なんてことはないだろうか。褒めて伸ばすタイプの上司のことだから、あり得なくはない……。となると、私の資料が格別に優れていると言うわけではないのかもしれない。考えたら落ち込むな……。
いや、凹んでいる場合ではない。次だ、次!
商品発案は、どうだ。あれなら勝てそうじゃないか? いや、つい先日プレゼンで負けたばかりではないか……。あぁっ、もおっ。どうしたら、私は大沢に勝てるのだろう。
大沢には、何もかもを持っていかれている気がしてならない。どうすれば、私が奴に対して顎を突き出し、フンっとほくそ笑む日がやってくるのだろう。
カップに入れたコーヒーが冷めていくのも忘れ、休憩室で頭を抱えていると、聞き覚えのある声をかけられた。
「どうした。具合でも悪いのか?」
こんな優しい言い方など、今までかつて聞いたことがない。いつものあの挑戦的でいて、得意気な口調はどうしたというのだ。
私は、両腕を枕にして俯せていた顔をムクリと上げた。すぐ傍には、やはりあの大沢が、いつにもない心配そうな顔をして私を見下ろしていた。
どんな時でも、見下ろすのは一緒だな。
皮肉に思っていると、突然すっとしゃがみこんだ大沢と視線が同じになった。互いの顔の位置が平衡になり近づくことで、動揺した私の目が大きく見開かれる。
私が今までにない距離感に心を乱していると、間髪入れず、大沢のゴツく大きな手がこちらへと伸びてきた。なにが始まるのか、少しも予想だにしていない私のおでこへ、その手が躊躇うことなく伸びて触れた。
な、なにが……起きた……?
脳内が働きだす前に、体の方が素早く反応を示した。おでこに触れたままの大沢の手に、なかったはずの熱が一気に上がっていく。
「なっ……!」
まともな声にも言葉にもなりはしない。あたふたする感情を表面上は必死に押し殺しているけれど、心は動揺でパニックだ。
「熱はなさそうだけどな」
ほぼ平衡に合ったままの視線は逸らせず、私の心臓が暴れ出す。
「市原は、いつも頑張りすぎんだよ。たまには、息抜きすればいいのに」
あの大沢が、私に優しい。なんだこの気遣いは……。目の前にいるこの男は、一体誰なのだろう?
バクバクと騒がしい心音が、思考を鈍らせる。
「い……、息抜き?」
あまりの優しい対応に、不覚にも言い返すどころか、気の抜けた声で訊ね返してしまった。
「いつもがむしゃらに頑張ってて、上も認めさせてるし。市原は、すげなーって思ってるけどさ。そんなんだと、いつかポッキリ折れちゃうんじゃないかって。俺、意外と心配してんだけどな」
言って笑った顔は、いつもの皮肉めいた片方の口角を上げる笑みではなく。見惚れてしまうくらい、柔らかくて、優しい微笑みだった。
だから、つい……。
「心配してくれて、ありがと……」
しおらしい言葉や態度なんて、私には到底似合うはずもなくて。だから、口にしてしまった途端、恥ずかしさに目眩が起こりそうになる。バクバクと大音量の心音に加え、今度は脳内がグラグラと揺れる。
大沢は、こんな顔をする男だっただろうか。穏やかな微笑みに、心配そうに抑えた柔らかな声音。なんなら、その辺の保育士にも負けないくらい、見守り系のイケてる顔をしているではないか。
頼むから、そんな優しい目で私を見ないでくれ。これ以上、今までにないことをされてしまったら、私は……。
「今日は、やけに素直だな。やっぱり、どっか調子が悪いんじゃないのか?」
熱がないのがわかったからか、今度は額に手を伸ばしては来ないものの、目をじっと覗き込んでくるから暴れていた心臓に拍車がかかる。
や、……やめろ。そんな目で見るな……。
「ん?」
心の声が聞こえたのか、大沢が僅かに疑問を浮かべた表情をする。それから、閃いたというようにすっくと立ち上がった。
いつものように逆らうような、やり返すような態度をとることなど微塵も思いつかずに、その一連の動作をまるで従順な飼い犬のようにただ目で追っていた。
立ち上がった大沢は、やっぱり私を見下ろしていて。普段なら、イラッとせずにはいられないはずなのに、どうしてか大沢を見たまま目を逸らせず、心臓はおかしなリズムを刻み始める。
「腹、減ってんじゃね?」
そう言ったと思ったら、テーブルに置かれたままの手を握り、座っている私を勢いよく引っ張り上げた。
まるで軽い人形でもあしらうように、大沢は私の体をふわりと持ち上げる。
「メシ、奢ってやるよ。なんか栄養のあるもんでも食いに行こうぜ。まー、取り敢えず、スタミナだな。豚肉だ。あ、スタミナ丼なんてどうだ? ニンニクも入ってるし、元気になりそうじゃん」
一人ペラペラと話し続ける大沢に手を引かれ、促されるままに休憩室から引きずり出された私は、やって来たエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの中には、誰一人おらず。ランチタイムがとっくに始まっていることを再び認識する。いつまでもグズグズと休憩室でうな垂れていた私と、どうしてかまだ社内に残っていた大沢だけが取り残されてでもいるようだ。
ていうか、待ってよ。スタミナ丼て、なに。そんなの食べたら、に、臭いが……。ニンニク臭くなるじゃんっ。恥ずかしいじゃん……。大沢に臭いなどと……思われたくない。
そこまで考えてから、ハッとして漸く自分の気持ちに気がついた。
わ、私……。
脳内がフリーズしたその後すぐ、構築し直すように心が折り合いをつけようと、あらゆる計算式が目まぐるしく浮かんでは消えていった。そうして導き出された答えは――――。
スタミナ丼は、ダメ!
……そうだっ。
「オッ……」
「お?」
「オッ、ムライスが……いい」
勢いをつけた初めの一文字以降、尻切れとんぼになった言葉は、つい今しがた乙女になってしまった羞恥のせいだ。
まさか、私が大沢に……。
赤く染まっているだろう顔を見られたくなくて俯いたというのに、大沢という男はデリカシーに欠けるらしい。
「オムライスか。俺はいいけど、……ホント、大丈夫か? やっぱ、体調悪そうだな」
なんて、誰も乗っていない狭い箱の中で、容赦なく私の顔を覗きこんでくるものだから、体が固まり動けない。そんな私を大沢は、微笑み見つめてくる。
距離が近い……。
壁にへばりつくようにして立っている私の目の前に、大沢が少しばかり屈むようにして顔を見つめてくる。いつもは大して気にも留めたことのないエレベーターの降下スピードが、今はやけに長く感じる。
小さな箱で二人きりになっていることも、近すぎるお互いの距離のことも、呼吸が感じられるほど静かな空間も。今の私には、とても耐えがたい状況だった。
このままでは心臓が持たない……。
はやく……、はやく着いてよっ。
別の生き物のように心臓は高鳴り、今まで気にしたこともなかった大沢の匂いにさえ敏感になっていた。ほんのり甘いような、それでいてキリッとした香り。
大沢って、こんな香り、つけてたっけ?
無駄に煩い心臓は、距離を縮めてくる大沢の顔に、益々おかしくなっていった。このままでは、私の心臓は散々騒いだ挙句にピタリと止まってしまいそうだ。
それほどまでに、今の私は大沢に対してみごとに心臓を撃ち抜かれていた。
軽い鈴の音のような短い音を立て、エレベーターがやっと一階にたどり着いた。私の目をのぞき込んでいた大沢の視線が離れていく。
ほっとしたような、名残惜しいような。
壁にもたれたまま、そんな余韻に浸っていると、大沢が再び私の手を取った。軽く手を引かれ、エントランスへ足を踏み出した瞬間聞こえてきた言葉に、私は思い出したように、悔しさに震えだす。
あの白い歯を見せた大沢が、後ろの私を振り返り言った。
「市原、可愛すぎだろ」
テキーラのような高アルコールでも一気飲みしたように、カーッ!! と血液が一瞬で顔に集まった。
悔しい……。悔しすぎるっ。大沢に、心まで持っていかれた。
繋がる手を解くこともせず、従順なペットのように大沢のあとをチョコチョコとついて行く。
嬉しさに緩む頬を、どうにもできないまま。
幼い頃、駆けっこの敵わない相手に芽生えたのが最初だったろうか。それとも、クラスの中でどう頑張っても成績の敵わない相手に抱いたのが本当の悔しさだっただろうか。
いずれにしても、今感じているのも確かに悔しさだ。
同期の大沢は、いつも得意げに言う。
「市原は、一生俺には敵わない」
満面の笑みで片方の口角を上げた表情と、ほんの少し見える白い歯。負けず嫌いな性格の私としては、大沢のこの笑みに毎回イラっとさせられていた。
「大沢さんて、爽やかで素敵ですよね」
これは、今年の新入社員女子の言葉だ。後輩女子には、そんな風に映っているらしい。
私にはどう見繕っても、嫌味臭い薄ら笑いにしか見えないが。
だいたい、男のくせに顔が小さ過ぎると言えば、「今時だろ?」と顎を突き出し、自分よりも背の低い私を見下ろすその態度が気に入らない。
大沢の身長が高いのは仕方のないことだけれど、百八十センチ以上もある体躯で見下ろされる身にもなってもらいたい。
因みに、私の身長は百六十センチジャストだ。高くもなく、低くもなく。大沢が傍にさえいなければ、ごく普通の身長だと思っている。
なのに、奴が隣に来ただけで、まるで上から押さえつけられているような圧迫感を覚える。息苦しいというか、重苦しいというか。とにかく、私はなるべく大沢の近くには行かないようにしているというのに、奴はいちいち傍にやって来ては自慢気な顔を向けてくる。
先日などは、デザインした案件が商品化されたと、その現品を持ってわざわざ目の前に突き出し、あの白い歯を僅かにのぞかせ笑った。
どうだ、すごいだろう。とばかりに顎を突き出し、褒めろと言うような顔つきをしてくる。なんと図々しいことか。
先日行われた新商品のプレゼンだって、同期で残ったのは私と大沢だった。
最終的な一対一の戦いに敗れた理由がなんなのか。私の発案した商品に、何かしらの魅力が足りなかったのか。いや、プレゼン能力が劣っていたからか? まさか、女だからという理由なら納得がいかない。
私はなるべくその考えを捨て、初めの二点に改善点を見出そうとした。すると、大沢は偉そうな態度をとった。
「ま、次回も頑張れよ」
満面の笑みでタンタンと肩を叩かれた私が、どれほど悔しい思いに駆られたことか。
その後、「市原は、一生俺には敵わない」といつものセリフだ。ククッという笑い声を残し、大沢はその場を離れた。
くっ、悔しい。本当に悔しいっ。あの得意気な顔、いつか歪めてやりたい。
私はけしてSではない……はず。けれど、大沢に対してだけは、どうにもそういった感情を抑え込むことができない。 奴の対抗意識全開の態度は、日々の精神衛生上、悪影響でしかない。
なんとかやり込め、この悔しい気持ちを晴れやかなものにしたい。
私はあいつに、何でなら勝てるのだろう。
身長?
視力?
資料作りの完璧さ?
商品の発案力?
最初の二点は、子供みたいだから却下だ。いや、そもそも。男の大沢に身長で勝ったところで嬉しくもなんともない。私の性格上、大沢よりも身長が高くなってしまったら、更に可愛げがなくなってしまう。いくら勝気な性格だからとはいえ、更に可愛げがないレベルが上がってしまうのはできるなら避けたい事案だ。
視力だって、良いに越したことはないけれど。コンタクトをせず、時折かけている自身のメガネ姿は嫌いじゃない。鏡に映る右斜めの角度がいい感じだと……。んんっ。まぁ、それはいいとして……。
資料は、いける気がする! この点に関して言えば、上司に提出する度に、とても解りやすいと定評があるからだ。
ふんっ。どうだ、大沢。私にだって、お前に勝るものがあるのだ。
大沢に勝てるものを見つけたことで、鼻の穴を膨らませ腕を組みイキった。
いや……、しかし、待てよ。まさか、同じことをあの大沢も言われている、なんてことはないだろうか。褒めて伸ばすタイプの上司のことだから、あり得なくはない……。となると、私の資料が格別に優れていると言うわけではないのかもしれない。考えたら落ち込むな……。
いや、凹んでいる場合ではない。次だ、次!
商品発案は、どうだ。あれなら勝てそうじゃないか? いや、つい先日プレゼンで負けたばかりではないか……。あぁっ、もおっ。どうしたら、私は大沢に勝てるのだろう。
大沢には、何もかもを持っていかれている気がしてならない。どうすれば、私が奴に対して顎を突き出し、フンっとほくそ笑む日がやってくるのだろう。
カップに入れたコーヒーが冷めていくのも忘れ、休憩室で頭を抱えていると、聞き覚えのある声をかけられた。
「どうした。具合でも悪いのか?」
こんな優しい言い方など、今までかつて聞いたことがない。いつものあの挑戦的でいて、得意気な口調はどうしたというのだ。
私は、両腕を枕にして俯せていた顔をムクリと上げた。すぐ傍には、やはりあの大沢が、いつにもない心配そうな顔をして私を見下ろしていた。
どんな時でも、見下ろすのは一緒だな。
皮肉に思っていると、突然すっとしゃがみこんだ大沢と視線が同じになった。互いの顔の位置が平衡になり近づくことで、動揺した私の目が大きく見開かれる。
私が今までにない距離感に心を乱していると、間髪入れず、大沢のゴツく大きな手がこちらへと伸びてきた。なにが始まるのか、少しも予想だにしていない私のおでこへ、その手が躊躇うことなく伸びて触れた。
な、なにが……起きた……?
脳内が働きだす前に、体の方が素早く反応を示した。おでこに触れたままの大沢の手に、なかったはずの熱が一気に上がっていく。
「なっ……!」
まともな声にも言葉にもなりはしない。あたふたする感情を表面上は必死に押し殺しているけれど、心は動揺でパニックだ。
「熱はなさそうだけどな」
ほぼ平衡に合ったままの視線は逸らせず、私の心臓が暴れ出す。
「市原は、いつも頑張りすぎんだよ。たまには、息抜きすればいいのに」
あの大沢が、私に優しい。なんだこの気遣いは……。目の前にいるこの男は、一体誰なのだろう?
バクバクと騒がしい心音が、思考を鈍らせる。
「い……、息抜き?」
あまりの優しい対応に、不覚にも言い返すどころか、気の抜けた声で訊ね返してしまった。
「いつもがむしゃらに頑張ってて、上も認めさせてるし。市原は、すげなーって思ってるけどさ。そんなんだと、いつかポッキリ折れちゃうんじゃないかって。俺、意外と心配してんだけどな」
言って笑った顔は、いつもの皮肉めいた片方の口角を上げる笑みではなく。見惚れてしまうくらい、柔らかくて、優しい微笑みだった。
だから、つい……。
「心配してくれて、ありがと……」
しおらしい言葉や態度なんて、私には到底似合うはずもなくて。だから、口にしてしまった途端、恥ずかしさに目眩が起こりそうになる。バクバクと大音量の心音に加え、今度は脳内がグラグラと揺れる。
大沢は、こんな顔をする男だっただろうか。穏やかな微笑みに、心配そうに抑えた柔らかな声音。なんなら、その辺の保育士にも負けないくらい、見守り系のイケてる顔をしているではないか。
頼むから、そんな優しい目で私を見ないでくれ。これ以上、今までにないことをされてしまったら、私は……。
「今日は、やけに素直だな。やっぱり、どっか調子が悪いんじゃないのか?」
熱がないのがわかったからか、今度は額に手を伸ばしては来ないものの、目をじっと覗き込んでくるから暴れていた心臓に拍車がかかる。
や、……やめろ。そんな目で見るな……。
「ん?」
心の声が聞こえたのか、大沢が僅かに疑問を浮かべた表情をする。それから、閃いたというようにすっくと立ち上がった。
いつものように逆らうような、やり返すような態度をとることなど微塵も思いつかずに、その一連の動作をまるで従順な飼い犬のようにただ目で追っていた。
立ち上がった大沢は、やっぱり私を見下ろしていて。普段なら、イラッとせずにはいられないはずなのに、どうしてか大沢を見たまま目を逸らせず、心臓はおかしなリズムを刻み始める。
「腹、減ってんじゃね?」
そう言ったと思ったら、テーブルに置かれたままの手を握り、座っている私を勢いよく引っ張り上げた。
まるで軽い人形でもあしらうように、大沢は私の体をふわりと持ち上げる。
「メシ、奢ってやるよ。なんか栄養のあるもんでも食いに行こうぜ。まー、取り敢えず、スタミナだな。豚肉だ。あ、スタミナ丼なんてどうだ? ニンニクも入ってるし、元気になりそうじゃん」
一人ペラペラと話し続ける大沢に手を引かれ、促されるままに休憩室から引きずり出された私は、やって来たエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの中には、誰一人おらず。ランチタイムがとっくに始まっていることを再び認識する。いつまでもグズグズと休憩室でうな垂れていた私と、どうしてかまだ社内に残っていた大沢だけが取り残されてでもいるようだ。
ていうか、待ってよ。スタミナ丼て、なに。そんなの食べたら、に、臭いが……。ニンニク臭くなるじゃんっ。恥ずかしいじゃん……。大沢に臭いなどと……思われたくない。
そこまで考えてから、ハッとして漸く自分の気持ちに気がついた。
わ、私……。
脳内がフリーズしたその後すぐ、構築し直すように心が折り合いをつけようと、あらゆる計算式が目まぐるしく浮かんでは消えていった。そうして導き出された答えは――――。
スタミナ丼は、ダメ!
……そうだっ。
「オッ……」
「お?」
「オッ、ムライスが……いい」
勢いをつけた初めの一文字以降、尻切れとんぼになった言葉は、つい今しがた乙女になってしまった羞恥のせいだ。
まさか、私が大沢に……。
赤く染まっているだろう顔を見られたくなくて俯いたというのに、大沢という男はデリカシーに欠けるらしい。
「オムライスか。俺はいいけど、……ホント、大丈夫か? やっぱ、体調悪そうだな」
なんて、誰も乗っていない狭い箱の中で、容赦なく私の顔を覗きこんでくるものだから、体が固まり動けない。そんな私を大沢は、微笑み見つめてくる。
距離が近い……。
壁にへばりつくようにして立っている私の目の前に、大沢が少しばかり屈むようにして顔を見つめてくる。いつもは大して気にも留めたことのないエレベーターの降下スピードが、今はやけに長く感じる。
小さな箱で二人きりになっていることも、近すぎるお互いの距離のことも、呼吸が感じられるほど静かな空間も。今の私には、とても耐えがたい状況だった。
このままでは心臓が持たない……。
はやく……、はやく着いてよっ。
別の生き物のように心臓は高鳴り、今まで気にしたこともなかった大沢の匂いにさえ敏感になっていた。ほんのり甘いような、それでいてキリッとした香り。
大沢って、こんな香り、つけてたっけ?
無駄に煩い心臓は、距離を縮めてくる大沢の顔に、益々おかしくなっていった。このままでは、私の心臓は散々騒いだ挙句にピタリと止まってしまいそうだ。
それほどまでに、今の私は大沢に対してみごとに心臓を撃ち抜かれていた。
軽い鈴の音のような短い音を立て、エレベーターがやっと一階にたどり着いた。私の目をのぞき込んでいた大沢の視線が離れていく。
ほっとしたような、名残惜しいような。
壁にもたれたまま、そんな余韻に浸っていると、大沢が再び私の手を取った。軽く手を引かれ、エントランスへ足を踏み出した瞬間聞こえてきた言葉に、私は思い出したように、悔しさに震えだす。
あの白い歯を見せた大沢が、後ろの私を振り返り言った。
「市原、可愛すぎだろ」
テキーラのような高アルコールでも一気飲みしたように、カーッ!! と血液が一瞬で顔に集まった。
悔しい……。悔しすぎるっ。大沢に、心まで持っていかれた。
繋がる手を解くこともせず、従順なペットのように大沢のあとをチョコチョコとついて行く。
嬉しさに緩む頬を、どうにもできないまま。