第5話 女はやはりペットボトルを一本捨てた

文字数 1,738文字

 月曜の朝はすっかり春めいた陽気だった。昨夜から風が強かったが、生暖かくコートなんぞは必要ない。いつもより一時間早く起き家を出た。
 平日に自転車を乗ることなんか、めったにない。またがると一昨日、リコが通った道を辿った。
 ちょうど慌ただしい時間ということもあり、さくら通り商店街は出勤する大人や通学する小学生で一杯だった。リコのアパートマンションが見える物陰に自転車を停め、自らの姿も隠す。たまにチラチラ見てくる通行人もいたが、スマホをいじっているフリをしてやり過ごした。
 ここから豪徳寺駅まで早ければ十分、遅くとも十五分で着く。リコが出てくるのは、三十分以上後だろう。その時間がとても長く感じられた。
 リコは僕の予想を裏切った。
 リコと豪徳寺の駅で落ち合うのは、いつも八時半頃だった。逆算すれば八時十五分頃に出れば間に合う。今、リコがアパートマンションを自転車にまたいで出てきたのは、七時四十分だった。
 続けて彼女は僕の予想を裏切る。手にペットボトルは持っていなかった。
 僕はスマホをポケットに押し込み、自転車を物陰から出して、彼女を追い始めた。リコは駅にまっすぐ向かわず、どこかに立ち寄るのだろうか、しかも毎日。その先でペットボトルを調達し、あのゴミ箱に捨てているのか。そのためだけに、彼女は家を早く出ているとしたら、なぜそんなことを毎日する必要があるのか。週末に一度に捨てればいいだろう。
 彼女がこのまま駅に向かうとは思えない。十分警戒しながら彼女の背を追う。頭の中では、次から次へと疑問が湧きだしていた。
 こんなことを思っていた。ペットボトルが二本から一本になったのは同棲していた男と別れたからではないか、と。別れを切り出したのは男の方からで、リコは失恋したのだ。LINEなどもやめてしまい、ストイックとも思えるような生活を送っているのだろう。今は傷心の時期、そこから抜け出すリハビリとして僕と会っているのかもしれない。
 今日のリコは、ペットボトルを一本さえ持っていない。
 宮の坂駅近くの信号を渡り坂道を上りきったところで、リコは突然左折した。豪徳寺駅に向かうなら、そのまま直進し踏切を渡るために右折しないとならない。住宅街の小径を彼女は速度を緩め、自転車で縫っていく。僕はその背を追いながらスマホを確認した。時間はまだ八時を回っていない。
 リコが自転車から降りたのは、とある一軒家の前でだった。遠目からなので、はっきりとわからないが、初めて来た風には見えない。門を開け、鞄を自転車カゴに残したまま入っていった。
 その家の前まで通り過ぎようと、自転車を降りて押していく。こぢんまりとした二階家の戸建てだ。いかにも昭和に建てられたと言わんばかりの木造建築で、玄関は引き戸だった。リコの自転車は無造作に置かれているが、他に通る人はいない。荷物が盗まれはしないかとハラハラしたが、そこを行き過ぎ向こうの角まで進んだ。
 明らかに不審人物だ。スマホを見ているフリをしていても、心は落ち着かなかった。八時十分を過ぎたとき、あの家の前が慌ただしくなった。リコが門を閉め、自転車に乗ろうとしている。そのとき、彼女はカゴに何かを入れた。それは軽くて透明なものだ。間違いなく一本のペットボトルであった。
 時間を考えれば、もう彼女は豪徳寺駅に向かうだろう。僕は立ち漕ぎで回り道をし、彼女より先に豪徳寺駅に着かないとならない。日頃の運動不足が祟り、駅に着いたときは息が切れ両足がパンパンとなった。
 リコが現れたのは、いつもと変わらない時間だった。ゴミ箱に捨てたのはペットボトル一本。彼女は毎朝、ペットボトルを受け取るために、あの家に立ち寄っているのか。
 僕は彼女がホームに行くのを見送るとゴミ箱を開け、彼女が捨てたペットボトルを調べた。どこにでもあるペットボトルだ。形状からは何が入っていたのかわからないが、ラベルを剥がした跡が微かに残っている。それは濃い緑色だ。きっと緑茶なのだろう。
 小走りでエスカレーターを上り、いつものベンチに寄る。
「おはようございます」
 声をかけると、リコは眩しそうな表情をした。
 僕はベンチに腰を下ろし、今日だけは一本電車を遅らせてもいいかもしれない、と考えていた。
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