六の下、琥珀嗚愚璃潘虞闇(コハクノオグリハングァン)

文字数 5,614文字

 クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でど突いて黙らすような女だった。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビは目を覚ました。クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。
「どうして」
「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」
「照手は、いやユウヅツはどうした」
「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」
「ここはどこだ」
「横走りの関」
「すまぬ。降ろしてくれ」
 クサビはすこしよろけたが立てた。
「礼を言う。ここからは一人で行く」
「人手はいくらあってもよかろう」
 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰天と一緒なのだった。しかし、この役はだれのものでもない。クサビ自身の役だ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。
「ありがたいが一人で行く」
 思った通りだという表情でザワは言った。
「そう意固地になるな。救援も直に来る」
 すると真上から声が降ってきた。
「すでにここに居るぞ」
 見上げるまでもなく、声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。
「糞のためではない。積年の恨みをはらす」
 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。
 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。
「他のものたちは」
 とクサビが聞くと、クサビの背後を指さしてザワが言った。
「あすこに」
 振り返ると、森を抜けたあたりを長槍を携えた衛士の一団がこちらへ近づいて来ていて、中の一人が槍を高々と上げていた。感じのいい衛士のようだった。クサビたちは一団が追いつくのを待って、そこを出立した。感じのいい衛士はクサビの顔を見ると頭をかいて言った。
「先ほどはすまぬ」
 どうやら、天青御邇伽偈の前でクサビを見捨てたことを言っているようだ。クサビはそれを流して、
「協力に感謝する。ただ、あの嬰天に対峙したときは、助太刀無用で頼む」
「こっちもか」
 上の声がすかさず問い質した。できれば己一人でこの役の始末をつけたかった。ユウヅツと決着をつけるのに横やりは邪魔だ。無論捨て身の覚悟でいる。しかし、そう言えばごねる男とクサビは知っていたので敢えて言った。
「打槌はお願いしたい」
「さもあろう」
 スハエは高笑いをすると、光彩を棚引かせて一本道を先に発った。スハエの雉の尾は上機嫌な時によりきらびやかになるとこの時知った。
 裾野に入った。ここでは不死の山裾に青い空が切り取られ台地が斜に見えた。常に眩暈を促すような風景だ。その中をスハエの光彩を先頭にクサビらの一行が進んでゆく。土車の轍とユウヅツの足跡は一本道にくっきりと穿たれて続いている。クサビの前を歩くザワが言った。
「上人様に行き会った」
「卒塔婆を立てた僧侶か」
 僧侶は札を立てたのだったが、クサビの中では卒塔婆に変わっていた。聞けば高名な御坊なのだそう。
「壺湯へ行くよう勧めたそうだ」
 感じのいい衛士がクサビに言った。
「紀伊の熊野よ。万病に効くというからな」
 椛の若木の中を一行は進んでいた。秋とはいえ日差しが強かったので木陰の道がうれしくもあった。一行は轍を辿って進んでいたが、林を抜けて視界が開くと先頭の衛士が足を止めた。二町ほど前方の中空にスハエがとどまっているのが見えたからだった。一行のうちザワら数名がスハエのもとへ駆けてゆく。そのうちの一人がクサビたちのところに戻ってきて、
「轍がない。いや、道がなくなっている」
 と言った。
 追いついたクサビたちが目にしたのは裾野に広がる溶岩だった。先の不死の噴火でできた溶岩帯にちがいなく、見上げると不死の頂から流れ落ちた跡が黒々と見て取れた。
「見失った」
 ザワが言う。たしかに轍がなければ追うことは難しい。しかしながら相手もまた苦労しているはず。
「手分けをしよう」
 クサビが言う。スハエが上空から言った。
「不死の南側と北側で一班。山頂へ行くのが一班」
 感じのいい衛士が、
「どのように」
 と言う。それに応えてクサビが
「ザワとそなたで南と北を一班づつ」
 と言った。
「クサビとスハエが山頂か」
 ザワが心配そうな顔をして言った。続けて空から声が降ってくる。
「ここから見ても山頂は土気が強そうだからな」
 溶岩帯はあちらこちから土気が蒸気とともに噴出していた。高所に行くほど噴煙は厚くなっているように見えた。土気が強いと人は死ぬ。クサビとスハエならばある程度はもつ。
 一行は三手にわかれて再び歩き出した。北へ向かうザワの一団と南の感じのいい衛士の一団が溶岩の隙間に吸い込まれたのを見てクサビは不死の高嶺を見上げ、一歩を踏み出した。スハエは先に行ってすでに視界にない。
 溶岩帯に入ると、足場は一気に悪くなった。道といえるものはなく、押し出しの岩塊と岩塊の間にできた人がやっと通れるほどの隙間を抜けてゆく他なかった。押し出しはところどころがまだ熱気を帯びていて、中には岩襞の奥が赤々と燃えているものもあった。いったいユウヅツたちはこの荒れ地をどうやって進んでいったのか。クサビには想像もできなかった。
 しばらく迷路のような空間を進んでいると、頭の上から声が降ってきた。
「先は長そうだぞ」
 足を止め見上げると、スハエが小屋ほどもある岩の上に片膝を立てて座り、眩しそうに不死の頂を振り仰いでいた。
 クサビは答えない。沈黙に耐えかねたかスハエが言った。
「糞は知っていたのだな」
 それにクサビが答える。
「何を」
「不死の頂が目当てだということをだ」
 ユウヅツの居場所は検非違使所を出るときから空に輝く一つ星が示していた。それはいまや、不死の頂のはるか上空にあって、クサビを待っているのだった。クサビは再び歩き出しながら言った。
「嬰天が湯につかると思うか」
 スハエは舌打ちをすると、再び中空に舞い上がり溶岩帯の上を軽やかに飛び去った。舌打ちをしたいのはクサビの方だった。この道なき道を何里あるけば不死の頂にたどり着くのか皆目見当もつかなかったからだ。
 溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分だっだ。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶しているようだった。
 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。嬰天の一、琥珀嗚愚璃潘虞闇に取り込まれたのだと。
 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰天の中で息絶えるのか。
 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀嗚愚璃潘虞闇へ打槌を仕掛けているのだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁からにじみ出てくる蜜に手や足を取られながら、確実に足場になる乾いた場所を探り探りクサビは壁をよじ登る。その間も、勢いを増して蜜溜りがクサビの足下に迫ってきて、クサビを捕えようとするが、ギリギリのところでスハエの打槌がそれを押し返す。その繰り返しでクサビはようやく溶岩壁の頂上に手が届くところまできた。クサビがあと一手を伸ばそうとしたら、溶岩壁が内側に倒れはじめた。一筋の光が閉ざされようとした時、クサビは己の内なる衝動を一気に吐き出した。
「糞が。おせえんだよ」
 スハエの罵倒さえ懐かしく感じる。
 溶岩帯は、あふれ出る蜜に覆われ黄金色に輝いていた。そこに衛士たちがのたうち回る姿があった。その中にザワを見つけてクサビは安堵した。よって、今向かうべきは琥珀嗚愚璃潘虞闇。その心魂に絞られた。
 以前、嬰天に取り込まれたときは解徐の機を感じた。触れるに難い心魂に近接しえたからだ。ところがこの嬰天にはそれがなかった。心魂の在処がわからなかったのだ。鳥獣虫由来の嬰天に心魂のないものはいる。しかし、人由来の嬰天でそのようなものにクサビは出会ったことがなかった。琥珀嗚愚璃潘虞闇とはもとは判官様。人のはずだったが。
 どこに問いを発すればよいのか。
「汝が劈開を示せ!」
 それは心魂の在処に向けてでなければならない。クサビが恥辱と知って内なる嬰喰に身を任すのは、相手の嬰天が隠し切れずに露呈した人の欠片を見定めるためだ。人にしか人の在処は分からない。逆に言えば心魂が隠されていればこそ存在する劈開なのだった。
 今、クサビが目にしているのは蜜の海だ。そこに深みや瀬はあるにしても、ひたすら平らかな表面をしていた。クサビの嬰喰はまるで凪の中あてどなく水面に浮かぶ藻屑のようだった。
 また、心魂なくして嬰天は生きられない。心魂こそ嬰天の核だからだ。鳥獣虫もまた、天青御邇伽偈がそうであったように、心魂に準ずるものを持つ。思えば琥珀嗚愚璃潘虞闇はクサビを蜜の中に取り込もうとした。もしやそれは、核を欲してのことだったのではないか。故に嬰天なのに結晶せず液状なのではないか。それに思い至った時、クサビの嬰喰が蜜の海の底に向け急速に潜り始めた。
 はじめは陽の光に照らされ黄金に輝いていた蜜が、深みに行くほど赤みを帯びてきて、底に着くころには深紅になっていた。赤く広がる蜜の底は、不思議に陽の光が差して明るかった。光の中に一点の小さな白い花が咲いている。どうやらそれが光の源のようだった。クサビの嬰喰が近づくと、それはユウヅツなのだった。ユウヅツが真っ赤な蜜の底に横たわっている。嬰喰は何か得体のしれぬものを警戒するようにその周囲を遠巻きに回り始める。
「ユウヅツ」
 クサビが呼びかけると、眠れるユウヅツの瞼が少し動いたようだった。それは痙攣のように微かだった。
「ユウヅツ。それがお前の望みなのか」
 クサビはユウヅツに問うた。蜜の底のユウヅツが目を見開き、クサビに応えて話し始めた。
「琥珀嗚愚璃潘虞闇はわが夫ですが、心魂を持たぬ亡者です。それは、夫が黄泉から還り来た時に、案内する者がいなかったために墓所から出れずに終わったためです。本当は照手が手引きをするのが定めであったのに、照手の死により蘇生することができなかったのです。だから照手は夫をあの世へ連れて戻らねばならないのです」
 語り終わると、ユウヅツは目をゆっくりと閉じ頷いた。あたかも、すべての運命を受け入れたかのようだった。
「汝の劈開を示せ」
 クサビの声が水底に響いた。ユウヅツは自らが琥珀嗚愚璃潘虞闇の心魂となることで劈開を示したのだった。それをクサビは受け止めた。すかさずスハエの打槌が入る。その激痛に身をよじらせた琥珀嗚愚璃潘虞闇が天上に向けて一斉に蜜を噴き出した。赤い蜜は天空で昇華して雲を作り、やがて豪雨となって山頂に降り注いだ。大量の蜜はすり鉢に溜まって火壺となり、すぐに巨大な炎の塊を作り山頂で膨れ上がった。不死がもうもうと噴煙を上げながら鳴動をはじめ、ついに大爆発を起こすと、噴煙を真っ赤に切り裂き火炎が四方に飛び散った。そして山頂より溢れ出した溶岩は、もうもうと土気を吐き出し麓に向かって流れ落ちて行った。
 火壺のただなかにユウヅツの姿があった。琥珀嗚愚璃潘虞闇の心魂が晒されたのだ。クサビの嬰喰がすかさずユウヅツに襲い掛かる。
「母上」
 ユウヅツがクサビに向かって叫んだ。吹きすさぶ火炎風の下、クサビがそれを聞き分け、嬰喰の中でもがきながらユウヅツに手を伸ばす。ユウヅツもまた、それに応えて手を伸ばすが、クサビの手は蠕動する嬰喰の肉襞に押し戻され、僅かのところで届かず、再び嬰喰の中に埋もれてしまった。
 次に嬰喰の中からクサビが浮き出た時には、ユウヅツは既に嬰喰に飲み込まれていた。嬰天の一、琥珀嗚愚璃潘虞闇と壅夘連土とはここに解徐されたのだった。
 打槌の音と激痛。そして愉悦の内にクサビは我に返った。不死の頂はすでに晴れ、びょうびょうと強い風が吹いていた。そこに一人佇むクサビが言う。
「己が劈開を示せ」
 風荒ぶる不死の頂が、春風そよぐ北対屋に変わる。
 クサビは童女の髪を梳いている。美しい姫だった。クサビはこの美しい娘が愛おしかった。何度も何度もその髪を梳いてやった。しかし、裳着のこの日が髪を梳くことができる最後だった。この時に永遠にとどまっていたい。この一瞬に居続けたい。そう思った。
「母はお前を愛していた。それが母を苛んだ」
 打槌が入る。嬰喰が我が身を食らいつくすのに時間はいらなかった。嬰天の一、倶紗婢(クサビ)はここに解徐されたのだった。
 不死の頂のはるか上に一つ星が瞬いていた。ユウヅツの星、太白星が行くべき道を教えてくれていた。
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