さわり

文字数 2,000文字

 ――おえん。

 掛け布団がかすかに浮き、左手がのぞいている。お寒かろう。かけ直さねば。
 畳にひざを擦り、枕に寄ったとき、その手が再び弱々しく動いた。
 おえんを、まねいていたのだ。

 涙が、こらえきれない。

 稀代の名人といわれた男である。厚いてのひら、指先のたこ。太棹の絃をはじいて五十と幾年(いくとせ)、その手に、もはや薄い布団一枚、もたげる力がない。

 もっと早く、出逢いたかった。もっと稽古をつけていただきたかった。内弟子とは名ばかり、このままではただの(はしため)だ。何も知らずに終わるのか。喪うのか。
 この手を。

 ――頼みが、ある。
 切れぎれながらも、しっかりした声だ。だが聞きたくないとおえんは思った。頼まれることはわかっている。言われる前に、首をふった。
 ――言うて、おらんぞ。
 なおも首をふる。うつむいたまま、はげしく。
 ――いや、か。
 ――はい。
 師は笑った。ふふ、と笑った。見越していたのだろう。

 ああっ、また! さっさとおしよ、さっさと! そうやってのたのた歩くからいつもまにあわないんじゃないか。あたしは汚いのは嫌いだって言ってるだろう!
 通いの弟子らは、誰も知らない。あの、色白でふっくらしたおかみさんの、盛りをすぎても枝に残る山桜のように、あだめいた、かあいらしい、おちょぼ口から飛ばされる、
 聞くに堪えない、身も凍る罵声。
 ああいやだ、食べるから出るんだよ。どうして食べるのかねえ、もう腹でこなせやしないってのに。水だけ飲んでりゃいいんだよ。いっそ一日中、(かわや)にいりゃあいいんだよ!

 おえんは、もう一人の内弟子のお玉と、手を取りあってふるえた。
 そのお玉が、故郷(くに)に帰った。小さい風呂敷をきゅっとこま結びにして、くりかえし師の部屋の敷居の外で手を突き、額を突いて、去った。

 ねえ、おえん。どう思うかい。
 昨日のことだ。米をといでいたら、ため息まじりにぼやかれた。
 二町先の紙問屋、あるだろう。あすこの先代がさ。(わずら)ってもう長かったんだけど、驚くじゃないか、こないだから食を断って亡くなったんだとさ。偉いねえ、できることじゃないよ。
 ほんとにねえ。
 生きてるのが迷惑だってわかったから、ご自分で始末をつけたのさ。偉いねえ。

 師匠の願いはわかっている。この家を頼む、と言われてしまうに決まっている。
 この家と、一門を。と言っても、わずかに残った弟子たちを。そして、葬儀の場で派手に泣きくずれるであろう、姥桜のおかみさんを。
 無理だ。
 無理なものは、無理だ。死ぬまで恩知らずと罵られてもいい。

 ――そうか。
 ――はい。
 ――好きに、しろ。
 はっと顔を上げると、笑っている。厭味など言わない人だ。

 目顔で部屋の隅を、()される。太棹が立てかけてある。
 風呂敷をほどきながら、おえんは嗚咽した。まだ泣くときではない。だが、体のふるえと涙が止まらない。
 愛器を(あらた)めたいのかと思ったが、違ったらしい。ばち、と唇が動くので、渡そうとするとまた、うら、と動く。
 しっとりと重い象牙の裏を返すと、思いがけない刻みが指にふれた。文字だ。
 



 逢はじ。もう、逢わない。秘めて彫られた、それは誰との約束なのか。
 師は微笑んでいる。霞むように。と、悪戯っぽい光が眼尻にひらめいた。こそっとささやく。
 ――たゆう。うらき。
 思わず、手を畳に突く。浦木太夫といえば(こども)でも知る、いまをときめく花魁の名だ。まさか、この撥を形見に、渡せと。あたしが。あのおかみさんの目を盗んで。あまりと言えば――
 台所でまたわめきちらしている。おえんは腰を浮かした。病人が静かに瞼を落とすのをたしかめて、ふすまを閉める。

 そして、菜を洗っていたときだ。
 ふいに、あたりが、紙を破るようにふるえた。
 聞こえるはずのない、師の太棹。あの

。びいいいんと風のない風を裂き、おえんの五臓六腑を雷のごとくに揺さぶった。
 何言ってるんだあたしは。花魁のわけがない。浦木太夫。太夫さんだよ、

。違いない。そこへ行けと仰るのだ、頼って行けと。
 逃げろと。ここから。
 じゃあ、じゃあ、あの刻み文字は、《逢はじ》なんかじゃなくて――

 淡路。

 桶の水に菜が散らばる。
 前掛けで手を拭くのももどかしく、おえんは土間を蹴って小走りに走った。走りながら、すでに泣いた。わかっている。さっきの

。あの瞬間(とき)あのひとは、逝ったのだ。
 むせび泣きながら、ふすまに手を掛ける。その手が、引けない。
 ――ありがとうございます。ありがとう、ございました。
 廊下の板に額を突き、そうして、ふところの撥を握りしめた。淡路。箱根の先さえ知らないおえんには、どれほど遠いか見当もつかない。だがそこにはきっと、おえんのまだ耳にしたこともない音が待っているのだ。

 終わりではなく、始まりの。終わりの先にこそある、始まりの。

 はばかることなく声を放って泣きつつ、おえんはふすまを引き開けた。


(了)

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