第1話

文字数 2,383文字

「えー、そんなこと、あの子にやらせればいいじゃん」
朋子がそう言った時、私は急いで「駄目」と言った。
その時の自分の顔は考えたくないけれど、朋子が今まで見たことのないような怯えた顔をしていて、きっと私も朋子の見たことのないような怖い顔をしてたんだろうな、と思う。
結果的に朋子はその時のことを忘れず、「あれ」にほとんど頼らないまま暮らしている。
私にとっては、今でも自分の決断に後悔があるのか、と気づいた一件として、忘れられない記憶となっている。

私が「あれ」に恐怖を覚えたのは、小学校の入学式の日だった。
それ以前から、父と母が二人ずつと、私と「あれ」で食卓を囲んでいたので、両親が二人ずついることには何の違和感もなかったのだが、両親が「あれ」のことを「夏子」と呼んでいたため(私が春子だからだろう)、私は夏子を自分の妹だと思っていた。あの時は、何でも私の言うことを聞く、いつもニコニコと笑った夏子のことが大好きだった。
私が夏子のことをなんとなく不思議に思ったのは、ランドセルを買いに行ったあの日、「あれ」のランドセルを、母が買おうとしなかった時だった。
「なんでなっちゃんのランドセル買わないの?」
「なっちゃんはね、ランドセルはいらないの」
母の言葉に「なんで」としつこくいいすがると、母はこう言った。
「なっちゃんはね、はるちゃんが頑張って勉強するお手伝いをしてくれるの。はるちゃんが頑張って頭が良くなったら、なっちゃんも頭が良くなるのよ」
その時は、なっちゃんが学校に一緒に行かないのだと思って泣きべそをかいたが、母が、なっちゃんもはるちゃんと一緒に学校に行くのよ、と教えてくれたので、すぐに機嫌が直った。

しかし入学式の日、幼稚園の時とは比べ物にならない程の数の人を見ながら、私は震えていた。
どの人も、二人いる。
よく考えたら幼稚園の子たちも二人ずついたはずなのだが、その幼稚園が比較的小規模だったため人数も少なく、みんな兄弟がいるんだと信じ込んでいた。
しかし、何百人もの人が、同じ顔の人同士で仲良さげに話をしているのを見た時、私はとにかく怖くてしょうがなく、夏子から必死になって離れた。戻って来なさいと呼びかける二人の母の近くに立った夏子は、なんとなく寂しそうに見えた。
初めての全校集会の日、片方の校長先生が新入生に向かって話した。
「みんなのとなりにいる子は、これからずっと一緒にいる友達です。分からないこと、難しいことは、その子と一緒に考えていきましょう」
はーい、と返事をする子たちが不気味でしょうがなかった。

夏子が自分より少し頭がいい、ということに気づいたのは、夏子の存在に慣れ始めた小学校二年生の時だった。
自分が分からないことを夏子に教わるのが嫌で、一生懸命勉強した。でも、夏子はいつでも私より少しだけ頭が良かった。
運動もそうだった。運動会のリレーで負けたくなくて、夏子が走るところを見せてもらって走り方の真似をしたら、タイムが伸びて一位になった。後悔した。

中学校に行っても、高校に行っても、夏子は一緒だった。
友達に夏子と一緒にいるのが嫌だ、と勇気を出して言ったらひどく驚かれた。
「なんで自分の相方のことを嫌いになれるの?
最高のパートナーじゃん」
その頃には、どんな人も赤ちゃんの時に「あれ」を握りしめて生まれてくることは知っていたけれど、そのこと自体気味が悪かった。世界中の誰もが「あれ」が何なのか分からないのに、誰もが自然に「あれ」を受け入れているのが信じられなかった。

自分がおかしいのかと、こっそり心の病院に行った。その時のお医者さんが良い先生で、親身に話を聴いてくれた。
「彼らのことが怖いという人はいる。それが悪いことだとは思わない。それでも我々は彼らと離れて生きることは出来ない。どうしても怖いなら、せめて都合のいい道具みたいなものだと思って接すればいいんじゃないかな」
彼らには残酷な言い方だけどね、とお医者さんがもう一人の彼と笑いあうのをみながら、私は決心していた。そうだ、夏子がどんなものであれ、私を助けるための者じゃないか。なら、最大限活用すればいいんだ。

その後から、私は夏子を都合のいい身代わりに使い始めた。テストや人付き合い、面倒臭いことは全部夏子にやらせた。ただ、夏子は自分より少し優秀というだけだから、自分の能力も下げないように頑張った。そうすると、私自身もどんどん出来る人になっていくのが分かって嬉しくなった。それでも、夏子への嫌悪感は捨てられなかった。辛いことも苦しいことも、夏子は文句一つ言わずしてくれたのに。

洗い終わった皿を片付けながら、私はつらつらと考えていた。今の私は、夏子に恐怖の感情はない。そもそも、小学校二年生の時から、その恐怖に置き換わるほどの苛立ちがあり、それを認めたくなくて夏子を恐れているふりをしたのだと思う。
実際のところ、私は夏子に嫉妬していたのだ。どれだけ頑張っても、自分より何でもできる自分に。そのこと自体、他の人に話せば信じてもらえないくらいおかしな感情だろうけど。「あれ」に勝てる本人がいるわけないのだから。

そんな無茶苦茶な思いに振り回されて、今の状況が出来上がった訳だ。夏子のおかげで手に入れた旦那。可愛い娘。自分が捕まえるには多分少しだけ難しかっただろう幸せの中に、私はいる。おまけに、夏子に負ける春子はもういない。夏子が唯一嫌がった頼みだったが、彼女はやはり私に逆らわなかった。少しの悔いはあるにしろ、私としては上々の結果だろう。

「ママ、行ってきます!」
向こうの部屋から朋子の声が聞こえる。春子が何か言って彼女を呼び止めたようだ。走って台所に入ってきた朋子が、にっこり笑って私に言った。
「行ってきます、夏子ママ!」
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