邂逅者 9

文字数 4,118文字

 実際の話、現在の魔王であり、青の一族最後の一人でもあるアッシュ=ハーツという名の彼が「困る」という事態に陥る事は殆ど無い。
 魔族の中では若輩以外の何物でもない僅か17歳であったとしても、生来の器用さと恵まれた能力故に、彼の前に困難が立ち塞がるということはこれまで殆ど無かった。彼は吸血鬼と人間のハーフのダンピールであったが、その中でも希少な「優れた遺伝」のダンピールであったのだ。
 青の髪は一族譲り、高い魔力は父親譲り、ついでに幼い頃から突出した知能も父親譲り。本来魔力の高いダンピールは性質も魔族に近くなるのが常であったが、彼の場合その辺も上手く遺伝されていた。
 体の構造は人間に近く、これまでの成長も人間の子どもと変わらず進んだ。アッシュ=ハーツはその辺の人間の17歳と変わらない姿である。ダンピールの中には少年期の頃に極端に成長が遅くなったりしてしまう者も多々いたが、それは起こらなかった。もしかしたらこのまま老化も普通に進むのかもしれないが、その辺は全く本人気にしていない。仮にそれで普通に寿命がきたとしても、足掻くような性格ではないだろう。
 そのような体を持つためか、日の光を不快に感じるような事もなく、神への祈りを苦痛に思う事もなければ吸血衝動も持ち合わせない。皆無、という訳ではないはずだと彼の面倒を見てきた公爵は言うが、これまでそれを感じた事は一度もなかった。公爵が連れてきた子どもや、最近青の城に住み始めた少女を見ても感じるものは何も無い。
 もしかしたらこのまま一生、そんなものとは無縁に生きていくのではないかとアッシュ=ハーツは漠然と思っていたのだが。





 むしろそう思っていた頃の方が楽だったかもしれない、と後に思うようになるとは、いくら叡智に秀でた彼にも予想した事のない未来だった。
 現実とは、常に属する者を巻き込みながら否応なく進んでゆくものなのである。





 というわけで、歴代の中で最も若くして魔王となった17歳のダンピール、アッシュ=ハーツは、現在非常に困っていた。普段から感情が薄く、それ故か感情が表に出ることも殆どない為に今の困惑にすら両親譲りの秀麗な容貌が歪む事だけはなかったが、心の裡は今まで無いほどに混乱していた。
 原因の提示は難しくない。
 城への侵入者に関する対処をケーディに一任して、彼はそのまま読書をしていた。
 ケーディ、そしてこういう事には目敏いタカトがいれば何が侵入していようと問題ないと踏んだのだ。特にタカトの方に信頼を置いて、直ぐに彼は本の世界へと没頭していった。そんなアッシュを突然襲った現実は予想しがたいもので。
 言葉も出ないままに、自分の目の前にある「現実」をまじまじと眺めるアッシュ。
 濃厚な魔力の気配を感じた。
 それはまさに一瞬の出来事で、警戒する間もなく魔力が起こしたものは結果を吐き出した。彼が油断していたのは間違いない……此処は青の城の中で、タカトもいて、一応ケーディもいて、それで自分の元まで何かが起こることなどあり得ないと思っていたのは事実。慢心ではないが、そう思い込んでいた。思うに相応しいだけの理由も足りていると思う。それでも、目の前に起こった現実。
 身構える暇も無く落ちて来たのは……人間の少女だった。
 カウチソファーの上で本を広げていた彼の腹の上に狙ったように落ちて来た、その見知らぬ人間の女は凝視する彼の視線に晒されても身動き一つしなかった。少しの時間経過の後、冷静さを取り戻した彼は自分の上で動かない少女に意識が無い事にようやく気がつく。呼吸は乱れていないが、意識は失われていた。余裕を取り戻すように小さく息を吐き出した後、彼は自分の上から動かない少女を抱えなおす。うつ伏せになっていたのを、仰向きにして横抱きした。
 これといって他意はない。その方が観察しやすいだろうと思った為だ。その間、少女は小さく唸ったけれど目は開かなかった。

「……イワツ、か」

 さっき感じた魔力は、覚えがある。
 以前異界の食材を提供してきた吸血貴族。貴族とはいってもその辺の貴族とは別格の、タカトと同じ公爵位に属する者。見るからに不自然で怪しくて吸血鬼らしくないその様は、たった一度の邂逅でも忘れる事など出来そうもなかった。容姿が際立って目立つという事を差し引いて余りある存在感だったのを覚えている。その時一緒に覚えた魔力の気配。間違いようが無い。
 つまり城に侵入してきたのはイワツ公爵らしい。
 何を考えているかは判らないが、あの男なら不可能ではないだろうとむしろ納得した。タカト曰く、彼が生まれた頃には既に公爵として存在していたというイワツなら、結界を壊さずに侵入するのは容易くやりそうな気がする。タカトの言を持ってくるなら、「胡散臭くて誰も魔王にしたくなかったんじゃねーの?」という理由で今まで魔王の座につくことはなかった、しかしその権利は十分に持つ者。
 それが何で、こんな事態を起こすのか。外と繋げられた気配は無いから、この少女は城の中から送り込まれたのは間違いなく、となると導かれる結果は、彼女がイワツと一緒にこの城に入ってきた者、という事になる。イワツが人間を従属したというのは聞いたことがないし、以前に会った時にもそのような様子は無かったが……

「……う~…」

 小さく身じろぐ、少女。眷属にされたかどうかは、目が覚めた彼女の目を見れば分かる。その目が赤ければ、イワツの従者……だが。
 それは無いだろうとアッシュは無意識に理解していた。彼女は間違いなくただの人間で眷属ではないと、本能の部分で。
 吸血鬼にとっての吸血、つまり人間を眷属にするという行為は縄張りを主張するような意味もある。
 吸血鬼は本能的に、他者に眷族にされた人間に対しては吸血衝動を抱かないようになっているものらしい。らしい、というのはそれらの知識はタカトから教えられたものであってアッシュ本人が感じた事が無い為だ。そもそも、全く吸血衝動を覚えない彼にとってはそんな本能的な反応を己が身で知る機会は無かったのだ。口頭で教えられても今一つピンとこないのである。
 それでも、この少女を見ているとそれが分かるような気がしてアッシュは不思議に思う。
 黒髪を一つに纏めている、彼よりも少し幼いように見える少女。きっちりと着込まれた乱れ無く露出の少ない服は、彼女の性格を現しているようでもある。
 普通の吸血鬼であればこんな状況でぼんやりと、いきなり降ってきた人間の少女を抱えたままでいるなどということはまずしないだろうが、彼はダンピールとかいう以前に少しズレた所のある男だったので、その状況に関しては全く思うことは無かった。見ようによっては何処の恋人同士だ、と思われそうなソファーに座って彼女を横抱きに抱えたままという状態で、間近にある少女を観察する。
 ……見る者によっては据え膳、な状況でもある。

「おい」

 暫く黙って目覚めない彼女を見守っていた魔王だが(それさえかなりイレギュラーな行動であるとは本人気がついていない)そのうちに見るだけには飽きてくる。いつまでも閉ざされたままの瞼を開いて欲しいと、それでも彼にしては力加減をして腕の中の少女の体を揺らす。

「むぅ~……」

 まるで子どもを起こすかのような優しい動作で揺らされて、ずっと眠っていた少女が唸る。
 それでも寝起きは良い方ではないのか、むずがるだけで直ぐに目を覚まそうとはしない。彼の腕の中で小さく体を動かして、暖かい方へと身を寄せる……すなわち彼の胸の方へ。そして安定すると直ぐにまた呼吸が落ち着いてしまう。どうやらいきなり現れた少女は、かなり深く眠ってしまっているらしい。微かに感じる魔力の残滓から、それが本人の意志でないのは判るが体を貸しているような状態の彼としてはいつまでもこの状態が続くのは困る。
 それに、時間が経てば経つほど目覚めて欲しくて仕方ない。眠っている姿も観賞出来なくは無かったが、この時の彼は腕の中の彼女に目覚めて欲しかった。

「……全く」

 零れた溜息は、起きようとしない彼女に対するものか、それとも直ぐに起きられないようにしている魔力の元凶であるイワツに向けられたものか、それとも無理に叩き起こせないくせに起きて欲しいと気が焦る自分に向けられたものか。
 本人ですら判別できない感情に揺らされ、彼は最短のルートを選択する。
 即ち、魔法。
 とはいえ、吸血鬼の使う魔法は人間に対しては強すぎて体に悪い、ということも知っている。ノンノやベータなどのような、俗に「人間ならざる魔力を抱えた存在」であればそれでも問題は無いらしいが、目の前の少女は全く普通の人間。普通に魔法などを使えば間違いなく体に悪いだろう。それは魔族の魔力の質や純度、単純な魔力量の問題でもあるが、魔族にとっての些細な魔法でも唯の人間にかける場合には特別の配慮が必要になる。相手の事を気にするのなら、という条件がつくが。
 この時のアッシュは……配慮した。
 知り合いでもない相手に配慮するなど自分らしくないのは分かっていて、それでも最大限絞られた魔法を編み上げる。

 ぱちり。

 あまりに微細なその魔法は、呪文すら必要なく彼は指を鳴らしただけで発現させる。

「ん……?」

 眠る彼女の瞼が、まるでその音に反応したかのように動いて長い影を作っていた睫毛が震える。
 一つも見逃さないようにとでもいうようにその様を見守るアッシュ。
 彼の腕の中、ようやく少女はゆっくりと目を開く。
 現れたのは、明るい光の中では琥珀に輝く大きな瞳。寝起きのために焦点が合わず、溶けたようにぼんやりと虚空に向けられたそれが彼の姿を反射して映す。その瞬間、言葉こそ何一つ心に浮かぶ事は無かったけれど、確かに彼の心は揺さ振られた。
 そして、最初に感じていたにも拘らず、途中からすっかり忘れていた一つの感情を思い出す。

「……そなたは、誰だ?」

 ようやく焦点の合った彼女は、とりあえず真っ先に目の前の男を誰何しただけに過ぎない。

「アッシュ=ハーツ」

 即答しながらも、この時、青の城の主であり魔王である彼は、非常に「困って」いた……
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