第8話 「蒼い月」

文字数 2,639文字

 何という透明感だろう。
 初読時にまず思ったのが、それ。

 世に「大人の恋」を描いたラブロマンスは多いけれど、ドロドロした現実の醜さを織り込んであればあるほど、読後感も重たく苦しいものになってしまいます。

 この作品はまるっきり違います。まるで上澄み液だけで作りました、とでも言わんばかりの澄み切った美しさ。神々しいと言ってもいいほどです。
 その理由は明らか。だって主人公はもちろん、登場人物の一人一人がみんな美しい心の持ち主なんだもの。

 正直に申し上げます。
 私が骨太コンテスト入賞作品の中で一番心を動かされたのがこの作品! 私は林さんがライバルであることなんかすっかり忘れてこの作品にのめり込み、最後の方はほとんど号泣しながら読んでいました。
 私が選考員の立場だったらこの作品を推していたかも(笑)。
 美しい、というのは最強です!

 というわけで、次の作品をご紹介します。毎度のことですが、結末にまで触れていますので、未読の方はご注意下さいね。

 林奏さん『蒼い月』

 主人公の理香は、中高生に勉強を教える特定非営利活動法人「AFF」の事務局スタッフ。
 かつては教師を目指していましたが、ある出来事をきっかけに断念した過去があります。
 このたびAFFで初めてフォーラムを開催し、企業の協賛を募ることに。団体の理念や活動内容を伝えるパンフレットを作る必要がありました。

 ところが、いつもお願いしているデザイナーの研さんが急病に。
 その代理として現れた、同業者の長谷さん。報酬はほとんどないというのに、要求をはるかに超える立派な仕事をしてくれる彼。その誠実な態度に、理香の胸はざわめきます……。

 う~ん、突然現れたイケメンが、他の誰でもなく自分に興味を持ってくれるなんて(笑)!
 女子なら誰しも夢見るシーンかもしれない。いや、現実にそんなことが起こったら、たいていの人は舞い上がっちゃうのでは?

 だけど主人公の理香は、そんな軽薄じゃありません。
 彼女、胸のうちはぐっと押し殺し、淡々と事務的な口調で仕事を進めるのです。もちろん、そうすればするほど、本音は滲み出てしまいます……この辺はカズオ・イシグロの『日の名残り』を彷彿とさせます。ヒロインの真面目さが際立つ描き方です。

 長谷さんという男性の描き方もすごくいい。単なる「白馬の王子様」みたいな描き方だったら、大人の読者は逆に冷めてしまいそうですが、これはそうじゃない。長谷さんはひたすら上品で控え目なのです。

 仕事の進め方に、彼の誠実さが現れています。
 華麗な経歴を持っているのに、決して威張らない腰の低さ。忙しそうな人を目にすると、自らサッと入って手伝ってしまうような親切さも兼ね備えています。自分の欲望、自分の都合しか考えられない男性は、こういう態度を取ろうと思っても取れないもの。逆にできるということは、すごいことです。
 そんな優しい長谷さんですが、仕事に妥協はなく、成果は絶対に出していきます。この人なりに自信があり、プライドも高いことがうかがわれます。
 
 こんなに素敵な人が目の前に現れたのに、理香はなかなか積極的になれません。
 なぜなら、長谷さんには妻子がいるから。

 え~。不倫なんてひどいじゃない!
 とは、なぜか思えないんですね。なぜなら長谷さんが女性を騙すような人には見えないし、奥さんに対して後ろめたさを感じているような素振りもないから。

 やがて、理香の悲しい過去が明かされます。
 理香は大学卒業を前に、戸籍抄本を見て自分が不義の子だと知りました。衝撃の事実です。父親は不倫相手とその子供を選んだのです。それも本当の妻子を捨ててまで……。

「人を傷つけ、幸せを奪い取って生まれてきたくせに」と理香は自分を責め立てます。理香自身は何も悪いことをしていないのに、自分は幸せになる資格がないと思うのです。
 何と重たい十字架を背負っていることでしょうか。こんな風に思う主人公の真面目さに胸がえぐられるようです。

 両親のしたことを許せなかった理香ですが、長谷さんを好きになって、彼の方からも愛されて、ようやく自分を産んだ母の気持ちが理解できたような気がします。
 それでも「あの優しい人を、家族から奪い取ったりしない」と、理香は長谷さんとの別れを決意するんですね。常に自分以外の誰かの幸せを願うこの主人公があまりに美しくて、胸に迫るシーンです。

 だけど、そんな優しい二人を、今度は周囲が放置しておかないわけです。
 やっぱりというべきでしょうか、長谷さんの方にも悲しい過去がありました。誰かの助けを必要としているのは、彼の方だったんですね。

 今度は理香が励ます側に回ろうとするのが、美しくも限りなく優しいハッピーエンド。
 そして何を面倒がることもなく、理香が両親と仲直りできるよう、後押しする長谷さんがまた頼もしい。この二人は良い夫婦になるに違いありません。

 最後まで気持ちが離れることなく読めるのは、やはり非常に高い文章力のおかげ。主人公のみならず、登場人物の一人一人の気持ちに寄り添って、林さんは丁寧に言葉をつむいでいるなあと思います。

 コンテストは「大人が楽しめる」という趣旨だったので、ストーリー性、娯楽性の高さが要件の一つになっていたように思われますが、この『蒼い月』はその中では純文学寄りかも。
 それだけ描写が丁寧だということです。この物語の中に美しい表現はたくさんありますが、あえて最後の方に出てくる例を挙げれば、長谷さんの手の描写。もう物語は終わるのに、今さら何をと思うぐらいの文字数が費やされています。

 だけどその直後、主人公は自分の幸せをかみしめることよりも、この手を離さざるを得なかった人の悲しみを思うのです。
 ああ、と胸を突かれます。
 人物を描くというのはこういうことなんですね。これだけの描写をして初めて、優しさというものが伝わるわけです。
 ストーリーに関係ないことをすぐに省略しようとする私。大事なことを教わりました。

 特に女性におすすめですが、男性にも読んで欲しい、心の洗われる本当にきれいな作品です。
『蒼い月』はこちら↓。
https://novel.daysneo.com/works/884a44d723d79e6aa691e303a83169e3.html

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