蝶々妹〈ちょうちょういもうと〉

文字数 9,564文字


 十二色のクレヨンに入っている青と、同じ色をした空。ところどころに浮かぶ、テーブルロールの形をした白い雲。
 絵本のような空の下で、宇治村滋(うじむらしげる)蝶子(ちょうこ)と巡り会った。

 ウジムシ。
 それが宇治村滋のあだ名だった。物心(ものごころつ)付いてからずっと、これただひとつだった。
 人見知りで、引っ込み思案な性格。いつも陰に隠れて、シャツの裾をいじくっている様。
 何よりウジムラシゲルという名前。ウジムシを連想するなというほうが無理だろう。
 ウジムシと呼ばれたのが先か、いじめられっ子の座を獲得したのが先か。小学校も、もう四年目。友達は一人もいなかった。
 今日も滋は一人、こそこそと下校する。

 青い空。とても高く見える。丸くて可愛い白い雲。
 お手本のような、空。
 滋は誰にも呼び止められないよう、できる限りの早歩き。
 それでも心が躍るような青天。自然と空を見上げてしまう。
 クラスの男子達が、これからみんなでサッカーだとはしゃいでいた。しかし「みんな」の中に滋は入っていない。
 それを思うと、胸から喉にかけてきゅっと痛みが走った。
 滋は顔を(うつむ)ける。

 そのとき、眼の端で何かが光った。
 
 光った先を見る。ゴミ捨て場だった。収集車がまだなのか、違反物だから放置してあるのか、夕方になるというのにたくさんのゴミが山積みのままだ。
 水気を吸ってよれよれになった段ボールが幾層も重ねてあって、とても汚らしい。破れたポリ袋から転げ出た、空き缶が吐いた茶色い汁が道路にまで流れている。
 汚い水を避けて、一歩、近寄る。太陽に照らされ、蒸された腐臭が立ち昇っていた。込み上げてくる吐き気をこらえて、滋はゴミ溜めの中を見回した。
「あ!」
 思わず声が漏れた。全く思いもかけないものが、汚汁で膨らんだ段ボールの上に乗っていたのだ。
 小さな人形だった。くるくるの巻き毛は金色で、赤いワンピースを着ていた。着せ替え人形、というものに似ている―ーコマーシャルで見たことがある。
 滋は、ここがゴミ捨て場だということを忘れて、そっと人形を手に取った。
 人形の背中には蝶の(はね)が付いていた。つるつるとした素材の、丸くて黄色い可愛らしい翅だ。
『わたしを助けてくれるの?』
「わっ! 喋った!」
 滋は人形の目を覗き込む。今日の空と同じ色をしているそれは、ソフトビニール素材にプリントされた〈絵〉だ。
『あなた、どうかわたしを助けてくださいな。どうかどうか』
 赤い唇も〈絵〉だ。右の方にかけて少しくすんでいる。
『ここは臭くて汚いわ。わたしをここから連れて行ってくださいな』
「君は、喋れるんだね。僕の言葉が判るのかい?」
 滋は辺りを気にしながら人形に囁いた。
『判りますわ。でもあなただけなのです。わたしの声を聞いてくれたのは』
「君はずっとここにいたの? 助けてって言ってたの?」
『ええ。ずっとずっと言ってたわ。でも誰にもわたしの声は聞こえないの』
 滋は汚れるのも躊躇(ためら)わず、胸元に包み込むようにして人形を抱きしめた。
「もう大丈夫だよ。僕が来たからね。僕が君を助けるよ。ほんとだよ」
 ――チャっ
 強く押し付けたせいで、人形の翅が音を立てた。
「ごめんよ。痛かったかい?」
 慌てて力を緩め、人形の顔を見た。
『ぷは! びっくりしたわ! でも嬉しい! 助けてくださるのね』
「うん。僕の家に一緒に帰ろう。これからは僕と一緒に暮らそう」
『えっ。そんな。ご迷惑はかけられませんわ』
「迷惑じゃないよ。今日から君は僕の妹になるんだ。いやかい?」
『嬉しいわ! 本当にわたしを妹にしてくださるの?』
「僕はウソはつかないよ。僕と君は兄妹(きょうだい)さ。これから仲良くしよう」
『ああ、お兄様! 嬉しい! 嬉しい!』
「僕も嬉しいよ。妹が欲しかったんだ。そうだ。君に名前をつけよう。蝶子っていうのはどうかな」
『蝶子! 素敵な名前ね。わたし蝶子ね。嬉しいわ、お兄様』
 滋は蝶子をくすぐったそうに見つめ、そっとシャツの裾に包んだ。
「蝶子、苦しいだろうけど我慢してね。人に見られるといけないから」
『はい。お兄様』
「悪者にさらわれないように、僕が守ってあげる。ずっとずっと」
『嬉しい。お兄様!』
 滋は再び速足で家路に着いた。
 もう、空など見なかった。


 蝶子の赤いワンピースは汚れていたが、翅が邪魔をして脱がすことはできなかった。
『ごめんなさい。お兄様。汚い妹はお嫌いよね』
「そんなことないよ。服を着たままでも洗えるよ」
 蝶子の髪と翅はお湯と石鹸できれいになったが、素材に染みたぼつぼつとした汚れはいくら洗っても消えることがなかった。
『お兄様、お兄様。蝶子は汚いわ。嫌われてしまうわ』
「そんなことないよ。きれいだよ。蝶子はとてもきれいさ」
 滋の部屋の窓枠を背に立たされている蝶子からは、石鹸のいい香りがする。太陽の光が金の髪にきらきらと反射していた。
『これなら蝶子、お父様とお母様にごあいさつできるわね』
「蝶子、それはダメなんだ」
『どうして。お兄様、蝶子悲しいわ』
「僕は男の子だから、お人形を持っているなんてバレたら、父さんは怒って蝶子を捨ててしまうに決まってる。母さんも父さんの言うとおりにするから、蝶子は見つからないようにしなきゃダメなんだよ」
『酷い。そんな、酷いわ』
「泣かないで、蝶子。僕が守ってあげるからね。大丈夫だよ」

 滋の父は(いかめ)しく、よく滋を殴った。
 いくつになってもすぐに泣いて帰ってくるいじめられっ子の滋を、情けないと(なじ)った。鉄拳制裁することが息子を強くする唯一の手段だと信じて疑うことがない彼は、息子の顔に涙の跡を認めると容赦なく拳を奮った。
『お兄様、またお父様に殴られたのね』
「しかたないよ。僕が弱いから父さんはイライラするんだ」
 蝶子の翅がチャっチャと鳴った。
『お兄様。お父様は酷すぎます。蝶子が罰を与えるわ』
 チャチャっ
「蝶子、ダメだよ。父さんに罰だなんて、そんなことダメだよ」
『お兄様は関係ないの。蝶子が勝手にやるのよ』
 チャチャ チャっ チャ
『蝶子が、やるの』

 しばらく経ったある日、滋は母親の恐ろしい金切り声を聞くことになる。
 父親の枕を天日に干そうとした母親は、妙に粉っぽいことに気付いた。叩くと、すさまじく埃が立った。パンヤが痛んだせいかと開けて見れば中から大量の蝶の死骸が出てきて――悲鳴を上げた。
 しかし母親は滋には何一つ物を訊ねなかった。息子は臆病で、昆虫ましてや死骸など触れるはずもないと一人合点したからだ。むしろ怖がらせてはいけない、とさえ思った。
 何らかの理由で、枕の中で蝶が繁殖したのだろうと無理やり納得してしまい、父親にそのことを告げることさえせず枕を買い換えて――それで終わりにした。
 父親の枕が新品になったことを知った滋は、蝶子に言った。
「母さんに邪魔されちゃったよ。どうしよう」
『お兄様、大丈夫です。蝶々の呪いは、ゆっくりと効いてくるのです』
 チャっ チャっ
 蝶子の翅が鳴った。
 しかしそれから何年経っても父親は頑健そのもので、腹痛一つ起こすことはなかった。



「うえーっ! 汚ぇ!」 
「ゲッ、俺のもだ。おえーッ!」
 いじめっ子たちの上靴に、蝶の死骸が詰めてあることが続いた。
 あまりに続くので学級会の議題に上った。
「そういや、ウジムシの上靴に入ってたことねぇな。お前じゃねぇの?」
「ばっか! ウジムシにチョウチョなんか触れるか。怖いよーって泣くだろ」
「ああそうか。そうだよな」
「あはは。ウジムシ、ウジムシ!」
 滋はいつものように一言も発することなく、家に帰った。
 蝶子に学級会のことを話してやった。
『お兄様、今に蝶々の呪いがあいつらに、ゆっくりと』
「蝶子、蝶子、やっぱり蝶子がやったんだね。見つかったらどうするんだ。もう危ないことはやめてくれ」
『いいえ、蝶子はお兄様のためには何だってするわ』
 チャチャっ チャっ チャっ
 蝶子の翅が、激しく鳴った。
『蝶子はお兄様が大好きよ。蝶子はお兄様のためなら何でもするの』
 チャっ チャチャチャっ


 中学、高校と進んでも、滋に友達ができることはなかった。父母とも必要なとき以外は口を利くこともなく、蝶子とだけ語らった。
 蝶子のことは父母の知るところではなかったので、父母の聞く滋の声は挨拶のみだということが何日も続いたりした。
元から父親は、男子は気安く笑ったりお喋りをするものではないという価値観で、滋の口数の少ないことを美点だと評価していた。
 母親の方は、息子が他の子と違いすぎるのではないかと悩んでいたが、誰にも相談することはできなかった。もとよりこの家では、子育ては母親だけの仕事なのだ。
 しかし滋が高校生になったあたりから、他所の子供の非行や反抗期の話が保護者会で問題になることが増えた。家庭内暴力や万引き、はては同級生の女子を妊娠させたという話まであった。
 母親はそういう話を聞く度に、ただの一度も友達が家に来たこともなく、また誰かと出かけることもなく、学校と塾以外は自室にこもってばかりの滋を、手のかからない真面目な良い子だと、本気で喜ぶようになっていった。

 順当に時は流れ、滋は大学生になった。
 勉強だけはよく出来たので、都市部の偏差値の高い大学へ進学した。
 父親の「鍛えるにはいい機会だ」という意向もあり、ギリギリの仕送りで一人暮らしを初めた。
 父親はアルバイトでも何でもして逞しくなれと願ったのだが、滋は学費と家賃以外のもの、食費や光熱費などを切り詰める道を選んだ。サークルにも入らない、友達も作らないならそれで充分なのだ。
 お金などはどうでも良かった。それよりも、生まれて初めてといってもいい、素晴らしい開放感の中に滋はいた。
 部屋に居さえすれば誰の目も耳も気にしなくていい。堂々と蝶子と語らうことの、なんと素晴らしいことか!
 滋の部屋は三階で南西向きだ。とても日当たりがいい。
 窓際に立つ蝶子の髪が、きらきらと輝くのを見つめるのは無上の幸福だった。
『お兄様、授業だけは大切にね。蝶子のために偉くなってくださいね』
 滋は蝶子の変わらぬ頬笑みを見つめながら、強く頷くのだ。
「判ってる。蝶子の自慢の兄様になるよ」
『まぁ、兄様はずっと蝶子の自慢の兄様ですのよ』
 チャっ、と蝶子の翅が鳴る。
 そんなことばかり話して暮らした。
 部屋は大学指定の、男子学生専用のワンルームマンションだった。大家が厳格で、母親さえも立ち入りは禁止だ。選んだのは父親だったが、滋にはとてもありがたかった。
 しかし、初夏の頃。
「風が気持ち良いね。今日は窓を開けて眠ろうか」
 そう言って床についた滋の耳に、男女のふざけあう声が飛び込んできた。どうやら右隣りの部屋からのようだ。やはり窓を開けているらしい。
「うるさいな。女の子は駄目な決まりだろう。明日、大家さんに電話しよう。もう遅いし、蝶子、今夜は我慢してくれよ」
『お兄様、あれはテレビよ。ここに女の子がいるはずないもの』
「ああそうか。そうだな。蝶子は頭がいいね。さすが自慢の妹だ」
『嬉しい。お兄様。大好きよ。うふふふふ、うふふふ』
 チャっチャ チャチャチャっ


 それから何日も経たないある日、気が進まないながらも滋は食料品の買い出しに出かけようとした。
 何も考えずドアを開けた途端、
「あっ、」
 と、愛らしい声が廊下に響いた。
 滋はギョッと立ち(すく)む。
「あ、お隣さん……えへ」
 気不味そうにモジモジとしているのは――ここにいるはずのない〈女の子〉だった。
 チョコレート色をした、ふわふわとした髪。
 睫毛の長い黒目がちの瞳を、滋の機嫌を伺うように向けてくる。
「ごめんなさい。ここ、ほんとは女子は出入り禁止なんですよね」
「えっ、あ、はい」
 突っかえながら、やっとそれだけを滋は返す。
 ぱん! 少女が胸の前で両手を合わせた。拝むような格好だ。そのまま肩を左右に揺らすようにしながら、上目遣いに滋を見る。
「わたし、ここのニシジマくんのカノジョなんです。あの、カレ、ちょっとケータイ止められてるみたいで、連絡取れなくて、それで来ちゃったんですけど、ほんと今日だけなんで」
 チョコレート色の髪もふわふわと揺れる。
 滋は、喉の辺りがギュッと閉まるような痛みを覚えた。
「……あ、そうですか」
 やっとそれだけ言葉を発すると、滋は急かされるように踵を返した。
 自分でも逃げるようだと思った。

 チャっ チャっ
『お兄様、テレビじゃなかったのね。女の子』
 尖った声が責めるように言う。。
「隣の部屋の人の彼女なんだって。連絡が取れなくて困ってたみたいだから、しょうがないよね。髪は茶色だったけどふわふわしてて、ちょっと蝶子みたいな感じで」
 っチャ!
 蝶子の翅の音が、滋の言葉を遮った。
『しょうがなくないわ! 髪の毛が蝶子みたいでもダメだわ。女の子はここに来てはダメなのよ』
「うん……でも困ってたんだから……それを言うなら蝶子だって女の子なんだし」
 チャ!
『蝶子は妹よ! お兄様の妹よ!』
 っチャ! っチャ!
『蝶子をあんな不潔な女と一緒にしないで!」
「もちろん! もちろんさ、蝶子! 蝶子は大事な妹だよ。清潔で可愛い妹さ」
『ええそうよ! お兄様の馬鹿! 蝶子をあんな女と一緒にしないで!』
 チャっチャ! チャチャチャチャっ!
「蝶子、ごめんよ。蝶子、許しておくれ、蝶子。蝶子」
 チャチャっ……チャっ

 その夜、日付が変わる頃に、開けたままの窓から覚えのある甘い声が流れ込んできた。滋は思わず聞き耳を立てる。
 と、男のボソボソという声とともに、隣室の窓が閉まる。ピシャリと勢いがついたその音が、滋には当てつけのように聞こえた。
 滋は蝶子を固く抱きしめて、布団をかぶって丸くなった。何も聞こえないように。聞かなくて済むように。
 チャっチャっ チャっ チャチャチャチャ
 蝶子の羽ばたく音だけを、滋は聞いた。他の何も聞きたくはなかった。

 翌朝。滋が目を開けると、蝶子はいつもと変わらず穏やかに微笑んでいた。
 滋はおはようの代わりに、その頬にそっと親指を這わせる。
「蝶子、もう怒ってない……」
『お兄様。儀式をしましょう』
 尖った声が宣言をするように言った。
『蝶子は我慢ならないわ。隣のあいつらはお兄様を騙したのよ。お兄様の心を傷つけて、優しさを笑いものにしたわ』
 チャチャチャチャ――蝶子の翅が小刻みに震える。
『昔を思い出してね。お兄様。蝶子の眷族の命を捧げ、あいつらに逃れようのない呪いを』
 滋の脳裏に広がった――シジミ、モンシロ、モンキ、ジャノメ、アゲハ、キアゲハ、ルリタテハ――ボソボソの粉、モサモサした手触りの翅。ビニール袋にいっぱいの蝶、蝶、蝶。
 詰めて詰めて詰めていくと、やがて窒息死する――たくさんの蝶の死骸……。
『今度は確実に、即効性のある呪いを。それには……』
 チャっチャチャっ チャチャっチャっチャ



 キャベツ畑にモンシロチョウ。雑木林にアオスジアゲハ。
 蝶子と似ているモンキチョウは、アゲハ十匹分の値打ちがあるのよ。
 お兄様はお肉に群がる蝶々がいるのを、ご存じかしら? 
 一番安い牛肉を買ってきてくださいな。薄暗い静かな林の奥に置いておくと、うふふ。明日が楽しみね。
 お兄様にお願いよ。蝶々のお腹をきゅっと摘まんでくださいな。
 いいえ、袋に詰める前に殺さなきゃ。
 お兄様の手で。
 お兄様の指で。
 だって今度の呪いは、本当に本当の恐ろしいものなのよ。だからお兄様が直接殺さなきゃ。
 ね、お兄様。判るでしょう?
 判ってくれて嬉しいわ。ありがとう。ほら、息の根が止まったわ。苦しくなんてないわ。大好きなお兄様の指ですもの。
 

  
 ――っチャ



『お兄様。蝶々の呪いが溜まりました。さぁ、いよいよです』
「蝶子、やっぱりやめようよ、こんなこと……もういいよ」
『いいえ、お兄様。では何のためにこんなに蝶々を殺したのです。この蝶々の死を無駄にするのですか』
 コンビニのレジ袋が三つ、テーブルに置いてある。中にはいろいろな蝶が死骸となって――ぎっしりと詰まっていた。
 静電気でも発生しているのか、白い袋の表面には鱗粉が付着している。
 横にあるマグカップには、滋の朝食代わりの牛乳がまだ半分残っていた。白い液体の表面に、色とりどりの粉が浮いている。
『お兄様が何と言おうと、蝶子は行ってまいります。あの不潔な男女に蝶々の呪いを』
「蝶子、待って」
『お兄様、蝶子はお兄様が大好きよ。お兄様のことは蝶子が守るわ』
「蝶子、ダメだ! 待つんだ」

 チャっチャ チャっ チャチャっチャ

 滋の部屋のドアが開き、閉まる。
 ほんの十秒もかからず、またドアが開き――閉まった。

 っチャ!

『お兄様。蝶子はやりました。あの二人は呪いにまみれて苦しみ抜くでしょう』
「蝶子! 蝶子! お前は無事か? 大丈夫か?」
『お兄様、蝶子は無事よ。ああ、お兄様がこんなにも蝶子を心配してくれるなんて。蝶子は幸せよ、お兄様』
「蝶子、すまない、蝶子」
『お兄様! ああ大好きよ! お兄様! 好き、好き!』
 と――ドアチャイムが鳴った。
 ぴたりと口を閉ざし、滋は耳をそばだてる。
 再び、チャイムが鳴った。
 沈黙。
 ガンガンガン!
 ドアが激しく叩かれた。
 ガンガン!
「ちょっと! 居るんでしょ、声がしたわ! 開けなさいよ」
 ガンガンガン!
「開けなさいって! もっと騒ぐわよ!」
「……蝶子」
『お兄様、大丈夫よ。蝶子が傍にいます。大丈夫よ』
 チャっチャ チャっチャ
 ガンガンガン!
「あたし、玄関にいたのよ、出るところだったんだから! ねぇヒトんちにこんな、こんなもの! 開けなさいよ!」
『お兄様、開けてはダメ!』
 チャっチャチャ チャっ
 ガン! ガン!
「何したか知ってんのよ! 変態!」
 ガン!
『お兄様、やめて』
「あの女の子が来たんだ、蝶子。中にいたんだ……知ってるって……もうダメだ」
『ダメ! お兄様、ダメ!』
 チャっチャっチャチャチャっ
 ガン!
 
 ……ギィ。

 滋はドアを開けた。
 チョコレート色の髪の少女が、転がるようにして現れた。
「あ、あんたね! なんなのよ、なんなの!」
 地団駄を踏むようにして滋を睨みつける。
「ちょ……あんなにちょうちょを……変態! 変態ッ!!」
 罵声とともに、三つの白いレジ袋が滋の頬にぶつけられる。
 滋は頬を拭うこともせず、ただそこに立っている。
「なんとか言いなさいよ。ああもうキモっ!」
 と、滋のぶらりと下げられた左手に気付く。
 滋は蝶子を握ったままだった。
 少女の顔が見る見る歪んでいく。
「……なにそれ人形!? やだもうキモすぎ!!」
 滋は蝶子を握ったまま、ただただそこに立っている。
 滋の様子に構うことなく、少女は自分の怒りだけに集中していた。
「人形もキモいけど、なに、ちょうちょ!」
 一呼吸置いて、滋の無反応を確認すると、余計に眉を怒らせた。
「あんた新聞入れから、その死んだちょうちょが詰まった袋を入れたでしょ! なんでそんなことするの!?」
 滋は動かない。濁った瞳は、少女に焦点さえ合わせてはいない。
「なんの嫌がらせ? あたしが出入りしてるのが、そんなに気に入らないわけ? 女だと思って、あんなんでビビるとでも思った? バッカじゃない! なに? あたしたちがうるさいから、腹いせ? うるさいならうるさいって言えばいいじゃない!」
 少女は滋が何か言い返すかと期待し、暫く口を(つぐ)んで待った。それでも滋は動かない。
 無視されてるように思ったのだろう、少女の怒りが更に爆発した。
「ああもう! ウジウジウジ気持ち悪い! あんた宇治村っていうんでしょ。まんまウジムシじゃない!」

 っチャ!

『お兄様に無礼な口を利くことは、この蝶子が許しません!』
 蝶子を掴んだ滋の腕が、少女に向って突き付けられる。
『お兄様、こんな女の言うことを聞いてはなりません』
 甲高い異様な声が――滋の口から出ていた。
 滋の視線は少女ではなく、蝶々の翅を持つ古い人形に向けられている。
「……は?」
『お兄様におあありなさい!』
 滋の手がぶらぶらと揺れ、それに合わせて蝶々人形のプラスティックの翅がチャっチャと鳴った。
『おあややりなさい!』
 またも甲高い声。チャっチャっと、さっきよりも激しく蝶々人形が揺すぶられる。
『おあやありなさい!』
「は? 何言って……あ、お謝りなさいって言ってんの? 噛んでるの? それ」
 少女の声が震えを帯びる。 
「ふざけんな」
 チョコレート色の髪が、ブワッと膨らんだ。
 飛ぶようにして、履物を脱ぎ棄てた。男物のサンダルだった。
 パッとジャンプ。滋の真正面に立った。
「なにしてんの」
 少女が、滋の手から古い人形を奪い取る。
「蝶子!」 
『お兄様! 助けて!』
 滋が叫んだ。一人で。
 だが取り返そうとはしない。腕を差し伸べたまま静止している。
 少女は奪った人形を無遠慮に見回した。勢いで掴んだが、たちまち後悔した。
 使い古しの消しゴムのような肌。醤油で煮しめたような、元が何色だったか判断に苦しむ裾のほつれた服。どこもかしこも汚らしい。
 黄色い翅と金色の髪だけはきれいだったが、毛そのものは恐ろしく(もつ)れている。顔のペイントも部分部分が薄くなり、唇から右頬にかけて(かび)だろうか、青黒い染みができていた。
 その人形を、滋がやっていたように揺すぶってみた。
 チャチャチャチャ
 (かん)に障る音がした。
 ふと、掴んでいる手にベタつきを覚える。
 少女は――つくづく厭になった。
「汚い」
 呟くと同時に、少女は人形を開いていた窓に向って、力を込めて投げ捨てる。
 棒立ちする滋の頭を(かす)めて、蝶々人形が飛んでいった。

『お兄様ーーーーーーーーーーッ!!!』
 固まったままの恰好で、甲高い声で滋が叫んだ。
 その自分の声で呪縛が解けたかのように、ぐるりと、少女に背を向け走り出す。
 人形が消えた窓に向って。
 部屋は狭い。ほんの何歩も必要ない。
 滋の身体がベランダに出た。
「蝶子ーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 次は地声で叫んだ。滋の足は止まらない。
 ベランダの手摺(てす)りの高さは滋の腰よりも低く――ここは三階だった。
 あっけにとられた少女は、
「……ちょっと、待っ、ヤバいって」
 それでも反射的に手を伸ばした。
滋には、遠く、届かない。
『お兄様ーーーーーーーーーーーーーッ』
 滋の身体は勢いがついたまま、手摺りで回転するようにして、少女の前から消えていった。

 ――――お兄様、と。
 蝶子の声だけが、滋の耳の奥から溢れている。
 くるりと世界が反転し、滋の視界いっぱいに青い空が広がった。そして白い雲。
 ああ――目の端に、きらりと光る……あれは蝶子の翅。

 絵本のような、空。


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