第1話
文字数 1,504文字
きっと、念じることでしか救えないものがある。
「ペンギンが空を飛んでるように見える水族館があるんです」
外は夏至も近いというのに暗くなり始めていた。今日も残業で残ってる男性社員に、私は話しかけた。子どもが待っているから一緒に残業を手伝うことはできないが、お茶を持って行って空気をすこしの間和らげることはできる。
「それ念力か何か?」
「違いますよ。水槽の背景が空なんです」
「なるほど」
男性社員は上司に『君よりもペンギンの方が仕事が早そうだ』と言われたのを気にしていると思ってペンギンの話題にしてみたが、あまり気にされなかったらしい。
「今度行ってみてください。いいところなんですよ」
「そうするよ」
これ以上いても残業の邪魔をするだけだろうか。でも、私はもう一言、
「ペンギンって水中は速いんですよ。びっくりしますよ」
「そうだね」
これで何か変わることはないのかもしれない。私はこれ以上いても仕方がないので帰路につく。帰宅してしまえばそれどころではなくなるから、その間ずっと何かに祈る。
どうか、本当に手遅れになる前に、救いがありますように。いや、救いにいけ!
きっと、念じることでしか救えないものがある。
水族館に来ていた。平日の昼間だからか都会なのに空いている。病院の帰りだったが、特に予定もないので思いついた場所へ電車を乗り継いで来てみた。
同僚の女性に聞いていたペンギンの水槽は、後ろに青空とビルが映る。そこを颯爽とペンギンが泳いでいく。確かにこれは空を飛んでいるように見える。君、実は飛べるんじゃないかとか、地上でも走れるのではないかと錯覚してしまいそうになる。
病院の診断では、鬱病。しばらく休職という形を勧められたが、体は動くのだから誰からも認められないだろう。自分でさえも認められない。それでも働くか辞職するかどちらかだろう。結論を先延ばしにしてぼんやりと端から端へ休み無く泳ぐペンギンを眺める。明け方まで働いていた自分の姿と重なったが、彼らはもっと自由だ。そう思いこむ。
これからどうしようか。特にやりたいことがあるわけではない。思いついたのは最近聞いたペンギンを見に行こうということ。それを眺めて、ただ時間が過ぎるのを忘れようとしていた。
ぼんやりとだが今後のことを考え始める。
仕事を続けるという選択肢はなかった。病院の結果を伝える気にさえならない。
ふとペンギンの泳ぐ姿が、手を振っているように見えてきた。かと思えば、この水族館を教えてくれた同僚の女性の言葉が頭をよぎる。
『ペンギンって水中は速いんですよ。びっくりしますよ』
確かに、君達のスピードにはびっくりだ。何を隠したくてあんなに地上でよちよち歩いているのだい。
思ったのと同時に笑えてくる。周囲に人がいないことをいいことに微笑んでしまう。少しずつ余裕がでてきたのか、思考が広がりだす。
もしかしたら、自分もどこかではもっと自由に生きられるのではと思えるようになってきた。
少なくとも、今日、水族館のことを思い出して来られたのだから、今日という日も有意義で、水族館に来られたのだからこれまでの時間も無駄ではなかったのだ。
まだ時間も金銭面でも余裕があるのだから、やりたかったことを1つずつやってもいい気がした。解決策は、きっとそこから見つけられるはずだ。
端から見れば、希望的観測か、思いこみか。投げやりなのか、開き直りなのか。
しかし、それでも。
不可能を可能に見せられるのであれば、マジックでも錯覚でも何でもいいのだ。
超能力はないけれど、視点を少し変えることはやってみるしかない。
きっと、念じようとしなければ救えないものがある。