第1話

文字数 1,996文字

「ずいぶんキレイな花じゃないか」
日頃から忙しくしている夫が、テーブル上の一輪挿しを眺めて、こう言った。
秋の柔らかな陽の光が、濃い紫色の小さな花々に反射して、目にも鮮やかだ。

私は夫に、カップに注いだブラックコーヒーを渡す。彼は新聞を読みながら、それを受け取りトーストにかぶりついた。
私達は今年結婚25周年、銀婚式を迎える。
子どもを持つことがなかった私たちは、夫婦ふたりで日曜の静かな朝を過ごしているところだ。

「山でも咲いてる花なのよ。昨日お店で見つけて、思わず買っちゃった」
趣味ではじめた生け花教室から持ち帰る、凝った作品とは違う素朴な花のせいだろうか。
「なんていう花だ?」
興味を示した夫が尋ねてきた。
「さぁ?何だったかしら、忘れちゃった」
素知らぬ顔で、私は席を立った。


「あぁ、でもね。花言葉は『栄光』。
野心家のあなたに、ピッタリね」
夫は社内の営業成績もよく、若い頃から出世頭と噂されていた。
「栄光か」
夫は満更でもないという顔をしている。
「花の名前は忘れて、花言葉だけ覚えているなんて、ヘンなやつだな」と笑いながら。

夫からは、私の顔は影になって見えないだろう。
そうね。花の名前を忘れたなんていうのは、それは嘘。
この花は、兜花(カブトバナ)というのよ。すらっとした茎に、紫の花びらが兜の形をして連なって咲いているでしょ。
キンポウゲ科の植物で、山に自生しているというわ。
でもね、この花の本当の名前をはじめて聞いた時、私、びっくりしちゃった。
こんな花が、簡単に手に入るの?って。
生け花の先生が教えてくれたの。
「普通に園芸店で手に入りますよ」ってね。

昔は記念日のたびに、お花を贈ってくれたわね。
大輪の真っ赤な薔薇の花束や、香り高いカサブランカ。
嬉しかったわ。一気にお部屋も心も華やぐもの。本当に懐かしいわ。

短大卒業後、受付嬢として採用された私にすぐ職場で声をかけてきたのが、若かりし日の夫だ。
6つ上の営業マンだった。
同じビルで勤務しながら、密かに3年付き合って、そのままゴールイン。
多くのライバルを出し抜いて、結婚を果たし、長年連れ添っても、私はどこか不安だった。
そう。独身時代から、夫には女の影が絶えなかったのだ。とりわけハンサムという訳でもないのに、人の懐に入り込むのが抜群にうまい。あれは天性のものだろう。
いつか誰かに夫を奪われてしまうかも。
その恐怖は、いつも私をさいなんだ。

子どもの頃から、大きくなった時の夢は「お嫁さん」だった。
女として産まれたからには、結婚して子どもを産まなきゃ。
両親に、そう言われて育ったもの。
花嫁修業をして、どこに出しても恥ずかしくない娘って、両親からも、お墨付きをもらったわ。

職場で声をかけてきた男性の中から、一番将来有望な人を選んだ。
だって幸せになりたいもの。
両親だって喜んでくれたわ。
私達の間に、結局子どもを授かることはなかった。
だけど優秀な夫。立派な家。
みんなが憧れているものを手に入れた。
なのになんで私、こんなに不安なの?


昨日、かつて受付の仕事を共にしていた同期に、久しぶりに呼び出された。
私は寿退職したけれど、彼女はそのまま勤務し続けている。
彼女によると、夫は今、20も年下の若い愛人を作り、社内で噂になっているらしい。わざわざ、私に夫の不貞を吹き込んだ彼女も、かつて夫に憧れていたひとりだったっけ。
私の長年の恐怖が、ついに現実になったという訳だ。


あなたが望むから、可愛げのある物分かりのいい妻になったわ。
美味しい料理を作って、家庭を居心地のいい空間にして。にこやかに笑って、いつも美しさを保ったわ。
でも時々思うの。
私、取り残されている気がする。
こんなに尽くしたのに、あなたは少しも私を安心させてくれない。
私はあなたしか見てこなかったのに、あなたの方では違うのね。

長い結婚生活、これまでも「あなたの浮気に気づいている」と言外にアピールしたり、興信所のパンフレットをこれ見よがしに置いて、牽制したこともあった。

もう、いい加減にして。
もっと私を見て。
もっと私を大事にしてよ。

ねぇ、気になるでしょ。一輪挿しのこのお花。
よく調べて見るといいわ。
世間一般には"トリカブト"と言われているのよ。
昔、この花を使った殺人事件が起こって報道もされたから、名前だけはきっと、あなたもご存じね。
てっぺんから根っこの部分まで、全草に猛毒をもっているというわ。特に危険な匂いがするというわけでもないから、取り扱いには注意しなくちゃ。口にすると、とても苦いらしいの。

あら、いやだ。毒を盛ったりなんかしないわ。あなたにいなくなられると、私、とても困るもの。
だからといって、あなたの妻の座を誰かに明け渡す気はないわ。
あなたが、よそで子どもを作るなんてのも、もってのほか。
そう、だからこれは警告。
気をつけてね。

覚えておいてほしいの。
この花には『復讐』という意味の、他の花言葉もあるのだそうよ。
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