第25話 脱走

文字数 6,899文字






僕には何日かの間、公原さんが見張りとしてついていた。財布やスマートフォンなどは、僕が眠る時に公原さんが持っていってしまい、僕は美鈴さんに“おやすみ”が言えなくなってしまった。

公原さんはいつも電話を取ったり客間で人をもてなしたりしていたし、家に居る全員が食べるものを決めたり、僕たちが使う品物の残りをいつも確認していた。それから、メイドの山田さんや楠さんに僕たちが希望する仕事の指示を出したり、家のお金の管理もしてと、毎日仕事が多かった。だから、一番重要な働き手である公原さんが、夜だけだけど僕一人に掛かり切りになった形だ。さぞやメイドの楠さんや山田さんなどは仕事が増えただろうと思ったし、何より僕は、僕が眠ってからでないと公原さんが部屋を出てくれないので一人で休むことができず、疲れの素になった。

公原さんは僕の部屋の隅に、自室で使っていた一人掛けの古いソファを持って来て、そこにずっと座っていた。そうして本を読んだりお茶を飲んだりしていて、僕にもいつも必ず、「すみませんが、お茶を頂きます。若様もいかがですか」と分けてくれようとしたけど、僕はそれをもらう気には到底なれなかった。公原さんが、今度は父さんではなく、母さんの「手先」になっただけのことだったからだ。



「公原さんは、母さんの考えがおかしいとは思わないんですね」

ある晩僕は、ベッドに入るついでに、公原さんにそう聞いた。公原さんは僕の部屋を出る支度のため、ティーセットを片付けていた。公原さんは、「別段おかしいとは思いません。ですが、若様にそれをご理解頂くためには、時間が必要であることもわかっています」と返事をした。まあ、“僕にとっては辛いことだけど、あとになればわかるだろう”という見当なのだろう。それから公原さんは、「申し訳ございませんが、お預かりするだけですので」と言って、僕の財布とスマートフォンを持っていってしまった。


この家は、やっぱりどこかおかしい。僕は、自分もその家の一員であるはずが、そう感じていた。どうしてだろう。その時はそれが不思議だったけど、仕事で疲れていたので、すぐに眠ってしまった。






ある朝僕は、いつものように仕事に出かけた。美鈴さんにメッセージは送ったけど、まさか今こんな状態だなんて言えないから、どうしても最近は短い朝の挨拶だけになってしまう。彼女はそれにいつも通り返事をしてくれて、僕を励ましてくれる。僕はそれに後押しされて会社に向かった。

その日家に帰ると、母さんは不気味なくらい上機嫌だった。僕をお茶に誘ってくれて、母さんは機嫌よくなんでもないことを喋り続け、そして一緒に食事もした。

「母さん、今日はいいご機嫌ですね」

僕は、食事室でテーブルを挟んで母さんにそう言った。もしかして、こんなに機嫌が良いなら、美鈴さんの話を飲み込んでもらえるんじゃないかと思ったのだ。母さんは「ええ、とても」と答えてくれたけど、そのすぐ後でまた下を向いて、食事に夢中になってしまったように見えた。僕は、母さんを刺激するのは得策ではないと思うと、その先を話すことはできなくなってしまい、結局自室に戻るまで母さんに話しかける隙はなかった。


自分の部屋に戻ると、僕は公原さんが来る前にスマートフォンの電源を入れてみた。母さんの前や、公原さんの前でこんな素振りをすると、大変なことになる。すると、美鈴さんから一件のメッセージがSNSアプリに来ていた。どうしたんだろうと思って開いてみて、僕は驚愕で動けなくなってしまった。


“今日、馨さんのお母様が私の部屋に来ました。私たちは話してみたけど、私はあなたとお別れするほかありません。ごめんなさい。私に悪いことをしたなんて考えないでね。それでは、さようなら。”



…どういうことだこれは?



僕はスマートフォンを握っているのかいないのかわからないように、ショックで感覚が一瞬わからなくなった。


でも、書いてある通りなら、多分母さんは今日美鈴さんの家を訪れて、一方的に僕と別れるように迫ったんだろう。そして、美鈴さんが何を言おうとしても聞いてくれず、「とにかく許せないから別れろ」といったようなことをぴしゃりと叩きつけて、そのまま帰ってきてしまったに違いない。


少しずつ冷静さを取り戻してきた時、僕の中では、怒りだけが少しずつ湧き出していた。なんてことだ。なんてことをしてくれたんだ。


僕はスマートフォンの画面を見つめた。そこには、彼女がなるべく淡々と書こうとしたメッセージの隙間から、悲痛な絶望が見えた。彼女はきっと、泣きながら、自分の命を自分で絶つような思いでこの文章を打っていたに違いない。それがどんなに辛いことか。そう考えていると、僕の踵は知らぬ間に翻り、両足はもう母さんの部屋を目指してずんずん進んでいた。家の中の景色はまるで燃え盛っているように、僕の怒りに染められ、素早く飛び去っていく。途中で公原さんとすれ違ったけど、僕は自分に向かってくる彼を押しのけて、母さんの部屋の扉を開けて叫んだ。

「母さん!」

僕は今、我が母を、仇のような思いで見つめている。血が沸騰している。収めなければ。そう思っているのに、僕は止まらなかった。僕は母さんが腰を掛けている鏡台の前に迫る。

「まあ!何よ、ノックもしないで!それから、もっと静かに呼んでちょうだい!何をそんなに怒っているの?」

母さんはそう喚き立てているけど、僕はもうそんなことはどうでもよかった。怒りを抑えながら、僕は叫ぶ代わりにまず低い唸り声を出した。

「…今日、彼女の家に行ったんですね。そして僕と別れろと言って、彼女を詰ったんでしょう…そうでしょう!」

僕がそう言うと、母さんは一瞬だけ気まずそうに目を伏せたけど、僕の目を見つめ直した母さんの目は、おそろしく冷たかった。

「…なんてことを、なんてことをしてくれたんですか!彼女をひどく傷つけてしまったではないですか!どうして母さんはそんなことをするんです!?そんなに僕が言うことを聞くいい子であることを望むなら、僕はあなたの子供でいるのを拒否します!この家を出て行きます!」

空気が大きく振動して割れ、そして総毛立つような僕の怒りが、母さんの部屋にぶちまけられた。僕は人生で初めて怒鳴り続けたので、息を切らして母さんを睨み続けていた。母さんは、僕が結局我を忘れて怒鳴り散らしたことにも動じないで、立ち上がって僕をどこか哀れむような目で見た。


「…馨、貧乏人はやめておきなさい。大体がその心も貧しく、どこか歪んだものですよ」


「…なんだって…?」


僕は膝から崩れ落ちたい気分だった。「この人と理解し合うのは絶対に無理だ」と、よりにもよって母親について確信してしまったんだ。それに、僕の言うことをわかってもらえないなら、美鈴さんとの結婚なんか、夢のまた夢だ。

僕は、握りしめていた拳を解き、そして後ろを向いた。そこには厳しい目をした公原さんが居た。僕はうつむいて、彼の視線なんかかまわなかった。ましてや、彼の意志なんか、どうでもよかった。


「…一人にして下さい…公原さん、今晩だけは、部屋の外に椅子を置いて下さい…どうせ、どこにも行きやしませんよ…僕には今、泣くことくらいは必要なんです…」


か細くなった僕の声は揺れていた。公原さんはどこか僕のことを可哀想と思ってくれているのか、「そう致しましょう。ご入用のものがございましたら、お声掛け下さい」と言って、僕を連れて部屋の前まで歩いていった。僕はその背中から目を離さず、そして、ポケットの中のスマートフォンを出して大人しく公原さんに渡し自室の扉を閉じると、内鍵の掛け金を久しぶりに下ろした。僕の目はその時、真っ直ぐに前を向き、窓の向こうを見つめていた。





もちろん僕は、そのままベッドに泣き伏したりはしなかった。

まず僕は、なるべく音がしないように気を付けながら部屋の隅のガラス戸棚を開けた。その中に飾られていた、曾お爺様の持ち物だったという銀時計を迷わず掴み取って、テーブルの上に置く。それからコートとマフラー、学生時代に着ていた服と、履かなくなったスニーカーなんかを、手に当たるものから選び取って、急いで身に着ける。最後に、自分の実印を引き出しから取り出し、大学の卒業名簿をダンボール箱から引っ張り出してきて、それらを銀時計と一緒に大きな肩掛け鞄に詰めると、ゆっくりと窓を開けた。


窓の外、ちょうど腕を伸ばして届くくらいの距離に、下に見える庭に生えた、古い杉の木が立っている。それはもちろん頼もしい太さではあったけど、地面まではどう見積もっても6メートルはあった。掴まり切れずに落ちれば、ただでは済まない。僕はじっと杉の木を見つめる。その時、彼女の泣いている顔が思い浮かんだ。


僕は躊躇せず、窓枠を蹴った。


木の傾いでいる大きな音だけは立てないように、やっとの思いで捕まった杉に抱き着きながら、僕はじりじりと降りていって、僕の部屋の真下にある居間の窓を確認した。大丈夫だ。この時間ならもう公原さんはカーテンを閉めて回った後だ。僕は少しだけしめしめと思って、そのままゆっくりゆっくり、音を立てないように庭の土に足をつけた。


そして誰にも見られず、止められることもなく庭を過ぎて、僕は家の門を出てから、質屋か貴金属店を探して走り回った。外は寒いので、マフラーとコートを身に着けてきて良かった。




僕は母さんとの決裂を感じた時から決めていた。誰にも見つからずに家を出て、そして彼女との婚姻届を役所に提出すること。でもそのためには、電車に乗るお金と、それから婚姻届の証人欄に署名してくれる人の協力が必要だった。それをお願いする人はもう決めてある。だからその人に会って、何度でも頼み込むしか方法は無い。




曾お爺様の銀時計は小さな質屋に沈められ、そして僕は少し多めのお金を手にして、そのまま、通っていた大学に電話を掛けた。思った通り、これはもう繋がる時間ではなかった。自宅近くの最寄り駅のロータリーに時間を見に行くと、夜の十時四十分だった。

「訪問するしかないか…」

僕は腹を決めて、時計台の近くにある街頭の下へ行き、マフラーが邪魔しないように巻きなおしてから、卒業名簿を急いでめくった。

「皆川教授、皆川教授、皆川教授…」

僕が独り言を呪文のようにつぶやいて大きな本をめくっているのを、仕事帰りの人たちが邪魔そうに避けていき、不審げな目をちらりと僕に向けた。僕はそんなことにはかまわず、出身大学の卒業名簿で教授たちの欄を指でなぞって、やっと皆川教授の住所を見つけ出した。


僕と美鈴さんが出会ったのは、あの大学だ。そして、彼女は皆川教授を目指してそこへやってきた。言ってみれば、教授が僕たちを引き合わせてくれたんだ。婚姻届の証人になってもらうにはぴったりの人だと思った。

でも、不安もあった。もちろん僕が取ろうとしている方法は、決して良いとは言えない。最初は教授は話を聞いてくれないだろう。でも僕はなんべんでも頼み込むつもりだ。だって僕と彼女は、お互いが必要なのだから。


「…行くぞ」


僕はそのまま、地下鉄ホームへの階段を降りていった。





寒い。時刻もかなり遅い。手袋も出してくるんだったなと思って僕は手をこすり合わせ、今、あるマンションのエントランスでもたもたと足踏みをしていた。


皆川教授の住むマンションは防犯のしっかりした建物らしく、暗証番号を押さなければエントランスの内扉は開かない。どうしよう。僕はいちかばちかで、教授の部屋番号を押して、インターホンの応答を待った。


「…はい?どなたですかな?」


しばらくして、ご老人らしくもったいぶった声が、電気的な響きに包まれて聴こえてきた。僕はちょっと緊張しながら口を開く。


「…園山美鈴さんのことで、至急の用事があって参りました。どうしても教授にお話を伺いたいんです。…彼女の…成績にも、響くかもしれません。ここを、お開け願えませんか」


無音のまま数秒が過ぎた。そして「ふーむ」という小さな声が聴こえてから、黙ったまま、エントランスの扉は開かれた。




教授の部屋の前でまたインターホンを押すと、すぐにドアがわずかだけ開けられた。教授は気難しそうに厳めしい顔で僕をじろじろと眺め、警戒しているようだった。僕は思わずドアを掴んで大きく開き、ぎょっとして教授が身を引いて空いた玄関で、手をついて教授に頭を下げた。


「先生!僕には時間がないのです!端的に申します!僕、上田馨と、園山美鈴さんの婚姻届けの証人欄に!僕の方の証人としてサインをして下さい!どうぞお願いします!」


頭を下げたまま、十秒ほどが経ち、僕は叫んだばかりの興奮が少しずつ治まってきた。すると、頭の上から教授の声が降ってくる。

「頭を上げなさい」

「了承して下さるんですか!?」

僕が顔を上げて教授を見ると、教授は面倒そうに首を振り、「とにかく、入りなさい。お茶くらいいれよう」と言った。




教授はいつも使っているらしい書き机のリクライニングチェアに腰掛けて、片足だけを床につけ、その足をくいくいと左右に振って、椅子を揺らしていた。僕は、温かいお茶をティーカップに淹れてもらって、書き机の前にあるソファに座らせてもらっていた。教授はお茶をひと口飲むと、少し優しく目を細め、喋り出す。

「…園山君は、優秀な生徒だ。学部時代には、いつも興味深いレポートを書き送ってきたよ。…院に入ってからの彼女の成長は、目を見張るものがある。“後生畏るべし”と言ってもいい。それが彼女にふさわしい評価だろう」

そこで教授はぴりっと厳しい顔に戻って、僕を半目で睨みつける。僕はそれを見て、縮み上がるようだった。

「だがね、私は君のように急に部屋に飛び込んできて、周りの迷惑も構わず叫び回るような者は知らんし、そんな人間の結婚の証人などにはならん。第一、なぜ私なんだね?ご両親のどちらかに頼みなさい」

僕はそこで頭を整理するために少し黙ったけど、なるべくすぐにと、喋り始めた。こうしている間にも、家族が僕の居ないことに気づいて僕を探しているかもしれない。ここに居たら見つからないかもしれないけど、美鈴さんの家に母さんや公原さんが向かってしまったら、僕が考えたことはおじゃんになってしまう。

「…大声を出したことは謝ります。ですが…僕と園山さんは結婚をしようとしましたが、僕の両親…特に母親から反対され、家に閉じ込められていたところを、抜け出してきたのです。両親には頼めません。残念ながら、僕には縁の深い友人もいません…。両親が反対しているなら、会社の人間も証人になんてなってくれないでしょう…。それから…園山さんが大学に入学して僕と出会うことになったのは、そこに彼女が中学の頃から憧れていた、「時間は無限か?」という哲学書の著者だった、教授、あなたがいらっしゃったからです。ですから、誰にも証人になってもらえないなら、あなたに是非ともお願いしたいのです!どうか…どうかお願い致します!僕にできることは全部やりました!家の仕事も立て直して、母にも彼女のことを再三話して聞かせました!でも…でも、両親の心だけが変えられませんでした!」

僕はまただんだんと熱してしまい、初対面の教授の前で思わず泣いてしまった。教授は僕の言ったことを聞いてしばらく天井を睨んでいたけど、もう一度僕に目を戻す。

「…事情はわかった。だが君、両親に反対されたままの結婚は、酷なほど厳しいものだぞ。その結婚が、彼女を、美鈴君を追い詰めないとも限らん…」

僕はそこで思わず教授の言葉に割り込んだ。

「僕の手で、彼女を幸せにしてみせます」

教授は額を片手で押さえて、しばらく目をつぶっていた。しかしゆっくりと大きく息を吐くと、お茶のカップをソーサーへ置く。

「結構。では行こうか。美鈴君の証人は彼女の母親だね?そうすると、兵庫までの長旅になる。旅費は?」

教授はあっさりとそう言ってくれた。僕は胸が膨らんでいく気持ちだった。

「…あ、あります!あります!ありがとうございます!教授!ありがとうございます!」

「毎度毎度喚かんでくれ、うるさい男だな。」


僕たちはコートやマフラーを手に取って支度をし、教授の家を出てまずは美鈴さんの家に向かった。

それにしても、教授は美鈴さんの故郷の場所まで知っていた。僕も付き合い始めて少ししてから、「お母さんは今は、元々住んでいた兵庫に居て」と聴いたことがある。だから、僕の方からそのことを話してそこまで付き合ってくれるように頼むつもりだったのに、教授はもうそれも織り込み済みで、やる気になってくれたのだ。さすがは大学教授だ。でもそう思うと、僕は教授の明日の仕事のことが気になった。

「教授、そういえば明日のお仕事の方はよろしいんですか?」

「明日は何もないよ。私は暇な教授でね。家で研究を進めようと思っていた」

「あ、すみません…」

「なに、たまにはこんなことがないと、人の一生とは言えんしな」


教授は何気なくそう言って少しだけ若返ったような顔をして、僕たちは美鈴さんの家へと向かう電車に乗った。






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