7.NUSエクステンション2006③:下課了、日本同学

文字数 2,742文字

シンガポールの国花は蘭です

マユミさんのシェアメイト、どうやらオーナーの親戚らしいのですが、シンガポール人のリサは、明るくて気立ての良い女の子です。レストランのアルバイトで朝から晩まで忙しい時間をぬっては、私たちの中国語の練習に付き合ってくれたり、一緒にご飯を食べたり、遊びに誘ってくれたりしました。HDBのちょっと殺風景なダイニングに、アルバイト帰りに買ってきたのであろう、花を飾っていたりします。そのリサが、ボータニック・ガーデン良いところだよ、というので、クラスの友達たちとで出かけようということになったのですが。

「男性陣はみんな、忙しいみたいよ」

NUSエクステンション普通語科で、出身国別の学生数を見ると、圧倒的に日本人が多いのです。しかしながら、女性は自費や交換留学である場合が多いのに対し、男性は企業や地方自治体からの派遣がほとんどで業務に忙しく、一緒に出かけられる機会はあまり有りません。タカさんはファミリー・ビジネスの地方企業から、シンガポールに支社を開設するための先遣としてやってきた次期社長(!)らしいのですが、飄々としていて面白い人でした。そういうこともあるのね、日本の中小企業ってアクティブなんだなあ、と感心したことを覚えています。

「ユミさんとアキさんにも声掛けたんだけど、ユミさんはちょっと無理かも…アキさんは英語科の友達と約束が有るんだって」

ユミさんは私にアルバイトを紹介してくれた恩人です。一つ上のレベルのクラスに在籍しており、中国語も達者、アルバイト先ではサブ・マネージャーのような立場にあって忙しく、週末は家で過ごして好きなネイルをしている、と言っていたので、あまり邪魔したくありません。私より半年遅れてバレスチアの一室に越してきた日本人のアキさんは、NUSエクステンションの英語科に通っています。例のキッチン脇の半ベランダで時々タバコを吸っている、どこかミステリアスな日本人女性。

「ミキさんとカオリちゃんは来られるって。あとジェイムズ」

カオリちゃんは大学同士が姉妹校らしく、一年間こちらに留学している現役大学生。もう一人ミサキちゃんも同じ大学から来ているのだけれど、最近彼氏ができたらしいので、多分週末は空いていないでしょうね、と電話口で頷き合う。現役大学生の若さと順応性と、吸収の速さってやっぱり凄い。

さて、私はマユミさんとそうやって遊びにいったり、一緒にご飯を作って食べたりする機会が多かったのでした。マユミさんは、学生時代にアメリカ留学経験が有って英語も流暢、大企業を辞してシンガポールへ中国語を学びに来たキャリアウーマンで、社交的で物知りで料理も上手、という非の打ちどころの無い女性なのでした。(そしてジェイ・チョウの大ファン。)私はマユミさんから、海外で一人暮らしをするためのいろいろな技術を学びました。コミュニケーションツールがどれほど大事なのかとか、使い勝手の良いお店の見付け方とか、国や文化の違う友達との付き合い方とか、お手頃パーティ料理のレシピとか、ストレス解消法とか、一見勉強とは関係無さそうなのですが、海外に居続けるためにはとても大切なことです。

シンガポール・ボータニック・ガーデンは、英国植民地であった1859年に建設された由緒正しい植物園なのですが、ゆったりと配された水辺と熱帯の植物が上品でいて大らかな、不思議な雰囲気を醸し出しています。一角はナショナル・オーキッド・ガーデンになっていて賑やかでも、広大な園内は鳥の声がこだまするくらいのどか。のっぽなヤシの木々が風に揺れて涼しげな影をつくり、円を描く葉先の可愛らしいシダが水滴をまとって、色鮮やかで甘く香る花々の向こう、柔らかな下草を踏んでいくと、白いガゼボがちょこんと行儀よく淡い日差しの中に立っている、それが私のシンガポール・ボータニック・ガーデンの印象だったので、Gardens by the Bay(スーパーグローブツリー、クラゲみたいなライトアップのあるところ)ができた時には驚きました…

「ジェイムズはなんでシンガポールに来ようと思ったの」

アメリカ人のジェイムズは質問されて、青い目をキョロリとこちらへ向ける。私は英語が苦手なので、進んで話すことはあまり無かったのですが、ジェイムズとマユミさんはアメリカの話で息が合うらしく親友です。一緒に行動する機会は結構有ったのでした。マイペースでお喋りだけどちょっと捻くれているジェイムズは、私のおっかなびっくりな英語にも嫌な顔をせず、蔦の這う湿った歩道を辿りながら気楽に答えてくれます。

「北京に行くか迷ったんだけど、シンガポールの方が空気が綺麗そうだったから」

旦那さんが外交官のボリビア人クラスメイト、アンナも似たようなことを言っていた気がします。彼等にとって、公害・環境汚染の状況は、移住先を決定するのに重要なことなのでした。でも考えてみれば、私も“住みやすさ”でシンガポールを選んだのです。便利さ、だけでなく、清潔さやスマートさも大きな要因でした。産業が限られているため工場が沢山建っている訳ではないし、車が走り回るほど広くないし、汚水処理やゴミ処理はテング熱封じ込めに欠かせないので政府が頑張っているだろうし、観光基盤整備には余念が無いし、常に海風が吹いている、まるでアニメ映画に出てくる近未来の楽園のようなシンガポール。

「ここには温室じゃなくて、冷室があるの」

ミキさんが指差す先には、青ざめたようなガラス張りの建物が見えます。扉を開けると、ひやりとした空気が半袖の肌を撫ぜていく。熱帯気候下では生育できない植物を集めている、世界でも数少ない公開植物冷室。ヨーロッパから移植されたのであろう花々を見ながら通路に沿って進み、階段を上がって中階から樹木のエリアを眺める。

「桜だよ。日本から贈られたんだって」

桜。他の木々に囲まれるように、ひょろりと立っている見慣れた形の深緑の葉を携えた一本の木。言われなければ多分気付かなかったそれを、みんな黙って見下ろしている。いたたまれないような、いじましいような。冷室から出たら生きていけないような場所に、どうしてきちゃったのかしら。大事にはされているけれど、同じ仲間もいないし、一斉に咲いて、故郷を飾ることもできない。先に任期が終わって帰国したミヤジさんにも訊かれましたよね、「いつまでも世界放浪してていいの」って。それでもね、この桜や、リサの飾ってくれる花みたいに、どこかの誰かをちょっとだけ元気づけることはできるんです。桜を見て、日本を想うのは、日本人だけで、それが私たちの拠りどころなのです。世界の知らない街角や木陰にも、こうやってひっそりと、日本人は生きているんです。
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