第16話 今のはカウントしていいからね

文字数 3,125文字

 朝。

 リビングのソファーで僕は目覚める。何だかキッチンのほうが騒がしい。

 かけていた毛布を外し、ぼんやりと映っていないテレビを見る。

 頭の中で朝の情報番組を流してみた。

 いつものメンバーに今回のゲスト。

 やがて料理のコーナーになりショートボブの少女が現れる。

 ……って、それじゃ江崎さんか。

 いかんいかん。

 僕は空想の中の放送を中断した。

「そーらー」

 今にも泣き出しそうな情けない声を発しながらみるくがやって来た。学校指定のプリーツスカートにブラウス、そして自前のエプロンといった格好だ。

 みるくが動く度にツインテールの髪が揺れる。

「朝っぱらからうるさいな」
「あ、起きてる」

 さも意外そうにみるくが目を大きくした。

 これはずいぶんと失礼な奴だな。

 僕だって起こされなくても起きられるのに。

「で、どうした? そんな『サラダを食べていたらハサミムシが入っていました』みたいな顔して」
「その例え気持ち悪いからやめて」
「実際にあったことなんだが」
「いや、本当に気持ち悪いから」

 みるくが心底嫌そうな顔をする。

 うん。

 僕もあのときはものすごく嫌な思いをしたよ。

「で、どうして朝から泣き出しそうなんだ?」
「……だって」

 みるくがキッチンの方を向く。

「私、さすがにあれは無理」
「はぁ?」
「あずきと江崎さんが……」
「ああ、そういうことか。皆まで言わなくてもいいぞ」

 つーか、あずきも起きているのか。

 それにしても、よくあずきと江崎さんが大人しく二人で料理できるな。

「あの二人が揉めずにキッチンに立てるなんて思わなかったよ」
「……えっとね」

 おや?

 みるくが言いにくそうにしているのだが。

 やっぱり何かあるのか?

「何だ、はっきり言ってくれ」
「……あずきってちょっと大食いじゃない」

 ちょっとではないけどな。

 あれはフードファイターになれるぞ。

 ん?

 この流れだとあれか?

 江崎さんもなのか?

 僕が寝ている間にあずきと江崎さんのフードファイトが始まっていたのか?

「もしかして江崎さんも大食い?」
「そんなわけないでしょ」

 みるくが呆れてため息をついた。

「いや、だってお前の口ぶりだと……」
「朝ご飯なくてもいい?」
「はい?」

 いきなりの言葉に頓狂な声になってしまう。

「朝抜きって? あの二人が作ってるんだろ?」
「……」

 おいおいおいおい。

 返事しろよ。

「みるく?」
「……」

 彼女が目をそらす。

 僕は二人のもとに行くことにした。

 ★★★

 あずきと江崎さんはキッチンで睨み合っていた。

 江崎さんはラップをかぶせた皿を守るように抱えている。どうやら玉子焼きのようだ。

 あずきは片手に箸を持ち、今にも飛びかからん形相でうなっている。まるでお腹を空かせた野生動物だ。

 よく見ると二人のまわりには食べ終えた食器や作りかけの料理がある。

「あ、羽田くん」

 江崎さんが僕に気づいた。

「ごめんなさい、朝食を作っていたのですがこの人がほとんど食べてしまいまして……」
「あたし悪くないもん」

 あずきが言った。

「空のご飯はあたしかお姉ちゃんが作るのに、勝手に上がり込んだ人が作るなんて許されないもん。そんな料理、空には食べさせられないもん」
「何をおかしなこと言ってるんですか。私がここに来た以上、羽田くんの食事は私が用意するに決まってるじゃないですか」
「決まってないもん。空はあなたみたいなよく知らない人の料理なんて食べないもん」
「私、、羽田くんの彼女なんですよ。その私が彼の食事の支度をするのは当然じゃないですか」
「当然じゃないし、あなた彼女なんかじゃないもん」
「彼女なんです」
「嘘つき!」
「嘘なんてついてません!」

 二人がまた睨み合い「うーっ」とうなる。

 わぉ。

 これちょっとしたバトルだな。

 つーか、江崎さんの料理を食べまくったのか。

 さすがあずきというか、こいつ本気でフードファイトに出たほうがいいぞ。

 ……などと考えているとみるくが脇腹をつついた。

「ぼうっとしてないで何とかしたら?」
「何とかって……どうしろと?」
「二人を止めてよ。そもそも空がはっきりしないから江崎さんがおかしなことしてるんでしょ」
「いや、たぶん僕が何を言ってもダメだったと思うぞ」
「かもしれないけど」

 そんなやりとりをしている間にあずきが江崎さんの持つ皿を奪おうと手を伸ばす。

 すんでのところで江崎さんがその手をかわした。

 再度睨み合い。

「「うーっ!」」

 あーこれどこかで見たような……。

 そうだ、テレビの動物番組だ。

 二匹の猛獣が生肉を取り合っている姿だ。

 江崎さんが怒鳴った。

「この玉子焼きは羽田くんのです!」

 負けじとあずきが吠える。

「そんなの空には食べさせないもん! おかしな物を食べさせるわけにはいかないもん!」
「うーっ!」
「うーっ!」

 うん。

 もうあの玉子焼きはいいや。

「なぁ、みるく」
「ん? 何?」

 僕はいがみ合う二人を見ながら提案した。

「コンビニで済ませるか」

 ★★★

 身支度を済ませると僕たちは部屋を出た。あずきと江崎さんがかなり険悪だけどそんなことを気にしているヒマはない。

 ご近所さんに女の子三人をはべらせていると思われたくなかったので、誰とも会わずにエレベーターに乗れたのはラッキーだった。

 それにしてもどうして三人ともエレベーターの中で喋らなくなるのだろう。

 途中の階でエレベーターが止まった。

 ドアが開く。

「あ」

 明治さんだ。

 江崎さんからとてつもない負のオーラが放出されている気がするのはたぶん気のせいだよな。

「おはよう」

 少し緊張した様子で挨拶しながら明治さんが乗ってくる。女性陣のうち快く返事を返したのはみるくだけだ。

「おはよう、杏子ちゃん」

 僕も声をかけた。

「おはよう明治さん。昨夜はあずきが迷惑かけたね」

 こ、言葉遣いはこんなんでいいかな?

 彼女が「杏ちゃん」だからといって態度を変えてはいけないとわかってはいるものの、やっぱり難しいなぁ。

 鋭意努力だ。

「もう気にしてないからいいわよ」

 そう言うと明治さんは僕の前で立ち止まった。

「……」

 見つめられる。

 え?

 何?

「……」
「あ、えーと、明治さん?」
「あんた、よく見るとまあまあね」
「はい?」

 何だかいきなり失礼なこと言われた気がするんだけど。

 江崎さんが抗議した。

「羽田くんはまあまあなんかじゃありません。素敵な人です」

 ちらと江崎さんを見ただけで明治さんは無視する。

「……あんた、ちょっと目をつぶりなさい」
「え?」

 僕が戸惑っていると、黒縁メガネの奥の目が鋭くなった。

「つぶりなさいよ」
「は、はい」

 逆らったらダメだと心の警備保障のみなさんが忠告しているので従うことにした。

 僕は目を閉じる。

 みるくとは違う甘い匂いが近づき、そっと何かが僕の唇に触れた。

 温かく柔らかい。

 短い時間だったけど、これって……。

 僕が目を開けると彼女は身を引いた。ほんのりと顔を朱に染めている。

 あずきが口をあんぐりとさせた。

 江崎さんの負のオーラが増大する。

「なっなっなっなっなっなっ……」

 みるく、魂が抜けなかっただけまだ余裕はあるかな?

 けど、どうして?

「昨夜思ったのよ」

 と、明治さん。

「あんたのためにみーちゃんの妹があんなに懇願するって何だかすごいなぁって。そんなに慕われるあんたってどんな奴か興味がわいたというか……あ、今のはカウントしていいからね」

 カウントしていいからって……。

 つい自分の唇に手が伸びてしまう。

 え?

 いや、嫌ってわけじゃないけど。

 ……わけじゃないけど。

 エレベーターが一階に到着し、ドアが開く。

 早足で明治さんが降りた。僕たちも慌てて後に続く。

 何かが始まろうとしている。

 そんな予感が頭をよぎった。
 
 
 
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