第1話
文字数 1,794文字
「管理人さん、あれ、何だったんでしょうか?」
力なく壁にもたれかかった男は、惚けた顔で私に問いかけてきた。
それを知りたいのは私の方だ。
男は先刻まで、自室のベランダの格子にしがみつき、絶叫していたのだ。
通報を受けた警官に頼まれて部屋の鍵を開け、ふたりがかりでどうにか室内に引き戻した途端、男は糸が切れたように脱力したのだ。
「何が、あったんですか?」
若い警官が、穏やかな口調で訪ねた。
「……今日は、直出直帰の仕事でした」
記憶を辿っているのか、男の視線は私たちの頭上を、ふらふらと落ち着きなく追っていた。
「こんな暑い日ですから、早めに仕事を片付けようと先方とも意気投合して、昼前にはあがることが出来たんです。それで妻にLINEで、昼食にそうめんを作っておいてくれと頼んだんですよ」
男の言葉に頷きながら、警官は室内を見渡した。
「駅からここまでたいした距離じゃないですが、焦げそうな日差しでした。妻がドアを開けてくれたときに漏れた、エアコンの効いた室内の空気がどれだけ気持ちよかったか」
そう言いながら、男は額の汗を拭った。
「シャワーで汗を流して出てくると、テーブルの上にそうめんの入ったボウルと缶ビールが出ていて、そりゃあ嬉しかったです。まさに生き返る、ってやつです」
男の視線に釣られて、私と警官はリビングのガラステーブルを見た。
「ビールとそうめんを流し込む俺に妻が、今日はスーパーで誰々に会った、美味しそうな魚があった、みたいな話をしてくるんですよ。いつものことですが、こういうのが幸せっていうんだな、なんて、妙に楽しくて」
そこまで言うと、男の表情が曇った。
「ですが急に、妻の言葉が変な感じ聞こえるようになって」
「変な感じ、ですか?」
「酔いが急に回ったのか、それとも熱中症にでもなったかと焦りました。妻は楽しそうに話を続けているんですが、その話のところどころが、違う言葉に聞こえたんです」
「英語とか、どもりとか、ですか?」
「最初はそうかとも思ったんですが、どうも違うんですよ。あの、ブロックノイズってあるじゃないですか。テレビの映像が、雨かなんかで信号が乱れるやつ。あれみたいに、歪むんです」
男の口調が徐々に荒く、速くなる。
「焦りつつ妻の顔を見ると、顔は私の方を向いているんですが、目がどっちも、俺の方を見ていなかった」
「どっちも?」
その表現が引っかかった。
「左右別々に、せわしなく見回してるんですよ。ぎゅんぎゅんと。話のゆがみ方もどんどん酷くなって。慌てて妻の肩を掴んだら、部屋が真っ赤になって」
男は何故か、笑みを浮かべていた。
「気がついたらここにこうしていて、おふたりがおられて。あれ、何だったんでしょうか?」
「……楽になさってください。お辛ければ横になってください。管理人さん、ちょっといいですか?」
警官は立ち上がり、私を手招きした。
「……ご本人も仰っていたように、熱中症か脳梗塞の可能性が高いです。救急の手配は私の方からします。で、あの方ですが」
「ええ。単身者です」
入居時から男はひとりだった。妻どころか同棲者も異性の出入りもない。
ガラステーブルの上に唯一置かれていたリモコンケースから、私はエアコンのリモコンを取り出してスイッチを入れた。
やや間を置いて、エアコンからひんやりとした風が出てくる。
「そうそう、帰ってきたときにも、こんな風にひんやりとした風が」
相変わらず笑みを浮かべたままの男が、誰に言うでもなく呟く。
「ご主人、喋らない方が」
「ご主人ってずいぶん古い言い方ですよね。あれ? でもそう■、い■だとどういう言い■たに■■のかな?」
男の言葉が聞き取りづらい。舌が回っていないのだろうか。
状況を察し、無線に呼びかける警官の口調が強くなる。私は冷蔵庫の中に経口補水液かドリンクでもないかと探したが、なにも入っていなかった。
「妻は俺のこ■■、■ーくんってよ■■です■。家だけ■ら■■■す■■、そ■で■■な■■■た■■■■はず■■■■■■■」
私が流しでコップに水をくんでいる間も、男は不明瞭な言葉を発し続ける。
「喋らないでください! さあ、ゆっくり水を飲んで」
男に声をかけながら、私は男にコップを差し出し、肩を叩いた。
その瞬間、部屋が真っ赤になった。
力なく壁にもたれかかった男は、惚けた顔で私に問いかけてきた。
それを知りたいのは私の方だ。
男は先刻まで、自室のベランダの格子にしがみつき、絶叫していたのだ。
通報を受けた警官に頼まれて部屋の鍵を開け、ふたりがかりでどうにか室内に引き戻した途端、男は糸が切れたように脱力したのだ。
「何が、あったんですか?」
若い警官が、穏やかな口調で訪ねた。
「……今日は、直出直帰の仕事でした」
記憶を辿っているのか、男の視線は私たちの頭上を、ふらふらと落ち着きなく追っていた。
「こんな暑い日ですから、早めに仕事を片付けようと先方とも意気投合して、昼前にはあがることが出来たんです。それで妻にLINEで、昼食にそうめんを作っておいてくれと頼んだんですよ」
男の言葉に頷きながら、警官は室内を見渡した。
「駅からここまでたいした距離じゃないですが、焦げそうな日差しでした。妻がドアを開けてくれたときに漏れた、エアコンの効いた室内の空気がどれだけ気持ちよかったか」
そう言いながら、男は額の汗を拭った。
「シャワーで汗を流して出てくると、テーブルの上にそうめんの入ったボウルと缶ビールが出ていて、そりゃあ嬉しかったです。まさに生き返る、ってやつです」
男の視線に釣られて、私と警官はリビングのガラステーブルを見た。
「ビールとそうめんを流し込む俺に妻が、今日はスーパーで誰々に会った、美味しそうな魚があった、みたいな話をしてくるんですよ。いつものことですが、こういうのが幸せっていうんだな、なんて、妙に楽しくて」
そこまで言うと、男の表情が曇った。
「ですが急に、妻の言葉が変な感じ聞こえるようになって」
「変な感じ、ですか?」
「酔いが急に回ったのか、それとも熱中症にでもなったかと焦りました。妻は楽しそうに話を続けているんですが、その話のところどころが、違う言葉に聞こえたんです」
「英語とか、どもりとか、ですか?」
「最初はそうかとも思ったんですが、どうも違うんですよ。あの、ブロックノイズってあるじゃないですか。テレビの映像が、雨かなんかで信号が乱れるやつ。あれみたいに、歪むんです」
男の口調が徐々に荒く、速くなる。
「焦りつつ妻の顔を見ると、顔は私の方を向いているんですが、目がどっちも、俺の方を見ていなかった」
「どっちも?」
その表現が引っかかった。
「左右別々に、せわしなく見回してるんですよ。ぎゅんぎゅんと。話のゆがみ方もどんどん酷くなって。慌てて妻の肩を掴んだら、部屋が真っ赤になって」
男は何故か、笑みを浮かべていた。
「気がついたらここにこうしていて、おふたりがおられて。あれ、何だったんでしょうか?」
「……楽になさってください。お辛ければ横になってください。管理人さん、ちょっといいですか?」
警官は立ち上がり、私を手招きした。
「……ご本人も仰っていたように、熱中症か脳梗塞の可能性が高いです。救急の手配は私の方からします。で、あの方ですが」
「ええ。単身者です」
入居時から男はひとりだった。妻どころか同棲者も異性の出入りもない。
ガラステーブルの上に唯一置かれていたリモコンケースから、私はエアコンのリモコンを取り出してスイッチを入れた。
やや間を置いて、エアコンからひんやりとした風が出てくる。
「そうそう、帰ってきたときにも、こんな風にひんやりとした風が」
相変わらず笑みを浮かべたままの男が、誰に言うでもなく呟く。
「ご主人、喋らない方が」
「ご主人ってずいぶん古い言い方ですよね。あれ? でもそう■、い■だとどういう言い■たに■■のかな?」
男の言葉が聞き取りづらい。舌が回っていないのだろうか。
状況を察し、無線に呼びかける警官の口調が強くなる。私は冷蔵庫の中に経口補水液かドリンクでもないかと探したが、なにも入っていなかった。
「妻は俺のこ■■、■ーくんってよ■■です■。家だけ■ら■■■す■■、そ■で■■な■■■た■■■■はず■■■■■■■」
私が流しでコップに水をくんでいる間も、男は不明瞭な言葉を発し続ける。
「喋らないでください! さあ、ゆっくり水を飲んで」
男に声をかけながら、私は男にコップを差し出し、肩を叩いた。
その瞬間、部屋が真っ赤になった。