第2話
文字数 8,659文字
2
もうすぐ夏が来る。
俺たちが出逢って、一緒に暮らし始めて2年。恋人同士になって1年。
俺はいつも通りそっと起きだし、シャワーを浴び、諒の朝メシを作った。
着替えて、まだ寝ている諒にキスをして、出勤する。部屋を出る瞬間、燃えるごみの日なのを思い出した。間一髪セーフ。
俺たちは、諒の部屋で暮らし始めてから、なるべくエレベーターを使わないという謎の約束をしていた。ごみを忘れると5階まで取りに戻らなきゃならない。まぁまぁキツい。
無事可燃ごみを出し、自転車にまたがりペダルを強く踏む。今朝は少し汗ばむくらいの気温。夏はすぐそこだ。
俺たちが二人一緒にゲリラ豪雨に打たれた翌日、諒は俺に一緒に暮らそうと言った。初対面で諒に一目惚れしていた俺は、金がないのも手伝って、二つ返事でOKした。
一緒に暮らす理由は、諒の服を選ぶためだった。でも俺は、あわよくば的な図々しいことも考えていた。
でも俺が期待したのにも理由があって。そもそも人は、真夜中にずぶ濡れで出逢った見ず知らずの男に、一緒に暮らそうなんて言うものだろうか?
最初はあまり感じなかったが、同居生活が続くにつれ、もしかして諒も俺を?という勘違いがどんどん膨らみ、取り返しがつかなくなるほど俺たちの距離は近くなった。と、俺は感じていた。
諒は、俺の店にも興味を持った。
もうすぐなくなるというのに、俺の店に足を運び、こんなふうにしてみるのはどう?と、俺が思いつかないことを言う。
俺は諒の提案が面白いと思った。芸術家ってこんな発想をするのか思う一方で、その目の付け所と、俺をねじ伏せんばかりの情熱。
店がこんな状態でなかったら、改装してもいいと俺も思い始めていた。でも手持ちの金で家賃が払えるのもあと1回くらい。あとは借金して店をたたまなければならないだろう。退去の申請をして、店の中を片付け始めろと、現実は言っていた。
「侑、ちょっといい?」
店を閉めるにあたり、何からすればいいのかリストを作っていると、諒に呼ばれた。
ダラダラ部屋(居間)のソファの前のテーブルに、お茶が用意してあった。
「どうした?なんかあった?」
「うん。ね、怒らないって約束して?」
諒は知っているのか。あの上目遣いで俺に言う。ハイハイ、その顔には怒れません。
俺たちはソファに並んで座った。
「侑のお店、もう少し頑張ってみない?」
「どゆこと?」
「今までね、いろいろ話し合ったでしょ?それ取り入れて、ちょっと店内いじって、コンセプト?方向性くっきりさせて。もう一回」
俺は諒の顔をじっと見つめた。
「ちょっとね、何かが違ってただけで。段違いのボタンみたいに。それが直ったら侑のお店は動き始めるって思う。だから」
諒が銀行の名前の入った封筒を、俺の前に置いた。
「もう一回、チャレンジしてみない?僕もできることは手伝う」
俺の目が、諒と、金の入った封筒をせわしなく行き来する。黄檗色の星がチカチカする。
「いや、俺は」
「いやじゃなくて。もったいない、いまやめちゃうなんて」
そこからしばらく、金を借りる借りないの押し問答をして、結局俺が折れた。俺が諒を負かす日は来るのか?この惚れた弱みは永遠に続く気配がする。
どちらにしても、店は閉めるつもりでこの何日か休んでいる。どうせだからこのまましばらく休んで、店内を改装し、再開することで話はついた。
「諒、頼みがある」
俺は、諒に顔を向けて言った。
「諒が、店のオーナーになってくれ」
「へ?無理無理~僕こそ何も知らないんだし」
「いいんだよ、知らなくて。この金を借りるなら、諒にオーナーになって欲しい」
俺たちは無言で見つめ合った。
こんな時、俺には二人の間に鴇色が見えたりする。そして諒も、俺と同じ気持ちなんじゃないかと期待してしまう。だって、こんなふうに見つめ合うものか?男同士って。
「お金以外にも理由があるみたいだけど?」
諒はボンヤリしているクセに、たまに鋭い。
「俺って自分のためにはあまり頑張れない生き物っぽいんだよな」
「そうなの?」
「ああ、だから誰かのため、もっと言えば諒のためにお店やったら、もっと頑張れるんじゃないかと思ってさ」
「僕のため?ホントに?」
「あー、とか言ったら迷惑?重いか?」
「全然、逆に嬉しい~」
と叫んで、諒は俺に抱きついた。俺の心臓が口から飛び出して、そこら辺を駆けずり回りそうだ。
「バカ、よせよ」
と言いつつ、やめて欲しくない、なんなら抱き返したいとか妄想する俺。ちょっと、いやかなりキモいだろ。
「こんなにイメチェンするなら、店の名前も変えるかな?」
顎に手を当てて俺が言うと、
「だめ。絶対。僕がオーナーになるなら、屋号はいまのcolorsのままだよ」
とやり返された。諒はこの店の名前を気に入っているらしかった。でもこのリニューアルで、colorsはしっくりくるのか?多少不安。
諒は資金を貸してくれただけでなく、知り合いの内装屋の人も紹介してくれた。ちょうど仕事の切れ目で体が空いているからと、すぐ来てくれることになった。めちゃくちゃありがたかった。
そこから一週間で店の中をいじってもらい、俺は新しい店に置く商品を仕入れるために、あちこち出かけ倒した。朝から晩まで。時には泊まりで。
だから気づかなかった。諒が、昼夜問わずアトリエにこもっていたことに。
俺も寝不足と移動でクタクタだったけど、諒はたぶん、もっと寝不足だったに違いない。
6日で工事が終わり、4日で商品を入れ替えた。10日でリニューアルオープンにこぎ付けられたのは、諒の人脈と資金のおかげだ。
俺は正直、自分の中にこんな行動力や情熱がまだ残っているとは思わなかった。それを引き出したのも、もちろん諒だった。
日付が変わり、準備が終わったオープン当日の店内を、俺は見回した。ちょっと泣きそうだった。
「侑、おめでとう」
諒が、大きなキャンバスを抱えて、でも音を立てずに入ってきて俺を驚かせた。
「やめろよ、チビっちゃうだろーが」
俺は笑って言ったが、諒の顔色が月白みたいな色をしていて、胃に嫌な痛みが走った。
「まだ乾いてないんだけど、これ、開店祝」
「わ、描いてくれたのかよ」
俺は受け取って、カウンターに乗せた。
大きなカンバスに、青空に向けて伸びる大きな、けれどなぜかねじれた虹と、真昼の白い月が描かれていた。
「ありがとう、諒。すっげー嬉しい」
「間に合ってよかったー」
と言って、諒はその場に倒れた。
俺は悲鳴を飲み込んで、救急車を呼ぼうと電話に手を伸ばした。のだが。倒れた諒がものすごいイビキをかき始めて……俺はホッとして諒のそばに座り込んだ。
何日、ロクに寝てなかったんだろう。
それを考えたら、自然と涙があふれて止まらなくなったのを、昨日のことのように覚えている。いや覚えているというより、いつも心の中に、その記憶は赤橙色を灯している。
店に着いて、いつも通り開店準備をする。
準備を終えて、俺は諒の絵を見た。まるでその絵が諒本人のように、俺には愛おしい。
絵の月ににっこり笑い、俺は店を開けた。
一緒に暮らし始めて1年が経った夏。
出逢った日記念と称して俺たちは夏休みを取り、二人で海辺の温泉宿に来ていた。
俺たちの部屋からそれほど遠くないところで、二泊三日。コンセプトは寝て、食って、遊ぶだけ。だからレンタカーも諒が運転反対と止めた。俺は笑って従った。
実は俺は、寝て食って遊ぶのどこかの隙間に“告白”をブチ込む計画を立てていた。
俺は自分が短絡的だと今は知っているし、間が悪いのも分かっている。なんでこんな時にこんなことを、ということをしてしまうことが、今までの人生でも度々あった。そして今回も、やってしまった。
諒に拾われて、一緒に暮らして一年。もしかしてと勘違いしそうな、淡い鴇色の空気になることが何度も何度もあった。
それでも俺は、崖っぷちで思い止まり、告白的なことをしないで来た。それが受け入れてもらえず、気まずくなって一緒に暮らすことを手離すことの方が恐怖だった。
一年間、同じ部屋に住んで諒を見てきた。
いま恋人はいない。好きな人もいないだろう。そんな話になったことはなかった。
ゆっくり温泉につかって、のんびりした空気の中で、丁寧に伝えたい。俺がどんなに諒を愛しているか。大切に思っているかを。
それなのに。
今回の旅行の手配は全部、俺がした。特に旅館の部屋は、二人でゆっくりできるように少し贅沢に、新婚さん向けの部屋を取った。
諒はただ黙って付いて来ただけ。その諒が。部屋に通されて仲居さんが出て行くと言った。
「新婚旅行の部屋みたいだ」
心の中を見透かされたような気がして、俺は焦った。焦って、下手をこいた。
「そうだよ、俺にとっては新婚旅行みたいな気分なんだよ。悪いかよ」
言ってしまってから、ハッと気づく。後の祭り。こんなはずじゃなかったのに。
今まで生きてきて、いったい何度コレをやらかしただろう?そしてコレをやらかすと、どんなこともうまくいった試しがない。
撃沈。1年間温めてきた想いは玉砕した。
「え?侑?どういうこと?」
開け放った窓から、大きな天色の空と海が見えた。それをバックに振り返る諒。絵になるな。いや絵描きだが。絵になる。
俺は無言でスマホを出し、その景色と諒を写真に収めた。やらかした記念。ちなみにこの写真はいまも俺のスマホの待ち受けだ。
「新婚旅行みたいな気分?なの?」
ゆっくり風呂に入って。のんびり海辺を散歩して。夕飯を食べてから、もう一度風呂に入って。少しだけ酒を飲む。それからじっくり口説き落とす予定だった。
全部飛ばして、一足飛びに。真昼間に。シラフで。とても口説き落とせるとは思えない。
「侑?説明して?」
諒は強い目で俺を見る。こんな時の諒はめちゃくちゃ粘り強い。俺の正直な気持ちを聞き出すまで諦めないだろうことは、この1年の付き合いで容易に想像できた。
俺は観念して、籐でできた軽い長椅子を窓の前に移動させ、諒と並んで座った。とてもじゃないが、恥ずかしくて諒の顔を見ながらでは話せない。
話すときは並んで座る。こんな決まりごとが出来上がっていて助かったと思った。
「侑?」
「待って」
俺は深く息を吸い、これ以上吸えないところまで吸って、一気に気持ちを言葉に乗せた。
「俺は。初めて出逢ったあの雨の夜から。お前に、諒に恋してる」
隣で、諒が息を飲む音が聞こえた。一体、どんな顔をしているんだ?けどこの濃藍の沈黙に、俺の小さい心臓は耐えられなかった。
「き、気持ち悪いよな。ごめん。旅行やめて帰るか?それかお前だけのんびりして行って、その間に俺、部屋出て行こうか」
ベラベラと、ただ濃藍の沈黙を埋めるためだけに発した音が、風に乗って窓へ消える。
「勝手に決めないで。僕だって言いたいことあるんだから」
げ。なんだよ言いたいことって。俺は吐きそうになるのを必死で堪えた。
「とにかく。せっかくこんないい旅館なんだから、のんびりしない?僕も頭の中整理して、自分の気持ち、侑に聞いてもらいたい」
「お、おう」
これって少しは期待していい?どっちだ?
「侑、日焼けしたいから海に行こうよ」
俺たちは、旅館のわき道から下りられる砂浜で、午後の散歩をした。
同居人の、しかも男に告白されたというのに、諒は全くいつもと変わらなかった。
俺たちは波打ち際で水をかけ合い、岩場でカニを見つけて追いかけた。まるで小学生の遠足のように遊んだ。
そして夕陽が眩しいキラキラを海にまき散らすころ、俺たちは旅館に帰った。
風呂に入り、少しゴロゴロして夕飯を食べ、部屋に戻ると布団が敷いてあった。
並んで敷かれた2組の布団。布団にも仲居さんにも罪はないが、もう少し離して敷いてくれればいいのに。と、俺は身勝手に思った。
俺たちは布団の上でグダグダと、どうでもいい話を延々した。肝心なことには触れないように気をつけながら。
「実は去年から言われてるんだけど」
「ん?」
「個展。やらないかって」
「凄いな。今までやったことあるのか?」
「うん。3回かな。確か」
「個展ってどこでやるんだ?」
俺は絵の世界のことはまるで知らない。
「画廊だよ。お世話になってる画商の画廊で二週間」
なんとなく、歯切れが悪い。こんな話し方をするときの諒は、言いたくないことがあるか、どう言えばいいか迷っているかだった。
1年一緒に暮らして、諒はあまり隠し事をしないのが分かった。人が生きていくうえで秘密はつきものだと思うのだが、諒はそれをあまり持ちたがらない。
それが俺に対してだけなのか、誰に対してもなのかは、まだ分からなかった。
「諒は?やりたいのかよ」
諒は少し顔をしかめて、
「絵を描くのは好き。買ってくれた人と話したり挨拶したりするのも好き。娘の部屋に飾るんですとか言われると、とても誇らしい気持ちになる」
「そうなのか」
「うん。親が子どもに見せたいと思う絵を描いたんだなって。僕に子どもがいたらって思ったら、なんとも言えない気持ち」
「あー、うん。なんか分かるかも」
まるで自分たちに子どもがいるような、言葉にできない気持ちで、諒の絵が掛けられている子ども部屋を思い浮かべた。それは今まで俺が感じたことのない、淡い淡い桜色の綿毛布に包まれるような感覚だった。
「個展の時って画家がいついつ在廊しますって宣伝するんだけど。在廊が苦手。なんだか見世物みたいに感じる」
「ペットショップのネコ的な?」
この猫が売ってたら、間違いなく俺が買い取る。いや犬でもイグアナでもなんでもだ。
「画廊にずっといるのも苦手だし。だからもしかしたら、個展はこれ受けたら最後にするかもしれない」
「そっか」
諒の表情は恐怖?一体なににだろうか?
「あのさ。したくないことはやめなよ」
俺が言うと、諒は一瞬で晴れやかな表情になった。
「そう思う?」
「うん。俺はよく分からないけど。諒が嫌だと思ってることをしてると、そんな気持ちで売った絵を飾られる子どもが可哀想だ」
諒はにっこり笑った。そして手を伸ばして俺の手を握った。
「ありがとう。侑はいつも僕に勇気をくれる。それって凄いことだって知ってる?」
手を握られて、俺はちょっと焦った。
「侑さえいれば、いつもこんな晴れやかな気持ちで生きられるんだろうな」
諒が言った。意味はよく分からなかった。
俺たちは手をつないだまま、布団の上で、どちらからともなく眠りに落ちた。
真夜中。
いつの間にか眠っていたと気づいたのは、目が覚めたから。カーテンを閉めなかった窓から、月が恐ろしく輝いている。起き上がると、諒が窓の前に立っているのが見えた。
「諒?どうした?眠れないのか?」
「ううん、さっき目が覚めた。侑、僕たちが出逢った時間だよ?」
俺はスマホで時計を見た。確かに。
俺は諒の隣に並んで立った。
「明日にしようと思ったけど、侑が起きたから、少し話していい?」
「あぁ、うん」
「にしても、この時間に起きるなんて。僕たちが出逢った時間に」
俺たちはまた籐の長椅子に並んで座り、顔を見合わせて笑った。
「侑。初めて会ったとき、僕には侑から虹が始まっているように見えた。変だよね?僕には見えない色があるはずなのに、全部の色がハッキリ見えたんだ。侑が起点で、鮮やかな虹が始まって見えた。だから」
俺は顔を諒に向けた。諒も、俺の顔を見て話していた。目が合う。諒は珍しく、照れくさそうに笑った。
「この人は僕の特別な人だ。僕に見えないものを見せる人なんだ。絶対離しちゃいけないって思った。思ったんじゃないな、分かったんだ」
え?待って。どういうこと?
「だからとにかく、侑に僕のそばにいてもらって、できたら片時も離れずにって必死だったんだよ、あの時」
「俺に一緒に暮らそうって言ったとき?」
「そう。だって気持ち悪いでしょ?初対面の男が、しかも真夜中に道で出逢っただけの知らない男が、一緒に暮らそうって言いだしたら」
諒。気持ち悪くない。気持ち悪くなんかない。だって俺も同じこと考えてた。そして、気持ち悪がられるだろうっても思ってた。一緒だ。一緒だよ。
「僕は今まで、男の人を好きになったことがないから分からなかった。この気持ちがなになのか。1年、侑と一緒に暮らしてやっと分かった」
このあと諒がなにを言うのか、俺はまだ分かっていなかった。なにやら告白めいたことを言ってはいるが、最後にやっぱり男は愛せない、とか言うのかもしれない。そう思うとまた吐きそうになった。
「侑。愛してる。侑のいない世界では、僕はあの色を、虹を、見ることができない」
そう言って、諒は俺を抱きしめた。諒の胸は驚くほど温かかった。もしかして、天国ってこんなカンジかな?象牙色の雲の中。諒の腕の中はそんなふうに感じられた。
今まで付き合った誰一人、俺に天国を感じさせた男はいなかった。諒は特別。それが分かると俺は不覚にも泣いてしまった。ダサい。
「泣かないで。これからも、僕はうっかりだから泣かせちゃうかもしれないけど。大切にするって約束する」
ほんと、情けないほど号泣。しながら精一杯、何度もうなずいた。
「僕をずっと愛してくれる?侑」
「おまえしか、目に入らねぇ」
ださい台詞でしか返せないほど、俺はテンパっていた。もっと気の利いたことを言いたいのに。なにも浮かばない。クソッ。
たった1年前。破産寸前で体を売ろうとしていた俺が。こんな。こんな。
「あそこで僕を見つけてくれて、ありがとう」
「俺こそ、あそこで待っててくれてサンキュ」
しゃくりあげるのを堪えて、俺は言った。
諒は俺のアゴを持ち上げて、キスをした。2回短く、そのあと長く。俺の頭の中で、金色が弾けた。
「すごいよね。この日は出逢った記念で初キス記念。来年もお祝いしなくちゃ」
「だな」
諒に抱かれたまま、俺は窓の外の景色を見ていた。黒くうねる波間にダイヤをばらまいたような月光。そして諒の体温と匂い。俺は死ぬまで、この全てを忘れないだろう。
もし二人が別れる日が来たとしても。この景色も、諒の腕の中が天国だったことも忘れない。決して。27年生きてきて、間違いなく一番幸せな日だった。
ふと、諒は男とのセックスを経験したことがないのに気づいた。きっと知らないことだらけだろう。焦ることはない。これからゆっくり、俺の体のことも知ってくれたらいい。そう考えたら恥ずかしいような嬉しいような、ごちゃ混ぜな気持ちになった。
諒はその夜、俺を腕に抱いて眠った。とても大切な壊れ物を抱くように。優しく、俺を抱きしめて眠った。俺たちはまるで子どものように、ぐっすり眠った。それはなんの心配もない、心から満たされた安心した眠りだった。
あれから1年。もうすぐ俺たちの二回目の、出逢った記念日がやってくる。
今年の記念日、俺は諒にプロポーズをしようと考えていた。正式な手続きは先の話としても、結婚の約束をしたい。その想いが大きくなりすぎて爆発しそうだった。
レストランにするか、また旅行に行くか、家でまったり、じっくりか。ネットであれこれ調べていると、よく探し物をしに来るスタイリストが入ってきた。
「侑さん、なにか掘り出し物あります?」
「自分で探しなさい」
俺は笑いながら言った。どうせ俺が勧めても、この人種は自分のメガネに適うものしか手に入れようとしない。
「ナニを真剣にググってるんです?」
「言わない」
「えー、なんでですか~?俺が知ってることかもじゃないですか」
俺は笑って、
「知り合いがプロポーズするのに、いいロケーションをみんなでコンペ中なの」
俺は半分だけ、本当のことを話した。
「賞品出るんです?」
「メシかサケじゃね?」
若いスタイリストは、ふぅ~んと言って、棚の間をふらふら歩きながら、
「でも結局、そういうのって二人の思い出の場所とかが一番なんじゃないです?」
「そうなのか?」
「変に凝った演出とかもいらなくて。二人がお互いを特別だと感じているなら、逆に普通がいいと思いますけどね」
「普通、か」
俺はスマホの画面を閉じた。
「ですよ~シチュエーションは普通で、心と愛をたくさん込めて、みたいな」
俺はニヤリと笑って、
「いいこと言うじゃん。ちょっと参考になったわ」
サンキュ、と礼を言い、店の冷蔵庫からスポドリを出して渡した。
「アイデアのお礼な」
「ゴチです。このキャップ、いいっすね」
黒い生地に黒い糸でブランドロゴが刺繡してある、意味あるの?みたいなキャップを、彼は自分でかぶって鏡をのぞき込んでいる。
スタイリストを放置して、俺は俺たちが出会った場所を思い出していた。小さな交差点の先の、長い壁の続く一角。
そういえば。あの出逢った場所へは、あれから2年経つが一度も行っていなかった。でも俺たちは、いや少なくとも俺は。あそこから始まった。
そう思うと、出逢ったあの場所よりプロポーズにふさわしい場所はないと思えてきた。
俺はさらに客を放置して、頭はあの壁の前でプロポーズのシミュレーションをしていた。
二人とも大好きな洋食屋で食事をして、少しワインを飲む。店を出たら歩こうと言って、あの場所まで二人で散歩をしよう。そして俺の想いを込めた言葉を、ひとつ残らず諒に手渡す。
「侑さん、顔、キモいっすよ」
俺は考えながらニヤついていたらしい。スタイリストにツッコまれた。それでもニヤニヤは止まらなかった。
もうすぐ夏が来る。
俺たちが出逢って、一緒に暮らし始めて2年。恋人同士になって1年。
俺はいつも通りそっと起きだし、シャワーを浴び、諒の朝メシを作った。
着替えて、まだ寝ている諒にキスをして、出勤する。部屋を出る瞬間、燃えるごみの日なのを思い出した。間一髪セーフ。
俺たちは、諒の部屋で暮らし始めてから、なるべくエレベーターを使わないという謎の約束をしていた。ごみを忘れると5階まで取りに戻らなきゃならない。まぁまぁキツい。
無事可燃ごみを出し、自転車にまたがりペダルを強く踏む。今朝は少し汗ばむくらいの気温。夏はすぐそこだ。
俺たちが二人一緒にゲリラ豪雨に打たれた翌日、諒は俺に一緒に暮らそうと言った。初対面で諒に一目惚れしていた俺は、金がないのも手伝って、二つ返事でOKした。
一緒に暮らす理由は、諒の服を選ぶためだった。でも俺は、あわよくば的な図々しいことも考えていた。
でも俺が期待したのにも理由があって。そもそも人は、真夜中にずぶ濡れで出逢った見ず知らずの男に、一緒に暮らそうなんて言うものだろうか?
最初はあまり感じなかったが、同居生活が続くにつれ、もしかして諒も俺を?という勘違いがどんどん膨らみ、取り返しがつかなくなるほど俺たちの距離は近くなった。と、俺は感じていた。
諒は、俺の店にも興味を持った。
もうすぐなくなるというのに、俺の店に足を運び、こんなふうにしてみるのはどう?と、俺が思いつかないことを言う。
俺は諒の提案が面白いと思った。芸術家ってこんな発想をするのか思う一方で、その目の付け所と、俺をねじ伏せんばかりの情熱。
店がこんな状態でなかったら、改装してもいいと俺も思い始めていた。でも手持ちの金で家賃が払えるのもあと1回くらい。あとは借金して店をたたまなければならないだろう。退去の申請をして、店の中を片付け始めろと、現実は言っていた。
「侑、ちょっといい?」
店を閉めるにあたり、何からすればいいのかリストを作っていると、諒に呼ばれた。
ダラダラ部屋(居間)のソファの前のテーブルに、お茶が用意してあった。
「どうした?なんかあった?」
「うん。ね、怒らないって約束して?」
諒は知っているのか。あの上目遣いで俺に言う。ハイハイ、その顔には怒れません。
俺たちはソファに並んで座った。
「侑のお店、もう少し頑張ってみない?」
「どゆこと?」
「今までね、いろいろ話し合ったでしょ?それ取り入れて、ちょっと店内いじって、コンセプト?方向性くっきりさせて。もう一回」
俺は諒の顔をじっと見つめた。
「ちょっとね、何かが違ってただけで。段違いのボタンみたいに。それが直ったら侑のお店は動き始めるって思う。だから」
諒が銀行の名前の入った封筒を、俺の前に置いた。
「もう一回、チャレンジしてみない?僕もできることは手伝う」
俺の目が、諒と、金の入った封筒をせわしなく行き来する。黄檗色の星がチカチカする。
「いや、俺は」
「いやじゃなくて。もったいない、いまやめちゃうなんて」
そこからしばらく、金を借りる借りないの押し問答をして、結局俺が折れた。俺が諒を負かす日は来るのか?この惚れた弱みは永遠に続く気配がする。
どちらにしても、店は閉めるつもりでこの何日か休んでいる。どうせだからこのまましばらく休んで、店内を改装し、再開することで話はついた。
「諒、頼みがある」
俺は、諒に顔を向けて言った。
「諒が、店のオーナーになってくれ」
「へ?無理無理~僕こそ何も知らないんだし」
「いいんだよ、知らなくて。この金を借りるなら、諒にオーナーになって欲しい」
俺たちは無言で見つめ合った。
こんな時、俺には二人の間に鴇色が見えたりする。そして諒も、俺と同じ気持ちなんじゃないかと期待してしまう。だって、こんなふうに見つめ合うものか?男同士って。
「お金以外にも理由があるみたいだけど?」
諒はボンヤリしているクセに、たまに鋭い。
「俺って自分のためにはあまり頑張れない生き物っぽいんだよな」
「そうなの?」
「ああ、だから誰かのため、もっと言えば諒のためにお店やったら、もっと頑張れるんじゃないかと思ってさ」
「僕のため?ホントに?」
「あー、とか言ったら迷惑?重いか?」
「全然、逆に嬉しい~」
と叫んで、諒は俺に抱きついた。俺の心臓が口から飛び出して、そこら辺を駆けずり回りそうだ。
「バカ、よせよ」
と言いつつ、やめて欲しくない、なんなら抱き返したいとか妄想する俺。ちょっと、いやかなりキモいだろ。
「こんなにイメチェンするなら、店の名前も変えるかな?」
顎に手を当てて俺が言うと、
「だめ。絶対。僕がオーナーになるなら、屋号はいまのcolorsのままだよ」
とやり返された。諒はこの店の名前を気に入っているらしかった。でもこのリニューアルで、colorsはしっくりくるのか?多少不安。
諒は資金を貸してくれただけでなく、知り合いの内装屋の人も紹介してくれた。ちょうど仕事の切れ目で体が空いているからと、すぐ来てくれることになった。めちゃくちゃありがたかった。
そこから一週間で店の中をいじってもらい、俺は新しい店に置く商品を仕入れるために、あちこち出かけ倒した。朝から晩まで。時には泊まりで。
だから気づかなかった。諒が、昼夜問わずアトリエにこもっていたことに。
俺も寝不足と移動でクタクタだったけど、諒はたぶん、もっと寝不足だったに違いない。
6日で工事が終わり、4日で商品を入れ替えた。10日でリニューアルオープンにこぎ付けられたのは、諒の人脈と資金のおかげだ。
俺は正直、自分の中にこんな行動力や情熱がまだ残っているとは思わなかった。それを引き出したのも、もちろん諒だった。
日付が変わり、準備が終わったオープン当日の店内を、俺は見回した。ちょっと泣きそうだった。
「侑、おめでとう」
諒が、大きなキャンバスを抱えて、でも音を立てずに入ってきて俺を驚かせた。
「やめろよ、チビっちゃうだろーが」
俺は笑って言ったが、諒の顔色が月白みたいな色をしていて、胃に嫌な痛みが走った。
「まだ乾いてないんだけど、これ、開店祝」
「わ、描いてくれたのかよ」
俺は受け取って、カウンターに乗せた。
大きなカンバスに、青空に向けて伸びる大きな、けれどなぜかねじれた虹と、真昼の白い月が描かれていた。
「ありがとう、諒。すっげー嬉しい」
「間に合ってよかったー」
と言って、諒はその場に倒れた。
俺は悲鳴を飲み込んで、救急車を呼ぼうと電話に手を伸ばした。のだが。倒れた諒がものすごいイビキをかき始めて……俺はホッとして諒のそばに座り込んだ。
何日、ロクに寝てなかったんだろう。
それを考えたら、自然と涙があふれて止まらなくなったのを、昨日のことのように覚えている。いや覚えているというより、いつも心の中に、その記憶は赤橙色を灯している。
店に着いて、いつも通り開店準備をする。
準備を終えて、俺は諒の絵を見た。まるでその絵が諒本人のように、俺には愛おしい。
絵の月ににっこり笑い、俺は店を開けた。
一緒に暮らし始めて1年が経った夏。
出逢った日記念と称して俺たちは夏休みを取り、二人で海辺の温泉宿に来ていた。
俺たちの部屋からそれほど遠くないところで、二泊三日。コンセプトは寝て、食って、遊ぶだけ。だからレンタカーも諒が運転反対と止めた。俺は笑って従った。
実は俺は、寝て食って遊ぶのどこかの隙間に“告白”をブチ込む計画を立てていた。
俺は自分が短絡的だと今は知っているし、間が悪いのも分かっている。なんでこんな時にこんなことを、ということをしてしまうことが、今までの人生でも度々あった。そして今回も、やってしまった。
諒に拾われて、一緒に暮らして一年。もしかしてと勘違いしそうな、淡い鴇色の空気になることが何度も何度もあった。
それでも俺は、崖っぷちで思い止まり、告白的なことをしないで来た。それが受け入れてもらえず、気まずくなって一緒に暮らすことを手離すことの方が恐怖だった。
一年間、同じ部屋に住んで諒を見てきた。
いま恋人はいない。好きな人もいないだろう。そんな話になったことはなかった。
ゆっくり温泉につかって、のんびりした空気の中で、丁寧に伝えたい。俺がどんなに諒を愛しているか。大切に思っているかを。
それなのに。
今回の旅行の手配は全部、俺がした。特に旅館の部屋は、二人でゆっくりできるように少し贅沢に、新婚さん向けの部屋を取った。
諒はただ黙って付いて来ただけ。その諒が。部屋に通されて仲居さんが出て行くと言った。
「新婚旅行の部屋みたいだ」
心の中を見透かされたような気がして、俺は焦った。焦って、下手をこいた。
「そうだよ、俺にとっては新婚旅行みたいな気分なんだよ。悪いかよ」
言ってしまってから、ハッと気づく。後の祭り。こんなはずじゃなかったのに。
今まで生きてきて、いったい何度コレをやらかしただろう?そしてコレをやらかすと、どんなこともうまくいった試しがない。
撃沈。1年間温めてきた想いは玉砕した。
「え?侑?どういうこと?」
開け放った窓から、大きな天色の空と海が見えた。それをバックに振り返る諒。絵になるな。いや絵描きだが。絵になる。
俺は無言でスマホを出し、その景色と諒を写真に収めた。やらかした記念。ちなみにこの写真はいまも俺のスマホの待ち受けだ。
「新婚旅行みたいな気分?なの?」
ゆっくり風呂に入って。のんびり海辺を散歩して。夕飯を食べてから、もう一度風呂に入って。少しだけ酒を飲む。それからじっくり口説き落とす予定だった。
全部飛ばして、一足飛びに。真昼間に。シラフで。とても口説き落とせるとは思えない。
「侑?説明して?」
諒は強い目で俺を見る。こんな時の諒はめちゃくちゃ粘り強い。俺の正直な気持ちを聞き出すまで諦めないだろうことは、この1年の付き合いで容易に想像できた。
俺は観念して、籐でできた軽い長椅子を窓の前に移動させ、諒と並んで座った。とてもじゃないが、恥ずかしくて諒の顔を見ながらでは話せない。
話すときは並んで座る。こんな決まりごとが出来上がっていて助かったと思った。
「侑?」
「待って」
俺は深く息を吸い、これ以上吸えないところまで吸って、一気に気持ちを言葉に乗せた。
「俺は。初めて出逢ったあの雨の夜から。お前に、諒に恋してる」
隣で、諒が息を飲む音が聞こえた。一体、どんな顔をしているんだ?けどこの濃藍の沈黙に、俺の小さい心臓は耐えられなかった。
「き、気持ち悪いよな。ごめん。旅行やめて帰るか?それかお前だけのんびりして行って、その間に俺、部屋出て行こうか」
ベラベラと、ただ濃藍の沈黙を埋めるためだけに発した音が、風に乗って窓へ消える。
「勝手に決めないで。僕だって言いたいことあるんだから」
げ。なんだよ言いたいことって。俺は吐きそうになるのを必死で堪えた。
「とにかく。せっかくこんないい旅館なんだから、のんびりしない?僕も頭の中整理して、自分の気持ち、侑に聞いてもらいたい」
「お、おう」
これって少しは期待していい?どっちだ?
「侑、日焼けしたいから海に行こうよ」
俺たちは、旅館のわき道から下りられる砂浜で、午後の散歩をした。
同居人の、しかも男に告白されたというのに、諒は全くいつもと変わらなかった。
俺たちは波打ち際で水をかけ合い、岩場でカニを見つけて追いかけた。まるで小学生の遠足のように遊んだ。
そして夕陽が眩しいキラキラを海にまき散らすころ、俺たちは旅館に帰った。
風呂に入り、少しゴロゴロして夕飯を食べ、部屋に戻ると布団が敷いてあった。
並んで敷かれた2組の布団。布団にも仲居さんにも罪はないが、もう少し離して敷いてくれればいいのに。と、俺は身勝手に思った。
俺たちは布団の上でグダグダと、どうでもいい話を延々した。肝心なことには触れないように気をつけながら。
「実は去年から言われてるんだけど」
「ん?」
「個展。やらないかって」
「凄いな。今までやったことあるのか?」
「うん。3回かな。確か」
「個展ってどこでやるんだ?」
俺は絵の世界のことはまるで知らない。
「画廊だよ。お世話になってる画商の画廊で二週間」
なんとなく、歯切れが悪い。こんな話し方をするときの諒は、言いたくないことがあるか、どう言えばいいか迷っているかだった。
1年一緒に暮らして、諒はあまり隠し事をしないのが分かった。人が生きていくうえで秘密はつきものだと思うのだが、諒はそれをあまり持ちたがらない。
それが俺に対してだけなのか、誰に対してもなのかは、まだ分からなかった。
「諒は?やりたいのかよ」
諒は少し顔をしかめて、
「絵を描くのは好き。買ってくれた人と話したり挨拶したりするのも好き。娘の部屋に飾るんですとか言われると、とても誇らしい気持ちになる」
「そうなのか」
「うん。親が子どもに見せたいと思う絵を描いたんだなって。僕に子どもがいたらって思ったら、なんとも言えない気持ち」
「あー、うん。なんか分かるかも」
まるで自分たちに子どもがいるような、言葉にできない気持ちで、諒の絵が掛けられている子ども部屋を思い浮かべた。それは今まで俺が感じたことのない、淡い淡い桜色の綿毛布に包まれるような感覚だった。
「個展の時って画家がいついつ在廊しますって宣伝するんだけど。在廊が苦手。なんだか見世物みたいに感じる」
「ペットショップのネコ的な?」
この猫が売ってたら、間違いなく俺が買い取る。いや犬でもイグアナでもなんでもだ。
「画廊にずっといるのも苦手だし。だからもしかしたら、個展はこれ受けたら最後にするかもしれない」
「そっか」
諒の表情は恐怖?一体なににだろうか?
「あのさ。したくないことはやめなよ」
俺が言うと、諒は一瞬で晴れやかな表情になった。
「そう思う?」
「うん。俺はよく分からないけど。諒が嫌だと思ってることをしてると、そんな気持ちで売った絵を飾られる子どもが可哀想だ」
諒はにっこり笑った。そして手を伸ばして俺の手を握った。
「ありがとう。侑はいつも僕に勇気をくれる。それって凄いことだって知ってる?」
手を握られて、俺はちょっと焦った。
「侑さえいれば、いつもこんな晴れやかな気持ちで生きられるんだろうな」
諒が言った。意味はよく分からなかった。
俺たちは手をつないだまま、布団の上で、どちらからともなく眠りに落ちた。
真夜中。
いつの間にか眠っていたと気づいたのは、目が覚めたから。カーテンを閉めなかった窓から、月が恐ろしく輝いている。起き上がると、諒が窓の前に立っているのが見えた。
「諒?どうした?眠れないのか?」
「ううん、さっき目が覚めた。侑、僕たちが出逢った時間だよ?」
俺はスマホで時計を見た。確かに。
俺は諒の隣に並んで立った。
「明日にしようと思ったけど、侑が起きたから、少し話していい?」
「あぁ、うん」
「にしても、この時間に起きるなんて。僕たちが出逢った時間に」
俺たちはまた籐の長椅子に並んで座り、顔を見合わせて笑った。
「侑。初めて会ったとき、僕には侑から虹が始まっているように見えた。変だよね?僕には見えない色があるはずなのに、全部の色がハッキリ見えたんだ。侑が起点で、鮮やかな虹が始まって見えた。だから」
俺は顔を諒に向けた。諒も、俺の顔を見て話していた。目が合う。諒は珍しく、照れくさそうに笑った。
「この人は僕の特別な人だ。僕に見えないものを見せる人なんだ。絶対離しちゃいけないって思った。思ったんじゃないな、分かったんだ」
え?待って。どういうこと?
「だからとにかく、侑に僕のそばにいてもらって、できたら片時も離れずにって必死だったんだよ、あの時」
「俺に一緒に暮らそうって言ったとき?」
「そう。だって気持ち悪いでしょ?初対面の男が、しかも真夜中に道で出逢っただけの知らない男が、一緒に暮らそうって言いだしたら」
諒。気持ち悪くない。気持ち悪くなんかない。だって俺も同じこと考えてた。そして、気持ち悪がられるだろうっても思ってた。一緒だ。一緒だよ。
「僕は今まで、男の人を好きになったことがないから分からなかった。この気持ちがなになのか。1年、侑と一緒に暮らしてやっと分かった」
このあと諒がなにを言うのか、俺はまだ分かっていなかった。なにやら告白めいたことを言ってはいるが、最後にやっぱり男は愛せない、とか言うのかもしれない。そう思うとまた吐きそうになった。
「侑。愛してる。侑のいない世界では、僕はあの色を、虹を、見ることができない」
そう言って、諒は俺を抱きしめた。諒の胸は驚くほど温かかった。もしかして、天国ってこんなカンジかな?象牙色の雲の中。諒の腕の中はそんなふうに感じられた。
今まで付き合った誰一人、俺に天国を感じさせた男はいなかった。諒は特別。それが分かると俺は不覚にも泣いてしまった。ダサい。
「泣かないで。これからも、僕はうっかりだから泣かせちゃうかもしれないけど。大切にするって約束する」
ほんと、情けないほど号泣。しながら精一杯、何度もうなずいた。
「僕をずっと愛してくれる?侑」
「おまえしか、目に入らねぇ」
ださい台詞でしか返せないほど、俺はテンパっていた。もっと気の利いたことを言いたいのに。なにも浮かばない。クソッ。
たった1年前。破産寸前で体を売ろうとしていた俺が。こんな。こんな。
「あそこで僕を見つけてくれて、ありがとう」
「俺こそ、あそこで待っててくれてサンキュ」
しゃくりあげるのを堪えて、俺は言った。
諒は俺のアゴを持ち上げて、キスをした。2回短く、そのあと長く。俺の頭の中で、金色が弾けた。
「すごいよね。この日は出逢った記念で初キス記念。来年もお祝いしなくちゃ」
「だな」
諒に抱かれたまま、俺は窓の外の景色を見ていた。黒くうねる波間にダイヤをばらまいたような月光。そして諒の体温と匂い。俺は死ぬまで、この全てを忘れないだろう。
もし二人が別れる日が来たとしても。この景色も、諒の腕の中が天国だったことも忘れない。決して。27年生きてきて、間違いなく一番幸せな日だった。
ふと、諒は男とのセックスを経験したことがないのに気づいた。きっと知らないことだらけだろう。焦ることはない。これからゆっくり、俺の体のことも知ってくれたらいい。そう考えたら恥ずかしいような嬉しいような、ごちゃ混ぜな気持ちになった。
諒はその夜、俺を腕に抱いて眠った。とても大切な壊れ物を抱くように。優しく、俺を抱きしめて眠った。俺たちはまるで子どものように、ぐっすり眠った。それはなんの心配もない、心から満たされた安心した眠りだった。
あれから1年。もうすぐ俺たちの二回目の、出逢った記念日がやってくる。
今年の記念日、俺は諒にプロポーズをしようと考えていた。正式な手続きは先の話としても、結婚の約束をしたい。その想いが大きくなりすぎて爆発しそうだった。
レストランにするか、また旅行に行くか、家でまったり、じっくりか。ネットであれこれ調べていると、よく探し物をしに来るスタイリストが入ってきた。
「侑さん、なにか掘り出し物あります?」
「自分で探しなさい」
俺は笑いながら言った。どうせ俺が勧めても、この人種は自分のメガネに適うものしか手に入れようとしない。
「ナニを真剣にググってるんです?」
「言わない」
「えー、なんでですか~?俺が知ってることかもじゃないですか」
俺は笑って、
「知り合いがプロポーズするのに、いいロケーションをみんなでコンペ中なの」
俺は半分だけ、本当のことを話した。
「賞品出るんです?」
「メシかサケじゃね?」
若いスタイリストは、ふぅ~んと言って、棚の間をふらふら歩きながら、
「でも結局、そういうのって二人の思い出の場所とかが一番なんじゃないです?」
「そうなのか?」
「変に凝った演出とかもいらなくて。二人がお互いを特別だと感じているなら、逆に普通がいいと思いますけどね」
「普通、か」
俺はスマホの画面を閉じた。
「ですよ~シチュエーションは普通で、心と愛をたくさん込めて、みたいな」
俺はニヤリと笑って、
「いいこと言うじゃん。ちょっと参考になったわ」
サンキュ、と礼を言い、店の冷蔵庫からスポドリを出して渡した。
「アイデアのお礼な」
「ゴチです。このキャップ、いいっすね」
黒い生地に黒い糸でブランドロゴが刺繡してある、意味あるの?みたいなキャップを、彼は自分でかぶって鏡をのぞき込んでいる。
スタイリストを放置して、俺は俺たちが出会った場所を思い出していた。小さな交差点の先の、長い壁の続く一角。
そういえば。あの出逢った場所へは、あれから2年経つが一度も行っていなかった。でも俺たちは、いや少なくとも俺は。あそこから始まった。
そう思うと、出逢ったあの場所よりプロポーズにふさわしい場所はないと思えてきた。
俺はさらに客を放置して、頭はあの壁の前でプロポーズのシミュレーションをしていた。
二人とも大好きな洋食屋で食事をして、少しワインを飲む。店を出たら歩こうと言って、あの場所まで二人で散歩をしよう。そして俺の想いを込めた言葉を、ひとつ残らず諒に手渡す。
「侑さん、顔、キモいっすよ」
俺は考えながらニヤついていたらしい。スタイリストにツッコまれた。それでもニヤニヤは止まらなかった。