狐の輿入れ

文字数 4,235文字

 朝、目が覚めて窓の外を覗くと、空は晴れているのに小雨が降っていました。
 いわゆる天気雨でしょう。上空には雲一つないのに雨が降る不思議な現象。最近はまったく見ていなかったので、そんな珍しい空模様がある事をすっかり忘れていました。
 けれど、今はっきりと思い出しました。
 この天気には、私にとって切っても切れない縁があるのだと。

  …………

 それはある夏の事。
 私は母方の祖父母の家に来ていました。
 その家は都会からとても遠く離れた山奥の農村にあります。車で何時間と掛けてやっと辿り着ける場所で、若い人が一人もおらず、高齢者の夫婦が何組いるのだろうかと指で数えてしまえるほどの、世間で言うところの過疎地域でした。
 私が祖父母を訪ねる事になったのは、ひとえに母から頼まれたからです。毎年定期的に、母は祖父母の様子や近況を確認するためにわざわざ連休を取っていたのですが、今回はどうしても仕事の都合で行けなくなったらしく、その代わりとして私が行く事になったのです。
 二泊三日、ただ祖父母の家で寝泊まりするだけで良いとの事でした。
 初日から早々に、私はひどく退屈な気持ちになっていました。
 祖父母は畑仕事をするために一日のほとんどを外で過ごしており、その合間の休憩になると一旦家に戻ってはくるものの、休憩を終えればまた畑へ向かい、家の中を空けてしまうからです。暇を潰そうにも、ここにはコンビニやカフェ、ショップなどは一切なく、ふらっとどこかへ出掛けようにも山と森に囲まれており、何もする事ができません。
 日の沈む頃、畑仕事を終えて帰ってきた祖父母との夕食が唯一の団欒でした。
 二日目も、私は一人家の中で暇を持て余していました。
 昼頃になると、休憩のために祖父母が家へと戻ってきて、縁側でぼうっとしていた私に母の事や都会の事を色々と質問してきます。また、二人が母の幼い頃の思い出を話すのを聞いていると、自分が昔の日本にタイムスリップしてしまったような感覚に襲われて、外が田舎の風景である事も手伝って、得も言われぬ郷愁の念を覚えたのでした。
 さあ、そろそろ畑に戻らねば、と祖父母が立ち上がった時です。
 空には雲一つ浮かんでいないのに、ぽつぽつと粒の小さい雨が降ってきました。
 おやおや、狐の輿入れさね。ぎょうさんな列ば通るの待たにゃ。
 そう言って再び腰を下ろした祖父へ、私は狐の輿入れとは何なのかと尋ねました。祖父の話を聞いたところ、こういう天気になった時は狐の嫁さんを乗せた輿が近くを通る合図で、その輿入れの行列が通り過ぎるまで待たなければいけないとの事でした。
 こういう田舎だとそんな迷信がいまだ信じられているのかと思いながらも、私は郷に入っては郷に従えの精神に倣って、その二人に付き合ってじっとしていました。
 ほら、来た来た、あすこさね。
 そう祖父の指差す方向へ目を向けたその時、突然周囲にかすかな霧が立ち込み始めて、そぼ降る雨の足音に紛れながら、ゆったりとした神楽鈴のような音色が響いてきたのです。
 目を凝らしてみれば、道の一方から列を成した大勢の人影が現れて、まるで人目を憚るようにひっそりと霧の中を進んでいき、道の先のより濃くなった霧の向こうへと姿を消していきます。江戸時代にあった大名行列とはこんな感じだったのだろうかと思うほど、列の最後尾が一向に見えず、途中狐の嫁さんを運んでいるのであろう輿が一つ通り過ぎた後も、しばらくは人か狐かも分からない行列を眺めていなければいけませんでした。
 ようやく見えた列の最後尾が道の先の濃霧へと消え入ると、周囲に立ち込めていた薄霧は嘘のように晴れて、小雨もいつの間にか降り止んでいたのです。
 祖父母はやっと終わったとばかりにまた立ち上がって、そのまま畑仕事へと戻っていきました。私は夢でも見たような、身も心も宙に浮いた心地になって、縁側から一歩も動けなくなっていました。
 その日の夕食時になって、私は抑え切れぬ好奇心から再び祖父へ尋ねます。
 あの狐の輿入れって本当に狐なんですか、と。
 そうさ。ここは大昔狐の村だて、今もここに住む狐達は多くてな。じゃが、最近はあいつらも生活が厳しいんじゃろうて、ここんとこしょっちゅう輿入れしとるでな。儂らの娘と同じよう、都会へ出ていかにゃならんのだろう。
 祖父の話によれば、狐の嫁ぎ先は同じ狐ではなく、人間の婿さんだとの事でした。どうして人間の元へ嫁ぐのか、どうやってその縁談をまとめているのか、そうした数多くの謎については分からないようで、どうやら狐なりの事情があるみたいなのです。
 その夜、祖父母がすっかり寝静まった後、私は昼間に見た光景が忘れられず、その幻影を追い求めるように縁側で外を眺めていました。
 けれども見えるのは、都会では拝む事のできない満点の星空と大きく真ん丸とした月、そしてそれらに照らされてほんのりと浮かび上がる真夜中の田舎風景だけでした。聞こえてくるのも鈴の音ではなく、夜の虫達が鳴く声ばかりです。
 さて、そろそろ寝ようか、と私が腰を上げようとした時でした。
 庭の草むらから一匹の狐がひょっこりと姿を現したのです。その狐は野生とは思えぬ整った毛並みをしていて、顔立ちもすらっとして美しく、夜の暗闇の中でも輝いて見えるほど綺麗な瞳をこちらへと向けていました。
 昼間の出来事もあって、その狐がどこか幻想的な生き物のように見えた私は、自分だけの密やかな思い出として写真に収めておきたいと思い立ちました。考えてみれば、画像や動画で見た事はあっても、実際に自分の目で狐を見たのはこれが初めての事でもあったのです。
 部屋で充電している携帯を取ってくるために一旦縁側から離れて、再びそこへ戻ってきた時には残念な事に、もう狐の姿はありませんでした。
 ひどくがっかりした気持ちで肩を落として、私は縁側に再び座り込みました。
 ねえ、お姉さんは都会から来たの?
 その鈴の音を転がすような声に振り返ると、私の隣には一人の少女が座っていたのです。あまりにも驚いてしまった私は声すらも出ませんでした。
 その少女はいかにも古風な着物を着ていました。しかし、目が奪われるほど可憐で、しっかりと櫛の通った長い黒髪に、目鼻立ちが整っていて愛らしく、好奇心の籠もった無垢な瞳をこちらへと向けていました。
 少女はこう続けます。
 都会ってどんなところ? 怖い人はたくさんいる? と。
 このまま黙っている訳にはいかないと思って、私はひとまず会話を合わせました。相手は田舎の子供なのだと自分に言い聞かせて、都会は建物と人混みで溢れている事や怖い人もいるけど優しい人もちゃんといる事を教えてあげたのです。
 そうなんだ。実はね、私は明日都会に行かなければいけないの。好きでもない男の人のところへ嫁がされて、その日からお婿さんのためにお洗濯やお掃除、お料理なんかを毎日頑張らなきゃいけないの。私はこの村で過ごす事ができれば十分に幸せなのに、みんなは都会に行きなさい、人間に嫁ぎなさいって。それがお前のためなんだって言うの。どうしても人間に嫁がなければいけないのなら、せめて私の好みで相手を決められたら良いのに。
 そう話す少女は不意にしおらしい仕草を見せて、こう私に尋ねてきます。
 ねえ、お姉さんって狐はお好きかしら? と。
 私は何故かその質問に答えてはいけない気がしました。答えてしまったら最後、黄泉戸喫のように引き返せなくなりそうだったからです。でも、昼間に見た狐の輿入れが頭を過ぎった私はこう返事をしてしまいます。
 ええ、狐は好きよ、と。
 その答えに満足したとばかりに少女は可愛らしく笑って、元気良く庭へと飛び出ると、そのまま夜空へと昇っていきそうなほど軽い足取りで道の先の宵闇へ消えていきました。
 さすがの私も少し不気味になって、早く布団の中へ潜り込もうと部屋に引き返します。縁側から立ち去るその一瞬、ふと庭先の草むらに目を向けると、そこには夜目を光らせた一匹の狐がいたように感じられました。
 翌日の早朝、私は帰り支度を済ませて、祖父母の家の近くに停めていた自分の車へ向かいます。二人は畑仕事へ行く時間を遅らせてまで、わざわざ私の見送りをしようと付いて来てくれました。
 車へと乗り込んだ私がエンジンを掛けて、二人に別れの挨拶をするために運転席の窓を開けたところ、私の右腕にぽつりと水の粒が付きました。そのすぐ後に、薄い霧が辺りに漂い始めて、空は晴れているにも関わらず小糠雨が降り出してきたのです。
 それは狐の輿入れだと分かりましたが、いくら待ってもその輿入れの行列は現れません。
 祖父母も不思議に思ったらしく周囲を見回していました。輿入れの行列が通り過ぎるのを待たなければいけないものの、それが現れないのではどれだけ待っても無駄でしょう。雨の中をずっと立っていては体に悪いと二人に家へ戻るよう説得し、私も車を出発させたのでした。
 それから山道を抜けて、舗装された道路へと出て、自宅へ帰る道を走っている間も、空模様は天気雨で霧も出たままでした。
 自宅に到着して車を停めた同時に、ようやく雨が止み、霧も晴れました。狐の輿入れを見てから変な事が起こるようになってしまったと、私は母の頼みを安請け合いした自分に若干の後悔をしつつも、終わった事は忘れようと努めます。
 自宅の玄関を開けて、靴を脱ぎ、居間へと入った私はそこにいた人影を見て驚きました。
 なんと、そこには白無垢を身に纏った一人の少女がいたのです。赤い敷物の上に行儀良く座っていた彼女は間違いなく、昨夜祖父母の家の庭で会ったあの少女であり、私の姿を見るやおしろいを塗った頬を薄く赤らめて、紅を差した唇をこう動かします。
 不束者では御座いますが何卒よろしくお願い致します、と。

  …………

 私は窓から離れて居間へと向かいました。
 台所で朝食を作っている彼女を見つけると、私は朝の挨拶を投げ掛けます。
 こちらを振り返った彼女がにっこりと微笑んで、鈴の音を転がすような声で挨拶を返し、今朝は良い天気だと言いました。食卓を見れば、彼女の機嫌が良いのか、やけに気合の入った料理を作っているようでした。
 そこで私はもう一つ、大切な事を思い出したのです。
 今日はこれで三度となる、私達の結婚記念日なのだと。

                                       了
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登場人物紹介

●私(主人公)……

 母親に頼まれて、山村に住む母方の祖父母のもとを訪れる。

 都会で育った社会人であるため、田舎に慣れていない。

●少女?……

 夜更けに主人公の前に現れた古風な少女。

 櫛の通った長い黒髪に、目鼻立ちが整っていて愛らしく可憐な見た目をしている。

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