第99話 海からの呼び声
文字数 2,163文字
ネーレイド号は追い風を受けて滑るように帆走していた。
エンジンを持たない帆船故に甲板上で聞こえるのは、舳先が波を切る音と、索具の軋み、そして風の音だけだ。
船尾から彼方を望むと、青い海の彼方、緑豊かな陸地に小さな集落が見える。
昨夜遅くに出港した、ヤヌス村が遠ざかりつつあるのだった
隣に来たアンジェリーナが感慨深げに呟くので、貴史は尋ねた。
アンジェリーナは舷側に移動し、雪を抱いたジュラ山脈の偉容を眺めた。
標高三千メートルを超える山脈は東西に長く伸び、ウラヌス海に達すると千メートルを超える急峻な断崖となっている。
パロの都から北のヒマリアに旅をするには険しい山を越えるか、あるいはウラヌス海を海岸伝いに船で航海するしかない。
アンジェリーナは、ウラヌス海航路を開拓しようとしてるのだ。
ネーレイド号の船首の方向からヤースミーンの声が聞こえたので、貴史は思わず振り返った。
貴史達が舳先に行くと、ヤースミーンとタリーが手すりから身を乗り出すようにして海面を眺めている。
ネーレイドと並走するように、二頭のイルカが交互にジャンプして泳いでいた。
貴史は苦笑したが、北の内陸ヒマリヤ育ちのヤースミーンがイルカを知らないとしても無理はないのかもしれない。
中世的な世界では、生き物に関する正確な知識もないに違いない。
タリーは礼によって何でも食べてしまおうと考えているが、流石に貴史達が苦言を呈した。
流石のタリーも空気を読んだらしく、イルカの食材化計画は断念した様子だ。
ヤースミーンが見つめる水平線には真っ白な入道雲が立ち上がりコバルトブルーの海に映える。
白い雲と青い空を背景にイルカが跳ねる姿は、アンジェリーナの言葉ではないが幸先の良いものを感じさせる。
その時、船尾の方向から何か騒がしい声が響いた。
タリーが怪訝な表情で後方を見ながらつぶいた時、船員の一人が船首部にいる貴史達の所に走ってきた。
船員達は慌ただしく駆けまわる。
順風に広げていた帆は瞬く間にたたまれて、ネーレイド号は速度を落とし始めた。
それと同時に、舷側に積まれているカッターボートを降ろす準備を始める船員もいる。
貴史は船員たちの邪魔をしないように脇に避けながらヤースミーンとタリーに言った。
きがかりを抱えて、貴史たちは船尾に向かった。
船尾には手すり越しに海を眺める一団の人々がおり、その顔ぶれはパロの都から来た来賓たちだとわかる。
貴史はパロの都からの訪問団のまとめ役となっているジョセフィーヌさんに尋ねた。
タリーが呟くと、パロの都から来たバイヤーの一人が一部始終を説明する。
貴史達が成すすべも無く、後方の海原を見つめていると、知らせを聞いたホルストが駆け付けて、船尾の手すりをなぎ倒しそうな勢いでぶつかって止まった。
ホルストは涙を流さんばかりの様子で、洋上に取り残されたリヒターがいるはずの後方の海原を見つめていた。