文字数 6,287文字

 世界は空虚で、色がない。朝起きてから夜寝るまで、見るもの何ひとつに心動かされることはなく、日々はただ流れるように過ぎていく。
 自分の人生はそうやって終わっていくのだろうと、早い段階からすべてを諦めていた。
 兄達に押し付けられた騎士団の仕事も、丸投げされた面倒な仕事も、ただこなしていくだけ。そこに達成感はなく、ただやるように言われたからやるだけ。自分から何かをやりたいと言ったことはなく、やりたいことも欲しいものも何もない。
 自分の心は、あの運命の日まで死んでいたも同然だった。
「また兄上達が仕事を丸投げしてきた」
「あの方々にも困ったものですね」
 小さい頃から従者として仕えてくれている副団長は、騎士団を任された時に自ら志願して補佐に就いてくれた。その点については感謝している。自分はしっかりとした主ではないかもしれないが、彼が望んでくれる限りは傍にいてもらいたい。
「この程度の仕事が面倒だなんて、これから国を背負っていく人達の発言とは思えないな」
 とりあえず、と言いかけた時、視界の隅に何かが映った。反射的に、目で追ってしまう。
 それを見た瞬間に、色がなかった自分の世界が一気に色鮮やかになった気がした。その女性の周辺だけが、やけに光り輝いて見える。
 大きく目を見開き、驚きを隠せずに見つめ続けた。それに気づいた副団長が眉を寄せたのがわかったが、彼女から目を逸らすことができなかった。
 何故だ? 吸い寄せられるように、目が離せない。
 躊躇いがちにこちらを見た目と視線が交わった瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
 渇望するかのように、心が叫ぶ。
 ……欲しい。
 初めて覚える感情に戸惑っていると、相手は「すみません!」と謝って、ぺこりと頭を下げて走り去ろうとする。
 ――行ってしまうッ!
 ここで別れてしまったら、二度と会えなくなる気がする。そんな危機感を覚えた瞬間に、気づいたら彼女の腕を掴んでいた。
「よろしければ、名前を教えてもらえませんか?」
 警戒されてはならない。嫌われてはならない。
 そう思ったら、自然と微笑んでいた。笑うなんて本当に久しぶりだ。
 彼女は、フィオナだと名乗った。
 綺麗な名だ。この人に似合う、綺麗な響きの名前。
「もう少し俺と話をしてもらえませんか?」
 この心地良い声を、まだ聞いていたい。
 しかし、彼女はグレンの手を振り払って消えてしまった。逃げられると、俄然追いたくなるのが男の性だ。
 後ろ姿が消えた廊下の向こうを見つめて、また会いたいと願った。
 だから、彼女を捜すことに躊躇いはなかった。
 絶対に、この腕の中に捕らえるのだ。
 そのためになら、なんでもしよう。
 そして、ありとあらゆる手段を講じて見つけることができた。彼女は突然現れた自分に驚いた様子だったが、求婚にはっきりとノーと言われなかったのは好都合だ。あちらはこちらの立場に気を遣ったのかもしれないが、彼女を逃がすつもりはない。自分が持てるすべてを使って、彼女を手に入れてみせる。
 しかし、自分は彼女のことを何も知らない。それは彼女も同じだろう。彼女の人となりを知るために、行きたいところへ行きましょうと言ったら、連れて行かれたのはランスロットの道場だった。
 まさか、あのランスロットに師事を受けているとは思わなかった。
 それにそこへ行く途中に聞いた彼女の言葉には、衝撃を受けた。
「やりたいことに性別は関係ないはずなんです。女性だからやってはいけないということは絶対にないはず。確かに、女性の男性に守られて夫を陰から支える役目も大事なことはわかっています。でも私はただ守られるだけ、ただ陰から支えるだけでは嫌だった。建国の女王みたいに、普段は夫を陰から支え、時には剣を持って夫と共に戦うような、そんな女性になりたいと剣術を習うようになってから思うようになりました」
 その言葉を聞いて、自分が恥ずかしくなった。
 男として生まれ、望めばどんなことでもできる立場でありながら、ただ周囲に流されて生きてきた自分が恥ずかしくてたまらなかった。
 女性として生まれ、色んなことを制限されながらも自分がやりたいことをやって生きる。
 なんと心の強い女性だろう。それにこの人の言葉には同意する。ただ守られるだけ、ただ影から支えるだけ。それだけが女性の役目であるのはおかしすぎる。時には剣を持ち、夫と共に戦う強さを持つ女性がいてもいいではないか。
 その考え方はとても新鮮で、とても納得ができてしまった。夫婦とは、そもそもそういうものではなかったのか。いつから、女性は守られるだけの存在になってしまったのか。女性が男性を守ってもいい。夫婦は対等な関係であるべきだ。男性優位では、女性がつらすぎる。
 自分はそんなのは嫌だ。この人を従えるような関係にはなりたくない。この人を支え、この人に支えられ、そして有事には共に戦うような、そんな関係がいい。
「――それは素晴らしい考え方ですね」
 そう。とても素晴らしい。
 何故、今まで誰もそのことを考えなかったのか不思議なくらいに。
 やっぱり、この子が欲しい。
 逃がしてなるものか。
 しかし、少しおかしい。
 彼女の剣筋は、エリオットとよく似ていた。双子で同じ人物に師事していたからかもしれないと思ったが、ランスロットはエリオットに剣を教えていないと言う。
 ……どういうことだ?
 騎士団で見ていた限り、エリオットは剣を握ったことがない腕前ではない。しかし、ランスロットの話が正しいのだとしたら、何かが矛盾している。
 心の中で、一つの疑いが芽生えるのに時間はかからなかった。
 もしや、エリオットと彼女は同一人物なのでは? 双子で顔つきは似ているらしいし、可能性がないわけではない。
 そう思って会いたいと連絡すると、必ずエリオットが外出届を出していなくなる。
 よくよくエリオットの発言を聞いてみれば、彼女のことについて話しているはずなのに、まるで自分のことのように話しているかのような印象を受けることも多かった。
 確信を持ったのは、エリオットに特別に取り寄せたお茶を飲ませた時だ。
 それは男性には苦く感じ、女性には甘く感じるという、この国では手に入りにくい幻と呼ばれる東洋のお茶だった。仕事で培ったコネを使って、特別に取り寄せた。
 お茶を淹れ、差し出し、それをエリオットが口にするまで、疑いは疑いでしかなかった。
「美味しかったです。ありがとうございます」
 その言葉で、確信した。
 エリオットと彼女は同一人物だ。どういう理由で弟のふりをしているのかはわからないが、彼女のことだからどうしてもそうせざるをえない理由があるのだろう。
 このことがバレてしまえば、彼女の立場は危うくなる。
 ……守らなくては。
 アリソン伯爵家を探ると、エリオットが父親に反発して行方不明になっていることがわかった。それでエリオットのふりをしているのか。彼女らしい行動に、思わず笑みがこぼれる。
 そうなれば、エリオットを探すしかない。父親も探しているみたいだが、見つかっていないようだ。彼の性格を考えるに、父親に反対されている絵に関する場所にいるだろう。
 しぼって探してみたら、少し時間はかかったが見つかった。
 王都から少し離れた街にいる高名な画家の元にいた。会いに行くと、彼女にとてもそっくりだったからすぐに彼がエリオットだとわかった。
 彼女が置かれている状況を話すと、彼は悲しそうな顔をした。そして、「時間をください」と言う。はっきり言って、時間はなかった。彼女の周辺を、ダリモア公爵が探っている報告を受けていたからだ。きっと弟との入れ替わりが知られるのも時間の問題だろう。
 その前に、本物のエリオットと偽物のエリオットを入れ替えなければならない。
 けれど、確かに彼には時間が必要だろう。だから、時間はないが待つことにした。
 王族が主催する舞踏会用のドレスやジュエリーを買いに行こうとした時、ダリモア公爵の娘が賊と会っていたという報告を受けた。きっと、父親公認ではないだろう。この際、公認だろうがなかろうが、問題はそこじゃない。なんとなく嫌な予感がして対策を講じて出向けば、案の定、賊に襲われた。
 一帯の人払いはしてあった。しかし、一部の者達の抗議に兵士が手間取り、人員を配置するのが遅れた。そのことによって兵士達の到着が間に合わず、彼女が傷を受けた。
 彼女が腕から血を流しているのを見た瞬間、怒りで我を忘れた。気づいたら、傷を付けた男を斬っていた。そのことによって恐れられるかと思ったが、彼女の反応を見る限り怖がっている様子はない。
 殺気を全身で放って宣言すると、賊達は退いて行った。すぐに彼女の手当てをしなければ。傷は深いらしく、血が止まらない。
 連れて行った先は、元王宮典医で腕は確かな男だ。小さい頃は何度も世話になったから、信頼できる。
 手当てをされ、痛みを和らげる薬でぼんやりとする彼女は、「傷物になったから、本格的に誰ももらってくれませんね」なんてことを言う。
 そんなこと、心配しなくていいのに。この傷ごと、あなたを愛する自信があるから。もとより、この傷はこちらの詰めの甘さが招いたものだ。こちらが謝らなければならない。だから、そんな心配はしなくていい。
「何があっても、あなたは俺がもらい受けます。何も心配はいりません」
 うとうととしている彼女は、この言葉を聞いていたのかはわからない。
 痛々しそうな腕の傷を見て、自分にも賊にも、賊に頼んで襲わせたダリモア公爵の娘にも怒りを覚える。
 この傷分の報復はさせてもらう。
 あの馬鹿な兄達も彼女にちょっかいを出そうとしていたが、ことごとく阻止していた。あいつらのせいで彼女に何かあれば、血のつながった兄であろうと許せない。彼女と出会ったことで、意志を持つようになった自分が気に食わないのであれば、こちらに直接手を出してくればいいのだ。彼女に手を出すのが間違っている。
 彼女は今のところ、そのことに気づいていないようだし、このまま知らないでいてもらおう。あんな兄達のせいで彼女が一緒になることを躊躇ってしまったら、彼らを八つ裂きにしても怒りは治まらない。
 その間にも、エリオットからの返事は来ない。まだ迷っているようだ。待っている間に、事態は動き出す。
 ダリモア公爵が彼女に接触したと報告を受けた。嫌な予感がして、王宮にやってくる彼女を待った。
 何を話したのか問い詰めたかったが、それはできない。
 そして、彼女は泣きそうな顔で謝ってきた。求婚を断るためにここに来たのだと。
 彼女は泣いている顔さえも魅力的で目を離せなかったが、泣かしているのが自分ではなく他人だと思うとはらわたが煮えくり返る思いした。
「誰かに強要されたわけではなく?」
 そう訊ねると、彼女の肩がびくりと震えた。その反応では、答えを言っているも同然だ。
 彼女は自分に何をしたって許せる。なじっても、傷つけても、最悪殺めても。
 けれど、誰かに強制されて彼女の心が傷付くのは許せない。
 泣きながら別れを告げられると、離れたくないと言われているような気がして、背筋がぞくぞくした。好きだと言われているように思えてならない。
 どこかで見ていたのだろう。ダリモア公爵がすぐに自分の娘との縁談を勧めてきた。ほんの少し気のあるような素振りを見せると、この縁談は決まったものだと勝手に決めつけてきた。
 次の日には、ダリモア公爵の娘と自分が婚約をするかのような噂が広がっていた。
 父親にもそれは耳に入ったようで、そうなった理由を聞かれ正直に答えると、「また新しい恋をすればいい」と言われて、今度開く舞踏会で相手を見つけるように言われた。
 もとより、彼女以外は欲しくない。
 舞踏会でもう一度求婚しよう。そこで色よい返事がもらえなくても、いい返事をもらえるまで何度も求婚し、自分と一緒になるしかないと諦めてもらうしかない。
 そのためには、邪魔な障害は取り除いてしまおう。
 エリオットを説得して連れ戻せば、彼女の憂いは消えるはず。その時にもう一度求婚すれば、今度こそいい返事がもらえるかもしれない。
 もう一度、エリオットの元に足を運び説得すると、彼は戻る決心を固め、連れて戻った時、団員達は彼女が抱えていた事情を話すまでもなく色々と察していたようだった。躊躇いもなく協力してくれたのは、ひとえに彼女の人徳だろう。
 そして、舞踏会当日。
 少し予想外な出来事が起こって、彼女は弟の身代わりとして騎士団に入団したことを皆の前で暴露されてしまった。あのダリモア公爵の娘の所業だ。父親が得た情報を、どこかで盗み聞きしたらしい。親子共々なんとも目障りだ。
 イレギュラーな出来事だが、これを利用しない手はない。
 真っ青になっている彼女を庇い、本物のエリオットを登場させる。本人がいることによって、周りはダリモアの娘の方の言葉を疑ったようだ。あちらは酒に酔っているようだし、そのことも影響しての状況だろう。
 あとでダリモア公爵は恥をかかされたと激怒するだろうが、娘が賊と関わっていたというカードをちらつかせれば、しばらくはこちらの思いどおりに動いてくれる。こちらが通したがっていた法案も、これで無事に議会を通ることができそうだ。
 舞踏会に集まった者達と国王である父親の前で求婚する。自分が求婚されるつもりでいたダリモア公爵の娘の驚いた顔は笑いものだった。最初からこちらの眼中にないことに何故気づかないのか不思議だ。
 しかし、彼女にここで断られても諦めるつもりはなかった。もとより、何があっても諦めるつもりはないのだ。受け入れてもらえるまで、何度も求婚するだけ。その覚悟はできていた。
 ただ、弟の身代わりとして騎士団に在籍し、そのことによって自分の求婚を受け入れられないという憂いは消え去ったのだから、受けてもらえる可能性は断然高い。
 彼女はとうとう求婚を受け入れてくれて、天にも昇るような気持ちになった。抱き締めてキスしたい気持ちを押さえ込むのに必死だった。嫌われるかもしれない行動は、控えるに越したことはない。
 彼女が傍にいるだけで、世界はとても色鮮やかになる。
 空虚だった毎日が、満ち足りたものになる。
 あれは確実に一目惚れだったのかもしれない。彼女の雰囲気を創り出す心の強さに、一瞬で心を奪われたのだろう。
 これまで、何かをしたいと思ったことはなかった。けれど、今は彼女を幸せにしたいと思う。周りから変わり者と呼ばれて冷たい目で見られてきた彼女を、優しく優しく包み込んで幸せという感情を心の隅々まで染み渡らせてあげたい。
 これまで、何かを欲しいと思ったことはなかった。けれど、彼女のことは心の底から欲しいと願った。そのためになら、どんな労力も惜しまないと。
 そして――手に入れた。
 あとは、誰にも奪われないように、誰にも傷つけられないように、そして嫌われないように。
 真綿で包むように大事にしよう。
「愛しています、フィオナ」
 そう言うと、彼女は少しだけ頬を赤くさせ、それから恥ずかしそうに答えるのだ。
「私もです」
 ――あぁ、幸せだ……
 彼女に愛されている限り、自分は世界一の幸せ者だ。
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