文字数 2,469文字

 書いてあることは同じでもね、ネットより、センセイで調べる方が頭に入る。
 「ねぇ、いちいち辞書を引くのって面倒じゃない?」
 そりゃ面倒だよ。でもね、センセイとの関係は特別なんだ。だから肝心な時にはセンセイに頼る。調べるだけならネットで十分だけど、センセイからは教わる感じがして、納得の度合いが深いんだよね。ただの思い込みかもしれないけどね、教えを乞う、な感じね。
 でね、ちょっと気になって、時々「癒し」を引いてみるんだ。その都度、やっぱり載ってないや、と思うんだけどね。センセイは日本語として認めてないってことなんだろうけど、そもそも癒しなんて必要としてないから、載せてないのかもしれないな。センセイは無骨でカッコいいね。でも、慣れてくると結構癒し系なんだよね。

 ちょっと自主休憩。データチェックって地味に疲れるよね。眉間をつまんで、目蓋のくぼみを眼球に沿って指圧する。ウーッと背筋を伸ばしながら、首筋と肩甲骨のあたりをほぐす。
 肩をぐるぐる回しながら、給湯室にコーヒーを淹れに行く。途中、センパイの重力圏に引き寄せられる。
 センパイのデスクはいつうかがってもきれいに片付いている。というか、何も置かれてない。一人フリーアドレスだな。ライトスタンド、電話、PC。あるのはそれだけだ。それぞれの間隔。水平と直角。そのバランスはストックフォトの「ビジネス」パート並みに美しい。お見事である。いつもおきれいなことで、と感心する。
 あ、そうか。ラルフローレンとユニクロの違いは、こういうところに出るのかもしれないな。センパイは我が社では少数派のラルフなのだ。ポロじゃないよ、高い方のね。もうセンパイったらスタイリッシュなんだから。もしかして、ご自宅もラルフな感じですか。きっと奥様もローレンなんだろうな。それとも真逆か。使ったら使いっぱなしな奥様の後を、片付けしながらついていくセンパイ。だったらおもしろいよねぇ。どうか、どうか、真逆であれ。
 あれ、PC脇の本にワタシの鼻が反応した。新書を一回り大きくしたくらいの本だ。男の子と女の子が笑顔で手をつないでいる表紙。素朴でかわいらしいパステル画。だけど、トーンはちょっと暗め。そうね、イギリスの児童書という感じね。じぃっと見ていたら、気になる?なら、あげるよ、と手渡してくれた。いや、そういうつもりじゃないんですけど。でも、ありがとうございます。
「マザーグースみたいな本ですか」
 センパイの口元がゆるむ。我が意を得たり。そんな感じの微笑み方だ。イギリスに伝わる、わらべうたや早口言葉を集めた絵本なんだって。こういうの、かなり好物です。母が好きだったんですよね、フェアリーテイルとか。なので、母の影響もあって。
 それよりワタシ、文学部出身ですよ。センパイ、ご存じでした?ページをめくってみる。あ、この紙質、いいな。やや硬め、少々ザラつきもある。パラパラやっていると、素朴な月の絵と、The moon smiling above.という一行に目が留まった。aboveってどういう意味でしたっけ。
 センパイは仕事に関係する面倒なことは、わかりやすく説明してくれる。けど、簡単なことはカンタンには教えてくれない。わかってます。ジブンで調べます。
 センパイ、ひとつリクエストがあるんですけど。面倒と簡単の線引きを、もうちょっと簡単の方に寄せていただけませんか。ご検討ください。よろしくお願いします。

 センパイに本をいただくのは、これで二冊目だ。一冊目は配属が決まって、あいさつに伺った時にいただいた。
「よかったね。希望通りだろ。改めてよろしくね」
 センパイはワタシの正面に立って、こう言った。
「これからはさ、キミにとって、言葉は飯の種になるってことだからね」
 いつもより真っ直ぐな、いつもより思慮深い眼差しに少し気圧された。それで目から鼻の頭へと視線をずらした。
 飯の種、か。実も蓋もない言い方だけど、本当にそうなんだろうなと思った。
「花を踏んづけられないと、花屋にはなれないだろ。
ボクたちはね、言葉屋なんだ。一行のために多くの言葉を乱暴に扱わなきゃいけないこともある……。だからこそ、プロになんなきゃいけないんだよね。
キミに、この本が役に立つのか、邪魔になるのか、わからないけどさ、目次だけでも覗いてみてよ」
「ニホンゴキトク」日本語、危篤?どういうこと?目次を開いて、すぐに納得した。
 じれったい……。すがれる……。うすなさけ……。昭和の歌謡曲みたいな言葉が並んでいる。懐かしさより古さを感じた。でも、改めて対面するとじんわりと胸に沁みてくる。たった三つの言葉が恋愛とは違う匂いを醸し出す。血が通ってるみたいだ。あ、やっぱり違うな。血じゃない……。体温でもない……な。気配に近いなにか、湿り気みたいなものかな。心を湿らせる言葉……。そうだ、この感じ、きっと感傷だ。
 ワタシの知らないところで長く生きてきた言葉。使ったことのない言葉。でも、感触は理解できるよ。ワタシも日本人だからね、一応ね。こういう言葉を使ってきた人たちにシンパシーを感じる。感じる分だけ、ワタシの言葉はつくづく薄っぺらだなとも思う。
 でも、忘れてもいいのよ……。ふと、そんなことを言われているような気がした。なんだかきまりが悪い……。この言葉、きっとこんな気持ちの時に使うんだろうね。
 高校生の頃から、好きな本や気になる本をベッドの脇に置いている。「ニホンゴキトク」は、いただいた日からずっと置いてある。
 まず、言葉に対して謙虚になろう。この本はいまも戒めのスイッチになっている。

 センパイの重力圏を離れる。おじゃましました。本、ありがとうございました。大切にします。あ、センパイもコーヒーいかがですか。ワタシのブレンド、おいしいですよ。セクションでも好評なんです。なんたってワタシのオリジナルですからね。淹れてきますね。
 ペーパーフィルターをチャックにそって折る。この張り、この感触、好きだなぁ。ワタシって、もしかして紙フェチなのかな。


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