第1話

文字数 1,732文字

 深夜のオフィスでデータ入力になんとか一区切りつけ、私はフラフラとドリンクコーナーへ行った。目の下にクマをつくった後輩がミニカップメンをすすっている。
 コーヒーが抽出されるのを待つ私に、後輩が声をかけてきた。
「5月9日、楽しみですね」
「5月9日……そう! そうなの、やっと休み取れたの~!」
 休みだから一日中寝られる。ああ、楽しみ……とウットリしていたら、呆れた顔をされた。
「何言ってんスか。初めての『母の日』でしょ!」
 後輩の言葉に、疲れていた脳が覚醒した。
 離婚歴あり、小学5年の娘ありの男性と結婚したのは去年の初秋。娘に拒絶されたらどうしようと、内心、ビクビクしながらスタートした結婚生活だった。
 でも、4年の付き合いを経ての結婚だったからか、クールな性格の娘だからか、特に問題もなく、「お母さん」と呼んでくれている。
 『母の日』かぁ、と頬を緩ませた私はハッとした。
「待って! 『母の日』ってお母さんの苦労に感謝する日だよね。ヤバイ、私、苦労してない! 料理も洗濯も掃除も……夫と娘が分担してやってくれてる! 参観日も運動会も全部仕事で行けてないし、母親らしいことしたことない! 私、母じゃない!」
「……旦那さん、なんで結婚したんスかね」
「愛してるからでしょ! そもそも結婚した途端、こんな忙しいプロジェクトチームのリーダーに選ばれるなんて思ってもみないしぃぃ!」
 吠えるとちょっとスッキリして、冷静になった。
「ということは、5月9日は私じゃなく、夫と娘に何かしなきゃだよね? ねぇ、何がいいと思う?」
「そんなの、自分で考えてくださいよ!」
 後輩に見捨てられた私は席に戻り、渋々、データ入力を再開した。頭の中では夫と娘のことを考えながら。
  
   ※  ※  ※

 『母の日』には、日ごろ「母じゃない」私が母らしいことをしてみようと決めた。
 朝食にはホカホカご飯、お味噌汁と鮭、卵焼き、サラダにヨーグルトも用意して、夫と娘の目覚めを待つ。元々、料理は得意なのだ。
 朝食後は家じゅうを磨き上げ、ランチはオシャレなパスタ。おやつはお手製のシフォンケーキ。夕食は夫と娘が食べたいメニューを、全部!
 そして、私は見事、やり遂げた!

    ※  ※  ※

 ――夢の中で。
 5月9日、目が覚めたときにはすでにおやつの時間だった。アラームを全部止め、ごはんも食べず、トイレも行かず、半日以上も寝こけてしまったのだ。
 真っ青になった私が慌てふためいてリビングに行くと、夫と娘がお茶をしていた。
「寝坊してごめん! 夕食は私が作るから! な、なにが食べたい?」
「良いよ、別に。期待してないし」
 娘のクールな声に、「だよねぇ」とがっくり落ち込んだ時、カーネーションの巨大な花束が下から突き出された。
「お母さん、いつもありがと」
 花束の向こうで、クールな娘が照れ笑いしている。
「わぁ、きれい……じゃなくて! 待って待って! ありがとう、は私に言わせてよ! 私は二人が寝てから帰ってきて、二人が家を出る時にはまだ寝てて……ダメな母でごめん……母じゃない人でごめん……」
 ポロポロと涙を流す私に、夫と娘が狼狽えた。
「泣くなよ。いいんだって。母とか父とか子どもとか、役割を決めつけなくて。家族なんだから」
「そうだよ! それに私、お母さんがたまにつくってくれる料理は好きだけど、寝顔はもっと好きだしさ」
「そうそう。結婚を決めたのだって、キミの寝顔を毎日見たいからだよ。知ってた?」
 私は流れる涙を手の甲で拭った。自分の寝顔がそんなにステキだったなんて知らなかった……!

 どんなにステキな寝顔なのか。ワクワクしながら画像を見せてもらって、私は絶句した。
 そこには、器用にも半開きの目で眠る私がいた。口は半開きの究極のアホ面。それを二人ともスマホの待ち受けにしているのだ! 落ち込んだときには元気に、腹が立った時には脱力できるらしい。それはすごいことかもしれないが、恥ずかしすぎる。
 頼み込んで待ち受けを替えてもらった。
 カーネーションの花束を抱えた私を、夫と娘が笑顔で挟み込んでいる画像に――。         
 5月9日。うちでは『母の日』でも『母じゃない日』でもなく、『家族の日』になった。
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