第18話 噛み合わない会話

文字数 8,862文字



11月19日
研究所本棟 B7

               ――『管理通路』




【04:00現在】


 刻を少し遡り、ジュード達がゴブリンの群れや鼠のバケモノに襲われている頃。
 フロア外の安全圏でバケモノの脅威と無縁でいられたクォンは、タブレットの向こうで展開される戦闘映像に釘付けになっていた。
 しかし今いる場所の安全性が、なにひとつ確約されたものでないことを、脅威がバケモノだけに限らないことを、クォンはすぐに気付くことになる。

「ああ、これはマズい……どんどんバケモノ共が押し寄せてくる」

 興奮のあまり、両手でタブレットを鷲掴みにするクォンが、そわそわと身体を揺さぶるのへ、

「だから云ったのよ」
「!」

 肩口でランドリッジの声が発せられ、クォンはびくりと身を震わせ振り返った。
 反応が過敏になってしまうのは、ひとりだけ無傷で生き残った研究者に気を許すなと、イメルダからきつく注意されていたからだ。
 彼女がトラブルを発生させた裏切り者である(・・・・・・・)――はじめは半信半疑で聞き流していた推論は、実際に拳銃を手渡されたことで、嫌でも真実味が増していた。
 だから隠せぬ疑心がクォンの表情に出ていたとしても不思議でなく、「なに?」とランドリッジが眉をひそめるのも当然であったろう。

「いや。こっちに集中してたから、さ」

 少し驚いただけだと。
 クォンの苦しい言い訳に、ランドリッジが取り合うことはない。ただし彼女が気にしていたのは、相手の不審な態度よりも別のこと。
 
「まったく、バケモノだらけの『B7』に乗り込むなんて、自殺行為もいいところ。せめて人数をもっと集めてから、捜索するべきだったのに……本社はなぜ、無茶な装置の回収をさせようとするの? 誰かひとり……いえ、全滅だってあり得るほど危険な行為なのに。これは本当に上層部の意向なの?」
「も、もちろんだともっ」

 想定外の食いつき方にクォンは意表を突かれ、顔を強張らせながらも強気で言い返す。

「データの確保はゼッタイだと云ったろ。あれには研究に関する情報が細大漏らさず記録されているんだ。そう、すべての情報が(・・・・・・・)、ね。
 だからもし仮に、当局の介入前に装置を回収することができず、秘匿していた研究の存在が明るみにでもなれば……おそらく研究成果のすべてを政府に押収されてしまうだろう。いや、それより本当にマズいのは――」

 動揺していたこともあり、クォンは伏せていた秘事を思わず口にしてしまう。いや頭の片隅で、裏切り者かもしれないランドリッジの反応を見てみたい欲求に駆られてしまったのだ。

「本当にマズいのは、『検体』が誰の手によっても(・・・・・・・・)たらされたものか(・・・・・・・・)――この事実が、公になることだ」

 それは部外者に絶対知られてはならない秘事。
 逆に言えば、マスコミや商売敵に高値で売れる特ダネでもある。
 そこで頬をわずかに引き攣らせてしまうランドリッジの反応は、あまりにも白々しい素人演技のそれであった。

「……どういうこと?」
「二人きりなんだ、とぼけなくていい」

 無駄を省こうとするクォン。
 ただそれだけのつもりが、平静を装うとしていたランドリッジの蒼白い相貌から、感情の機微をぬぐい去ってしまう。

 何だ、どういう反応だ――?

 クォンがドキリとしたのは、ただの研究員とは思えない瞳の冷たさにだ。 
 やはりイメルダの警告が的を得ていたのか?
 そう思わずにはいられない。
 センターで始末されていた所員達のようにクォンまでも――と。

「なんだよ、コワイ顔して。よせよ。誰も聞いちゃいないって」

 思わず一歩身を退きながら、クォンはランドリッジを落ち着かせようと試みる。

「これでも危機管理担当だ、情報の扱いは誰よりも心得ているつもりだよ。話すべきときは話すし、口を噤むべき時は口にしない。当然、今は誰もいないと分かってるから、だから、話をスムーズにいかせようとしてしゃべってるだけだろ。それのどこが悪いんだ?」

 本当のところ、ランドリッジがどういうつもりでいるのか分からない。
 ただクォンの早合点かもしれない。
 それでも女研究員の冷たすぎる視線に向き合うだけで、心臓の鼓動は勝手に早まり、気持ちは焦り、気付けばクォンは捲し立てるように言い訳を並べ立ててしまっていた。
 そんな力みすぎる弁明が功を奏したか、「……いえ」とランドリッジは心持ち態度を和らげる。

「ただ、それを知る者はごく一部。内部でも情報共有することのない話だったから」

 なぜに知ってると。
 どうやら彼女は、クォンの“事情通ぶり”に不審を抱いただけらしい。本当にそれだけならば、ヘタに警戒しすぎて、会話を拗らせてしまうのもバカバカしい。

「上級職員なんてやってれば、嫌でもあらゆる情報に触れる機会があって当然さ」
 
 クォンは無理に笑顔を作りながら、別に不思議なことじゃないと肩をすくめる。だがランドリッジの眉間に入ったシワが解消されることはない。 

「でも、あなたは――」

 そう口を開き掛けた彼女に皆まで云わせず、クォンは先回りする。

「仮に知らなくても、冷静に考えてみれば見当はつくことだ。あんな特殊な『検体』が、ある日突然、降って湧くはずもないってね」
「私がウソをついたと?」
「そうは云っない」

 慌てて否定するクォン。
 「云ってるのと同じよ」とランドリッジは声を尖らせる。

「あなたが何を疑い、どう受け止めようとも、事実は事実。
 会社はサンプルを調達し、決められた場所に保管するだけ。そして私たち研究員は、世界中から送られてくるサンプルを片っ端から実験していくだけ。
 それぞれに役目があって、ただ与えられた役目を果たしているだけにすぎないわ」

 だから役目以外のことは何も分からないと。
 はじめの主張を繰り返すランドリッジにクォンは苦笑で受け流す。

「あれだけ希少価値の高いサンプルだよ?」

 いや違う。
 主張を受け入れやり過ごしたいはずなのに、クォンの口は勝手に彼女を責めたてる。

「その大事な出所先を追求しない研究者なんて、いるもんか。賭けてもいい。君は絶対に“裏”を取っている。
 それに現物でもデータでも、会社で扱うモノはすべて“取扱い記録”が残る仕組みになっている。相応の資格を持つ者がその気になれば、いつでも記録にアクセスすることも。まともな組織ならどこでもそうだ。
 つまりいつだって『検体』の出所という情報は、君の手が届くところにあるというわけだ」

 だから、と。
 本人の意志とは裏腹に、饒舌にしゃべり倒すクォンは一度“ため”を取るように舌を湿らせて。

「少なくとも、君は“ウソをつかずに事実を伏せて(・・・・・・)いた(・・)”。このくらいの推測は、当然『カラーレス』の連中にだってできることさ。
 だから、さっきの打合せで誰も指摘してこなかったのは、幸いにも、あの時あの場では、それが重要(・・・・・)じゃなかったから(・・・・・・・・)――ただそれだけにすぎない」

 だが実情は違う。
 その情報こそが、会社の存続にまで関わるほどの重要ポイントであることを二人は知っている。そしてその情報が、例の『記録装置』に保管されているということも。
 では、それほどまでに重要視される情報とは――サンプルの提供者とは何者なのか? クォンはぼやかくすことなくはっきりと口にする。

「相手がただの密猟者やチンケな犯罪組織なら、どうとでも対処できただろう。でもよりによって――この国に“最も忌み嫌われたテロリスト”とセオドラが関わったとなれば、話は別だ(・・・・)

 最後の言葉は深井戸に投げ捨てるような心境で告げていた。
 できれば二度と誰の目にも触れないようにと。
 それも無理はない。
 その事実が衆知の下にさらされれば、セオドラは全米中から激しく糾弾され、州内外の客やすべての取引先に融資相手の銀行、さらには投資家や大株主に至るまで――あらゆる方面から痛烈な掌返しを喰らうのが目に見えている。
 当然、司法機関も目の敵にし、考え得るかぎりの罪状を列挙してセオドラに叩きつけてくるのは容易に想像できた。
 だから、ランドリッジが「それが事実だとして」そう苦し紛れの弁明を試みるのは当然の反応。

「……事実だとしても、ただ、“研究材料”の提供を受けただけなのよ?」
「それと“研究資金”もね」

 彼女があえて口にしなかった事実をクォンは逃げ道を塞ぐように洩らさず補足する。

「アメリカの仇敵とも言えるテロリストから、与えられた“研究材料”に“研究資金”――このふたつの事実(カード)がそろえば、言い逃れはできないよ。いや、世間の誰もが“セオドラを黒”と断じて魔女裁判をこぞってはじめるだろう。当然、深く関わっていた『YDS』も大きな痛手を被ることになる」

 そんな破滅の未来など、云われなくても想像できるだろう。
 会社の倒産。そして失業。
 世間の嫌がらせや暴力にさらされ、まともな再就職など望めやしまい。
 それよりも研究の成果を奪われることの方が、彼女にとっては深刻なことだろうか?

 つまりはそれこそが、彼女が会社を裏切った理由なのかもしれない。 

 今や黙り込んだランドリッジは、憎悪や怒りでもないただ苦しげな視線をクォンに向けるだけだ。

「どういう状況か分かってくれたかい? もう我々の尻には火が点いているんだ。それも真っ赤な炎が天に向かって燃え上がるほどに。
 なのに、こんなときに限ってYDSに人員余力がないなんて――」

 どんな不運だと、両手を持ち上げ声を荒げるクォン。増援が可能ならとっくにやっている。そうできない事情があるから、苦しんでいた。

「――だから、今ある人員で何とかするしかないんだよ。是が非でも、当局が介入する前に」

 ここでようやく、クォンはランドリッジから受けた最初の問いに答えを出す。


「当然、会社は本気だよ――」

 
 なりふり構わず研究データを欲していると。

「データさえ持ち出せれば、テロリストとの関係を示す証拠はなくなり、例え研究の存在がバレたとしても、全米中から敵視されるような事態だけは免れる。それでも政府という大口顧客を逃すことにはなるけれど、会社が潰れ、人目を忍ぶような生活を送るよりは、はるかにマシだ」
「ならわざわざデータを持ち出すより、むしろこれまでどおりに『B7』の存在を秘密にすればいいだけじゃない? 今度のことは、あくまで『B4』で起きた実験トラブルだと言い張って」

 事を荒立てる分だけ、ウソを多くつく分だけ、いらぬ足跡を残す危険もまた、生まれてしまう。ならば、別の事実を使って目を反らせばいい。ランドリッジの指摘は誰もが思うところ。
 だがそれは無理な話だとクォンは首を振る。

「すでにこれだけ犠牲が出てるんだ。政府発注の事案にも大きな影響が出るだろうし、そうなれば発注元である国防省の査察が入るのは免れない。その査察が真っ先にすることは何だ? じっくり管理システムをチェックすれば、すぐにでも『B7』の存在に気付き、即日データの押収だ。
 何をどう転ぶとも、今のうちにデータを施設から移しておくことが、最も安心できる対処法なんだ」

 それこそが、移送プロトコルを設けた本当の理由でもある。さらに云えば、今回の件で過剰に戦力を増強して護送チームを派遣することも、本来、メンバーでないクォンというエンジニア系職員を組み込む理由も、すべては確実にデータの移送を遂行させるための方策であった。
 今の窮状を訴え、いかに回避すべきかと力説するクォンに、ランドリッジも疑念を解消できたのか。
 やがて固い声音で彼女はひとつの結論を出す。

「……あなたの云ってることは正しい。それでも」「“それでも”?」

 信じがたいセリフを聞いたと、驚きを露わにするクォン。

「何を云ってるんだ? これ以上の説明が必要だとでも?」
「いいえ、十分だわ」
「いやいや」

 ランドリッジの言葉をクォンは強く否定する。十分だと云うなら、なぜに反意すると。その蒼白い顔に不満を浮かべ、瞳に疑心を宿らせるのはなぜなんだ?

「確かにデータの確保を優先させるなんて、人道的じゃない。しかも命懸けでやれなんて、身勝手で横暴すぎる命令だ。
 けど会社でどれだけの人を雇用していると思う? 会社を守ることは、そこで働く者達の生活を守ることにも繋がる。それにこの先のことも考えろ。将来開発されるであろう新薬で救われる人達がいるってことを。これで会社のご都合主義だなんて云わないよな?
 作戦に参加する連中にだって、危険に見合う報酬もくれてやるんだ。理由があり、今できることもやっているなら十分だろ。十分理解できるだろ!
 このミッションには、命を懸ける意味が、間違いなくあるんだよっ」

 自分で思う以上に熱を入れて語ってしまったクォンに、しかしランドリッジの表情は厳しくなる。
 理解し同意する思いと相反する別の思い。それが葛藤となって彼女の表情を強張らせていた。
 だがその葛藤もすぐに決着が付けられる。
 瞳にて強まるのは疑心の光。

「……それでも、おかしい」

 声に確信を込めるランドリッジ。
 彼女は何を根拠にそう断言するのか?

「今の『B7』へ行くことが、どれだけ危険な行為か分からないはずがない。傭われ兵だから死んでもいい? 違う。社長はそんなことを云わないし、選択もしないっ。だって」

 そこでランドリッジは小さく息を継ぐ。

「彼は“理屈”じゃない。もし目の前で失われそうな命があれば、どうしても目を背けられない“お人好し”なんだから。
 そして、そんな彼に魅せられた同志が集まり、創設したのが『セオドラ』よ。――かくいう私もその(・・・・)ひとり(・・・)
「!」

 何気なく洩らされた言葉の意味に気付き、目を剥くクォン。だがそれ以上に気にすべき発言が彼女から放たれる。

「だから、彼が“決死隊”を組ませる無茶な指示を出すなんて考えられない。それに危機管理部の上級職員とは、全員顔馴染みのはずなんだけど……どうしても、あなたのことを思い出せないの(・・・・・・・)。あなたはどう?」
「……」

 不意打ちのような詰問にクォンは頬を強張らせ、押し黙る。
 思い出せない?
 今さらなんだ。何を言い出すんだ?!

 タブレットの映像ではバケモノ共がぞろぞろと動き出し、時折使われる無線からは、耳が痛くなるほどの銃声が響いてくる。
 ジュードがクリスが叫んでいる。
 ダリオの怒声にエンゲルの淡々とした銃撃。

 皆が数の暴威にさらされ、今こそ、クォンのバックアップが求められるところだが、彼自身それどころではなかった。
 彼女の予期せぬ発言に、クォンはすっかり意表を突かれ、内心困惑していた。何か弁明を口にしようとすれば、声がどうしても震えてしまうほどに。

「し、施設に来るのは、初めてだと云っただろう」
「ええ、直に会うのは初めてね。でも上級職員ともなれば、任命された時点で(・・・・・・・・)書面によるチェックくらいしているわ」
「は……?」
これでも役員だから(・・・・・・・・・)。重要ポストの社員くらい覚えておかないとね」

 その衝撃的な発言に、クォンの身体が稲妻に撃たれでもしたようにビクリと震える。
 何だって?
 この女、今なんて云ったんだ?
 
「だけど“クォン”なんて名前は耳にした覚えがない。ねえ、あなたは何者? あのイメルダって人も本当は『YDS』では――」
「本物だよ」

 押し被せるように語気強く遮るクォン。

「嘘偽りなく、『YDS』じゃAランクに格付けされる凄腕の戦闘員だ」

 疑いの目をまっすぐ見返しながら。
 その強気な姿勢とは裏腹に、内心では、どうしてこんな展開になっているのか、困惑しながら。 
 クォンの動揺は収まらず、それでも流れを変えなければならないと反論を試みる。

「君こそ、何者だ? さっきの言い方じゃ“創設者の一人”と聞こえるけど」
「それって重要なの? むしろ会社の生命線であるデータを、本当に貴方たちに預けていいのか、はっきりさせる方が大事だと思うけど」
「やめてくれないか」

 気分を害したように大きく手を振るクォン。
 皆に怪しまれているのは彼女のはずだ。なのに、自分が責められる展開に戸惑うばかり。それが彼に単純な解決策へと逃げさせる。
 クォンは片手を振りながら、何気なくもう片方の手をポケットに入れた。
 指先に触れる固くて冷たい金属の感触が、彼にいくばくかの自信を与え、その表情に別のわずかな緊張感を浮かばせる。

「こっちは『B7』の内情を何も聞かされていないんだ。上級職員になったのも最近だから、明かされた情報はひと握り。
 結局、会社にとってはその程度の社員なんだよ。当然、貴女のことも名前しか知らない。役員だなんてこともね!」
「わざと分かりにくくしてるから」
「だったらなおさら、知らなくて当然だ」
「そこはどうでもいいでしょ。問題は私があなたを知らない事よ」

 きつく指摘されたが、今度はクォンはひと呼吸ついて冷静に受け答えする。

「今云った――云いましたよね?」

 相手が役員であることを思い出してクォンは口調を改める。

「昇進したばかりなんです。まして引き継ぎもろくにされてない新米だ。情報が整理されるのに時間がかかっているだけですよ。すべての情報がリアルタイムで貴女に届けられるわけじゃないことを、理解していただきたい。
 むしろこのことは、情報伝達法の改善にも繋げるため、こちらからも人事担当へ話させていただきます」

 懸命に訴えるクォンは、今一度、大きく深呼吸をする。

「どうです、ランドリッジさん。今互いに言い争って何になりますか。肝心なことは、セオドラに関わる人のため、そしてセオドラによって救われる多くの人々のためにデータを確保することです。この点は、理解してくれますね?」
「ええ、もちろん」
「でしたら――」

 クォンは勢い込んで言葉に熱を込める。

「確実にデータを確保するまでは、お互い協力しあいましょう。こちらもお尋ねしたい件があるのですが、まずは目的を果たして無事に生還することを優先します。だから、この場はお互いの疑念を棚上げにして、後日、じっくりと話し合えばいいじゃないですか」
「お互い……ね」

 ランドリッジにとって不審な点があるのはクォンだけ。その彼の言葉を吟味するように、ランドリッジは低く反芻する。
 そうして2人が疑念をぶつけ合ううちに、いつの間にか互いの距離はさらに広がっていた。その距離こそが、互いの疑心の深さを物語るように。
 ランドリッジの目を見れば、同じ事を察しているのが分かる。

(本当に、役員なのか……?)

 少し冷静さを取り戻したところで、そんな疑念を浮かべるクォン。
 それとも本気で彼女は自分を疑っているのか?
 あるいはイメルダの警告どおり――同じ社員であるはずのクォンさえ手に掛けようとして、動揺を誘っているのだろうか。
 今や二人の間には疑念が渦巻き、危険な空気が漂っていた。

「……ところでフィエンツは見なかった?」
「誰です?」

 脈絡もなしに告げられた名前に戸惑うクォン。その混乱は次のセリフで最大になる。

「『B3』まで、私とデータを移送していた研究員よ」
「はぁあ?!」

 今度こそ、予想外すぎる告白にクォンはバカみたいに大口を開け放つ。これもランドリッジの攪乱戦術か、彼女はクォンに探るような視線を向けたまま告白を続ける。

「あの時、私は『B7』にいたの。フィエンツとデータを持ち出し、警備員と合流しながらエレベータで『機密保管室』に向かったのだけど……」
 
 彼女の記憶はそこで途切れる。
 気絶していたからだ。その原因は思い出せず、気付けば意識がもうろうとする中、クリスに手を引かれていた。
 あの後、同僚と警備員がどうなったかは分からない。ただ想像することはできると彼女は語る。

「プロトコルに従えば、会社から護送チームが迎えに来るはず。けど私が知る限り、護送チームには識別可能な特殊マーク(・・・・・)が用いられている」
「……」
「なのに、あなた方にそれはない(・・・・・・・・・・)

 淡々とした声音に反してランドリッジの頬は強い緊張で強張っていた。その足が、徐々に後ろへ下がっていることなどクォンに気付けるはずもない。
 なぜならクォンは退くことはおろか、瞬きすら忘れて凝り固まっていたからだ。
 まさか、そんなと。
 彼女の疑念には、明確な根拠があったとは。

「あの女兵士さんのチームは確かに『YDS』で雇ったかもしれない。あなたの自信たっぷりな口調は真実を語っていると思う。けどそれでも、護送チームじゃないと言い切れる」
「……おそらく死んだよ」
「え?」
「君の同僚だ」

 クォンはぎこちない説明で雪に埋もれた遺骸を発見したことを語って聞かせる。少なくとも四体の遺骸を発見したことを。

「その遺骸が誰の者かまでは調べていない。あるいは君の云うフィエンツなのかもしれない。けど肝心なことは、そんな重要な話を今さら君が持ち出してきた、その意図だ」

 そこでがらりと口調を換えたクォンは、ポケットから銃を抜きだした。それを目にしたランドリッジが思わず後退る。

「動くんじゃないっ」

 クォンは鋭く命じながら、

「いくら言葉で惑わせようとしても無駄だよ。こっちには銃がある」
「ここで私を殺すの? どんな理由で? それをみんなが信じるとは限らないわ」
「何を云ってる? もちろん、おかしな真似をしなければ撃ちはしないさ」

 ジリジリと下がるランドリッジを慎重に追うクォン。絶妙な距離を保って射線が外れないように注意する。
 
「ねえ、あなたがフィエンツを殺したの? だったらどうして、あなたがデータを持っていないの?」
「よせ、無駄だと云ったはずだ」 

 この期に及んで、なおも戯言を口にするランドリッジに何か別の狙いがあるのかとクォンは警戒を強める。
 だが彼は気付かない。
 ランドリッジが北側管理通路へ続くドアまで、にじり寄っている事実に。
 そして後ろ手に握ろうとするドアノブが静かに回されていることに、ランドリッジもまた、気付かない。
 互いに互いへの疑いを深め、さらには銃口を突きつけ、突きつけられる緊迫感の中で、ふいにはっきりと、ドアノブを回し切った音がやけに高く響き渡った――。
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