第1話

文字数 3,843文字

『玆山ハ黒山ナリ。余、黒山ニ謫サル。……玆山海中、魚族極メテ繁ナリ。而(しか)ルニ名ヲ知ル者ナシ。……』

 巽庵先生こと丁若銓は、いつものように海を見下ろしていた。彼の暮らす集落から少し離れたところにある小高いこの丘の頂上は、彼の好きな場所の一つである。
「……あれからもう十余年になるのか。」
 こう呟いた彼の視線は過去へと向かった。
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 士大夫の家に生まれた彼は、幼い頃から学問好きな少年だった。もともと聡明だったためか、当時の士大夫の必須科目である性理学(朱子学)や詩文といった伝統的な学問はもとより、自然科学系の学問にも造詣が深かった。
 彼が学ぶ自然科学は、もともと西洋で発達した学問で、朝鮮国には清国を経由して入ってきた。その際、学問と共にその支柱的役割をしているキリスト教も入ってきてしまった。巽庵は、西洋の学問(西学)を学ぶと同時にキリスト教にも関心を示した。西洋人の信仰を知ることによって、学問の理解も深まるだろうと考えたためである。このことが、後日、禍(わざわい)をもたらそうとは、当時の彼には夢にも思わなかった。
 成年になると彼も他の士人層の青年たち同様、科挙に応じて合格、官界入りした。
 当時、政権を執っていたのは名君・正祖だった。そのため、世の中は安定し、学術・文化活動が盛んになり多くの成果が見られた。後世の研究者は、この時代を〝朝鮮のルネサンス期〟と呼んでいる。
 こうした環境の中で、巽庵は官吏として熱心に働き、学問の方も研鑽していった。思えば、この頃が彼の人生にとって一番良い時代だったのかも知れない。
 巽庵にとっても、朝鮮国にとっても幸せな時代は、正祖の突然の死と共に幕を下ろした。
 その後を継いだ現国王(純祖、在位一八O一~三四)が即位すると、国中は騒然とした。天主教(キリスト教)に対する激しい弾圧が始まったためである。
 朝鮮国も日本の江戸幕府同様、キリスト教を禁止していたが、前王は西洋の文物に比較的寛大で、天主教に対しても、先祖の位牌を燃やすような過激な行為をしたり、公然と布教活動を行なわない限りは黙認していた。そのおかげで、天主教は人々の間に急速に広まっていった。
 これに対し、現国王の政府は天主教徒を厳しく取り締まった。その際に検挙された信者を見ると、王族から一般庶民にいたるまで、老若男女、各界各層にわたっていた。
 巽庵も、天主教の文献を研究していたとして、弟たちや友人、知人たちと共に捕まってしまった。彼は――というより捕らえられた士人の多くは、今回の事件が、単なる天主教に対する弾圧ではなく、それを名目にした政府内における勢力争いの結果であることを知っていた。だが、彼にはどうすることも出来なかった。
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「船が着きました。」
 背後から掛けられた言葉に巽庵の回想は中断した。
 振り向いた彼は、
「そうか。では行こうか。」
と応え歩き始めた。
「先生のおかげで今日も大漁だと皆喜んでいます。」
 傍らを歩く下僕がこう告げた。
 巽庵はただ微笑むだけだった。
 現政府内では非主流勢力となった巽庵は、結局、有罪とされて流刑になり、家族とも離れ一人でここ黒山島に暮らすようになった。しかし、特に悲観しなかった。
 島内での行動には特に規制を受けていない彼は、村の様子を見て回った。この地で自分に出来ることはないだろうか探るためである。
 そして、漁で生計を立てている村人たちの暮らしぶりを見た彼は、自分の持っている知識が彼らの仕事の役にたちそうだと感じた。
 彼は日頃から『学問は机上だけのものではない』と考えていた。実生活に生かしてこそ価値があるためである。
 さっそく村人たちを集め、まず新式の漁船の造船法を教えた。次いで天候の見方など漁業に役立つ事柄も教えてやった。その成果は、すぐに現われた。漁獲量が増え、村人たちの生活は目に見えて向上した。
 当然のことながら村人たちは、巽庵に感謝し敬意を示した。巽庵もそんな村人たちに親しみを感じた。
 丘を下り浜辺に来た巽庵と下僕は、水揚げをしている漁師たちのところへ行った。
「先生!」
 彼の存在に気付いた漁師の一人が呼び掛けた。
「今日は、こんな魚が掛かっていました。」
 こう言いながら漁師は、数種類の魚や海藻、貝などを巽庵の下男に渡した。
「いつも済まないな。」
「とんでもない。先生のおかげで、わしらの暮らしがどれほど良くなったことか。」
 謝意に溢れた漁師の言葉を胸に刻み、彼は下男と共に黒山島における住居である『復性斎』に戻った。『復性斎』という名は彼自身が付けたものである。
 自室に入った若銓は、一息つく間も惜しむように、すぐに張徳順を呼びに遣らせた。彼は、巽庵が現在行なっている研究の助手をしている人物である。
 巽庵が、この島に着いて驚いたのは海産物の豊かさだった。水揚げのたびに、これまで見たことの無い魚や海藻が現われ、彼はこの島の海の生き物に興味を抱くようになった。そして、それらについて漁師たちに訊ねると、皆よく知らないと答えた。このことを残念に思った彼はこの島の海洋生物に関する書物を作ろうと心に決めた。
 しかし、いざ始めて見ると一人では、とても手に負える作業では無かった。協力者を求めた彼の脳裏に一人の人物が浮かんだ。村外れに住む張徳順である。聞くところによると彼は家に閉じ篭もり読書にのみ明け暮れているという。世捨て人のように暮らしている彼が、果たして若銓の手助けなどしてくれるかどうか心許なかった。しかし、とにかく会ってみようと自ら彼の家に出向いた。巽庵の心配は杞憂に過ぎなかった。漢陽〈ソウル〉から来た学識高い士人の訪問を徳順は心から歓迎した。そして助手の件も
「わたくしのような浅学な者でお役に立つのでしたら。」
と快諾してくれた。
「ご主人さま、徳順が参りました。」
 いつものように徳順はすぐにやってきた。
「入りなさい。」
 下男に促されて部屋に入ってきた徳順に、若銓は先程の魚や海藻を見せた。
 徳順は、即座にそれらの名前を答えた。巽庵は、逐一書き取っていった。徳順の告げた名称は、すべて俗称である。そのため巽庵は、正式名称を調べて書き取った名前の後に付け加えた。そして、それぞれの特徴や食用になるものについては、その調理法まで記した。
「先生、この魚は羹にすると美味いです。夕食のおかずにするといいです。」
 徳順がこう言うと、巽庵は下男を呼び海産物を渡した。今夜の巽庵の食膳には魚の羹が並ぶことは間違いないだろう。
 記録作業が終わると、巽庵は徳順と共に再び海辺へ出掛けた。水揚げが終わった浜辺はがらんとしていた。
「今日は何をするのですか?」
「貝殻を拾い集めよう。」
 二人は子供のように貝殻を拾い始めた。
 昨日は岩場に行き海藻の分布を調べ、その前は漁師のところへ魚の群れについて訊ねに行った。巽庵は、自分の目と耳、手と足を使って調査を行なった。学問とは、もともとこうしたものだと確信していたためだ。
 日は、いつしか西に傾き始めた。巽庵は腰を伸ばして沈み行く夕日を眺めた。彼は本土にいる弟・茶山(丁若鏞)のことを思った。彼も又、一人で流謫生活を送っていた。
「そろそろ帰ろうか。」
 徳順に声を掛け、巽庵は家路をたどった。
 復性斎に戻った巽庵は、夕食を済ますと机に向かった。これまでの書き付けを整理するのである。こうして彼の一日は過ぎていった。
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 歳月は流れ、巽庵の海産物の記録は三巻の書物に纏められた。彼は、この書物の名を「黒山島の魚類の系譜」を意味する『玆山魚譜』とした。「黒山」を「玆山」としたのは、「暗黒」を意味する黒の字を嫌ったためである。黒山島はけして「暗黒」の島ではないと思っている彼は、黒と同じ意味を持つ玆に置き換えたのである。
 完成した書物を前にした巽庵は、その間のことを感慨深く振り返った。
 当初思ったよりも、遥かに多くの海産物が、この島の近海には存在していた。これらは姿形はもとより、その性質も多種多様だった。ある種の魚類には回遊性があることも、この島に来て初めて知った。
 漢陽にいた頃の巽庵にとって海産物とは、ただ食膳に並ぶものに過ぎなかった。しかし、この数年の調査を通じて、魚や海草が食膳に運ばれるまでには、様々な物語りがあることに改めて目を開かされた。
「まったく、この世の中には、私の知らぬことが、まだまだ多く有りそうだ。」   
 こう呟いた巽庵の脳裏に、以前読んだ西洋の書物の一節が浮かんだ。
「学問とは、創造主である神がこの地に残した言付けを識る行為である。」
 西洋人は、このような思想の下で様々な学問を発展させた。彼らは果たして「言付け」を聞いたのであろうか?
 『玆山魚譜』が完成した翌年(一八一六年)巽庵は配流地である黒山島にて世を去った。『玆山魚譜』を著述したことで、彼も「言付け」を耳にしたのであろうか? このことについて巽庵は一言も語っていない。

 今のところ、丁若銓著『玆山魚譜』の完本は見つかっていない。断片的に伝わっている同書の内容は二百年近く経った今日の視点から見ても高く評価されている。       
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